悪役令嬢と呼ばれたので婚約破棄を受け入れたら北辺侯が離してくれません
「エレノア・ヴァルシュタイン。君との婚約を破棄する」
王宮の大広間にローデリックの声が響いた。
楽団の演奏が止まり、踊っていた者たちも足を止める。百を超える視線の先でエレノアは扇を閉じた。正面には金髪の王太子。その半歩後ろには淡い桃色の髪をしたミレイユ・ハーディ男爵令嬢がいる。
今夜は王妃の誕生日を祝う舞踏会だった。王族に大貴族、外国の使節まで列席している。婚約を解消する相談には最も向かず、一方的な断罪を見せつけるにはこの上なく都合のよい場所だった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
エレノアが尋ねるとローデリックは待っていたとばかりに右手を上げた。
「君は私がミレイユを大切にしていると知り、卑劣な嫌がらせを繰り返した。彼女のドレスを汚し、階段から突き落とそうとし、ついには脅迫の手紙まで送った。悪役令嬢を未来の王妃にするわけにはいかない」
悪役令嬢。
耳慣れない呼び名に周囲がざわついた。誰かが使い始めた物語じみた言葉をローデリックは気に入ったらしい。
ミレイユは彼の背後で両手を組み、耐えるように唇を結んでいた。エレノアと目が合うと肩を震わせる。何も知らない者が見ればおびえているように思うだろう。
ローデリックは勝利を確信していた。エレノアが取り乱して否定するか、罪を認めて許しを求めると考えている顔だった。
「承知いたしました」
「……何?」
「婚約破棄を承知したと申し上げました」
ローデリックの口が半端に開いた。ミレイユまで顔を上げる。
エレノアは二人から視線を外し、玉座の前に立つ国王へ向き直った。アルフォンス三世は先ほどから一言も発していない。ひじ掛けを握る指には力が入っていた。
「陛下。王太子殿下は王家を代表し、ヴァルシュタイン公爵家との婚約を破棄すると宣言なさいました。私もこれを受け入れます。両者の意思が一致したものとして手続きを進めてよろしいでしょうか」
「待て。私はまだ罪を認めろと――」
「婚約破棄には同意しました。罪を認めた覚えはございません」
エレノアはローデリックの言葉をさえぎった。公の場で王太子の話を止めたのは初めてだった。
「根拠のない告発については別にお答えいたします。ですが殿下は私の返答を聞く前に婚約を破棄なさいました。一度口にした王家の宣言を、都合が悪くなれば取り消せるとは考えておりません」
国王は息子ではなくエレノアを見た。
「そなたの意思は変わらぬのだな」
「はい」
返事に迷いはなかった。
ローデリックとの婚約は十二年前に決まった。王家と公爵家を結ぶための契約であり、そこにエレノアの恋心が入る余地はなかった。それでも将来の王妃として役目を果たすつもりだった。ローデリックにも同じ覚悟があると信じようとしていた。
その努力は今夜終わった。
「よかろう。婚約は両者の合意によって解消する。ただしローデリックが挙げた罪の有無はこれから確かめる。エレノア、答えられるか」
「そのための記録は用意しております」
国王の目が細くなった。
ローデリックは鼻で笑った。
「用意していたとは自白したようなものではないか。やましいことがなければ記録など集める必要はない」
「将来の国王が相手の言葉を聞かずに人を裁こうとしていましたので、必要になりました」
今度は笑う者はいなかった。
最初の告発は一月前だった。ミレイユが茶会でドレスを汚され、泣きながらローデリックの執務室へ駆け込んだ。その翌日にエレノアは婚約者から責められた。
何の話かと尋ねてもローデリックは答えなかった。被害者の心を傷つけたくないという理由で場所も日時も伏せたまま謝罪だけを求めてきた。
エレノアは謝らなかった。代わりに王宮内で開かれた茶会を調べた。
「ドレスを汚した件から説明いたします。三月十四日の午後、東の舞踏室で開かれた春の茶会で間違いございませんか」
ミレイユの指が動いた。
「そ、そうです。エレノア様が私にぶつかって赤い飲み物をかけました」
「私はその茶会に出席しておりません」
エレノアは侍従長へ目を向けた。国王がうなずくと侍従長は一冊の記録簿を運んできた。
「当日の入退室記録です。私は王妃陛下と慈善院の予算について話し合うため、西の応接室におりました。入室は午後一時四分。退室は三時四十二分。王妃陛下の侍女二名と財務官三名が同席しています」
王妃が席から口を開いた。
「間違いありません。休憩を挟まず話していました」
「で、では別の日です。私が混乱して……」
「三月中に東の舞踏室で赤い果実酒がこぼれたのはその一度だけです」
侍従長が記録簿を開いた。
「舞踏室へ飲食物を持ち込んだハーディ男爵令嬢には、その場で給仕長から注意しております。令嬢は杯を持ったまま振り返り、ご自身の裾を踏んで転倒しました。給仕三名が目撃しております」
ミレイユの頬から血の気が引いた。
「エレノア様は近くにいらしたはずです。私をにらんでいたから手元が狂ったのです」
「西の応接室から壁越しににらむ方法を、私も知りたいものです」
会場の端で息を漏らした者がいた。エレノアはそちらを見なかった。
「次に階段から突き落とそうとした件です。北棟三階へ続く階段で、私があなたの腕をつかんだ日のことでしょう」
「認めるのですね」
ローデリックが勢いを取り戻して前へ出た。
「北棟三階は改修中で立ち入りが禁じられていました。ミレイユ様は止める衛兵を振り切り、階段を上ろうとなさいました。私は下から腕をつかんで引き戻しました。突き落とすためなら反対の動きをしたことになります」
「警備記録を」
国王に命じられた侍従長が別の紙を読み上げた。北棟を警備していた二人の衛兵から事情を聞いた記録だった。エレノアの説明と相違はない。
「ですがエレノア様は、私のような者が殿下に近づくべきではないと……」
「申し上げておりません。王族の私室がある区画へ許可なく近づくべきではないと注意しました。相手が公爵令嬢でも同じことを言います」
ローデリックはミレイユを振り返った。
「君はエレノアに押されたと言ったはずだ」
「腕を強く引かれました。階段から落ちそうになって、とても怖くて……押されたように感じたのです」
「感じたことと起きたことは別です」
エレノアの返答にミレイユは口を閉ざした。
残るのは脅迫状だった。これまでの二件は思い違いと言い張れても、手紙だけは違う。エレノアの名で王太子から離れろと命じ、従わなければ男爵家を王都から追い出すと書かれていた。
ローデリックが内ポケットから折り畳んだ紙を出した。
「これはどう説明する。末尾には君の署名があり、公爵家の封ろうも使われている」
エレノアは受け取らなかった。
「その手紙は一週間前に拝見しました。私の字ではありません」
「似せて書けば誰でも否定できる」
「ですから調べました」
広間の扉が開いた。父グレゴールが家令を伴って入ってくる。舞踏会の開始時にはいなかったため、商務院から戻ったばかりなのだろう。エレノアと目が合うと一度だけうなずいた。
家令が国王の前へ細長い箱を置いた。中には帳簿と封書、それに木型が入っている。
「まず紙です。その脅迫状には青い亜麻を混ぜた紙が使われています。王都で扱う店は二軒だけです。どちらの店にも購入記録が残っていました」
グレゴールが帳簿を開く。
「購入者はハーディ男爵家に仕える侍女です。店主は顔を覚えており、本人にも確認しました」
ミレイユが後ずさった。
「侍女が勝手にしたことです。私を思って……」
「彼女はあなたに命じられたと証言しています」
「うそです!」
ミレイユの叫びが広間に響いた。
グレゴールは娘以上に表情を変えなかった。
「侍女の言葉だけなら否定できるでしょう。そこで封ろうを作った職人にも話を聞きました」
箱に入っていた木型はヴァルシュタイン家の紋章をまねた物だった。一見すればよく似ている。しかし正規の印章に刻まれている三本の麦穂が二本しかない。翼を広げた鳥の尾羽も一本足りなかった。
「公爵家の印章を複製するのは重罪だと知り、職人は作業を断ろうとしたそうです。依頼人は舞台で使う小道具だと説明し、倍の代金を払った。受け取りに行ったのは先ほどと同じ侍女でした」
「私は知りません。そんな物を頼んでいません」
「ではこれは何でしょう」
最後の封書から一枚の注文書が出された。紙と木型の寸法、代金、納期が記されている。下にあるのはミレイユの署名だった。
「こちらも偽造です!」
「注文書の字は脅迫状とは異なります。ですが王宮へ提出したあなたの招待状への返事と同じです。書記官三名が確認しました」
ミレイユはローデリックの腕をつかんだ。
「殿下、信じてください。私は怖かっただけなのです。エレノア様はいつも私を責めました。廊下を走るなとか、使用人用の通路に入るなとか、殿下の予定を勝手に変えるなとか……」
「どれもあなたがしたことへの注意です」
「ほら、またです! いつもそんな言い方で私を見下すのです!」
エレノアは否定しなかった。
言い方が厳しかったことはある。規則を知らずに失敗した者へ、理由を説明せず正しさだけを求めたこともあった。それを親しみやすい態度だったとは思わない。
「私の言葉が冷たく聞こえたことは認めます。あなたが不快に感じたのなら、その点についてはおわびします」
ミレイユの顔に一瞬だけ希望が浮かんだ。
「ですが不快だったことは、していない罪を作ってよい理由にはなりません。私はあなたのドレスを汚しておらず、階段から突き落とそうともしていない。脅迫状も送っていません」
「私が悪いと言うのですか。殿下が守ってくださると言ったから……」
最後の言葉でローデリックの顔色が変わった。
「私のせいにするな。君がエレノアに傷つけられたと言ったのだろう」
「だって殿下は、あの方ならやりかねないとおっしゃいました。次に何かされたら必ず罰すると。私が話すたびに信じてくださったではありませんか」
二人は互いに責任を押しつけ始めた。つい先ほどまで寄り添っていた姿が遠い昔のことのようだった。
「もうよい」
国王の声で二人とも黙った。
「ハーディ男爵令嬢は別室へ。侍女と職人の証言を改めて確認する。ローデリックはここに残れ」
近衛兵がミレイユへ近づいた。彼女は助けを求めてローデリックを見たが、彼は視線をそらした。
扉が閉まるまで誰も動かなかった。
「父上、私はだまされました」
沈黙に耐えられなくなったローデリックが口を開く。
「あの女の話が偽りなら婚約破棄の理由はありません。先ほどの宣言は撤回します。エレノアもそれで異存はないだろう」
当然のように名前を呼ばれ、エレノアは彼を見返した。
「お断りいたします」
「なぜだ。君の潔白は証明された」
「私が無実なら元へ戻せるとお考えですか」
「そうだ。私は誤った情報を信じただけで――」
「殿下は私に一度もお尋ねになりませんでした」
ローデリックの声が止まった。
「最初の訴えがあった時も、階段の件を聞いた時も、手紙を見つけた時もです。私が何をしたかではなく、どう罰するかだけをお話しになりました。今夜は外国の使節までいる場で公爵家の娘を犯罪者と決めつけた。婚約者でなくとも王国の民には弁明の機会があるはずです」
「私は君をよく知っているつもりだった。君は厳しく、ミレイユを嫌っていた」
「好いてはいません。だから罪を犯したことになるのですか」
答えられないローデリックからエレノアは視線を外した。
「私にも非はあります。殿下との関係が悪くなっていると知りながら、政略結婚なら気持ちは不要だと考えていました。必要な話し合いをせず、王太子としての責務ばかりを求めました」
「ならば互いに改めればよい」
「今夜のことがなければ、そうする道もあったでしょう」
エレノアは一歩下がった。
「ですが殿下は婚約を破棄なさいました。私は受け入れました。もう終わったことです」
グレゴールが娘の隣へ立つ。
「陛下。先ほど婚約の解消を認めていただきました。ヴァルシュタイン公爵家も娘の意思を支持いたします」
国王は苦い顔でうなずいた。
「公爵家には謝罪の使者を立てる。賠償についても後日協議したい」
「承知いたしました。また王家と当家が共同で進めている事業について、契約の確認をお願いいたします。北街道の整備と王立商会への融資は両家の婚姻を前提としております」
ローデリックが父親を見た。
「資金を引き揚げると言うのか」
「契約の前提が失われました。継続を望まれるなら新たな条件を決める必要があります」
グレゴールの声に怒りはなかった。契約どおりの処理を告げただけだった。それだけに王太子の行いがもたらした損失は明確だった。
国王は目を閉じた後、玉座から立ち上がった。
「今夜の舞踏会はここまでとする。ローデリック、執務室へ来い。お前には聞かねばならぬことがある」
「父上。処分ならばミレイユの調査を終えてからでも――」
「問題はあの令嬢にだまされたことではない。確かめずに信じ、王家と公爵家の約束を大勢の前で破ったことだ」
ローデリックは何も言えなかった。
招待客が退出を始める中、エレノアは父と共に広間を出た。廊下へ出たところでグレゴールが足を止める。
「本当にこれでよかったのか」
「はい。お父様には迷惑をおかけします」
「迷惑ではない。契約の見直しは私の仕事だ。お前は今夜よく耐えた」
父はそれ以上を言わず歩き出した。娘を抱き締めるような人ではない。エレノアも慰めを求めてはいなかった。それでも足取りは先ほどより軽くなった。
玄関広間まで来たところで灰色の軍服を着た大男が進路をふさいだ。
「エレノア」
「アルノルト北辺侯。今夜はいらしていたのですね」
ヴィクトル・アルノルトは王都の貴族に囲まれていても目立つ。背が高いだけではない。右の眉からこめかみに伸びる傷と金色の目が、舞踏会より戦場に似合う印象を与えていた。
「先ほど着いた。最後は見ていた」
「お見苦しいところをお見せしました」
「見苦しかったのは別の者だ」
彼はグレゴールへ礼をすると改めてエレノアに向き直った。
「婚約者はいなくなったな」
「たった今そうなりましたね」
「では俺が求婚しても問題ない」
エレノアは返事を忘れた。
隣で父がせきをした。笑いをこらえた時の音に似ていたが、確かめる余裕はない。
「……今ですか?」
「四年待った」
「初めて聞きました」
「初めて言った」
彼はいつもどおり真顔だった。冗談を言っている様子はない。
「今夜の私は婚約を破棄されたばかりです」
「知っている」
「返事を求められても困ります」
「今すぐでなくていい。俺が求婚できる立場になったと伝えたかった」
ヴィクトルは言うべきことを言い終えたらしく、グレゴールへもう一度頭を下げた。
「日を改めて伺います」
「娘が断ればそこまでだぞ」
「承知しています」
彼は迷いなく答えた。
馬車に乗ってからもエレノアは窓の外を見ていた。何か考えているように見えたのだろう。向かいに座った父が尋ねた。
「北辺侯は嫌か」
「信頼できる方だと思っています。ただ、なぜ私なのか分かりません」
「本人に聞け。あの男なら答えるだろう」
父の予想どおり、ヴィクトルは三日後に公爵邸を訪れた。
北部の魔物討伐を終えたばかりで、王都には一週間しか滞在しないという。その貴重な一日を使い、彼は公爵家の応接室でエレノアと向かい合っていた。
「先日の求婚について話に来た」
「忘れてくださる可能性も考えていました」
「四年忘れなかったものを三日で忘れるのは難しい」
使用人が置いた茶に彼は手をつけなかった。緊張しているようには見えないが、ひざの上に置かれた手は固く握られている。
「私を哀れんでいるのではありませんか」
「違う」
「では四年前に何があったのでしょう。北辺侯とは夜会で数度お話しした程度だったと記憶しています」
「北部で冷害が起きた」
四年前の冬、雪が例年より一月早く降った。街道は閉ざされ、北部の村々では保存食も燃料も足りなくなった。ヴァルシュタイン公爵家は商会を通じて食料と衣類を送っている。
「支援の手配をなさったのはお父様です」
「最初の便はそうだ。二便目から品目と送り先を変えたのは君だろう」
エレノアは当時の帳簿を思い出した。十五歳だった彼女は公爵家の仕事を学び始めたばかりで、各領地から届く報告書を読んでいた。
最初の荷には見栄えのよい食品や毛布が多かった。しかし本当に不足していたのは長く保存できる豆や干し肉、子供用の衣服、傷んだ屋根を直す道具だった。エレノアは商会から届いた一覧を作り直し、父へ提出した。
「公爵家として必要なことをしただけです」
「あの時も同じことを言った」
ヴィクトルは初めてわずかに口元を緩めた。
「王都の貴族は自分の名を書いた箱を送り、吟遊詩人に善行を歌わせた。君の名はどこにもなかった。礼を言いに来た俺に、足りない物があれば次の便までに報告しろと言った」
「覚えております。礼より報告が先だと考えました」
「そういうところを好ましく思った」
真正面から告げられ、エレノアは茶杯へ目を落とした。ローデリックから容姿を褒められたことはある。王太子妃として不足がないと言われたこともあった。だが自分が当然だと考えてした仕事を見ていた者がいるとは思わなかった。
「その後も話すたびに気持ちは強くなった。だが君には婚約者がいた。邪魔をするつもりはなかった」
「それで四年ですか」
「そうだ」
「ずいぶん気の長い話ですね」
「北部では春を半年待つ」
エレノアは顔を上げた。冗談なのか本気なのか判断しかねたが、金色の目は彼女だけを見ている。
「すぐに返事はできません」
「分かっている」
「私は殿下との関係で、自分にも足りないところがあったと考えています。相手の気持ちを聞かず、役目を果たせばよいと思っていました。同じことを繰り返したくありません」
「なら俺の気持ちは何度でも話す。君の考えも聞く」
「北辺侯は王都に一週間しかいないのでしょう」
「手紙を書く。来られる時は会いに来る」
「お忙しいのでは」
「忙しい。だが四年待つよりは楽だ」
断る理由を並べるたびに迷いなく答えが返ってくる。エレノアは降参する代わりに一つだけ条件を出した。
「では半年、お互いを知る時間をください。その後でお返事します」
「分かった」
「半年ですよ。明日ではありません」
「分かっている」
彼の返事は変わらなかった。
ヴィクトルは約束どおり北部へ戻った。最初の手紙が届いたのは五日後だった。
『本日、城へ着いた。雪解けで南街道の橋が傷んでいたため修理を命じた。君が以前話していた王都の工法について資料が欲しい』
恋文とは思えない内容だった。エレノアは公爵家の書庫から橋の補強に関する資料を探し、必要な部分を書き写して送った。
次の手紙には工事の進み具合と礼が書かれ、最後に一行だけ付け加えられていた。
『こちらでは白い花が咲いた。君にも見せたい』
エレノアは返事を書く手を止めた。気の利いた言葉は浮かばず、結局こう書いた。
『花の名と咲く場所を教えてください。いつか自分で見に行きます』
その返事には花の絵が添えられていた。巧みとは言い難い。花弁より葉の方が大きく、説明がなければ野菜に見えただろう。
エレノアは久しぶりに声を出して笑った。
一月後、ヴィクトルは王都へ来た。約束もなく公爵邸へ現れ、北部で採れた赤い果実の箱を差し出した。
「以前これを好んでいたと聞いた」
「誰からですか」
「公爵家の料理長だ」
「いつ料理長と話したのです」
「先月来た時だ」
エレノアは箱を見下ろした。赤い果実は確かに好物だが、北部から運べば安い物ではない。
「多すぎませんか」
「傷みにくい物を選ばせた」
「量ではなく贈り物の回数です。先週も毛皮が届きました」
「寒いと手紙にあった」
「今年の王都は例年より寒いと書いただけです」
「だから送った」
「十分です」
「まだ少ない。四年分ある」
あまりに真面目な顔で言うため、エレノアは注意する気をなくした。
「物で返事を変えるつもりはありません」
「返事のためではない。君が喜ぶと思った」
贈り物をする理由がそれだけでよいらしい。政治的な意図も、公爵家との関係を強める計算も彼の中にはなかった。
エレノアは果実を一つ取り上げた。
「では一緒に召し上がってください。一人では食べ切れません」
ヴィクトルはようやく茶卓の前に座った。
果実を食べ終えた後、二人は公爵邸の庭を歩いた。春の終わりとはいえ夕方の風は冷たい。ヴィクトルが外とうを脱ごうとしたため、エレノアは先に止めた。
「毛皮をいただきましたので寒くありません」
「今日は着ていない」
「王都の庭を歩くのに毛皮は必要ありません。北辺侯こそ薄着ではないですか」
「慣れている」
「私もこの程度なら平気です」
互いに譲らず立ち止まった。先に折れたのはヴィクトルだった。外とうを着直し、代わりに日当たりのよい回廊へ進路を変える。
「贈り物についてもそうですが、私を弱い者として扱っていませんか」
「そのつもりはない」
「ならば私の言葉も信じてください。寒くないと言っている時まで、何かを着せる必要はありません」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。回廊を半分ほど進んでから足を止める。
「悪かった。俺は加減が分からない」
「四年分だからですか」
「それもある。北部では必要な物が足りずに人が死ぬ。足りないより余る方がよいと思ってしまう」
それは単なる溺愛ではなく、彼が治めてきた土地で身についた考え方だった。エレノアは責める言葉をのみ込んだ。ただし受け入れるだけでは、また相手へ本心を伝えない関係になる。
「余った物を保管するにも人手と場所が要ります。私が必要だと言った時に一つ用意してくだされば足ります」
「分かった。次から聞く」
「本当に?」
「努力する」
彼が即答しなかったことをエレノアは評価した。何でもできると請け合うより信用できる。
「では私も一つ伺います。北部で今足りない物は何ですか」
「求婚の話から領政の話に変えるのか」
「お嫌ですか」
「いや。君らしい」
北部では雪解け水で二つの橋が傷み、修理用の鉄材が不足していた。王都から買えば運送費がかかる。エレノアは公爵家と取引のある商会を思い出し、余っている鉄材がないか確認すると約束した。
「安く手に入るとは限りません。条件が合わなければ断ってください」
「君からの贈り物ではないのか」
「商取引です。代金はいただきます」
「分かった。値切る」
「望むところです」
数日後には商会から見積書が届いた。ヴィクトルは北部の相場と比べ、運送の護衛を自領で出す代わりに値を下げる案を返してきた。エレノアも倉庫の使用料を計算し直し、さらに条件を詰める。
二人が初めて交わした取引は、どちらかが一方的に譲ることなくまとまった。
次にヴィクトルが王都へ来た時は、贈り物を持っていなかった。
「手ぶらですね」
出迎えたエレノアが言うと彼の眉が動いた。
「持ってこない方がよいと言われた」
「聞いてからにしてくださいと申し上げました。欲しくないとは言っておりません」
「難しいな」
「まず何が欲しいか尋ねれば済みます」
ヴィクトルは考え込み、改めて彼女を見た。
「何か欲しい物はあるか」
「北部で使われている在庫帳を見せてください。橋の資材を送った後の管理方法が気になります」
「物ではないのか」
「今はそれが欲しいのです」
彼は持参した書類の束から在庫帳の写しを取り出した。エレノアが求めるかもしれないと考え、あらかじめ用意していたらしい。
「十分な贈り物です」
二人は庭へ出る予定を取りやめ、日が暮れるまで在庫の分類について話した。
夕食の時刻になり、グレゴールが応接室をのぞいた。机いっぱいに書類を広げる二人を見てため息をつく。
「北辺侯。娘を口説きに来たのではなかったのか」
「そのつもりです」
「これが求婚中の男女に見えるか」
ヴィクトルとエレノアは机の上を見た。鉄材の値段と倉庫の記録しかない。
「私たちはこれでよいのです」
エレノアが答えるとヴィクトルもうなずいた。
グレゴールは二人を食堂へ呼び、使用人に書類を片づけさせた。その日の夕食でヴィクトルは北部の料理や冬の暮らしについて話した。エレノアは領主の妻に求める役目を尋ね、彼は自分の補助ではなく彼女が得意な分野を任せたいと答えた。
「私と意見が合わない時はどうなさいますか」
「話し合う。俺が間違っていれば直す」
「ご自分が正しいと思った時は?」
「君を説得する。それでも決まらなければ、誰が責任を負う仕事かで決める」
エレノアは向かいに座る父を見た。グレゴールは口を挟まず肉を切っているが、会話は聞いている。
「私が感情的になっていても同じですか」
「感情があることと、判断を誤ることは同じではない」
ローデリックはエレノアを冷たい女だと呼んだ。一方でミレイユの涙を疑わなかった。どちらも表に出た感情だけで人を決めている。
ヴィクトルは違った。エレノアが怒っていても理由を聞き、泣いていても主張が正しいかは別に考えるのだろう。
「よい答えです」
「試されていたのか」
「半年後の返事に必要な質問です」
「では合格か」
「質問はまだ残っています」
ヴィクトルは残念そうな顔をしたが、答えを急がせなかった。
交流を重ねる間に王宮での処分も決まった。
ミレイユの侍女と木型を作った職人の証言は覆らなかった。ミレイユ本人も追及を受け、最初の二件を大げさに語り、最後には脅迫状を作らせたと認めた。
ハーディ男爵家は公爵家への賠償を命じられた。ミレイユは王宮への出入りを禁じられ、父親の領地で監督を受けることになった。偽造に加担した侍女と職人についても、それぞれの事情に応じた処分が下された。
ローデリックは王太子の地位を停止された。国王はだまされたことではなく、調査を怠ったまま公の場で断罪した判断を問題にした。彼は王都を離れ、王家が直轄する地方領で行政と領地経営を学び直すことになった。
公爵家と王家の共同事業は全てが打ち切られたわけではない。民の生活に影響する事業は条件を改めて継続し、王家の利益だけを目的とした契約は終了した。グレゴールは感情で国政を混乱させるようなまねをしなかった。
報告を読み終えたエレノアも喜びはしなかった。
「殿下を許せないか」
向かいで書類を整理していたヴィクトルが尋ねた。彼は王都へ来るたび公爵邸を訪れ、今では応接室の一角で仕事をするようになっていた。
「許すかどうかを考えなくなりました。処分は陛下がお決めになったことです。私にはもう関係ありません」
「そうか」
ヴィクトルは追及せず、自分の書類へ戻った。
一刻ほどたってエレノアが顔を上げると、卓上にパンと温かいスープが置かれていた。
「いつ運ばれたのですか」
「君が報告書を読んでいる間だ」
「先に言ってください」
「言った。三回」
全く覚えていない。エレノアが窓を見ると日は傾き始めていた。
「仕事をしていると食事を忘れると料理長から聞いた」
「料理長は私のことを話しすぎではありませんか」
「役に立っている」
ヴィクトルは書類を取り上げ、代わりにスプーンを渡した。
以前のエレノアなら仕事を中断させられたことへ反発したかもしれない。だが彼は仕事を軽く見ているのではない。急ぎの分は既に片づけ、残りが明日でもよいと確認してから食事を用意していた。
自分でも気づかないところを見られることに、もう戸惑いはなかった。
半年目の終わりが近づいた頃、エレノアは父へ北部へ行きたいと申し出た。
「返事をする前にアルノルト領を見ておきたいのです。結婚すれば暮らす場所になります」
「見てこい。帳簿だけでは分からぬこともある」
ヴィクトルには訪問の日程だけを伝えた。迎えに来るという申し出は断り、公爵家の護衛と共に北へ向かった。
王都から離れるほど街道の両側には雪が残っていた。領都へ着くと、ヴィクトルは門の外で待っていた。軍服の上に厚い外とうを着ている。
「お待たせしました」
「予定より半刻早い」
「いつからこちらに?」
「朝からだ」
到着は午後だった。エレノアが責めるように見ると、彼は馬車から降りる手を支えながら言った。
「待ちたかった」
何を言っても無駄らしい。
滞在中、ヴィクトルは領都だけでなく農村や砦にも案内した。北部は豊かな土地ではない。長い冬に備えて食料を蓄え、魔物が現れれば兵と住民が協力して守る。領主の判断が遅れれば被害はすぐに広がる。
ヴィクトルは厳しかった。仕事を怠った役人をその場で叱り、補給を軽んじた隊長にはやり直しを命じた。一方で兵の家族の名を覚え、雪で屋根を失った家には領主館の資材を回していた。
エレノアが帳簿の不備を指摘しても機嫌を悪くしなかった。翌日には担当者を集め、改善案について彼女の意見を求めた。
「私が領政に口を出してもよいのですか」
「間違っているなら身分に関係なく注意するのだろう」
「その言い方は誰から聞きました?」
「王都では有名だ」
「悪い意味ででしょうね」
「俺は気に入っている」
彼の前では取り繕う必要がなかった。言葉を選ばなければ相手を傷つける。その反省は忘れない。それでも正しいと思うことを黙って見過ごすよう求められることはない。
滞在の最終日、ヴィクトルは城の裏手にある丘へエレノアを連れていった。雪が解けた斜面に白い花が咲いている。
手紙に描かれていた花だった。実物は絵よりずっと小さく、葉も花弁を隠すほど大きくはない。
「絵とは形が違いますね」
「あれでも三度描き直した」
「そうでしたか。大切に保管しています」
ヴィクトルが足を止めた。
エレノアは白い花の前へしゃがみ、手袋を外して花弁に触れた。冷たい風に耐えて咲く花を、四年前から彼は見せたいと思っていたのだろう。
「半年たった」
背後から声がした。
「覚えていたのですね」
「一日も忘れていない」
エレノアは立ち上がった。ヴィクトルは急かさず返事を待っている。
「王太子殿下との婚約が決まった時、私は家のために必要なことだと受け入れました。相手を知ろうとはしましたが、自分で選んだとは言えません」
ヴィクトルは黙って聞いていた。
「今度は自分で選びます。ヴィクトル・アルノルト様。あなたの求婚をお受けします」
金色の目が見開かれた。いつも即答する彼が言葉を失っている。
「何かおっしゃってください」
「抱き締めてもいいか」
「返事が先ではありませんか」
「一生大切にする」
「それは返事というより宣言です」
「断らないという意味だ」
エレノアがうなずくと、ヴィクトルの腕が背中へ回った。大柄な体に包まれても怖くはない。彼は力を加減し、逃げようと思えば離れられるだけの余地を残していた。
エレノアはその隙間を自分から埋めた。
二人の婚約は北部から戻った後に正式に発表された。
王都では婚約破棄から半年で相手を替えたと口にする者もいた。ヴィクトルはそのうわさを聞くたび発言者へ理由を尋ねに行こうとしたため、止める方が大変だった。
「放っておけばよいのです」
「君の名誉に関わる」
「舞踏会で事実は明らかになりました。今さら何を言われても変わりません」
「俺が腹を立てる」
「では私のためではなく、ご自分のためですね」
エレノアが指摘するとヴィクトルは黙った。否定できないらしい。
婚礼は翌年の春に北辺領で行われた。
豪華さより領民が参加できることを優先し、城前の広場にも料理と酒が並んだ。エレノアは紺色の刺しゅうが入った白いドレスを着た。ヴィクトルは見慣れない正装で朝から落ち着かず、誓いの言葉だけは誰よりはっきり述べた。
北辺侯爵夫人となったエレノアは領政に加わった。倉庫ごとに異なっていた物資の記録を統一し、冬になる前に村から不足品を報告させる仕組みを作った。最初は冷たい王都の令嬢だと遠巻きにしていた役人たちも、彼女の指摘が正確で身分によって態度を変えないと知るにつれて相談を持ち込むようになった。
結婚から三月後の午後、王都から一通の手紙が届いた。
差出人はかつて王宮でエレノアに仕えていた侍女だった。近況に続き、元王太子ローデリックが赴任先で苦労していると書かれている。予算を組み直し、農民から税の相談を受け、これまで他人に任せていた仕事を一から学んでいるらしい。
エレノアは最後まで読むと手紙を折った。
「何と書いてあった」
執務机の反対側にいたヴィクトルが尋ねる。
「ローデリック様の近況です」
「読みたいか」
「もう読みました」
「そうではない。これからも知らせが欲しいかと聞いた」
エレノアは少し考えて首を横に振った。
「必要ありません。あの方が学び直せるかどうかは、もう私が見届けることではありません」
ヴィクトルは手を差し出した。エレノアが渡すと封筒ごと暖炉へ入れる。紙の端から火が回り、文字は間もなく読めなくなった。
「今日は何か欲しい物はあるか」
「昨日も聞きました」
「昨日と今日は違う」
「一昨日も同じことをおっしゃいました」
「欲しい物が見つかるまで聞く」
宝石も毛皮も足りている。北部の果実は季節になると木箱で届く。これ以上物を増やされたら収納場所から考え直さなければならない。
エレノアは窓の外を見た。城下の通りでは春市が開かれ、色とりどりの天幕が並んでいる。ヴィクトルがそばにいると領民が緊張するため、二人で歩いたことはまだなかった。
「では一つあります」
「何だ」
「今日は町を歩きたいです。一緒に来てください」
「もちろんだ」
予想どおりの即答だった。
「軍服ではなく普段着に替えてください。それから護衛は離れた場所に。町の皆が道を空けてしまいます」
「分かった。他には?」
「買い物をして、広場で焼き菓子を食べます。侯爵夫妻の視察ではありません。仕事の話もなしです」
ヴィクトルは一瞬だけ難しい顔をした。仕事をしないことが最も厳しい条件らしい。
「努力する」
「守ってください」
エレノアは席を立ち、夫の腕に自分の腕を絡めた。
十二年前の婚約では誰かに決められた道を歩こうとした。今は行き先も隣にいる人も自分で選べる。
ヴィクトルは彼女の歩幅に合わせて執務室を出た。




