セミと梅雨
ペースケは9月のはじめにシャオと会った。
吉祥寺で待ち合わせをしてデパートを回って買い物をし、僕が薦めたケーキ屋で紅茶とチーズケーキを食べた。
その後、井の頭公園で日陰に入っていたベンチに腰掛け、長い時間話をした。
何もかもが幸せだった。
まだ付き合っていないとはいえ、これ以上望むべきものはないように感じられた。
だから告白をどうこうと考えている場合ではなかった。
話のなかでついうっかり好きだと言ってしまいたい衝動に駆られたことが何度もあったが、ペースケはその衝動のたびに自分を必死に抑えた。
「今」を壊したくなかった。
こころのどこかからその一言を言ってしまったら何もかが終わってしまうような、そんな予感が見え隠れしていた。
だからペースケはひたすら別の話題を話し続けた。早送り再生のお笑い番組のように話し続けた。沈黙を恐れ、シャオを笑わそう笑わそうと必死だった。
日が暮れて別れ、吉祥寺から電車に乗って家に帰ってきた頃にはとても疲労していた。ただそれと同時にものすごい充実感と幸福な感情を実感することができた。
新学期が始まり、僕は1ヵ月半ぶりにシャープペンシルを握った。
しかし教室のイスに座り、ルーズリーフを広げても、今自分は勉強しようとしている、という状況がなかなか理解できなかった。
先生の声はひたすら遠く、自分の書く字は他人の書いた字のように思えた。その日2つ目の授業の半ば、僕はシャーペンをノートの脇に置き、机に突っ伏した。
ペースケも似たようなものだった。昼休みに学食でうどんを食べながら僕にささやいた。
「オレなんで文学部はいったんだろう」
こっちが聞きたかった。
再びバイトの日々が始まった。
休んでいたのはたった20日間だけだったけど、なにか自分がデニーズで働いていたのがとても遠い昔のような気がした。
こころなしか社員の反応が冷たかったけれど気にしないことにした。
僕とほとんど同時に入った女の子が喜んでくれたのがうれしかった。厨房で僕が入ったときから世話になっている先輩は
「どこで女の子と遊んでたんだよ」
とはやし立てた。
僕はケチャップライスをいためながら
「ハハハ、先輩こそ20日間で何人の女の子とあそんだんですか?」
と言った。
彼は3人と答えた。
その日はラストまでシフトを入れていた。
2時に店が閉まり、1時間ほど仕込みをする。厨房に残っていたのは僕ともう一人社員のコック、そしてフロアに残っていたのは店長と20中盤のフリーターの人と僕とほとんど同期の女の子だった。
家の方向が同じだったので僕はその女の子を家まで送っていった。
彼女も一人暮らしで、僕とは違う大学に通っている。歳と学年は僕と一緒だった。こうやって家まで送るのはいままでも何度かあった。
その帰り道僕らはいろいろな話をした。
彼女は自転車を引きながらだったが、僕はスクーターを引きながらだったので歩くスピードは遅かった。
彼女の実家は群馬の桐生で両親は2人とも高校の教師をしているらしい。
彼女も文学部で英米文学を専攻していた。将来は英語の教師になることを目指している。黒いセミロングの髪をいつも後ろで結い、白いうなじを見せていた。
顔は端整で教師っぽいといわれればそんな気がした。教壇に立ってチョークを握り、では次の問題を田中君、と言っている姿を簡単に想像することができた。根拠は何もないけれど、いい教師になるだろうな、と思った。
「ホントはなにしてたの?」
深夜の交差点で車の通らない道で信号待ちをしているとき、彼女が急にそれまでの話題から切り替えて尋ねた。
「…そんな嘘つきっぽく見えるかなぁ」
「で?」
歩行者信号が青になり、僕らは歩き出した。
「別にどこかへ行ってたわけじゃないんだ。ただバイトをしないで家にいただけ。彼女と遊んだり、友達に会ったり、一人で料理をしたり、買い物したり、散歩したり。あるいはまったく何もしなかったり」
道を左に折れる。
「なんかもう戻ってこないんじゃないかと思った」
彼女は無感情に言った。その言葉をどういうつもりで彼女が言ったのかわからなかった。本当に心配してくれているのかもしれなかったし、ただ無感覚にそう思い、口に出しただけの言葉のようにも聞こえた。
「自分でも本当に戻らないような気がしたけどね」
僕は笑いながら言った。でも彼女は笑ってくれなかった。最近の僕はいつもこんな感じだ。
「どうして?」
彼女は僕の目を見据えてそう言った。彼女の目はとても不思議な色をしていた。こんなに近くで彼女の瞳を見たことは今までなかった。
フロアでお客に語りかけるときのその目と今僕の目の前にあるその目の光り方はまったく違うものだった。そしてそれはとても奇妙な印象を与える瞳だった。
「どうしてだろ…でもどうしてもあの20日間はオレにとって必要だったんだ。いろんなことを
整理する時間ていうのかな…」
「象徴的な調整行動」
「えっ?」
「人は象徴的な行動を起こすことで自らを認識し、安堵する」
彼女はもう一人の誰かに語りかけるように言った。
「だれの言葉?」
「私がつくった言葉。一見変態じみた行動でも、そのひとにとっては象徴的な行動ってこと」
「変態じみた行動かぁ」
僕は茶化してやろうかとも思ったが、彼女の顔は真剣だった。深く何かを考えているようだった。ぼくは少しのあいだ彼女の言った意味について考えてみた。しかし答えの見つからないまま、もうひとつ道を入り彼女の暮らしているレオパレス21についた。
そのときぼくらの前に1匹のセミが落ちてきた。もう弱っていて先が短いらしい。セミは何とか再び飛び上がり、闇に消えていったがその飛び方は危うかった。テンは言った。
「この時期に生まれてきたセミは幸せだよね」
「えっ?」
「だって7年越しに夢見てたたった1週間だけ見れる地上の世界なんだよ?それがもしあたたかい梅雨の中休みなんかに間違えて出てきちゃって、おまけにずっと雨なんかだったらそのセミにとってこの世界は薄暗い雨の世界でしかなかったってことでしょ?そんなの悲しすぎるじゃん」
テンはホントに悲しそうな目をしていた。
「おやすみなさい。ありがとう、送ってくれて」
彼女は明るい声で言った。
「いえいえ」
僕はヘルメットをかぶりながら言った。
「象徴的な調整行動かぁ。確かにそうかもしれないね。」
僕は言った。彼女は階段のステップに右足をかけながら振り返り、またね、と言ってまた階段を上り、一番上についたところでもう一度振り返って手を振った。
僕も手を振り返し、彼女の姿を見送るとゆっくりとスクーターを発進させた。頭の中には彼女の言葉が残っていた。
象徴的な調整行動。
そして梅雨に生まれたセミの話。人は象徴的な行動を起こすことで自らを認識し、安堵する。
セミは梅雨に生まれ、テンは悲しむ。