風邪をひいてわかること
いつものことだけれど突然厨房の先輩からメールが来た。
「今から飲むよ」
僕は行き詰っていたドイツ語の宿題を放り出し、ジャケットをはおった。
すでにドイツ語の授業にはついていけなくなっていた。出席だけはしているという状態だった。
僕の最寄の駅前にある居酒屋につくと先輩はもうすでに席に座り、生中を一本飲み干していた。僕がつくなり先輩はやぁのあいさつもなしに店員を呼びとめ、生中2つと言った。
「何かあったんですか?」
「あいかわらずヒマなんだな」
「おかげさまで…」
居酒屋は会社帰りのサラリーマンや大学生でまあまあ繁盛しているように見えた。
「デニーズの前は居酒屋でバイトしていたんだ」
先輩は生中を運んできた女の子の店員が去ると同時にそういった。
「何でやめたんですか?」
僕はビールを一口含んで聞いた。
「別に…なんだろ、ただなんかおもしろくなかったんだよね」
「今はおもしろいんですか?」
先輩はそれには答えず、一気に2本目のビールを飲み干した。
僕のビールはまだ3分の1も減っていなかった。ビールは冷たいうちがうまいんだよ?先輩が言った。僕は飛ばしてますね、と言った。
「仲いいらしいじゃん?」
テンのことを言っているんだなとわかった。
「あのコといると楽しいんですよね」
僕はビールを残り3分の1まで減らした。先輩は3本目のビールを注文し
「お前もやるねー」
とにやけて言った。
「違いますって、そんなんじゃないですよ。好きなのは彼女ですよ、やっぱ」
「好きなのは彼女で、楽しいのはテンちゃんか。…まぁ、そんなもんかな」
そんなもんです、とぼくは答えた。
そんなもんです。
「でもオレはお前が、お前の彼女から何かをどんどん吸い取ってるような、そんな気がするんだよな」
「どういう意味ですか?」
「意味も何も、ただそんな気がするだけだよ。お前は普通に彼女と付き合ってるのかもしれな
いけれど、むこうはそうは思ってないのかもしれないんじゃないかって、ふとそう思ったんだよ」
それから先輩は今付き合っている彼女の愚痴を言いながら3本のビールを飲み干した。
結局それが言いたかったんだろう。
でも僕にとって先輩の彼女がほかの男と寝ていようが何をしていようがそんなことはどうでもいいことだった。
そして、先輩の言った意味がわかっている自分がいた。
それは、僕が日常からただ気付かないふりをしていたことだった。
そういうもんじゃないですか?ぼくがそういうと先輩は少し考えた後満足げに二人分の勘定を払い、多少ふらついている足取りで電車に乗って帰っていった。ぼくは結局生中一杯とカシスウーロンしか飲まなかった。
僕が家に帰るともうすでに12時を回っていた。
僕は冷蔵庫から安物の赤ワインを出してコップに注ぐとそれを一気に飲み干した。それを二回続けると頭がぼんやりしてきて顔が真っ赤になった。
明日は授業が2限からだった。
バイトはないはず。ユッケからメールが来ていたけれど、僕は僕が寝ていることにした。ベットに倒れこむと、起きたら朝の10時半だった。
2限のドイツ語の授業は10時40分から始まる。
目が覚めたのが10時30分、ここから教室まで約30分。到底開始には間に合わない。
でも単位のことを考えると欠席にするわけにもいかず、僕は歯だけ磨いて家を出た。電車の中でユッケに返信したが授業中だったのでもちろん返ってこなかった。
頭は二日酔いで、さらに毛布もかけずに眠ってしまったため寒気がした。
大学の生協でパンとコーヒーを買い、教室に入ったところで宿題をやっていなかったことに気づいた。
おまけに教科書もプリントも忘れていた。何もかがうまくいってなかった。
体のどこかにある歯車はギギギという音をたて、噛み合わせが狂い始めていた。
体調の悪い僕はとりあえず昼だけペースケと学食でとったものの、3限の哲学総論をサボることを決め、いよいよ悪寒が激しくなってきたので5限の英語も欠席を決め込み、家に帰った。
ドラッグストアで風邪薬を買い、説明書に書いてある摂取量の倍を摂って眠った。横になっても頭の中がぐるぐると回転し続けていた。
インターホンで目が覚めた。
だいぶ眠ったようにも思えたけれど、実際は3時間くらいしか眠れてなかった。頭の回転は止まっていたけれど、逆にさび付いてしまったのかのように動きが鈍くなってしまっていた。インターホンがなり、その状況が人の来たということを示しているんだという認識につながらなかった。
頭の中の配線板がいろいろなところで焼け落ちてしまったみたいだった。インターホンがまた鳴り、今度はようやく立ち上がることができた。来客はユッケだった。
「こんにちは」
彼女はそう言った。言ったような気がした。僕の頭は人の言葉を認識することが危ういくらい動きが鈍かった。
ユッケを部屋に促しているときも僕は一度足をつまずきかけた。彼女は左手にサミットのビニール袋をぶら下げていた。
「寝てた?すごい顔…」
「体調が悪くて…授業はおわったの?」
「5限終わって買い物してきたの。さっき顔色悪かったし、昨日メールも返ってこなかったか
らきっと風でもひいてろくなもの食べてないんだろうなって」
彼女は台所でなにやら作り始めた。
「ごめんメール返さなくて、ほんとありがと」
メールを返さなかった本当の理由は言えなかった。
僕は洗面所で顔を洗い、汗をかいていた服を着替えた。体は重く、頭はまだぼおっとしていた。
ユッケは冷凍室に入っていた米をレンジで解凍し、それでおかゆを作った。それから買ってきた野菜で煮物を作ってくれた。手際のいい動きだった。僕はユウリのそんな姿をリビングのベットにもたれたまま無言で眺めていた。
「結構できるでしょ」
彼女はおかゆをお椀に移しながら僕に言った。ぼくはうん、と言った。本当にその通りだった。
僕はユッケの作ってくれたおかゆと煮物を食べながらいろいろなことを後悔し、反省していた。いろいろなことを間違えていた。配線板が焼け落ちていたのは僕の頭の中だけじゃなかった。こころの方が重症だった。
「カゼ移っちゃうかもね」
僕は言った。
「んー、そうだねー。それは困るなぁ」
ユッケは意地悪な笑い方をしながら僕に言った。彼女は僕がおかゆと煮物を全部食べ終えたのを見送ると、そのお椀と皿をほかの洗い残しの皿と一緒に洗剤を使って丁寧に洗い、タオルで拭き終えると、またね、と言い残して帰っていった。
僕は弱々しくありがと、またね、といってユッケを見送った。弱々しかったのはカゼのせいだけじゃなかった。
カゼは翌日に治った。
次の週から大学祭が始まり、一週間授業は休講になった。