9話 現在の敗北
夜遅く。
僕は少女の乗った馬車を尾行していた。
北神流は剣術の流派だが、一部の派閥には尾行術も存在している。
見える相手を追跡するのはもちろん、残された痕跡から対象を追い詰めるのもお手のものだ。
のみならず、隠れて相手を襲ったり、直立の城壁を駆け上ったりする技もある。
あいにくと我が師匠の派閥とは違う流派の技だが、師匠は北神流の頂点に立つ存在ということもあって、当然のように極めていた。
師匠は、昔こそ自分と違う派閥の技を嫌っていたらしいが、父との戦いを経て考え方を変えたらしく、僕に快く教えてくれた。
ともあれ、馬車は魔法大学を大きく迂回するように走り、やがて大きな貴族の邸宅へとたどり着いた。
大きな家だ。
これほど大きな家なら、あるいは父とも交流があるかもしれない。
そう思いつつ、ひとまず馬車から離れ、屋敷へと潜入することにした。
屋敷には多くの護衛兵がいた。
これだけ大きな家だから、盗まれそうなものも多いのだろう。
しかし、僕には北神流の潜入術がある。
なぜ剣術の流派にそんな術があるのかはわからないが、とにかく尾行術と一緒に修行させられたから、潜入もお手のものだ。
懐かしいな。あの頃は師匠に連れられて、色んな所に忍び込まされた。
貴族の館に忍びこんだり、商館に忍びこんだり、傭兵団の武器庫に忍びこんだり。
最終的にはラノアの騎士団に協力を取り付け、要人警護の警戒の中をすり抜けることもやった。
ちなみに、この町で一番警護が厳重だったのは魔法大学の女子寮だ。
我が父の私兵であるルード傭兵団の警戒網があり、中には獣族や魔族の娘たちが自警団を作って警備をしている。
娘たちはプロではないが、獣族は鼻が利き、魔族の中には通常とは違う方法で人を見分ける者もいる。
各国から様々な生徒が集まるということで、魔眼持ちの生徒もいるぐらいだ。
文字通り、警備の目の種類が一番多いのだ。
とはいえ、獣族の鼻や魔眼も欺く方法がある。魔族も種族を知っていれば対処は簡単だ。
そんなわけだから、僕はザルに水を入れるが如きスムーズさで、屋敷への侵入に成功した。
天井裏から屋敷の中を見て回ると、嫁を迎える準備をしているのか、人が忙しなく動き回っているのがわかった。
メイドの着ているもの一つを見ても、彼女らが取り扱っている食材や調味料を見ても、この家が裕福であるのがわかる。
そう、この家はとても裕福だ。
今日、ここに来る前に少し情報を集めたが、この家は何代も前から金貸しを生業としている貴族の家だ。
この町ができる前から魔術ギルドや魔道具工房にも貸付を行っていたことで、最近になって巨万の富を得たのだ。
現在は、ラノア王国でも五本の指に入る金持ちである。
そんな金持ちの主人は美食家で、そして好色だ。
貧乏な他の貴族や、金に困った商家に金を貸付け、その担保代わりに娘を嫁としていただく。
やり方は狡猾だ。
まず一番上の娘は決してもらおうとしない。
二番目とか三番目の娘をと持ちかければ、家主は深く悩みながらも「それなら……」と差し出すからだ。
何せ家主の方も貧乏貴族。二女三女を嫁に出すのは困難な状態だ。
せめて金のある貴族がもらってくれるのなら、その娘だって幸せになれるだろう。
そんな言い訳ができてしまう。
外面的には、何ら悪いことをしているわけではない。
法に違反しているわけではない。
困窮した知り合いに、手を差し伸べているだけとも言える。
世の中には、そういった結婚もよくあるだろう。
だが、ここの主人は、そうやってすでに7人の妻を娶っている。
女をコレクションするがごとく……。
すなわち悪党だ。
□
主人の姿を見つけたのは、寝室だった。
彼が主人だというのは、すぐにわかった。
年齢は40代から50代。
自分の身長と横幅が同じぐらいあろうかという、太った巨体。
物語に出てくる、悪い金持ち貴族が、そのまま出てきたような男だ。
間違うはずもない。
人を見かけで判断するのは正義の味方の所業ではない。
が、食料が割高な北方大地であれだけでっぷりと太ることができるのが、限られた裕福層だけなのは事実だ。
そして、情報によるとここの主人に息子はいない。
家の中に他の男手もあるが、これだけ太れるほど怠惰で贅沢を送れるのは、主人だけだろう。
これで間違っていたら、僕はお金の存在を信じられなくなる。
「ぷふ~、今日は花嫁の来る日だからな、もっと高い服だ。一番高価な服を持って来い」
彼は特に何もしていないにも関わらず汗をかきながら、執事らしい男にそう命じていた。
部屋には大木にでも着せるのかと思うほどの大きな服が散らばっており、執事がそれを一つずつ畳んでいた。
「旦那様、高い服を出すより、出したお腹を引っ込める努力をすべきかと思いますが」
「クビにするぞ貴様」
「しかし、どれだけ高価な服を着た所で、そう変わらないかと思いますが……」
「良いか、ぷふぅ、もう一度いうが、今日は嫁が来る。
貸した金の担保のような嫁だが、嫁は嫁だ。
今日は我が家に来たという祝いの日だから、我らはもてなさねばならん。
そのために高い食材を使って料理を出し、わしは着飾ってよくぞ来たと迎えねばならんのだ。
その努力をすることは、我が家で生活するもの義務だ。
だが腹を引っ込めるのは、義務ではない」
「はあ」
偉そうに語っている内容は、割りと誠意のあるものだ。
悪党にも、悪党なりの美学があるということだろう。
腹を引っ込めるほどの美学は無いようだが。
「ぷふ~、それにしても楽しみだ。今回の嫁は特に若く、しかも美しい。
あの初々しさ、恐らく初物に違いない。
食事にはたっぷりと媚薬を仕込んでおけよ」
「薬をお使いになるのですか……?」
「どのみちヤルことはヤルのだ。互いに心地良い方がよかろう?」
もう聞いちゃいられない。
この男にはこの男なりの美学はあるらしい。
だが、あくまであの少女のことは、性欲のはけ口ぐらいにしか考えていないのだ。
新たな家族を迎えようというのではない。
さながら、新しい馬を購入した時のように、あくまで道具として考えているのだ。
「……」
そこでふと思った。
もしかすると僕も、サリエルの所に行っていれば、そう扱われたかもしれない、と。
サリエル自身はそうでなくとも、周囲はそう扱っただろう。
だから、結婚は嫌なんだ。
……まあ、そんなこと、今はいい。
そろそろ行くとしよう。
「そこまでだ!」
声を張り上げ、部屋中に響く声を上げる。
デブ貴族と執事は、何事かと驚き、周囲をキョロキョロと見渡した。
「そこのブタ野郎! 色狂いの悪党め! 陽の下に晒せぬ貴様の悪事、太陽からは見えずとも、月の目からは逃れられんぞ!」
ブタ野郎。
その言葉で、執事が怪訝そうな目で己の主人を見た。
デブ貴族は口をすぼめ、とぼけた顔で執事と目をあわせる。
「旦那様、何をなされたんですか?」
「心当たりが多すぎてわからんな……しかし案外、お前のことかもしれんぞ」
「私と旦那様が並んでいて、私をブタ野郎という奴がいたら見てみたいものですな。さぞ特殊な目をしていることでしょう」
あれ。
なんかいつもと反応が違う。余裕がある。
まあいい。
「とうっ!」
天井の板を蹴り破り、くるくると回転しながら部屋の中、高い位置にある棚の上へと降りたつ。
そして、ポーズ。
デブ貴族はポカンとしていたが、執事は油断なく腰を落としていた。
この執事、かなりやりそうだ。
「何者だ? 誰に雇われた?」
デブ貴族の方はポカンとしていたが、すぐに我に返り、そして珍しくもないことであるかのように聞いてきた。
こういうセリフが来る所を見ると、日頃から刺客に狙われているのだろう。
それにしても、よくぞ聞いてくれた。
今回は聞かれないのかと思った。
「私か? 私は闇夜に輝く銀月の騎士……」
その問いに、僕はポーズを取って言い放つ。
「正義の味方、ムーンナイト参上!」
執事は困惑した顔でデブ貴族を見た。
どうして名前を名乗ると、誰もがこういう表情をするのだろうか。
だが、デブ貴族の方は、「ほう」と感嘆の声をついた。珍しい。
「さしずめ、平和を愛する月こそが雇い主……といった所かな」
「ふむ。やはり、名も雇い主も教えてくれるつもりはないか」
名乗ったのに……。
まあいい。
「悪党め! 俺の愛するこの町で、金と色欲のためだけの結婚など許しはせん!」
「結婚に反対……となれば、あの家の敵か、あるいは娘の想い人か?」
「あるいは旦那様の敵かと」
「わしほど敵の少ない悪党はおらんつもりだが……」
「でも悪党ですので」
「なるほど、こやつは正義の味方だったな……おい曲者、悪いことは言わん。見逃してやるから出て行け。わしに手を出しても、後悔するだけだぞ」
よくわからない流れでの説得の言葉。
だが、僕も正義の味方。
悪からの説得など、受けるはずもなし!
「問答無用! いくぞぉ!」
棚から飛び降りる。
と、同時に執事が、懐から腰から二本の短剣を抜き放った。細く、そして短めの短剣だ。
彼はデブ貴族と僕の間に位置し、守るように構えた。
先ほどの物腰もそうだが、どうやらただの執事ではないらしい。
護衛も兼ねているのだ。
かなりの実力を感じる。
だが、正義は負けない!
「ハァァァァ! ムーンライト・パァンチ!」
「奥義『流』」
「おっととと」
唐突につぶやかれたその言葉に、僕は手を引っ込め、咄嗟にバックステップを踏んだ。
同時に、執事が突っ込んできた。
後ろに下がったが、太ももに痛みが走った。
執事の右手の短剣に、ほんの少し血がついていた。
太ももを見ると、浅く斬られている。
「今のを躱すか……毒でも塗っておけばよかったな」
呟く男に、冷や汗が流れる。
やられた。
『流』とは、水神流の技だ。
水神流の全ての技に通じる基本のカウンター技。
水神流はそれを最も重要なものとし、奥義と名づけている。
実際、基礎的な技であるにも関わらず、極めればどんな攻撃でも返すことが出来るとさえ言われている。
だが、今のは違う。
口に出しただけだ。
言葉だけで僕にカウンターを警戒させ、手を引いた所を一気に詰めてきたのだ。
「殺すなよローラス。今日は祝いの日だ。血で汚すことは許さん。生け捕りにして雇い主を吐かせろ。雇い主さえわかれば、あとは金でなんとかなろう」
「しかしこの男、かなりの手練……生け捕りにするのは難しいかと」
「……お前が手練というのは珍しいな」
「私の一撃を避けられるのであれば、手練でしょう」
自信ありげな言葉。
あの斬撃が十分な根拠だ。
だが、僕もかつて師匠に色んな相手と戦わされた。
剣神流の剣士、北神流の剣士、水神流の剣士、はては槍を使う魔族の戦士まで。
二刀の短剣使いといえど、対処できないわけではない。
短剣は、長剣とスピードが違う。
間合いも違うし、斬撃の軌道も違う。
全体的な動作が小さく、隙が少ない。
短剣は、長剣を使う騎士がサブウェポンとして使うぐらいで、あまり使われない。
北神流にも短剣術はあるが、奴の持つような細い短剣は使わない。
あの手の短剣と言えば……アサシンギルドか。
「おのれ……アサシンギルドの者か!」
「ご名答。元だがな」
主人に使うのとは違う、ぶっきらぼうな言葉。
ナイフのような口調は、彼の出自を表していた。
「闇に紛れて背後から人を襲うひきょ……ムーンライト・ステップ!」
気づけば、執事との間合いが詰まっていた。
セリフの途中で攻めてくるとは、おのれ卑怯な!
執事の刺突を、回避しつつ、すれ違いざまに拳を打ち込んだ。
「ムーンライト・フック!」
執事はそれをギリギリで回避しつつ、続けざまに短剣を繰り出してきた。
足はまったく動いているようには見えない。
アサシンギルドの歩法だ。
いつしか間合いを詰めて、気づいた時には射程内におさめている。
執事の刺突の回転が止まらない。
凄まじい猛攻だ。
「ムーンライト・ステップ! ムーンライト・ストライド! ムーンライト・フリップ!」
だが、僕がこれまで戦ってきた相手の中には、アサシンギルドに所属していたという男もいたのだ。
その経験を活かしつつ、猛攻を華麗に捌く。
「ムーン……うっ!」
しかし、余裕が無い。
向こうの短剣の合間を縫って拳を繰り出すも、当たらない。
相手の間合い管理がうまいのだ。
こちらの拳が届かず、向こうの短剣が届くギリギリの間合いを維持されている。
僕の拳は当たらないが、相手の短剣は時に幾度となく僕の体をかすり、少しずつ体を切り裂いている。
もし短剣に毒でも塗ってあったら、今頃僕は動けなくなっていたかもしれない。
僕が素手ということもあるが、あるいはこの執事は、王級に手が届く力があるのかもしれない。
時折、攻撃の代わりに治癒魔術を使っているため、タメージは無いが……。
しかし、致命打を与えられる気がしない。
「くっ、貴様のような力を持つ者が……なぜ悪党に加担する!」
距離を取りつつそう問う。
アサシンギルドに所属していた男が、こうして世に出てくることは少ない。
まして、このレベルの手練れだ。
そんなのが個人の護衛につくことなど、そうそうないだろう。
「はん?」
と、執事はきょとんとした顔で止まり、デブ貴族をチラリと見た。
「そりゃ、こいつが、案外悪党じゃねえからだ」
「なに!?」
「誰かの命令で動いているお前にゃ、わかんねえよ」
「私は誰かの指図を受けているわけではない! 正義の味方だ! 自分の意志で動いている!」
「そうは見えねえ……な!」
執事の速度が増した。
足の動きは見えず、スルスルと気味の悪い動きをしながら、回転を増した短剣が飛んでくる。
一瞬で皮膚が切り裂かれ、痛みが走る。
強い。
デブ貴族が逃げもしないのは、彼に対する信頼か。
「ムーン……くっ、ムーンライト……おっ!?」
もはや、必殺技を叫ぶことすらできない。
少しずつ切り裂かれ、少しずつ部屋の隅に追いつめられていく。
手管が少しずつなくなり、追い詰められているのがわかる。
剣があれば楽なんだけどな……。
「死ね」
短剣が迫る。
仕方ない。これは綺麗には勝てない相手だ。
僕は咄嗟にそう判断し、左手を捨てる覚悟をした。
「北神流奥義『啄み』!」
短剣は、僕の左手の指を数本、切り落とした。
だが、同時に僕の左手は短剣と交差していた。
「!?」
執事の拳が粉砕され、短剣が床に落ちた。
己の指を犠牲に、相手の拳を粉砕する相殺技。それが『啄み』である。
相殺を予期していない相手からすると、指を切り落としたと思った瞬間、唐突に己の拳が粉砕されたと感じるだろう。動揺しない者は、北神流の技に詳しい者だけだろう。
事実、執事の体勢が崩れ、今までにない無防備な体をさらけ出していた。
「なっ……!?」
「いまだぁ!」
僕はそれを、見逃さない。
右手に渾身の力を込めて、執事に向かって深く踏み込む。
「ムーンライトォ! セレナァァァデ!」
執事は回避しようとしたが、セレナーデは回避不能の必殺技、それは叶わない。
渾身の拳が、執事の胴体を撃ちぬいた。
執事は吹き飛ばされ、天井にバウンドし、地面へと落ちた。
殺してはいない。
正義の味方は、悪を成敗すれど、決して殺さない。
悪を憎んで、人を憎まずだ。
「さて……」
デブ貴族の方を見ると、彼はビクッと身を震わせた。
呆然とした顔で僕と、そして倒れた執事を見るデブ貴族。
「馬鹿な……」
「覚悟しろ」
そう言うと、デブ貴族はキッとこちらを睨んできた。
「……わしを殺せば、わしが金を貸していた家は立ちゆかなくなる! そうなればあの娘の家も潰れるぞ! 誰も幸せになれん! 考えなおせ!」
デブ貴族に拳を向ける。
確かに、この貴族を殴り倒した所で、あの少女の涙は止められないだろう。
だが、それでも正義はあるのだ。
「殺しはしない。ただ反省しろ。無垢な少女を蹂躙したことを!」
拳を握り、腰だめに構え、セレナーデの構えを取る。
説明しよう。ムーンライトセレナーデとは、相手が回避できないと確信した時に放たれる、僕の全体重を載せた必殺のストレートパンチである。
これをくらった悪は滅ぶ。
と、その時だ。
「待てぃ!」
唐突に、部屋の中に声が響いた。
僕は動きを止め、咄嗟に声がした方を向いた。
窓だった。
開け放たれた窓。
そこに座り込むように、おかしな奴がいた。
筋肉質の体。黒い服装。
そして、頭には兜がつけられていた。
ゴツゴツとした造形の、黒い兜だ。
その兜の額には、黄色い雷のようなマークが刻まれていた。
「だ、誰だ……!?」
咄嗟にそう聞くと、彼はフッと笑った。
「僕かい? 僕は暗闇に落ちる一筋の光、人呼んで……イナズマ!」
聞き覚えがある声だった。
そして、その名付け方の安直さも、一瞬で理解できてしまった……。
でもなぜ彼がここにいて、こんな格好をして、そんな名前を名乗っているのかまでは、理解できなかった。
「なんですって?」
「暗闇に落ちる一筋の光、人呼んで……イナズマ!」
彼は二度名乗った。
僕がダサいからとやらないことを、あっさりと。
「いや、そうじゃなくて、なんでこんな所に――」
「イナズマ!」
三度目だった。
強い口調で断言された。
どうやら、問答無用のようだ。
「こいつの仲間か!」
そう叫んだのはデブ貴族だった。
彼は慌てて立ち上がり、この場から逃げようとする。
だが、イナズマはそれを手で制した。
動くな、座っていろ、そこで見ていろ、とでも言わんばかりに。
その動作は、力をまとっていた。
言うとおりにしなければどうなるかわからんぞ、とでも言わんばかりの力だ。
「ぬ、ぬぅ……」
デブ貴族は、青い顔で椅子に座り直した。
それを見届け、イナズマは僕に振り返った。
「ククク、貴様が最近、このあたりで暴れまわっているという正義の味方……ムーンナイトか」
「……」
「今までは放っておいたが、我らの邪魔をするというのなら、容赦はせん」
「我らって?」
「我らは悪の秘密結社シャドー軍団」
「シャドー? え? いや、ちょ、待ってください」
混乱する。
今まで、こんなことはなかった。
話が繋がっていないように見えるし、そもそも彼が何の話をしているのか、一ミリも理解できない。
なんだシャドー軍団って。
我らの邪魔ってなんだ。
「問答無用!」
イナズマが叫ぶのと、窓枠を蹴って突進するのは、ほぼ同時だった。
僕は即座に動いた。
我ながら感心するほどの反応速度で、イナズマの突進に合わせて、拳を突き出した。
「ムーンライト・ナックル!」
「イナズマキィック!」
だが、イナズマはもっと速かった。
僕の突き出した拳と、イナズマの拳が交差する。
キックなのにパンチしてきやがったのだ。
「……!」
メシャリと音がして、僕の拳が砕けた。
指を失った拳が、さらに手首からへし折れ、変な方向に曲がる。
激痛が走る。
この程度の痛みは我慢できるが、渾身の拳を打ち砕かれ、上体が浮いてしまい……。
そして、僕の視界ではイナズマが腰だめに構えていた。
「ハァァァァァ! イナズマキィック! イナズマキィック! イナズマ、イナズマ、イナズマパァンチ!」
イナズマの五連打が打ち込まれた。
四発のパンチと、一発のキック。
その連打は、全て的確に急所を撃ちぬいていた。
僕はふっとばされ、分厚いレンガ壁に激突、衝撃はレンガ壁をやすやすと突破し、突き破って外へと叩きだされる。
一瞬の浮遊感。
僕は二階から地面へと叩きつけられた。
「グハッ……」
口から血反吐を吐きつつ、即座に立ち上がる。
全身に治癒魔術を掛け、追撃に備える。
だが、追撃は無い。
そのことを不思議に思いつつ、屋敷を見上げる。
すると、窓から奴が覗いていた。
「ハーッハッハッハ! その程度か、ムーンナイト!」
「……」
「貴様では僕には勝てん! 今日のところは見逃してやろう、出なおしてくるのだな、ハーッハッハッハ! ハッハーハッハッハハハ!」
確かに、今の僕では、彼には勝てないだろう。
それは、誰よりも僕が理解していた。
彼を突破し、あのデブ貴族を成敗することはできないだろう。
ついでに言えば、周囲が騒ぎになり始めている。
デブ貴族の危機を知った護衛たちが、僕を捕らえようと動き始めたのだ。
このままここにいれば、囲まれてしまう。
多勢に無勢は問題ない。
それ以上の問題なのは、囲む相手が雇われているだけの者だということだ。
つまり、何の罪もない一般人なのだ。彼らを殴るわけにはいかない。
「……」
僕はその場から逃げ出した。
正義の味方として、初めての敗北だった。
□
その後、逃走を続けた。
貴族街を走りぬけ、市場を通りぬけ、倉庫街をぐるぐると回り、いるかもしれない尾行を巻いてから、秘密基地へと戻ってくる。
「ふぅ……」
兜をぬいで、息をつく。
と、そこで切れた指に目がいった。
僕は秘密基地の片隅にある木箱へと歩み寄り、その中から一枚の紙を取り出した。
治癒魔術のスクロールだ。
僕の使える治癒魔術は上級まで、上級では欠損を治せないため、こうして予め作られていたスクロールを使うのだ。
スクロールを患部にあてて魔力を注ぎ込むと、みるみるうちに指が生えてきた。
こうした傷を治すのも、久しぶりだった。
師匠と修行をしていた頃は、こうした怪我が絶えなかったが……。
「……」
と、そこで脳裏に浮かぶのは、最後に現れたあの仮面の男だ。
イナズマ。
いったい何者なんだ……と、言ったりはしない。
彼の正体は、わかっていた。
僕以上に精度の高い北神流の格闘技。
僕以上の身のこなし、スピード。
そんな者は、この世界を探しても、十人といないだろう。
その上、イナズマという安直なネーミングセンス……。
間違いない。
彼の正体は、龍神オルステッドの配下にして、僕の父ルーデウス・グレイラットの同僚――。
北神流の長。
『北神カールマン三世』アレクサンダー・ライバック。
僕の師匠だ。