小さい頃に失った家族、大人になったら自分は家族を大切にしたい。
幼き頃に失われた家族の時間。大人になった時、ある女性との出会いがきっかけで失いかけていた家族の大切さを知る。
私の名前は北沢 優希
私は今父と二人暮しをしている34歳のバツイチの男だ。今まで何をしても中途半端でだった。それでも人に迷惑かけないようにと、人目を気にして生きてきたが、それが間違っていたのだとあの日気づくのだった。
私の家庭事情は小学2年生の時、父と母は離婚しており、姉の由理と兄の毅がいました。父は外食関係の支配人を勤めており、当時は単身赴任で全国を2年から3年ごとに異動しながら仕事をしていました。私が産まれる前は各県を家族で引っ越しをしていたらしいが、子供達の転校は想像以上に負担がかかるという事で私が産まれてからは千葉に家を購入し、父だけが単身赴任だった。母は昼間パートしながら家事をしていました。姉は高校二年生で、兄が高校一年生。私とは歳が離れた兄弟だった。
私は保育園から今現在小学2年生まで母に甘えてばかりの子供だったのを記憶している。いつも保育園も学校も母から離れて行くのが嫌で泣いてばかり。その度母を困らせていた。小学生2年生の1学期が終わった頃、私が学校で習い始めたかけ算が出来ず、たまたま母がかけ算について問題を出された時に全く答えられなかった事が原因で、毎日かけ算を2の段から9の段まで言えるまで、遊びもご飯もお風呂も入れないという日々があった。当時は嫌で嫌で、泣きながらかけ算を必死にやっていたのをよく覚えている。子供ながら地獄と感じていた毎日だったせいか、母からかけ算をやるよって言われるまで知らないふりをしてたけど、結局夜かけ算の予習があって毎日辛かった。
そんなある日、母が金曜のよるから土曜の2日間、友達の仕事を手伝うという事で夜働きに出るようになった。私はかけ算がなくなるって内心喜んだが、母はいつも着る服とはまた違った少し派手な服を着て夕方6時から出掛けて行った。母が夜仕事に行く日は母が用意した夜ご飯を食べて自分で風呂に入り寝る。上の兄弟2人は当時、よくわからなかったが、ほとんど家に帰ってきてなく、多分帰ってきてたのかも知れないけど、しばらく会っていなかった。小学生2年生の私にとって歳が離れている兄弟だったからか、遊んだり話したりする記憶もないので、いない事が特別な感じではなかった。
母は夜の仕事について私には何も言わなかった。私も何をしているか聞こうともしなかった。でも母は金曜と土曜は楽しそうに仕事行っていたし、最近はよく家の電話で誰かと話していたりするのをよく見るようになった。いつしかかけ算はどこかにいってしまって、私も家でゲームをするようになり、いつもの日々が戻った。それから半年が過ぎ、母は金曜と土曜だった仕事を平日も行くようになった。昼間のパートをやりながらだったのかわからないが、今まで以上に夜、母がいる時間が少なくなっていった。夜何時に母が家に帰って来てるのかわからず、朝起きて学校行く時にはいつも母が朝ごはんを用意してくれている。だから特に深くも考えてなかった。でも正直、最近は学校から帰ってきても、母は私と入れ替えですぐ家を出るようになっていた為、一緒買い物行ったり、学校の話などはほとんどしなかったので、少し寂しかった。細かいかも知れないけど、友達の家に行くとおやつはお皿にポテトチップスやサイコロの形のチョコ、それとオレンジジュースとか見た目だけでも、私が憧れるおやつの形だった。友達のいつもおやつはこんな感じらしい。それを見たせいか、母がいつも買ってくるおやつはポテトチップス一つでお皿に盛ってくれた事はほとんどない。お皿に入れて欲しいって頼んでも、めんどくさいとやってくれなかった。むしろ食べ過ぎて怒られてばかり。食べれば虫歯になる虫歯になるの一言。でも最近は母が入れ替えで、出掛ける為、おやつは置いてあるものを適当に食べて夜ご飯になったら電子レンジであっためて食べる日々だった。
姉や兄はほとんど会わなかった。たまたま帰ってきた時に会っても姉兄からは「お母さんは?」の会話だけで私は「知らない」で終わる。そうすると姉兄も部屋で何かを準備してすぐ出掛けてまたしばらく帰ってこなくなる。
そんな生活がしばらく続いた。私が小学生3年生になってから、私が想像もしなかった事が起きたのだった。
父が単身赴任から一時的に半年だけ地元に帰ってきて、家から通える所に通勤になったそうだ。うまく行けばこのまま単身赴任ではなくなるかもという話だった。私は当時父とは遊んでもらった時間が少なかった為、一番に喜んだ。そして父が帰ってくる日に私はノートを破りお父さんが帰ってくると書いて家中に貼っていた。母は笑っていた。私の家は団地で部屋の広さは決して広くはないが、至る所に紙を貼って、父の帰りを待った。その日はみんなで家でご飯を食べた。姉も兄もその時は帰ってきて、私は一番にはしゃいだ。
何日か経ったある日の事、母はいつものように友達の仕事を手伝うから夜仕事に行くと私に言った。そういえば、ここ最近行っていなかったし、今は父もいるから私は「うん、お母さんお仕事頑張ってね」笑顔で見送った。父の仕事は外食関係という事もあり、メインはサラリーマンの方が夜来るお店だった為、帰りはいつも夜12時前ぐらいだった。その分朝はゆっくりだった。私はちょうど夏休みに入った頃で、夜更かしをして、父と母の帰りを待った。父が先に家路に着き、私を見て「まだ起きてたのか。お母さんは?」と聞いてきたので、私は「お母さんはお仕事だよ」と答えた。父は一瞬止まったが何も言わなかった。私は父に寝るよう言われ、部屋に戻り寝た。けどお母さんにも会いたいという気持ちがあり、布団に包まって待っていた。どのぐらい経つだろうか、しばらくして母が帰ってきた。すると父が少し声を荒げて「この時間まで仕事って何の仕事だ?優希が起きてたぞ。」と話していました。私は母が帰ってきたと同時にお母さんに「おかえり」言いたかったのだが、子供ながらそんな雰囲気で話している様子ではないと気づき、暗い部屋の中からドアノブをギュッと握りしめて、二人の会話に耳を傾けた。母は私が寝てるのかを確認する為に父と話し、私の部屋に歩いてくる音がわかった。私はとっさに布団に戻り寝たフリをした。母は私が寝てると確認してから、部屋のドアを閉め父と何かを話している様だった。次の瞬間、すごい物音がして母の「痛い、何で殴るの!」という悲痛な声が聞こえた。それと同時に父が「お前今までこんな風に生活してたのか!」という声でまた母が「痛い!蹴らないで、顔を殴るのはやめてよ!」という泣きながら声を上げていた。私は胸が苦しくなり、とっさに部屋を飛び出した。そこには父が母前に立ち、母はベランダに出る窓の所に寄りかかる状態で、口と鼻からから血が流れていた。私を見た二人は無言のまま、母が「優希寝なさい」と言ってきた。二人が今どういう状況なのか、何でこんな風になったのか当時の小学生3年生の私にはわからなかった。でも母が父に殴られたのは事実であった為、私は父を睨みつけていた。少し無言のまま、重い空気の中、母は「今日は友達の家に泊まります。またこの話は由理と毅がいる時にちゃんと話したい」と言って母はそのまま出で行ってしまった。父は「勝手にしろ!」と言い放って止めようともしなかった。父と二人になった私は、ただ、ただボー然立ち尽くしていた。父から「お前はもう寝ろ」と言われて黙って部屋に戻った。何も言えなかった。お母さんをいじめないでって頭の中で自分が父に言っている姿だけが浮かんでいた。その日は寝れなかった。母も帰って来なかった。
次の日、父は仕事に行った。お昼前に母は帰ってきた。母は「昨日はごめんね。ちょっとお父さんもお母さんもお酒で酔ってたんだ。大丈夫だから」と話してくれた。ただ顔には左半分あざになっており、左目も晴れている様だった。私は母に「お母さん、、今日はお母さん家にいるよね?」って声を詰まらせて聞いた。母は少し間があったが「うん」と言った。その言葉に私は昨日の出来事を思い返し、心の中でもしお父さんがまたお母さんを泣かせたら僕がお母さんを守ると強い気持ちで胸がいっぱいになった。
その日は夕方から姉と兄が家に帰ってきた。父と母が昨日話していた時に姉と兄がいる時に話したいって言っていたのを思い出した。私はきっと仲直りするんだと思い父を待った。
その日の夜ご飯は父以外4人で久しぶりに食べた。けど、姉も兄もあまり口を開こうとしない。私は母に「お母さんご飯おいしい」と言った。母は「ありがとう」と言ってくれた。私の中では母の顔が悲しく見えた。どうしていいかわからなくなってしまった。
その時姉が「お父さんには私達からも話すから安心して」と一言言った。母は「ごめん、あなた達にこんな事で迷惑かけて」と謝っていた。私は母と姉兄3人の会話がよくわからなかった。その日の夜は久しぶりに母とお風呂入った。お母さんの背中を一生懸命洗った。母は「そんなに強く洗ったら痛いよ」って笑って言ってくれた。私も笑ったが痛いの言葉がまた胸が苦しくなった。私はとっさ「お母さん痛かった?ごめんね」と言った。母は少し考えた顔で私に「優希、優希は一人で何でも出来るよね。偉いと思うよ。でもごめんね、いつも一人で頑張らせちゃって。」その言葉に本当は、本当は寂しいよ、お母さんと一緒にお風呂も入ってご飯も食べたいよって言いたかった。でも私の出た言葉は「お母さん、僕頑張るから大丈夫だよ」って言ってしまった。間違っていたのか当時はわからない。でもつきたくない嘘を言ったのがあの時が初めてかもしれない。
お風呂出でから時間があっという間に過ぎた。父が帰ってくるのを全員で待っていた。本当であれば帰ってくるのが嬉しいはずの時間なのにこんなにも不安でドキドキ様な日はなかった。元々、父が母に怒り、暴力振るった理由が当時の私には理解出来なかった。その日父は予想以上に遅く帰ってきた。お酒の匂いが帰ってきた時、玄関に充満していた。父は帰ってくるなり、声を荒げて大きな声で私達に向かって「何だよ!何見てんだよ!」と言った。私が予想していた以上に空気が悪くなった。父はふらふらしながら、ソファーに座り、もう一度「何だよ」と小さい声で聞いてきた。母は父に「私は生活の為、夜スナックでバイトしてました。昼間はパートして、優希のご飯の支度をして。でも、やましい事はない。手伝いで特別あなたに後ろめたい事はない。」と言った。父は「そんな事はどうでもいい。そんなに俺が嫌か。」と母に言った。母は「そうじゃなくて、子供達はこれから高校卒業がある。大学とかに行くのに少しでもお金貯めない。」と母は父に少し強く言った。すると父は立ち上がり、いきなり母の胸ぐらを掴み投げとばし、そのまま背中を踏み蹴っ飛ばしたのだった。とっさに姉と兄は止め、姉が「お父さんやめてよ!お母さんの話を聞いてよ!何で暴力振るうの!?」父は息を荒げて立ち尽くしていた。兄は震えていた私を部屋に入れて、「お前はこの部屋から出るな。テレビを見ていろ」と言った。私はテレビなど見る状況ではなかったが、兄の目を見た時に見た事のない恐い目をしていた。私は黙ってうなづいて、閉められたドアにしがみついて外の声を必死に息を殺して聞いた。
私はドアの音が鳴らない様に少し開けて隙間から覗いた。母は今まで聞いた事のない様な大声で父に「あなた、子供の事考えてる?あなたは単身赴任中、毎週お金がないってお金要求して。給料明細もわからないし、あなたから給料出たから生活費のお金入れた。確認しろって言われて、入金された通帳見たけど家賃と光熱費だけ払ったら何も残らない。それなのにあなたはまた金がないから入金してくれって。出来ないって言ったら電話で怒鳴ってばかり。だからパートして夜の時給のいいアルバイトを友達から紹介してもらってやってるの!それも私の事情を知ったうえで助けてくれてる。時間や時給、色々と考慮してくれてる。あなた、由理や毅の大学の事、考えてる?優希の将来考えてる?あなたが銀行から借金してる事もこの前知った。銀行から引き押しされてないのが家に電話がきた。私は何の話かわからなかったけど、あなたが私達の知らないところで、お金を使ってる。このままじゃ子供達の将来が見えない。」母は話しながら泣き崩れた。しばらく沈黙が続いたが父は「それでも、俺は夜の仕事は認めない。金は俺が今後節約する」と父は話した。しかし母は「あなたはいつもそう言って終わり。子供達の事も何もしない。任せたって言って終わり。正直夜のバイトは私も抵抗がないわけじゃない。優希が一人になる時間が多いし、寂しい思いをさせてばかりで。でも私もずっとあなたと結婚して友達という人は一人もいなかった。悩んでも一人で考えてやってきたの。今回、夜のアルバイトで同年代の女性のお友達が出来たりして、少し気持ち楽になったの。」母は必死に今の自分のやりきれない気持ちを父に話した。父は「俺だってお前達の為に仕事してるんだ!そんな事ぐらいで弱音なんて吐くな!」と母に言った。その後、父は部屋に戻りその日は出で来なかった。結局話はどうなったのかわからなかったが、姉も兄もしばらくは家にいた。
そして一週間あまりこの話は続いた。その度母は何度も殴られ、罵声を浴びせられていた。その度姉、兄は声を上げて止めいた。母は毎日そんな状況でも誰よりも早く起きて、自分達のご飯を用意してパートに行き、夜のアルバイトもこなしていた。母と話せる時間は朝だけで、母は日に日に顔にあざが増えていった事は今でも鮮明に覚えている。当時の私は母に話せる事はもう少なくなっており、母もまた段々と疲労感が溜まっていったのか、目が死んでいる様だった。大人になって思う事はあの時、母は毎日あまり寝ずに働き、夜は父に振り回され自分に余裕がなかったんだと思う。
そんなある日母は私に「どこか遠くにお母さんと行こうか?そこで住む?」と言ってきた。私は母に「お母さん何でそんな事言うの?」と聞くと母は少し笑って「冗談よ。ちょっとそんな風に思っただけ。優希、今度お母さんとどこかお昼食べに行こうか?」と言ってきた。私は明るく「うん!」と答えた。
私にとって母と話す最後の会話になるとは知らなかった。
その日、母は私に今日はお友達の家に泊まるから帰ってこないからご飯一人でお願いって言って仕事に行った。私は返事一つして母を玄関から見送った。
次の日になり、母が帰ってくるのを楽しみに家で待っていた。普段絵など書かないのだが、お母さんの絵を描いた。夕方になれば帰ってくると思い待っていたが帰って来る様子はなかった。夏休みももうすく終わりを迎えようとしていた。
その日は日曜日で昔からやっている夕方からの家族一家の有名なアニメを一人で見ていた。その日の内容は家族で海に旅行行った話だったが、子供達がお父さん、お母さんと海で砂遊びをしているシーンだった。私にも兄弟がいるので、何か少し重なる思いで見ていた。とっさに私は「お母さん」と言っていた。その日はご飯も食べず、お風呂も入らず、むしろ何も考えずに寝た。
次の日、コンビニで買ったパンが置いてあった。手紙には父からで朝食べる様にと書いてあった。私はそれを食べ昼間は遊びに出掛けた。夕方のどが渇いたので、家に麦茶を飲みに戻ると仕事に行った父がソファーに座っていた。一瞬何でいるのかわからなかったが、父が黙って「おかえり」と言った。私は「ただいま」と返した。明らかにいつもの父の様子ではなかった為、一回部屋に戻る振りをしてしばらく父を見ていた。外は蝉の鳴き声が響いている。それを黙って聞いている内に、父が私を呼んだ。私は父の正面に立ったまま「何?」と聞いた。すでに母の一件以来、父に対して複雑な気持ちになっていた。黙って下を向いていた父が顔を上げた瞬間、父は大粒の涙を流しながら、「ゆ、優希ごめん。ごめんな。こんな風なって。」震えた声で私に言った。私はその言葉で、心が痛み、背中からで電気が走る様な感覚になり、気づいたら足から手までギュッと力いっぱい握りしめていた。父が泣いている理由はお母さんの事だとわかった。だから余計にお母さんの事で父言いたい事がたくさんあった。今まで背が大きくたくましい体格で大きな父の姿がその時は小さく別人に見えていた。父は唇を噛み締め、鼻をすすったあと、「優希、もうお母さん帰ってこないんだ。出て行って、お父さんとお母さん別々でくらすんだ」と。
私は何となく子供ながらわかる部分とわからない部分が一度に交差し、何も答えなかった。しばらくして、私は父に「お母さん帰って来るよ。だって、だってお母さん、お、おか、お母さん…」と言っている途中で泣いてしまい言葉が出ず、ただ、ただ泣いた。心の中で母が今度外でご飯食べに行こうって言ってくれた事がずっと心で響いていた。外では夏休みの終わりを伝えるようにいつもより蝉の鳴き声がたくさん鳴り響いていた。
しばらく、どのぐらいだろうか。外は暗くなり始めた頃、部屋を出ると父はいなかった。何も考えられず、ぼーとしていた。一人という時間がこんなにも辛くて寂しくて、不安な日はなかった。もっと僕が頑張ればよかったんだって思ったり、もっといい子になるから、勉強も頑張るからって心で念じた。お母さんに会いたい。お母さん会いたいよ。
またしばらくして部屋の電気を付けて何も考えられなかった。すると家の電話がなった。私はお母さんだって思ってすぐに電話前に行き、お母さんだったら帰ってきてって言おうと準備した。電話に出ると父だった。内容はカップラーメンがあるからポットからお湯を出して食べなさいだった。嬉しい気持ちが一気に見えない暗闇に落ちたようだった。父にお母さんはどこにいるか聞いたが父はわからないと言われ、仕事に戻ると言って電話を切った。
私は言われた通りカップラーメンを見つけてお湯を入れて食べた。初めてカップラーメンを自分で作ったせいかお湯が多く、時間もよくわからなかったので、のびたまま口に運んだ。おいしいとかなかった。食べてそのまま片付けもせず、部屋に行き、布団を敷いた。いつもならまだ夜更かしできる唯一の楽しみだった時間が何も感じられない時間だった。シャワーに入った後、夏休みがあと3日しかない事に気付いたが、何もやっていない。部屋から外を見ていた。空を見てお母さんと言っていた。また泣いてしまったが、しばらくすると向かいの棟に住んでいる友達が家族と車から降りてみんなで家まで階段を上っていた。その姿は父親に腕でシーソーのような形でぶら下がり母親が後ろから頑張れーって声を出している姿だった。家に入るまで私は部屋のまどからじっと眺めていた。
夏休みが終わって始業式が始まった。あれからしばらく父は家から仕事に通うこともあったので、洗濯物や家事全般はやってもらい何とか着るものや必要な物は準備出来た。宿題もよくわからないダンボールで作ったビー玉で転がす迷路を作った。その他の宿題は忘れた事にして提出をごまかした。夏休み明けはみんな日に焼けており、色んな所に家族と出かけた話しをしていた。先生も朝の朝礼で、みんなに夏休みはいっぱい出かけたり遊びましたか?と聞いていた。順番にみんなが一人ずつ教卓の前に立ち、夏休みの思い出を話していた。僕はお母さんがいなくなった事が頭にいっぱいになっていた。そして先生が「優希くん、夏休みの思い出を話して下さい」と声を掛けた。僕はハッとなり急いで教卓の前に行った。周りを見るとみんなが僕を一点に見つめていた。普段から決して前に出る性格ではなかった為、余計に何を話せばいいかわからなかった。沈黙が続いた時に先生が「いっぱいあって何話すか迷ってるのかな?」とフォローしてくれたが、それも逆効果だった。結局僕は行ってもいない家族とプール行った事が楽しかったと一言だけ話した。嘘をまたついてしまった。みんなは本当に夏休みが楽しかったんだろうなって感じていた。私も夏休みは決してつまらなかった事はなかった。が、夏休み最後にこんな事になるとは予想もしていなかった。
9月になってからは、日も落ちるのが早くなり、すっかり夏も終わりを迎えていた。もうすぐ誕生日だった。私は10月15日生まれだった。誕生日の前に運動会がある。だから、誕生日は嬉しいけど、嬉しくない。運動会は苦手だった。走るのも苦手だし、みんなに見られるのが嫌だった。運動会が苦手になったのは理由があった。小学校一年生の時、運動会で一生懸命走った際、手の振り方がカマキリみたいに曲がっていたから、みんなにオカマと言われた。それ以来走り方を変えたがトラウマになっていた。当たり障りない様に走ろうって。
そんな事を考えていたら家に着いていた。家に着くと誰も居ない。帰ってくる度に、母がいた部屋を開けるのが癖になっていた。誰も居ない部屋で独り言の様に「ただいま」と言う。夜ご飯はいつものカップラーメン。毎日食べていたから作り方も慣れてきて、食べるのも早くなっていた。お風呂はシャワーしか浴びなかった。お風呂にお湯をためなかったのはスイッチがわからなかったのが理由だった。
そんな風に日々を過ごしている内に、運動会本番は着実に近づいていた。
私の競技は障害物走と親子借り物競争だった。
運動会の事を父には話せないでいた。話せないより、何故か話したくなくなっていた。当時、思い返すときっと勝手に運動会は必ずお母さんが来て、父親が付いてくる、そんな印象だった。そんな事を考えて過ごしていく内に、父が私に「お父さん、また単身赴任しなければならない。新潟に行かないといけなくなった」
大人になった私があの時振り返れば、父は職場に母が出て行った事を言ってなかったんだと思う。
小学三年生の私は父に「お父さん行ったらしばらく帰って来ないの?」と聞いた。父は「一ヶ月に一回は帰るよ。それに電話もするし、困ったら電話してこい。あとこれからはなるべくお姉ちゃんとお兄ちゃんにも家の事を協力してもらって、優希の面倒見てもらう様にするから」という話だった。うまく言えないけど、あんな父だけど、遠くに行ってしまうのは寂しかった。結局父には運動会の話はできなかった。
運動会があと5日前となった日、姉が帰ってきた。姉は帰ってきて洗濯物の山に文句を言っていた。それに部屋が散らかっている事にも腹を立てていた。姉はおそらく、彼氏や友達の家を転々としてるのか、実家にはあまり帰って来ない。ましてや、自分の事じゃない事で実家の家事などを定期的にやらなければいけない事に納得していない様子だった。私は兄と共同で使っていた部屋、今は私が一人で使っている部屋で勉強する振りをして漫画を書いていた。姉が私を呼んだ。「優希、学校の手紙とかないんだよね?」と聞かれた。私は「ないよ」と答えた。あったかなかったは正直覚えてない。というよりも手紙を出す様な習慣が無かったので、最近の学校での手紙はどこにあるかわからないくなっていた。連絡帳も持っていなかったので連絡自体伝える事がなかった。そのあと、姉に「そういえば、今週の土曜に運動会ある」と伝えた。そうすると姉は「お父さんには言ってあるの?運動会の手紙とかは?」と聞かれた。私は「お父さんには言ってない。手紙もわからない」と伝えた。姉は「はぁ?あんた何やってんの?そういう事は早く言えよ」と怒られた。久しぶりに怒られたせいか、親でなく、姉だったからか、私は睨み膨れてしまった。すると姉は「テメェよ、何怒ってんだよ。お前がわりーんだろうが」と怒鳴られ、右のほっぺを思いっきりつねられた。あまりの痛みに私は姉に「いってーな!ふざけんな!」と怒鳴り部屋に戻った。姉はその態度に更に怒りが心頭し、部屋に戻った私を引きずり出し、思い切ったビンタを何回も私にした。姉はビンタをする度に「あんたみたいな分際の為にわざわざ飯作ってやってんだよ!面倒くせぇのに洗濯物とかやってんだよ!少しは感謝しろ!バカが!」と怒鳴られた。私はただ殴られて、両手で顔を塞ぐしかなかった。私は姉のビンタが終わった瞬間、ほっぺの痛みなのか、姉の本音がキツく過ぎたのか、何だか泣いてごめんなさいと言っていた。そのまま私は部屋に戻って泣きながら布団にもぐった。姉は怒りがすぐに治り、我に返っていた。姉はとっさに言ってしまった言葉に対し何度も私に謝っていた。私は布団の中から「もういいよ。大丈夫だから」と答えた。姉は明らかに私が泣いているのに気付き、布団をめくり私の方を見た。私のほっぺが以上なほど赤くなっており、私も口の中から鉄の味がしていた。血が出てたんだと思う。姉はやり過ぎた事を謝っていた。私がその度に声をひくひくしながら大丈夫と言っていたので、姉が泣きながら「優希が一番辛いよね。なのについイライラした気持ちが出たのを優希にあたってしまって、手をあげちゃってごめんね」と姉から謝られた。私はその時、気持ちの何かが崩れた。それはもういいって思った事だった。父も私に辛いよなって言ってた。こんな事を言われる事が嫌だった。私はこれから誰に寂しい気持ちを伝えればいいのか、本当にわからなくなっていた。そう、単純な子供心にはまだ全て理解するなんて到底出来なかっただろうし、消化出来ずにいたんだろうと思う。
もういいや、もういい‥
もうすぐ、運動会だ…
運動会当日がきた。大げさかもしれないけど、当時の私には今日ほど学校に行きたくない日はなかった。登校にはみんな、お母さんと一緒歩いて学校行っている子供が大勢いた。その中を早歩きしながら下を見て歩くしかなかった。会う友達にお母さんの事を聞かれたらどうしようってずっと考えていた。今日ほど一人で学校行く事が恥ずかしく、人から見られたくない日はなかった。学校に付いていつもの様に朝礼が始まった。いつもと違うといえば、体操着に赤白帽子という姿。朝礼中はみんな教室から外を気にしていた。それはお母さんやお父さんが校庭の周りにシートを敷き始め、我が子の応援の準備をしているからだった。クラスのみんなは誰々のお母さんだ、お父さんだとか会話が弾む。細かく言えば、周りのクラスメイトのほとんどが赤白帽子のゴムが新しくなっていたり、新しい体操着、新しい靴、色んな所で運動会仕様になっていた。正直うらやましかった。私の体操着は新しくなくおさがり、運動会前日まで着ていた物を着ていた。帽子も洗ったわけでもなく、ゴムも伸びきっていた。靴もよくわからないメーカーの靴だった。大人になって考えてみればどうって事もないかもしれないけど、子供にはそういった部分がとても気になってしまうんだろう。唯一救いだったのは赤組だった為、汚れは目立たなかった。
開会式が始まり、運動会が始まった。
私の出場種目は障害物競走と借り物競走。
障害物競走は二位だった。自分でも驚いた。スタートのピストルが鳴った瞬間、とにかく前へという気持ちで走った。するとすんなり障害物をこなして気づいたら二位だった。嬉しくて思わず笑顔が溢れた。二位は銀色のバッチを胸に付けてくれる。嬉しくて嬉しくて何度も胸に付いている銀色のバッチを眺めた。きっとお母さんも喜んでくれるかなって思いながらバッチを何度も見つめていた。
午前中の競技が終わった。お昼ご飯の時間、各自みな親の元に駆け寄る。私はみんなに目立たない様に体操着袋を片手に走って誰もいない教室に走った。ここなら誰もいない。ここなら誰も来ないし、見られなくて済むと思った。私は体操着袋から朝早くにコンビニで買ったおにぎり2個を出した。体操着袋の中身を見られない様に、自分の競走以外の時は私の座っている赤組の椅子の下に見えない様に隠す様に置いていた為、中のおにぎりが若干潰れてしまっていた。おにぎりの袋を開けたが、うまく海苔を出す事が出来ずにいた。無理矢理引っ張った瞬間海苔は、半分ちぎれてしまった。半分しか海苔がないしゃけのおにぎりとおかかを黙って食べた。おかかは特に大好きだった。おかかのおにぎりは、母がよく私がお腹が空いた時に作ってくれた。母のおにぎりは少しは塩が多くてしょっぱくて、おかかも少ししょっぱい。今食べているおかかは、母が作ってくれた味と全然違ったけど、おかかを食べている事に気持ちが落ち着いていた。おにぎりを食べながら、廊下の水道に行き水を飲もうと思った時だった。「優希くん?」
声がしたので振り向くと担任の先生がいた。僕は慌てて走って教室に逃げた。何で逃げたかわからなかったけど、見られた事が嫌だったんだと思う。僕はすぐ体操着袋を持って違う場所に行こうと思った。廊下に出た瞬間担任の先生がいた。
先生が「優希くん、お母さんやお父さんは来てるの?」と聞いてきた。僕は何て答えていいかわからなくてドキドキしてしまっていた。しばらくそのまま立っていると先生がちょっと待っててと言ってその場を離れた。一瞬、家とかに電話するのか、何だろうって余計に不安になり足が少し震えていた。そんな事を考えている内に先生が戻ってきた。「優希くん、先生と一緒ご飯食べよう」と言ってきた。担任の先生の名前は山崎先生だった。女の人でお母さんより少し若い先生だった。いつも何も気にしない先生だったが、今日だけはすごく先生が暖かく感じた。先生は私が教室いた事、お母さんやお父さんが来ているかは何も聞こうとしなかった。先生は自分で作ってきたお弁当を開けて、私に半分分けてくれた。私は「先生のお弁当だよ。僕はいらないから、先生食べて」と言った。すると先生は「先生ね、こんなに作ったんだけど、食べきれないから優希くんが食べてくれると助かるなー。優希くんはお腹いっぱい?」と聞いてきた。私は少し迷ったが首を横に振った。すると先生は「よかった。一緒に食べよう!」と言ってくれた。私は無我夢中で先生の分けてくれたお弁当を食べた。先生のお弁当はエビフライにコロッケ、トマトに玉子焼き、人参の甘い煮たもの。色がカラフルでキレイだった。食べ終わり先生が「優希くん、優希くんが話したい事があったらいつでも先生に話してね。午後も運動会頑張ろうね!」そう言って先生は階段を降りて外に行った。私がこの時ほど、お弁当がおいしいって思った事はなかった。
もうすぐ午後の運動会が再開される。
みんなシートの上で自分の頑張りをお母さんやお父さんに嬉しそうに話してお菓子を食べている。
僕はそれを下駄箱のある入り口から眺めていた。
運動会が再開され、自分の出番まで椅子に座り赤組を応援していた。隣の席の子が「お母さん来たー」と言った。振り向くとその子のお母さんがニコニコしながらその子の頭をポンって軽く叩いた。多分、午前中は来れなかったんだと思う。その子も嬉しそうで、より一層元気になっていた。私もつい、もしかしたら遠くでお母さんが来てるのかもと思ってしまい、保護者のいる周りをきょろきょろし、トイレ行くふりして何度もグランドの周りを歩いた。途中、何してるんだろうって思いはじめ、席に戻った。私は借り物競走が次の順番になった時、準備の為、入場門に集められた。借り物競走は基本親子で出場だった。私は今日誰も親が来ていない。どうしようかと思っている時に、友達が後ろから「優希、お母さんは?」と聞かれた。私はとっさに「今日具合良くなくてお母さん来れなかったんだ」と言った。すると友達のお母さんが「そうなんだ、じゃあ優希くんと一緒走る人、先生に聞いてきてあげる。もしいなかったら、私が一緒に走ってあげるね」と優しく言ってくれた。私は黙ってうなづき、入場門に並んだ。すると山崎先生が私を見つけて走って来た。先生が「優希くん、先生と走ろう」と言って私の手を強く握りしめた。先生の手は思ったより、硬かった。今思えば、先生達はみんな運動会の先頭に立ち色々やっていたから、手は荒れたり、汚れたりするんだろう。でもその時の私はわからなかったし、何より先生が来てくれた事が嬉しかった。借り物競走は何位とかよりも、親子レクリエーションに近く、みんながお題に沿って走り回る姿に、運動会はとても盛り上がっていた。私も麦わら帽子とタオルだった為、先生と二人で走り回った。楽しかった。順位は覚えていない。多分最後だったかもしれない。正直、先生がとても張り切っていて、私はただ先生と手をつないで必死に付いて回ってたから。
運動会は高学年の組体操が終わり、赤白対抗リレーが始まり、白優勢でリレーは幕を閉じた。閉会式が終わり、結果白組の勝ちだった。得点は僅差だった。
運動会の片付けをして教室に戻り、帰りの会をしてプリントと紅白まんじゅうがみんなに配られた。みんなでさようならをしてみんな、お母さんお父さんの元に走って行った。私はみんなが帰った後を見計らって帰った。
その日の夜は、紅白まんじゅうを夜ご飯にして食べて、二位の銀色のバッチをパジャマに付けて寝た。
お母さん、僕生まれて初めて運動会で二位なったよ。褒めてくれるかな?
お母さん、会いたいよ…
母がいなくなってから、二年が経っていた。私はすでに母が帰って来ないという事を少しずつ受け入れ始めていた。この二年間は友達にお母さんがいない事をバレない様にいつも仕事、仕事と嘘を言っていた。いなくなったなんて言えなかった。そうしていくうちに、嘘をつく事や、勝手に理由付けしていく事が当たり前になっていた。でも、この二年間は想像以上に辛かった。ほぼ毎日一人で、月一回父が帰ってきて、大量にカップラーメンと冷凍食品を買って、父はまた単身赴任先に戻る。父が帰ってきた時だけ好きなおやつ買ってもらいおやつを食べる
のが唯一の楽しみだった。でも、誰もいない家で誰とも話す相手がいない家は、想像以上悲しく、急に泣いてしまったり、何度も寂しくて泣いてしまった。そうしている内に、アニメなど見ていて、家族の会話や出来事をあたかも自分の事の様に、布団の中で想像して寂しさを消化していた。勉強に関しては全然やらず、当時は少し漢字だけ練習していた。でも長続きはしなかった。
六年生になると、段々と寂しさより、家庭内を周りに知られたくないという気持ちが強くなり始めた。付き合う友達もどちらかといえば、あまり家に帰らない様タイプが多くなった。毎週土曜日に夜にある友達の家に6人ほど集まる様になった。その中に私もいた。最初は何も分からずその友達と遊んでいた。その友達は中山くんという子で、父親が長距離トラックのドライバーで母親はパートしている家庭だった。中山くんには兄がおり、私の地元でも相当喧嘩が強いというので有名だったそうだ。私は当時そんな事は知らず、中山くんは小学五年の時に引っ越してきて六年生の時に同じクラスになり席が近かった事から仲良くなった。
そして、遊んでいく内に自然と毎週土曜日は中山くんの家に泊まって遊ぶ仲になっていた。最初は良かったのだが、隣町から引っ越しという事もあり、前にいた小学校の友達も土曜日くる様になり6人ほどで泊まる様になっていた。中山くんのその前にいた小学校の友達はみな喧嘩っぱやく少し怖い。私はつっぱる性格ではない為、いつも後ろに控えていた。それに私は段々と彼等といる事が苦痛になっていた。それが本当に嫌と感じる様になったのはある日をきっかけだった。
小学校は無事卒業し中学校に行く様になった。だがここからが地獄の三年間の始まりだった。
私は中山くんと距離を置きながらも付き合いを切れずにいた。それは中山くんのお兄さんが原因だった。なぜか中山くんお兄さんは私をとても気に入っていた。ただ、キレると何をするかわからない人らしく、中山くんが同級生と喧嘩になって中山くんが負けた時にお兄さんが出てきてその子が病院送りになったとの噂があったからだ。実際に、中山くんも元々堅いは良く、それ以上に中山くんのお兄さんは堅いがプロレスラーの様だった。ここで変に中山くんに目をつけられたら、自分もそうなるのではと思い何も言えず、毎週土曜日泊まりに行っていた。
中学校になると、万引きや自転車窃盗、タバコが始まってきた。また当時6人だったのが増え始めており、中学校の先輩も一緒に集まる様になった。私は野球がやりたくて、中学校に入って野球部に入部した。これである意味、中山くん達と離れられるとホッとしていた。しかし、野球部に入っても土曜日の泊まりは変わらなかった。土曜日、練習終わって家につくと家の前で何人かおり、その中の一人が「おう、優希、今日もあつまるべ。いくぞ」と言ってきた。私は、今日は行けないと言ったら、向こうが「なら、中山の兄貴にちゃんと電話して言えよ」と言われた。言えるわけがない。でも本当に泊まれない理由もあった。野球のユニフォームや制服とかを洗ったり、ご飯食べたり、自分の時間も欲しい、野球も夜自己練習もしたいと考えていた。でも、親がいないから、洗濯物やらなきゃとか言えなかった。今思い返したらあの時にきっぱり断り、今の状況を話すべきだった。結局行くことになり、夜な夜な集まりに参加する。色んな先輩が中山くんの家に集まる。先輩方はタバコ吸わなきゃだめっしょみたいなのりで僕ら後輩にタバコを渡してきた。何人かはすでに吸っていた為か慣れている。私はなんとかごまかして、その場をしのごうとしていたら、ある先輩が「テメェよ、さっきから何ダラダラしてんだよ!吸わねーらやっちまうぞ!オイ!」と言ってきた。私は本当に震えた手でタバコを口にくわえ吸った。その瞬間頭が揺れる感じと肺が苦しく、咳が止まらなかった。唾液がダラダラと出たが、もっと吸えと周りに言われ、吸うしかなかった。吸う中で頭がくらくらし、数分後、トイレで戻してしまった。こんなにもタバコが酷い物だと思わなかったのと、タバコは運動する人間には良くないと聞いた事があり、とにかくそれがショックでならなかった。
ようやく、夢が出来たのに…
とにかく中学校の思い出は振り返りたくない事が多かった。結局、部活は続けていく気力もなくなり、辞めてしまった。それに中山くんと一緒にいるだけでなかなか他の友達が出来なかった。中山くんも周りと合わせようとせず、孤立しながら、自分の地元先輩達などと遊んでいた。
結局私は三年間タバコを強制され、万引きや窃盗をやらされ、過ごした。そして気持ちに罪悪感だけが強くなり、こういう事はもう辞めたいですと先輩達に頭を下げた。すると先輩方はいいけどという雰囲気だったが、辞めるにはきちっとしてもらわないとという事で、そこにいた先輩達に8人ほどにボコボコに殴られた。さすがの中山くんも引いていたが、先輩から中山も優希を殴れと言われ、中山くんも参加していた。
もうどのぐらい殴られたか覚えていない。気が済んだ先輩達は自転車やバイクでいなくなり、私はボコボコにされた公園に残された。しばらく立てないし、色んな所が痛かった。私は少しずつ歩いて家に向かった。途中公園のベンチに座り、人がいない事確認して、泣いた。
それから、中山くん達から連絡はなくなったので安心していたが、一ヶ月経たない内に暇さえあれば公園などに呼ばれて、殴られる様になった。最終的には金持ってこいとまで言われる様になった。できませんというとまた、殴られる。なければ食いモン持ってこいと言われた。カップラーメンや家にあったおやつなどを持って行ってなんとかその場をしのいだ。結局殴られる事は変わらず悪化し、家で食べるものなくなり、食べる物がないと父には言えず、その時ほど死にたいと毎日思う日はなかった。
家族を守りたいと思う反面、家族に言えなかった秘密や嘘が全てを変える。