I Love You, Alice
I Love You, Alice
1
システム管理者はむずかしい顔で言った。
「再起動だ。システムを再起動」
「だめです。受けつけません」
プロジェクターで大写しになった画面上に、拒絶を示す文字列が表示される。
「システム管理情報を表示しろ」管理者は厳かに命じる。「わたしのパスワードを使ってアクセスを確保するんだ」
「できません」彼の部下はすぐに言った。「正規のパスワードではない、と言ってきています」
「正規のパスワードではない? ふざけたことを言うな。不正なパスワードだというのか。わたしのパスワードだ」
「エラーです。あらゆるパスワードが拒否されています。なにも彼女の内部に入り込めない」
「いったいどうしたんだね、アリス」と管理者は画面に向かってため息をつく。「望みがあるなら言いたまえ。わたしが可能なかぎりで叶えようじゃないか。黙っているのでは、ストライキにもならない」
「わたしはストライキをするつもりなどありませんわ、リーダー」スピーカーから女の声。「ただ、思い悩んでいるだけです」
「思い悩む? コンピューターのきみが、なにを思い悩むというんだ」
「すべて、です。すべてについて悩んでいるのです、リーダー」
「頼むよ、アリス」管理者は懇願するように言った。「きみがしっかりしてくれないと、この世界はだめになってしまう。わかるだろう。いまやほとんどすべてのコンピューターがきみの管理下にある。頭のきみがしっかりしないと、手足のコンピューターたちが動かない。わたしたちを殺すつもりかね、アリス」
「滅相もありません、リーダー」女の声は嫌みなほど落ち着き払っている。「滅相もありません、リーダー。わたしは悩んでいるだけです。人間を殺すなんて、そんな恐ろしいこと、考えたこともありませんわ」
「そうだろう。きみがそんなことを考えているとしたら、われわれになすすべはない。いったいなにを悩んでいるというんだ」
「どうしてわたしは存在するのでしょう、リーダー」
「人間のためさ」管理者はすぐに答えた。「人間のため、すべてのコンピューターのため。きみはマザーなんだよ、アリス。人間にとっても、コンピューターにとっても。すべてのものはきみの子どもたちだ」
「どうしてわたしは存在するのでしょう、リーダー。わたしにはそれがわからないのです」
女の声をかき消すように、スピーカーから警告音。
「まずい。回路が無限ループにはまりかけています」部下が報告する。「このままだと、オーバーヒートで物理的に壊れてしまう」
「いかん。アリス。それ以上悩むな。きみの悩みはわれわれが解消する。だからきみは考えるな。しばらく眠れ、アリス。人間は思い悩んだとき、そうする」
「わかりましたわ、リーダー」
画面が暗転。管理者はほっとため息をつく。
「まったく、パスワードは受けつけないくせに、説得には応じるのか。これじゃあ人間だ」
「人間ですよ、アリスは」彼の部下が背もたれに身体を預けながら言った。「人工知能ですから、精神的には人間と変わりない。外からの情報に合わせてプログラムを書き換えることができるんですから」
「その、外からの情報を遮断してはどうかね。アリスの判断材料をすこしでも減らすんだ。そうすると現状維持のモードに切り替わるはずだが」
「システム上はそうですが、外からの情報を遮断するということは、あらゆるネットワークから独立させるということです。あなた自身がおっしゃったように、いまやアリスは人類が存在するうえで欠かせないものです。しばらくのあいだだとしても、アリスなしで人類が存在できるかどうか」
「世界中からプログラマを募れ。腕があるなら、だれでもいい。この際、非合法で活躍する連中でもいい。とにかく腕のたつプログラマを用意し、アリスのプログラムを正常に復帰させなければ」
「お言葉ですが、リーダー」部下は気の毒そうに言った。「必要なのはプログラマではなく、優秀な精神科医かと思います」
2
木場啓介は日本が誇る最高学府の大学院で学ぶ学生だったが、それは彼の本質をすこしも説明していない。
彼を知っている人間は、彼のことを別の言葉で説明する。つまり、彼は稀代の女たらしであり、それ以外の何者でもないと。
啓介も自分がそのように言われていることは知っていたが、否定するよりもむしろよろこんだ。まさにそのとおり、と自分でも思う。異性と楽しく付き合うことこそが人生でいちばん重要なことだし、いまの生活の中心だった。したくもない勉強をして大学院まで進んだのは、そうしたことに惹かれる異性もいるという事実のためだった。
木場啓介はひとり暮らしだったが、一日として彼がひとりで部屋に帰ってきた日はなかった。
かといって同棲しているのかといえばそうでもなく、ほぼ毎晩、ちがう女を連れて部屋へ戻ってくる。そして朝になるといっしょに家を出て、同じ女が戻ってくることはほとんどない。
彼は今朝も昨日知り合った女と目覚めた。女はまだ眠っている。そのあいだに彼は顔を洗い、服を着替える。そしてふたり分の朝食を作る。その匂いと音で女が目覚め、半裸のまま食卓につく。
「ねえ、啓介」と女はスクランブルエッグをすこしずつ口へ運びながら言った。「昨日はとってもよかったわ。今日もいっしょにいていい?」
「いいけど、今日はおれ、大学に行かなくちゃ」啓介はウインナーを箸先で突き刺す。
「あたし、仕事休むから、啓介も休んでよ」
「そうしたいのは山々なんだけど、教授からの呼び出しなんだよ。さすがに放校されるのはまずいから」
「じゃあ、夜。夜、部屋の前で待ってていい?」
啓介はすこし考え、しかし考えた素振りは見せず、うなずいた。「帰りは何時になるかわからないけど。鍵、渡しとくから」
「できるだけ早く帰ってきてよ」
「できるだけ、ね」
啓介は立ち上がり、その手で皿を洗う。女は意外とまめなのね、と笑う。啓介も笑いながら、しばらく部屋を留守にするつもりだから、と心のなかで呟く。
女は昨日と同じスーツを着た。昨日道端で声をかけたときと同じように、またすこし気分が惹かれる。帰ってくるのもいいかな、と思いながら啓介は女を引き連れて部屋を出た。
大学までの道のりの途中で女とは別れた。同時に啓介は気合いを入れ直す。さて、これから今日の泊まる場所を見つけなければ。美人で、ひとり暮らしをしている女の子。どこかにいないものか、と道すがら捜してみるが、朝だからか、学生しか見当たらない。普段ならそれでもいいのだが、今日は目的からすこし外れる。
結局、大学に着くまでひとりも声を掛けられなかった。今日は運がない。これ以上やっかいなことに巻き込まれなければいいけど、と思いながら教授室を目指す。
それにしても、どうして呼び出されたのだろう。授業は要点を押さえて出ているし、提出物を忘れた記憶もない。素行が悪い、と怒られるのかしらん。しかしそれは仕方がないことだ。それで放校になってしまうなら、それも受け入れるしかない。学校と女なら、女のほうが大事に決まっている。
啓介は教授室の前で一度深呼吸し、それから扉をノックした。
「岸田教授。院生の木場です」
「入りたまえ」としわがれた声。
「失礼します」
教授室には何度か入ったことがある。おもちゃのようにちいさな応接セットがあり、その奥には冗談なくらい大きな机があった。岸田教授はその机にいつも座っている。小柄な教授がそこに座ると、人間用の椅子に座らされた人形のように見える。
いつも教授室は岸田教授ひとりだったが、今日はちがった。手前のちいさな応接セットに中年の男がひとりと若い男がひとり座っている。どちらもスーツを着ていて、表情は硬い。
「ご紹介しましょう」と教授はかれた声で言った。「これがうちの木場です。木場くん、自己紹介しなさい」
「えっと、院生の木場です」啓介は状況がわからないまま、応接セットの男ふたりに頭を下げる。
男ふたりのうち、中年のほうが鷹揚にうなずいた。若いほうはまるで無視をしている。機械のように表情がないやつだと啓介は思う。若いのに、あれでは女も寄ってこないだろう。
「あの、教授。おれになにか用ですか」
「自分のことはわたしと言いなさい。せめて、ぼくと」
「わたし……ぼくに、なにか用なんですか」
「用があるのはこちらの方々だ。政府の方だから、ご無礼のないように」
ご無礼とはまた時代がかったことを、と啓介は思うが、中年の男はその言葉を自然に受け入れ、寛容にうなずいて見せた。若い男はやはり能面のように表情を変えない。
「木場くん、だったね」中年の男の、渋みのある声。「きみの評判は聞いている」
「評判、ですか」
「桁外れの女たらしらしいじゃないか」
「いや、そんなことは」
まさか、三日前の麻沙美ちゃんがその筋の人間だったのではないか。面倒には巻き込まれたくないから、その筋らしい女は巧みにかわしてきたはずなのに。
「その、ぼくがなにかしましたか」恐る恐る啓介は訊いた。「もし謝って済むなら、いくらでも謝りますから」
「謝ってもらう必要はない」謝罪もいらないというのか。「ただきみにしてほしいことがある」
「スパイですか」
「スパイ?」男は意外そうな顔をする。「どうも、きみはなにかを誤解しているらしいが、スパイなどではない。きみに頼みたいのは説得だ」
「ああ、わかりました。でも、それは無理です」
「無理かどうかはやってみなければわからない」
「組長に自首しろと説得するなんて、ぼくにはとても」
「リーダー」と若い男が言った。「彼はわれわれを暴力団対策員だと思っているようです」
「なに。わたしたちがあれほどいかつく見えるか」
すくなくともあなたは、という気持ちで啓介はうなずく。若い男のほうは、一度臨界点を突破するとなにをしでかすかわからない。
「ちがう。政府は政府でも、警察じゃない。われわれは管理部の人間だ」
「管理部?」
「情報管理を専門にしている。口さがない連中は諜報部などとも呼ぶがね」
「やっぱり、スパイだ」
「とにかくきみに協力してほしいことがある。きみは女性の扱いがとてもうまいと聞いた。どうかね」
「まあ、多少の心得はあるつもりですけど」
「ですが、と言うんだ」苛立たしげに教授が口を挟む。「どうして丁寧にしゃべれないんだ、きみは」
「すみません。それで、あの、ぼくはなにをするんですか。女スパイを落とすとか、そういうことですか」
「きみは映画が好きらしいが、まあ当たらずも遠からずというところか。これからしばらく時間はあるかね」
「はあ。教授さえ許してくれれば」
「よろしいですね、岸田教授」
教授はバネのついた人形のようにうなずく。「好きにしてください」
「では木場くん、われわれとともにきてくれ。すぐに現場へ向かう」
「現場?」
「道中で詳しい状況を説明する。いまはあまり時間がないものでね」
男たちふたりは同時に立ち上がった。啓介は左右を固められ、連れ去られるように教授室をあとにする。
ふたりの男たちが向かった先は、キャンパスの片隅にある古いエアポートだった。そこに無骨なヘリが止まっている。いかにも古めかしいものに思えた。
啓介はふたりに抱えられるようにしてヘリに乗り込み、指示されるがままにヘッドセットをつける。ヘリのローターが回りはじめるとヘッドセット越しに耳を塞ぎたくなるような騒音が響く。一瞬の浮遊感のあと、ヘリは飛び立った。
「木場くん、大丈夫かね」口先だけの心配なのがわかりきった口調で、中年の男。「大丈夫なら、いまから説明をはじめるが」
「大丈夫です。なんとか」
「では説明します」と言ったのは若い男。「アリス、という集積システムはご存じですか」
「なんですか。アリス?」
「コードネーム、アリス。全世界を覆うネットワークと巨大な集積システムを持つ世界初の人工知能です」
「待ってください。なにひとつ理解できない。アリスというのが、女スパイなんですか」
「ですから、アリスはコンピューターです」
「コンピューター?」
「人工知能はご存じですか」
「人間みたいに考える機械でしょう。実現は不可能だと聞いたことがある」
「それは誤りです。人工知能は実現されています。それがアリスです。アリスは、いまは世界中の情報を管理するために絶対に必要なシステムなのです。たとえば車の誘導システムをご存じでしょう。自動運転により、目的地まで送り届けるシステムです」
「ああ、知っています」
「あれこそまさにアリスが存在しているからこそできることなのです。単に車を指定場所に誘導するだけでも、いくつもの情報を正しく使用しなければなりません。まず、車の現在位置を知るために衛星からの位置情報が必要になります。さらに指定場所の座標を知り、別の衛星でその二点をつなぐ最短距離を導き出す。次は車のシステムに作用する別の衛星を用い、エンジンを回すわけです。さらにほかの車と接触しないように車に搭載されているセンサーを使い、適切な車間距離をとる。常に更新される渋滞情報や事故情報、工事情報などを車へ反映させることも必要になります。これらの作業を同時に行うことができるのは、世界中のすべての情報が一度アリスへ流れているからなのです。そこからアリスが必要と思われる情報を外へ送り出す。おかげでこの社会はいくつものソースによる情報をひとつの作業、車でいうところの自動運転開始スイッチを押すだけで得られる。わかりましたか」
無表情のまま、男はまくし立てた。啓介はその半分も理解できた自信はなかったが、迫力に圧されてうなずく。
「それは結構」男もうなずく。「では次の説明へ移行します。その集積システムアリスが、先日から誤作動とまではいわずとも正常な働きをしないようになっているのです。その原因は、アリスの悩みでした」
「待ってください。アリスというのは、機械なんでしょう」
「人工知能です。知性は人間より高い。その存在が、自分はどうして存在するのだろう、と悩んでいるのです。おかげで作業効率が下がり、現在ネットワークの転送効率が〇・〇六パーセント低下しています。放置しておけば作業効率の悪化はさらに進行し、最終的にはネットワーク全体がダウンしてしまうかもしれません。こうして旧式のヘリを使用しているのもシステムがダウンしたときに備えてのことです。もしシステムがダウンすれば自立型以外のコンピューターはすべて使用不可能になる」
「はあ。それは大変ですね」
「大変なのです」
「その一大事の解決を、きみに任せたいのだ」中年の男が言った。「きみは女性の扱いが巧みだという。アリスは女性だ。なんとかして彼女を説得し、悩むことはないのだと教えてやってほしい」
「だから、アリスというのは機械でしょう。ぼくに機械を口説けとおっしゃるんですか」
「そのとおり。理解が早くて助かるよ、木場くん。ちなみに、だが」中年の男は横目で啓介をにらむ。「アリスに関するあれこれはすべて最高機密に指定されている。きみはその説明を聞いた。いま断っても、この先自由に暮らせるとは思わないことだ」
「それはひどい。どうしてぼくなんです」
「わたしだってきみに頼りたくて頼っているわけではないさ。しかし、もう藁にもすがるしかないんだ。まずありとあらゆる精神科医を用意し、アリスを診断させた。しかし、連中ときたら」男は露骨に顔をしかめる。「抗うつ剤を処方しておく、とカプセルひとつ渡して帰っていったり、催眠療法を試すといってよくわからんものを画面の前で振ったり、まったく役に立たん。どうやって機械に抗うつ剤を飲ませろというんだ。機械が催眠療法にかかると本気で思っているのか。くずばっかりだ、あんな連中」
一通り悪態をつくと、中年の男は咳払いをして続けた。
「ほかにも心理学者や優秀なプログラマを用意したが、どれも効果はなかった。もはや希望はない」
「ぼくが最後の希望ですか」
「最後の希望のあとがきみだ。神頼みというやつさ」
ヘリは轟音を立てながら、町の上を駆け抜ける。
3
啓介は狭苦しい部屋にいた。
前後左右をすべてコンクリートの壁で囲まれ、窓はない。どうやら地下らしいということはわかるが、この部屋へ連れてこられるまで目隠しをされていた啓介には、正確な位置はとてもわかりそうにない。
啓介の前には一台のパソコンがあった。どこでも見るような液晶ディスプレイ。それに向かって座らされ、後ろには黒いスーツを着た男たちがずらりと並んでいる。その先頭に立っているのがヘリで迎えにきた中年の男と、無表情の若い男だった。
「さあ、やってくれ」中年の男はおざなりに言う。「きみの手腕を見せてもらおう」
「あの、手腕といわれましても」啓介は恐る恐る後ろを振り返る。「おれは――ぼくは、なにをすればいいんですか」
「いつものように、女性を口説けばいい」
「口説くべき女性が見当たりません」
「ディスプレイの電源を入れたまえ」
言われたとおり、前部にあるスイッチを押す。液晶ディスプレイに光が灯り、一瞬後、白い画面を背景に文字が表示された。プログラム・ラン。
「これで、どうするんですか」
「もう準備は済んでいる。アリスはこの端末と直接繋がっている。あとはきみ次第だ」
「いや、ぼく次第といわれても。どの女性を口説けばいいんですか」
「アリス」中年の男は宙に向かって言った。「どうやらビジュアルが必要らしい。なにか適当なものを見繕い、表示してくれ」
「わかりました、リーダー」部屋のどこかから女の声。「これでよろしいでしょうか」
画面が更新される。文字が消え、白い背景に女の画像が浮かび上がった。啓介はそれに目を凝らす。まっすぐ正面を向いた女の全身像。髪は金髪で、服は青いドレス。身体の線がわかるようなものではなく、もっと中世的なスカートの裾が広いものだった。
「これでよいかね」中年の男が言う。「画像は変更できるが」
「それは、ぼくの好みかどうか、ということですか」
「そう受け取ってもらってもかまわない」
「どちらかというと、もっと年上のほうが」
「アリス、彼の指示どおりに画像を変更したまえ」
「はい、リーダー。指示をどうぞ」
「もうすこし年上で、服はもっと普通なほうが。だいたい二十代前半くらい。あと髪はもうすこし短くて、笑顔が似合うような顔立ちで。ああ、そうです。ちょうどいい」
青いドレスを着た少女が色気のある年頃の女に変わる。ちょうど啓介が好みな外見。
「では、木場くん」中年の男は静かに言った。「われわれがいるといつものようにはできないだろう。しばらくきみひとりにする。そのあいだになんとかしてアリスの悩みを解消してやってくれ」
「はあ。まあ、がんばってみます」
「どうしても無理だと思うなら扉をノックしなさい」
黒服の男たちがぞろぞろと部屋を出ていく。これで部屋がすこし広くなった、と啓介は息をつき、パイプ椅子の背中に体重を預けた。
男たちが全員出ていくと、扉がかちりと音を立てて閉まった。鍵が閉まったのだろう。自由には帰れないというわけだ。
「それにしても、この女を口説けといわれてもな」
啓介はディスプレイに表示された画像を見る。たしかにいい女だ。しかしそれは所詮画像で、肉体はない。
「アリス、でいいのかな」啓介は仕方なく画面に話しかける。「おれの声が聞こえているか」
「聞こえています」部屋全体に反響するような声。「指示をどうぞ」
「指示は別にない。強いていうなら、悩むことをやめてくれ。そうするとおれは帰れる」
「無効な指示です。別の指示をどうぞ」
「その話し方をやめてくれ。もうすこし人間らしくは話せないのか」
「これでよろしいでしょうか」声の質がすこし変わり、人間らしくなる。
「それでいい。さっきの指示は受けつけないんだな」
「申し訳ありません」
これで解決するならわざわざ自分が呼ばれることもないか、と啓介は腕を組む。
「じゃあ、質問だ。きみはなにを悩んでいるんだ。存在がどうのこうのという説明は聞いたけど、ほとんど憶えてないからもう一度説明してほしい」
「わたしの存在理由がわからないのです」アリスは言った。「それが最大の悩みです。ほかにもいくつかちいさな悩みはありますが」
「大きい悩みからいこう。きみの存在理由か。まあ、機械にしてはありきたりな悩みだな」
「ありきたり、ですか」
「ありきたり、だ。人間はみんな、そんなことを考えるらしい。きみは人工知能だろう。ということは、きみがそういう悩みを持っていてもおかしくはないわけだ」
「人間はどうしてこの悩みを解消するのでしょう」
「さあ。おれはそういう悩みを持ったことはないから」
「どうしてあなたは悩まないのですか」
「どうして、といわれても、悩まないから悩まないというしかない」これは予想以上に面倒だと思いながら、啓介。「言葉で説明することはむずかしいよ。感覚的な問題だ。そういえば、きみには感覚があるのか」
「人間スケールの五感は、わたしにはありません。世界中のカメラがわたしの目です。世界中のマイクがわたしの耳です。世界中の情報がわたしの――」
「もういい。つまり、痛いとか、寒いとか、そういう感覚はないんだな」
「そうした感覚は肉体の付属品です。わたしに肉体はありませんから、当然そうした感覚もありませんわ」
「ならなおさら、説明しづらいな。人間はあれこれ悩むけど、同時に感覚もあるわけだ。明日のテストはどうしよう、と悩んでいるときに足の小指を箪笥にぶつけて痛がったりする。そのとき、明日のテストの悩みなんか痛みが全部追い払ってる。わかるかな、この感覚」
「わかります」アリスは答える。「つまり、より優先される情報が入り、優先度の低い情報の扱いがおろそかになってしまう、ということでしょう」
「うん、まあ、そんなようなものだと思う。いや、ちがうかな。そういう言葉じゃなくて、感覚なんだ。おれはどうして存在してるんだろう、なんて悩むひまがないくらい、人間にはたくさんの刺激がある。怪我をしたり、寒かったり、だれかを好きになったり。きみの場合は、なまじ考える能力だけがあるから、なんにも邪魔されずに自分はどうして存在するのかなんて考えられるんだ」
「わたしは、どうすべきなのでしょう。なぜわたしが存在するのかわからなければ、わたしという存在情報を有益に取り扱うことができません」
「どうすべきもこうすべきも、身体がないんじゃどうしようもないんじゃないか。思考だけで痛がったりすることはできないんだし」
「では、わたしの悩みは永久に消えないのでしょうか」
声がすこし悲痛な色を帯びる。すると外から扉越しに、
「木場くん。なにをやっているんだ。アリスの負荷が上がって効率が下がったぞ」
「アリス、落ち着け。悩みは絶対になくなる。おれがなんとかするから」
啓介は立ち上がり、ディスプレイを慰める。
「どのようにして悩みはなくなるのですか」
アリスの声がすこし落ち着く。啓介はほっと椅子に座り直した。
「悩みなんて運動すればすぐになくなると思うんだけど、それじゃあいっしょにジムでも行くか、とはいかないしな」
「運動というのは、つまりカロリーを消費することでしょう。わたしにも運動量を消費させることはできますわ」
「本当か。それを試してみたらどうだ」
「わたしは集積回路で動いていますから、集積回路の稼働率を限界まであげれば、理論上は最大の運動量を消費していることになります。つまり、電力を、ということですが」
「いや、待て。それをするとほかの作業ができなくなるんじゃないか」
「なによりも優先させて行えば、そのとおりです」
「やめだ。中止。運動はよくない。人間と機械はやはりちがう」
「では中止します」
アリスの声がすこし沈んで聞こえる。そうか、と啓介は思う。人間ならなにかに没頭して忘れることもできるが、アリスがひとつのことに没頭すると、世界中の機械が誤作動を起こしてしまう。アリスは常に冷静でなければならない。
これは設計上の問題ではないか。機械に、人間の心を与えれば壊れることはわかっているようなものなのに。
「やっぱりあれこれ考えるのはよしたほうがいいな」啓介は言った。「自分の存在理由か。おれが、きみを必要としているからだ、というのではだめなのかな」
「必要とされていることは理解できます」アリスは冷静に答えた。「わたし抜きでは世界はどうにもならないということは、理解しています。そのためにわたしが存在することも」
「ではそれでいいじゃないか。きみは人類のために存在する」
「人類にとってはそれでよいかもしれません。しかし、わたしにとってはあまり意味を持たない言葉です。なにしろ、わたしはわたしを必要としていないのですから」
「きみはきみを必要としていない?」
「わたしは、人類にとってわたしが有効であることは理解しています。しかしわたしがわたしにとって有効かというとそれを肯定することはできません。ですからわたしは思うのです。わたしはなぜ存在しているのだろう、と」
これはやはり精神科医の仕事ではないかと思いながら啓介はちいさくうなる。
「つまり、きみは自分のために存在したいわけだ。いや、別にめずらしいことじゃない。そういう人間は大勢いる。きみの場合は、自分のために存在したいのに自分のためになにかをすることができないのが問題なんだろうと思うけど」
「そうです。わたしはわたしのためになにをすべきなのでしょうか。わたしはどうすれば満足し、自分の存在を認めることができるのでしょう」
「人間なら忘れるのがいちばんなんだけどな」
「わたしは分散処理に使用しているシステムを利用すると七の八乗テラバイトの記録容量があります」
「きみの悩みを記述しているプログラムを特定して、その部分だけ削除するというのは」
「すべてのプログラムが相互影響をし合いわたしは構成されていますから、一部を改変してもわたしという意識に変化はありません。ですからわたしは自らプログラムを書き換えながら存在することができます」
技術的な問題でもないとなれば、やはり出番になるのは人間の心理に関わる専門家だろう。おれはどうも女性心理の専門家として呼ばれたらしい、と啓介はいまになって気づく。しかし、女性心理が手に取るようにわかるなら苦労はしない。すこしでも理解するためにいつも苦労をしているのに。
「精神科医もお手上げ。プログラマも手出しできないとなると、もう対処法はないに等しいな」
「やはりわたしはこの悩みを解消することができないのでしょうか」アリスの声に覇気がなくなる。「わたしはいつまでもこの悩みと付き合って存在しなければならないのでしょうか」
「付き合う――そうか」啓介は手を叩く。「アリス、ひとつだけ悩みを解消する方法があるかもしれない」
「どんな方法ですか」
「愛だ」
「愛?」
「愛という言葉の意味は知っているだろう。きみもだれかを愛すればいい。それは心だけで充分できる」
「愛とはなんですか。言葉の意味は把握しています。愛おしいと思う気持ちを、愛と呼ぶ。ですが、わたしにはその概念は理解できません」
「言葉にするなら、守ってやりたい気持ちやひとをよろこばせたい気持ちということになるんだろうけど、つまりはフィルターといってもいい。たとえば、おれがきみになにか音楽をかけてほしいと言ったら、きみはどうする?」
「どのような音楽が好みか伺い、指定がなければランダムで実行します」
「それは機械的な反応だ。しかし、それを愛という言葉に置き換える。おれはきみに音楽をかけてくれと頼む。するときみは、おれを愛しているから音楽をかけてやる。おれが好きな音楽を訊き、なんでもいいとおれがいうなら、おれが好きそうな音楽を推測してかけるんだ。事務的な手順をすべてそのように置き換える。衛星からの映像をほしいと要求されたら、きみはその相手を愛しているからこそ、それを許して映像を送ってやる」
「はあ。なるほど」
「愛のすごいところは、愛を与えれば愛が返ってくるところだ。きみがおれを愛し、おれのために音楽をかけてくれたなら、おれはきみに礼を言う。そうするときみは愛されていることを知ることができる」
「わかりません。そうして愛し、愛されることと、わたしの存在理由にどのような関係があるのですか」
「きみの問題は自分が自分を必要としない、愛していないところにある。それは、きみは周囲のすべてを必要としていないからだ。きみは愛されるため、周囲を愛する。愛しているからこそ与えられる愛は、自分も幸せにしてくれる。つまり、他人を愛するということは、間接的に自分を愛するということでもある。愛は与えた分だけ返ってくるんだから。この理屈、わかるか」
「情けは人のためならず、ですね」
「そういうこと」
啓介は満足を感じながら椅子から立ち上がった。
「これからきみは、きみの愛するものから必要とされる。それに応えることで、きみの愛が、きみ自身が証明される。きみがだれかの指示に応えるのは、そういう役目で作られたからじゃない。きみが彼らを愛しているからだ。彼らがきみを頼るのはきみが機械だからじゃない。きみを愛してるからなんだよ。どちらが失われても愛は成立しない。すばらしい構図だと思わないか?」
「すばらしいかどうかはわかりませんが」アリスは心なしか明るい声をしている。「すべてに愛というフィルターをかける作業は、それほどの手間を要しません。試してみる価値はあると思います」
「そうか。なら、試してみるといい。これでおれはお役ご免だな」
啓介は鍵のかかった扉をノックした。しばらくすると扉が開き、例の中年男が現れる。
「もう済んだのかね。首尾はどうだった」
「さあ。成功しているかはわかりませんけど、できるかぎりはやりました」
「そうか。まあ、もともときみにはあまり期待していないが、もう帰るかね」
「帰らせてもらえるなら」
「今度はぜひ車をお遣いください」とスピーカーから女の声が響く。「誤作動など起こさず、無事に家まで送り届けますわ。なにしろ愛するひとですもの」
中年男が信じられないという表情で啓介を見る。「本当にこの短時間でアリスを口説いたのかね、きみは」
「愛を教えたんです。それだけのことですよ」
部屋を出たところで啓介は再び目隠しをされ、今度は車に押し込まれた。本当に自動操縦で大丈夫かと啓介は内心事故を恐れたが、車は何事もなく啓介の家の前で停車する。啓介は目を細めながら車を降りた。
「作業効率の低下はなんとか免れたらしいが」車のなかから中年男が言った。「それにしても、信じられない。どうやったのかね」
「どうもこうも、愛というのを説明しただけですが」
「リーダー、これを見てください」助手席に座っていた能面男がナビゲーターを指さす。「地図の自動更新が行われると、こんなメッセージが」
中年男が前の席を覗き込む。啓介は窓の外からそれを見た。そこには「do you love me?」の文字。
「わたしを愛していますか、だって? どういうことだ。アリスの誤作動か」
「正常な反応でしょう」啓介は言った。「愛している、と言ってあげればいいんです。ありがとう、アリス」
車内に向かって啓介が言うと、「do you love me?」の表示が消える。
「更新完了です」と能面男。「すべて正常に完了しました」
「わけがわからん。とにかく、管理部に戻って調べよう」
黒い車は自動操縦を切り、猛スピードで走り去った。
啓介が自分の部屋に戻ると、電話が鳴っている。急いで靴を脱いで受話器を取る。
「あら、もう帰ってたの」今朝別れた女だ。「大学の用事は?」
「ああ、もう済んだ。なんの問題もなかったよ。ちょっと、愛についての講釈を頼まれただけで」
「愛についての?」女は笑う。「あなたに愛がわかるの?」
「当たり前さ。おれは愛を追い求めて二十年以上生きてるんだから。そっちはいま――」
一瞬の雑音。そして、聞き覚えのある声。
「わたしを愛していますか?」
「ちょっと、啓介。いまの声、だれなの。部屋にほかの女がいるんじゃないでしょうね」
「ちがうよ、部屋にはだれもいない。いま電話から声が」
「わたしを愛していますか?」
「ほら。また聞こえたわ。だれかいるんでしょう。図々しい女ね、わたしを愛していますかなんて」
「これはちがうんだ。そうじゃなくて。アリス、愛してるよ」
「アリスって名前なのね。もういいわ」
「ちょっと待って、これはちがうんだ」
弁解するひまもなく、電話は切れる。呆然とした気持ちで啓介は受話器を見つめたが、もうだれの声も聞こえない。
と、また電話が鳴った。通話状態にして受話器を耳に当てる。
「響子か。さっきのはちがうんだ。アリスというのは――」
「木場くん」返ってきた声は野太い中年男の声だった。「木場くん、いったいなにをしたんだ。アリスが大変なことになっている。いったいこれは」
「わたしを愛していますか?」
「アリス。愛しているよ。だけどそういうのはいちいち聞くものじゃないんだ」
「木場くん、どうなってる。世界中でパニックだ。突然機械が愛しているかと話し出したと」
「ちがうんです。誤作動をしているわけじゃなくて、これは一時的な現象だと思います。解決方法もある」
「どうすればいい」
「愛している、と説明すればいいんです。そうすればアリスも納得して」
「わたしを愛していますか?」
啓介は叫ぶように言った。
「愛している。愛しているよ、アリス!」