明日も君に恋をして
部長の送別会の帰り、華純にせがまれて私は一緒にバスを待つことになった。もとから見送っていくつもりでいたから、華純のほうから声をかけてくれた時は本当に嬉しくて、部長には悪いけど、気の進まない中参加してよかったと、心底そう思った。
春が近いとはいえ彼岸前の今日はまだ肌寒く、夜ともなればなおのこと外の空気は冷たかった。冬物のコートを着てきて正解だったと、余寒を頬で感じながらぼんやりそんなことを考える。バスを待つ人は吹き寄せられた落ち葉のようにひと塊に集まっていて、私たちはその落葉の一群から少し離れた場所でふたり並んで寒さに身をさらしていた。
「咲ちゃん顔赤いよ? ちょっと飲み過ぎた?」
華純が心配そうに私の顔を覗き込む。そういう本人も頬がリンゴみたいになっている。実際お酒のせいだけじゃなく、それまでいた室内との温度差もあって顔が少し熱かった。
「たいして飲んでないから大丈夫」
「そっか。どっちかっていうと飲み足りない感じ?」
「いや、充分。足りないのはむしろそっちでしょ?」
「まあね。今日が日曜じゃなかったらもっと飲めたんだけど」
誰の意図かは知らないけど、送別会の日程は日曜の夕方に組まれていた。曜日が曜日だっただけにどこか用弁的な空気さえ漂っていて、たいした盛り上がりもないまま、会は二時間ほどであっさり終了した。幹事からメールをもらった時点でそうなることは予想していたから、正直気が進まなかったし適当な理由をつけて断ろうかとさえ思っていたのだけど、華純が行くというので、それならばと私も出席することにしたのだった。
華純とは同じ年に新卒採用されて、この春で入社三年目を迎える。初めて逢ったのは秋に行われた内定式の日で、お互いまだスーツを着慣れない大学生だった。背も高く整った顔立ちの華純とは対照に、私は背が低く童顔で、ふたり並ぶとアンバランスもはなはだしいのだけど、不思議と好みや趣味は合って、だから仲良くなるのに時間はかからなかった。
そういうわけで華純とはかれこれ二年半のつい合いになる。それが長いか短いかはさておき、過ぎてしまえばその月日はあっという間で、仕事のことで落ち込んだり人間関係に悩んだりして辛いこともたくさんあったけど、それでも華純がいると思うとがんばれたし、逆に華純の力になれた時は自分の居場所を見つけたような気がして、今の私は華純によってできているといっても過言ではなかった。
そんな私は今も、物理的な居場所に抜かりなく納まっている。そこは華純の右どなりで、私の特等席といってもよかった。自然とそうなったというよりはむしろ必然で、というのも華純は左利きだったのだ。それだけなら右利きの人なら誰でも納まれそうな気もするけど、特等席といったのは他でもなく、それは華純が私としか腕を組まないということだった。こうしてバスを待っている今もそれは変わらず、酔ったら甘えん坊になるクセも相俟って、組むというよりは腕を抱くようにして、華純は私に身体を密着させていた。私の知っている限り、華純が腕を組む相手は社内において私だけしかいない。
それが誇らしくもあって、嬉しくもあって。
こうしてその温もりと、バラのように甘くて柔らかい華純の香りを感じる時、私はいつもこのまま時間が止まってしまえばいいのにと、そう強く願ってしまう。
華純に対する想いに気づいたのはいつだっただろう。この二年半の間のどこかでその時があったはずなのだけど、よくわからない。大人になればそういう心の機微みたいなものが少しは明瞭になるんだろうと、十代の頃は漠然とそう思っていたのだけど、いざ大人になってみると、どうやらそうでもないようで、知らないうちに私の心は向こう岸へ渡ってしまった。声を聞くだけで嬉しくなったり、姿を見るだけで影さえ華やいで映ったり、こうして触れ合うだけで溶けていくような恍惚感に浸ってしまうのは、思春期でも大人でも変わらないらしい。
できることならずっとずっとこうしていたい。
恋はいつだって、今しかないのだから。
私のそんな願いは、でも華純のひと言であっさり打ち砕かれてしまった。
「あ、バスが来た」
顔を向けると、遠くのほうに四角い車体が目に入った。私は知らず唇をかんで、胸のうちで大きく溜息をついた。
もう五分もしないうちに、華純は私のもとを離れていってしまう。そしたらもうそこに私の居場所はない。私と華純はただのひとりとひとりになって、今がずっと遠い過去になってしまう。私にとって華純は特別な存在だけど、華純にとっての私は必ずしもそうじゃない。せいぜい気の合う同僚ぐらいの存在だろう。正直なところ私をどう思っているのかは気になるけど、まさか直接訊くわけにもいかないし、そんな勇気も私にはない。
でももし、今私が華純を引きとめたら? 行かないでって、私の傍にいてって、そう迫ったらどんな反応をするだろう。私がどういう気持ちで華純を求めているか、どういう想いで華純の傍にいるか、少しは伝わるだろうか。それともただ寂しがりやの甘えん坊だと、そう受け取とられて終わるのだろうか。
それならいっそ本当のことをいえば、あるいは?
そんな考えを頭の中で廻らしながら、でも華純を振り返った私の口から出てきたのは、
「気をつけて帰ってね」
という真逆のひと言だけだった。自分の言葉に、景色が色褪せていく。
バスが目の前へやってきた。すっと華純が私のもとを離れかける。バラの香りと一緒に温もりも夢のように薄らいで、代わりに冬のような冷たさが私を襲ってきた。現実の寒さに胸が凍りつき、目の前が真っ暗になりかけた――。
その時だった。
火でも点したように、指先がぽうっと温かくなった。見れば華純の手が私の手に触れていた。握るでもなく繋ぐでもなく、甘えるように指を引っかけて。
動揺する私をよそに、華純はそのまま停車しつつあるバスへと向かっていった。私はつんのめりそうになりながら、その後についていく。眼前でバスのドアが開き、同時に華純がこちらを振り返った。
「咲ちゃん、また明日ね」
おやすみ、といって、私の手を。
ぎゅっと。一瞬、強く握って。
私は、でも頷くことしかできなくて。手を振りながらバスに乗り込む華純に、手を振り返すことが精一杯で。
バスをすっかり見送った後も、私はその場に立ちつくしたまましばらく茫然としていた。耳には華純の、また明日ね、という言葉が余韻のように残っていて、それが意味することに気づいた時、ようやく今日が日曜日だったことを思い出した。
そっか。明日会社に行けば華純にまた逢えるんだ。
そんな当たり前のことを今さらのように理解して、理解したら嬉しさがどこからともなく込み上げてきた。
不思議と世界が色めいて見えた。
それは奇跡のようにまぶしくて。春のように暖かくて。
恋にも明日があるのだと、そう気づいた時、私は華純のことがもっと好きになった。 <了>




