さてさて
ピピピピピ…
ピピピピピ…
午前7時30分。
いつものように目覚ましに時計に起こされる。
僕はきっと「世界で一番嫌いな音は何ですか?」という質問をされたら、真っ先に「目覚まし時計のアラーム音です。」と答えるだろう。
朝は弱いほうじゃない。むしろ人と比べたら結構強いほうだと思う。けれど一人暮らしの日常の中で朝に強いも弱いもあったものじゃない。単純な問題。朝に弱い人が二度寝している間に歯磨きと顔洗いと簡単な朝食がとれるかとれないかの違いでしかない。
枕元に置いてあるケータイ電話に着信はなかった。
今日も寝ぼけた頭で先週買ったばかりの歯磨き粉で歯を磨く、そろそろ残りの量が少なくなってきた洗顔料は買い替えの時期だった。
ハムとチーズ、レタス・キューリをトーストではさんだサンドウィッチを食べ、駅前のスターバックスで買ってきたブレンドコーヒーをいれる。
上京して2ヶ月、今のところはまだ健康的な朝の定番イベントをこなしている。
ただもっと初めのころはそれなりの生活をしようと頑張っていた。結局は今のこの形に落ち着いてしまったけれど、これはこれで十分だろう。
高校時代まで食べられなかった朝食をとれているだけでもすごい成長だと思う。
YellowCardを音量11で流しながら消音モードのテレビをつける。朝のニュースは政治家のスキャンダルに騒ぎ、天気予報はあいまいな予想をここ数日繰り返していた。
僕は起きてから出かけるまでたっぷり1時間をかける。
朝のこの1時間は僕にとって大切な意味がある。あわただしい生活の中でリズムを整えてくれる時間は朝のこの時しかない。
ゆっくりとコーヒーを飲み終えたら寝巻き代わりにしているスウェットを着替え、ルーズリーフと筆箱しか入っていないバックを肩にかけて家を出る。
水曜日の授業は9時開始の1限から。家のドアから大学の教室までは25分。8時半に家賃6万3千円の白いアパートを出る。僕の部屋は202号室だった。
最寄りの小さい私鉄の駅までは徒歩7、8分(不動産屋は5分と言っていた)。小さい駅といっても駅前にはちょっとした商店街があって、スターバックスもコンビニもドラッグストアも揃っている。僕にとっては十分すぎるほどの商店街だ。
僕は商店街というものが好きだ。
いろいろな人がいろいろな目的を持ってやってくる場所。普段全く別の生活を送っている人が集い、ふれ合う場所。僕は昔から商店街というものに対して特別な価値観を持っている。僕が下宿場所をこの街にしたのもこの文句ない商店街があるからだった。
1年のうちで本当に過ごしやすい日は5月はじめの2週間と10月の終わりの2週間だけだと思う。
それ以外は暑いか寒いかのどっちか。今年はこの短い幸せな2週間にどれだけ晴れの日があるだろうか。そんなことを思いながら電車に揺られる。
耳のイヤホンへMDプレイヤーがNewFoundGroryを流している。
急行の待ち合わせがなかったため10分ほどで大学の最寄り駅に着いた。大学は駅から近く、100メートルほど開店して間もないコンビニを横目に流しながら抜け、国道を歩道橋で渡った先にある。
1限から大学にいる人間は少ない。
1限から大学にいるのは運悪く必修科目がこの時間になった人かよっぽどの物好き、もしくは単なるバカだけだ。僕は8時半始業の高校時代と比較して1限を軽く見ていたバカの一人だった。
初級ドイツ語の授業は少人数制のクラス単位の授業だった。僕の在籍する文学部文学科日本文学専攻クラスは必修授業が少なく少人数制の選択授業が多い。
僕が第一校舎の314教室に入った時にはもうほとんどの学生は到着していた。何箇所かでは既に会話をしている小さなグループが出来ていた。僕はなるべく後ろのほうの席にバックを置き、周りを見渡した。
ペースケの姿は見えなかった。
見渡している間にユッケと目が合い、お互い片手を上げてオハヨウの仕草をする。
ユッケはその仕草のあとまたすぐに3,4人の女の子グループの会話に戻っていった。僕の仲のいいグループも近くにいたが、時間も時間だったので会話には加わらなかった。
ペースケは授業が始まって5分くらいして耳にi−podのイヤホンをしながら教室に入ってきた。
水曜の授業は1、3、4限。2限の空いている今日は天気もいいので中庭にある噴水前のベンチに座り、生協で買ってきたパンを食べ、早い昼食とすることにした。
「その後は?」僕はペースケに聞いた。
「別に。そのままだよ。」ペースケは視線を噴水に向けたまま静かに言った。
周りには僕らと同じように数組の学生が噴水前のベンチに腰掛け、小さい声で会話している。6ヶ所のベンチにもう空きはなく、男のペアが2つ、女の子のペアが1つ、カップルが1組いた。
僕はボケッとした頭で焼きそばパンをかじりながら、時折『エスプレッソコーヒー』をすすり、斜め右前のカップルを眺めていた。ペースケもやはり同じようにメロンパンをかじりながら『カフェオレ』を時折すすり、カップルの様子を眺めていた。
「ちょっとした贅沢のつもりで俺ら2人ともコーヒー買ってるだろ?これの積み重ねが給料日前にひびくんだよなぁ…。」ペースケがつぶやく。
「いーのいーの。どうせこんなことぐらいでしか贅沢なんてできないんだから。」僕は飲み終えたコーヒーをゴミ箱に投げた。コーヒーはゴミ箱の淵に跳ね返って地面に落ちた。僕が立ち上がってコーヒーをゴミ箱に捨てなおそうとしたときペースケは言った。
「出かけよっか?」
3限の西洋思想史の授業が始まるまでまだ1時間あった。
吉祥寺までは急行で10分と少し。大学からは新宿、渋谷、下北沢も近かったが、僕らは自然と吉祥寺に向かっていた。吉祥寺はそういう町だった。
吉祥寺駅公園口から井の頭公園まではにぎやかな裏通りを通る。平日の午前中なので古着屋などはまだあいていなかったが、アジアンテイストの料理屋や雑貨店などはもうオープンしていて、明るくなりつつある町並みをのぞかせていた。
公園に入ると池が暖かい光に照らされている。いくつかのボートがカップルを乗せて浮かんでいた。
「こんな朝から暇な奴らばっかりだよ」とペースケは自分のことなんて考えていない様子で言った。
会話のはずんでいるカップル、ボートをこぐのに必死な彼氏とそれを引き気味に見つめている彼女のカップル、本を読んでいる彼女とその彼女のひざまくらに横になっている彼氏のカップル。いろいろなカップルがいる。
カップルといってもその付き合い方はそれぞれ。それぞれな人がそれぞれな人とそれぞれな環境でそれぞれな出会いをしているんだから、付き合いかたなんて本当にそれぞれだろう。
初デートで井の頭公園の池のボートに乗るとそのカップルは別れるという噂話は有名だった。僕はそんなカップルを見て笑いながら言った。
「別れちまえ」
ペースケも少し間をおいて言った。
「別れちまえ」
僕はそんなペースケに、重っ!とつっこんだ。ペースケは、あ?とにらみ返してきた。病んでるね、と僕は返した。
僕とペースケはなにかとカップルを観察するクセがある。
変わった格好をしている30台くらいの女の人が敷物の上で手作りらしいアクセサリーを売り、東南アジア系の男が使用方法もわからないような雑貨を売っていた。
遠くからはアコースティックギターの弾き語りが聞こえる。池の周りに並ぶベンチには若い女の人からおじさんまでいろいろな種類の人が本を読んだりタバコを吸ったりしながら腰掛けている。
老若男女とはよく言ったものだ。
僕もタバコが吸いたくなった。
ジャケットの右ポケットからキャスターマイルドとマッチを取り出す。僕が立ち止まって火をつけている間もペースケは歩き続けていた。
きっと今日はもう授業受けられないだろうな。僕はそう思った。
西洋思想史は配布されるプリントを誰かからもらわないといけない、4限の日本語文献精読はあと1回しか欠席できない。心配してももうしょうがない心配をしながら前を行くペースケを眺める。
彼は細い。
華奢な体型をごまかすためにルーズな青いカーゴパンツをはいているにもかかわらず、茶色い薄地のカーディガンを羽織っているから逆にその細さが妙に強調されている。
前髪を分けている茶髪のミドルヘアーは入学当初の金髪からは相当落ち着いたといっていい。
たぶんお互い人生でこれだけ変化のあった2ヶ月もないだろう。
しかし同時に入学当初のあの輝きは2人とも失っていた。
4月、クラスの同じペースケとは気づいたら行動を一緒にするようになっていた。
まだやりたいことの決まっていない僕らは数々の新歓コンパに出かけた。
まだ過ごしやすい陽気の4月中旬。新入生はみんなこれから始まるキャンパスライフに無数の希望を抱き、その希望へ足を踏み掛ける下調べをしていた。お互い新しい環境の中で少しでも多くの知り合いを求めていた。
ペースケがシャオという女の子に会ったのはそんな時期のちょっとした偶然からだった。
本名はシャオではないけれど、誰もが彼女のことをそう呼んでいた。
その新歓コンパも足掛け用の新歓コンパのひとつだった。僕らははじめもっと大規模なサッカーサークルの新歓コンパに行くつもりだった。しかし集合場所には行ったものの、前券が要ると言われ急遽やむなく参加したのがその新歓コンパだった。
「初心者歓迎・アットホームな雰囲気」とチラシに謳っていた中規模のテニスサークル。
飲み会の間、僕とペースケはあえて遠い席に座ることにしていた。お互い新しい知り合いを求めていたからだった。
新宿コマ劇場前の居酒屋はほかのサークルの新歓コンパも行われていたらしくとても騒がしかった。
注文が乱れ飛び、店員はせわしく厨房と座敷の間を動き回っていた。
新入生はみんなまだ慣れない酒に酔い、狂っていた。
僕は僕で狂っていた。男友達を作っていく一方で、女の子との出会いを求めていたからだった。
コールがあちこちから飛び交い、ビールやチューハイが湯水のように人の胃のなかへ流れ込んでいった。
先輩同輩の入り混じった数人がつぶれていった。
僕はあまり酒に強くない。高校のときも何度かつぶれたことがあった。だからコールが回ってきたときだけグラスに口をつけ、あとはテキトーな人にコールをまわしていった。
大きな渦潮のように時間が過ぎ去り、宴会も終盤に差し掛かったころ、僕はペースケの姿を探した。
部屋の端のほうには女の先輩と新入生の男が寄り添うように眠っていた。
僕の斜め前には体育座りのまま顔を突っ伏している男の先輩がいる。ある意味壮絶な光景だった。
地獄絵図、という言葉が頭の片隅に現れる。数人は元の席から別の席へ移り、コールを叫び続けている。
ほかの数人は女の子を見つけては寄ってたかって連絡先を聞き漁っていた。
ふらつく足取りで人と人との間を手を踏みつけないように歩くのはなかなか大変だった。
ペースケは下駄箱の先の一番壁側の席にいた。
集団から少しはなれ、女の子と二人でくっついて話していた。
二人とも顔が赤い。もうだいぶ酔っているようだった。
僕は彼に近づいていき視線が合うとにやついてみせた。彼もにやついて返した。
となりの女の子も笑顔で僕を見つめ返した。黒い髪は肩の少し下までかかり、どことなくあるテレビタレントに似た顔をしていた。
僕はにやついたままの顔でその場から離れた。
この日ペースケと顔を合わす機会はもうなかった。それが2人の暗黙の了解の合図だった。
僕にとってその日はたいした収穫もなかった。
残り半分以下のビール瓶を2,3本一気し、残り三分の一以下のピッチャーをコールに合わせて飲んだ。同じ学部の友達が何人かできた。女の子の連絡先もいくつか聞いた。
けれど、それだけだった。
おぼつかない足取りのまま今では顔も覚えていない誰かと一緒に新宿駅まで帰った。
吉祥寺で乗り換え、最寄りの駅についた頃には酔いは冷め、なんともいえない虚無の感情と不甲斐感だけが残っていた。
ペースケのことはまったく忘れていた。