悪役令嬢人形譚〜傷物人形は笑わない、たぶん〜
ご覧いただきありがとうございます!
『悪役令嬢人形譚』シリーズの第3弾をお届けします。
今回は「傷物」と蔑まれ追放された元伯爵令嬢が、余りものの端切れと怪しい人形を手に、己の腕と帳簿だけを信じて逞しく這い上がっていく起業&逆転ストーリーです。
ちょっと不揃いな人たちが織りなす、商売と再生の物語。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです!
◆
帳簿は嘘をつかない。
少なくとも、酔っ払いの父親よりは信用できる。
「……合いませんわね」
エレオノーラ・フォン・ヴァインベルクは、数字の並んだ紙を睨みながら呟いた。
もう三度計算した。
一度目は普通に。
二度目は自分の計算間違いを疑って。
三度目は、もしかしたら数字の方が気を利かせて変わってくれているのではないかという、まったくもって非合理的な期待を込めて。
当然、変わらなかった。
今月の収支は赤字である。
しかも、そこそこ立派な赤字だった。
「どうして……」
エレオノーラは額を押さえた。
「先月より節約しておりますのに、どうして先月より赤字が増えておりますの?」
返事はない。
深夜の執務室には、彼女しかいなかった。
机の上には帳簿と領収書の束。
冷めた紅茶。
使い込まれた計算板。
そして、小さな裁縫箱。
伯爵令嬢の机として正しい光景なのかは分からない。
少なくとも、十九歳の未婚女性が夜中まで向き合うものとして、領収書の束はあまり華やかではなかった。
もっとも、エレオノーラは華やかさというものを、とうの昔に諦めている。
正確には。
華やかに見せることと、本当に華やかな暮らしをすることは、まったく別物だと理解していた。
今日着ていたドレスだってそうだ。
薄青色の絹地に、銀糸の刺繍。
胸元には白いレース。
腰には大きなリボン。
今夜の夜会で、
『まあ、ヴァインベルク伯爵令嬢。また新しいドレスですの?』
などと嫌味交じりに言われた。
エレオノーラは笑顔で、
『ええ。少し気分を変えてみましたの』
と答えた。
嘘ではない。
気分は変えた。
ドレスは変えていない。
三年前に作ったものを解体して、袖を取り外し、襟ぐりを広げ、裏側に使われていた布の一部を表へ出し、別のドレスから外したレースを縫いつけた。
腰のリボンに至っては、昨年の冬まで帽子についていた。
新しいものは、糸くらいである。
それでも夜会へ出れば、
『婚約破棄されたというのに、ずいぶん派手に遊び歩いている』
と言われる。
大変結構なことだった。
そう見えているなら、成功である。
ヴァインベルク伯爵家が、あと少しで使用人の給金にまで手をつけなければならない程度には困窮しているなどと、社交界に知られるよりずっといい。
エレオノーラは再び帳簿へ目を落とした。
「食費……問題なし。薪炭費……少し高いですけれど、お母様のお部屋は暖かくしておかなければなりませんし」
削れない。
「テオドールの家庭教師……これも削れませんわね」
八歳になる弟は、いずれヴァインベルク伯爵家を継ぐ。
教育費を惜しむわけにはいかない。
「使用人の給金……」
これも削れない。
むしろ、これ以上人を減らせば屋敷そのものが回らなくなる。
庭師はすでに通いに変えた。
厨房も三人いた料理人を一人にした。
侍女も最低限。
馬車だって、夜会へ出る必要がない日はほとんど使わない。
自分の被服費は――。
「……よし」
限りなくゼロに近い。
令嬢として喜ぶところではない気もするが、帳簿上は大変美しい。
ならば、どこだ。
エレオノーラは指で数字を追っていく。
そして。
見つけた。
「…………」
見つけてしまった。
帳簿の隅に、控えめに書かれた一項目。
金額そのものは、それほど大きくない。
だが、今のヴァインベルク家にとっては十分すぎるほど大きい。
『交際費 四十二リール』
エレオノーラは無言で立ち上がった。
時計を見る。
午前零時を少し回ったところ。
父はまだ帰っていない。
「……お父様」
声だけは静かだった。
「今度は何をなさいましたの」
嫌な予感しかしなかった。
なにしろ先月は、南方から来た商人に勧められたという葡萄酒を一箱買っている。
その前は珍しい猟犬。
さらにその前は、今後必ず値上がりすると言われた謎の鉱石。
葡萄酒はまだいい。
飲める。
猟犬も、まあいい。
今では弟が可愛がっている。
鉱石だけは本当にどうしたらいいのか分からない。
売ろうにも値がつかなかった。
現在は庭の隅に置かれ、テオドールが剣術の稽古をするときの目印になっている。
四十二リール。
いったい何を買ったのか。
いや。
まだ買ったとは限らない。
父にも付き合いがある。
伯爵という立場上、交際費が発生することだって――。
玄関の方から、大きな音がした。
「旦那様! お静かに!」
「大丈夫だ! 私はまったく酔っていない!」
酔っ払いは、なぜ必ずそう言うのだろう。
エレオノーラは目を閉じた。
前世でも聞いた覚えがある。
酔って帰ってきた父親。
散らかった食卓。
翌月の支払い。
『家族なんだから』
『お前はしっかりしているから』
『少しくらい助けてくれてもいいでしょう』
そうやって、誰かの失敗の後始末をするのは、いつも自分だった。
昔のことだ。
もう一度死んで、名前も、国も、身分も変わった。
なのに、どうしてこういうところだけ妙に似るのだろう。
「……まったく」
エレオノーラは帳簿を閉じた。
「神様も、もう少し配役というものを考えてくださればよろしいのに」
転生したこと自体には、もう驚いていない。
十九年も経てば、そんなものだ。
前世の記憶があると自覚したのは、五歳の頃だった。
熱を出して三日寝込んだあと、知らないはずの言葉や景色を突然思い出した。
最初こそ混乱したものの、今では昔読んだ本の内容と大差ない。
思い出せることもあれば、忘れてしまったこともある。
前世の名前すら、もう朧げだった。
ただ。
家族のために我慢することだけが美徳ではない。
そのことだけは、よく覚えている。
だから今度こそ同じ轍は踏まない。
――つもりだったのだが。
「エレオノーラ!」
父の声がした。
「起きているか!」
「寝ていたことにしてもよろしいかしら」
誰にともなく尋ねた。
返事はない。
「……駄目ですわよね」
エレオノーラは執務室を出た。
廊下の先から、父がやってくる。
ヴァインベルク伯爵、コンラート。
五十歳。
人がよく、愛想もよく、友人も多い。
そして金勘定には絶望的に向いていない。
足元がおぼつかない父を、老執事が必死に支えている。
「お帰りなさいませ、お父様」
「おお、エレオノーラ!」
「お静かに。お母様とテオドールが眠っています」
「ああ、そうだったな」
父は急に小声になった。
「すまん」
「それで」
エレオノーラは父の両手を見る。
何か持っている。
大きな布包み。
嫌な予感が、確信へ変わった。
「そちらは何ですの?」
「よくぞ聞いてくれた!」
「声」
「おっと」
父が再び声を落とす。
そして、とても嬉しそうに布包みを持ち上げた。
「素晴らしいものを手に入れたぞ」
エレオノーラは笑った。
夜会で鍛え上げた、完璧な微笑だった。
「おいくらでしたの?」
「まず何か聞かないのか?」
「おいくらでしたの?」
「……」
「お父様?」
「四十二リール」
ぴたり。
帳簿と一致した。
やはり帳簿は嘘をつかない。
「返してきてくださいませ」
「待て待て待て!」
「今すぐ」
「まだ何かも見ていないだろう!」
「何であろうと、我が家に四十二リールの余裕はございません」
「だがこれは普通の品ではないんだ!」
「お父様がそうおっしゃって買ってきた普通ではない鉱石が、庭にございますわね」
「あれとは違う!」
「猟犬の時もそうおっしゃいました」
「あれはテオドールが喜んだだろう」
「結果論です」
「今回は本当にすごいんだ!」
エレオノーラはこめかみを押さえた。
「何ですの」
父は待ってましたとばかりに笑った。
「予言するんだ」
「…………何が?」
「これが」
布が取られた。
現れたものを見て、エレオノーラは瞬きをした。
人形だった。
少女を模した、美しい人形。
陶器のようになめらかな白い肌。
淡い亜麻色の髪。
青とも灰色ともつかない、不思議な色の硝子の瞳。
古いものらしく衣装には多少の傷みがあったが、細かな刺繍が施されている。
かなり上等な品なのは、エレオノーラにも分かった。
だからといって。
「四十二リール」
「ああ」
「これに?」
「未来を予言するそうだ!」
「返してきてくださいませ」
「だから待て!」
「どちらでお買いになったんですの?」
「酒場で会った商人だ」
「酒場」
「ああ」
「初対面の?」
「たぶんな」
「お名前は?」
「……聞いたような気はする」
「お店は?」
「店?」
「商人なのでしょう?」
「旅商人らしいぞ」
エレオノーラは天井を見た。
神様。
前言を撤回する。
これは前世より酷い。
「明日探します」
「何を?」
「その商人をです。代金を返していただきます」
「しかし予言が――」
「いたしません」
「まだ分からないだろう」
「人形は予言いたしません」
「商人はするって言っていたぞ」
「お父様は酔っていらしたのでしょう?」
「今ほどではない」
「何の安心材料にもなりませんわ」
父が不満そうに人形を抱え直した。
「だがな、エレオノーラ。この人形は――」
ぐらり。
父の身体が傾いた。
「あ」
「お父様?」
人形が腕から滑った。
エレオノーラが手を伸ばす。
間に合わない。
硬い床へ、人形が落ちる。
乾いた音がした。
「…………」
「…………」
老執事まで固まった。
床に横たわった人形を、三人で見下ろす。
エレオノーラはゆっくりしゃがんだ。
人形を抱き起こす。
首。
腕。
脚。
幸い、大きく割れてはいない。
しかし。
「ああ……」
額に。
細い亀裂が走っていた。
髪の生え際から眉の少し上まで。
蜘蛛の糸のようなクラック。
「お父様」
「……はい」
「四十二リール」
「……はい」
「返品しようとしていた四十二リールの商品を」
「……うむ」
「なぜ壊しますの?」
「わざとでは――」
「分かっております!」
とうとう声が大きくなった。
二階から物音がした。
エレオノーラは慌てて口を閉じる。
母と弟を起こしたくない。
深く息を吸う。
吐く。
もう一度。
「……明日」
静かに言った。
「明日、その商人を探します」
「だが壊れてしまったぞ」
「誰のせいですの?」
「私だな」
「そうですわね」
父がしょんぼりする。
それを見ると、それ以上怒る気も失せた。
本当に、悪い人ではないのだ。
悪い人ではないから困る。
「もうお休みくださいませ」
「ああ」
「水を飲んでから」
「分かった」
「アルノー」
老執事へ父を任せる。
「お願いいたします」
「かしこまりました」
父が連れていかれる。
エレオノーラはその場に残った。
腕の中には、四十二リール。
ではなく。
人形。
「……あなたも災難でしたわね」
思わず口から出た。
人形は何も答えない。
当たり前だ。
「買われたと思ったら、酔っ払いに放り落とされるなんて」
額の亀裂へ触れようとして、やめる。
これ以上傷めたくない。
「まあ」
エレオノーラは小さく息を吐いた。
「あなたに罪はありませんものね」
とりあえず自室へ連れていくことにした。
机の横の椅子へ座らせる。
灯りの下で改めて見ると、やはり綺麗な人形だった。
ただ。
額のクラックが、思ったより目立つ。
「これでは売るにしても値が落ちますわね……」
売却する気はまだある。
というより、明日の朝一番で商人を探し出し、返品するつもりだった。
それが駄目なら、少しでも高く買ってくれる店を探す。
四十二リール。
四十二リールあれば。
母の薬代が払える。
弟の家庭教師代にもなる。
薪が買える。
厨房の傷んだ鍋も交換できる。
何より。
来月の帳簿を見ながら、胃を痛めずに済む。
「……本当に、もう」
人形を睨む。
「予言ができるのでしたら、教えてくださらない?」
もちろん返事はない。
「この家、どうしたら立て直せますの?」
沈黙。
「でしょうね」
自分で言って、自分で答えた。
馬鹿馬鹿しい。
エレオノーラは立ち上がり、夜会用のドレスを脱ぎ始めた。
明日はこのドレスも解かなければならない。
裾のレースを別のものへ変える。
袖も戻す。
そうすれば次の夜会でもう一度使えるだろう。
髪をほどき。
化粧を落としかけて。
ふと、人形を見る。
「…………」
自分の化粧道具を見る。
もう一度、人形の額を見る。
「これ」
近づいてみる。
クラックは浅い。
完全に消すことは無理でも、目立たなくすることなら。
「……できそうですわね」
エレオノーラは椅子を引いた。
化粧箱を開く。
「売るにしても、綺麗な方が値がつくでしょうし」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
細い筆を取る。
色を混ぜる。
人間の肌と人形の肌は違う。
それでも、夜会で寝不足も疲労も全部なかったことにしてきた技術は伊達ではない。
「動かないでくださいませね」
言ってから、少し笑った。
「あなたは動きませんわね」
細い亀裂へ、慎重に色を重ねる。
完全には隠れない。
けれど遠目には、かなり分からなくなった。
「ほら」
エレオノーラは満足して筆を置いた。
「これなら少しはましでしょう?」
人形は相変わらず無表情だった。
青灰色の硝子の目が、こちらを見ている。
「…………」
なぜだろう。
ほんの少しだけ。
先ほどより、穏やかな顔になったような気がした。
「そんなわけありませんわね」
エレオノーラは即座に否定した。
疲れている。
今日は夜会にも出た。
帳簿もつけた。
酔っ払いの父親の相手までした。
寝よう。
明日は忙しい。
朝一番で酒場へ行き、商人を探す。
絶対に見つける。
そして。
「四十二リール、返していただきますからね」
人形へ宣言してから、エレオノーラは寝台へ入った。
もちろん。
この時の彼女はまだ知らなかった。
翌朝。
父がその商人の顔も名前も、どこの酒場で会ったのかさえ、ほとんど覚えていないことを。
そして――。
四十二リールを取り返すために始めた人形探しが、やがて彼女自身の人生を、伯爵令嬢という枠の外へ連れ出すことになるなど。
知るはずもなかった。
◆◇
翌朝。
「……どこの酒場でしたの?」
「さて」
「お父様」
「うむ」
「どこの酒場でしたの?」
「だから、それを思い出している」
朝食の席で、エレオノーラは両手を膝の上に置いた。
握りしめると皺になるので、置いただけである。
向かいでは父コンラートが、昨夜の酒が残っているのか、こめかみを押さえながら白湯を飲んでいた。
その隣では八歳のテオドールが、パンに蜂蜜を塗っている。
母はまだ寝室から出られない時間だった。
「酒場のお名前は?」
「それもなあ」
「商人のお名前は?」
「聞いたと思うんだが」
「お顔は?」
「髭があった」
「色は?」
「髭の?」
「ほかに何がありますの」
「……茶色だったような」
「ような」
「黒かったかもしれん」
「お父様」
「すまん」
エレオノーラは目を閉じた。
昨夜から、もしかしたらとは思っていた。
だが、人は希望を捨ててはいけない。
もっとも、その希望はつい今しがた完全に潰れた。
「姉上」
テオドールが小さく手を上げた。
「何ですの?」
「昨日、お父様、人形を買ったの?」
「ええ」
「見たい」
「駄目です」
「どうして?」
「四十二リールだからです」
「よんじゅうに?」
弟は数秒考えた。
「高い?」
「ものすごく」
「じゃあ大事にしないと」
その言葉に、エレオノーラは一瞬だけ詰まった。
「……そうですわね」
売り払うつもりではある。
しかし壊してよい理由にはならない。
それは確かだった。
父は気まずそうに白湯をすすった。
「昨日、落としてしまったしな」
「お父様は黙っていてくださいませ」
「はい」
父がしゅんとする。
テオドールは気にせず蜂蜜のついたパンを頬張った。
「僕、あとで見に行っていい?」
「手を洗ってからですわよ」
「うん!」
エレオノーラはそこでようやく、自分が売るつもりの人形に対してずいぶん細かいことを言っていると気づいた。
だが。
まあ。
売るにしても綺麗な方がよい。
それだけである。
「それで、お父様」
「はい」
「覚えていることを全部、今から紙に書いてくださいませ」
「今?」
「今です」
「朝食が」
「食べながらで結構です」
「エレオノーラ」
「何でしょう」
「お前、昔より怖くなったな」
「誰のせいだと?」
「……父親というのは、こういう時に何も言えないものだな」
「ご自覚があって何よりですわ」
テオドールがくすくす笑った。
エレオノーラも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
怒っている。
もちろん怒っている。
だが、この家族を嫌いなわけではない。
そこがいちばん厄介なのだ。
結局、父から得られた情報はひどく曖昧だった。
夜の酒場。
王都のどこか。
商人は旅装だった。
年は四十から六十くらい。
髭があった。
帽子を被っていた。
人形のほかにも古い時計や銀器らしきものを売っていた。
「……露店商ではなく、行商人の類ですわね」
エレオノーラは紙を見ながら呟いた。
候補が広すぎる。
だが、探せないこともない。
まず父が昨夜回った酒場をたどる。
伯爵家の御者に確認したところ、三軒までは絞れた。
問題は、それ以上だった。
「三軒」
エレオノーラは予定表を見る。
午前に仕立屋。
昼過ぎに母の薬を受け取り。
夕方は商会の主人との面会。
夜は夜会。
「……今日しかありませんわね」
予定が空いている時間ではない。
予定と予定の間に押し込む。
いつものことだった。
午前十一時。
エレオノーラは一軒目の酒場にいた。
伯爵令嬢が昼前から酒場にいる。
なかなかに誤解を招く光景である。
しかもドレスは地味なものを選んだとはいえ、どう見ても平民ではない。
店主が恐縮していた。
「昨夜、古物を売っていた商人が来ませんでしたか?」
「商人、でございますか」
「旅装で、髭があって、人形や時計を持っていたそうです」
「ううん……」
店主は首を捻る。
「昨夜は人が多かったですからねえ」
「父がこちらへ来たそうなのです」
「ヴァインベルク伯爵様が?」
「ええ」
「ああ!」
店主の顔が明るくなった。
そしてすぐ気まずそうになった。
「いらっしゃいました」
「でしょうね」
「たいへん……お元気で」
「酔っていたのですね」
「ええ、まあ」
「正直にどうぞ。慣れております」
「かなり」
「ありがとうございます」
悲しい慣れである。
「商人のことは?」
「いやあ、私は見ていませんね。伯爵様はお連れの方々と飲んで、そのあと別のお店へ行かれました」
「どちらへ?」
「たぶん『赤鹿亭』かと」
エレオノーラは手帳に書き込む。
「ありがとうございます」
「いえ。しかしお嬢様」
「はい?」
「伯爵様、何か買われたんですか?」
少し迷う。
だが、隠しても仕方がない。
「人形を」
「人形?」
「未来を予言すると言われたそうです」
「……」
店主が黙った。
「笑ってよろしいですわ」
「いえ、とんでも」
肩が震えている。
「笑っておりますわね」
「申し訳ございません」
「お気持ちは分かります」
エレオノーラはため息をついた。
二軒目でも収穫はなかった。
三軒目。
赤鹿亭。
「その商人なら見たよ」
給仕の青年が言った。
エレオノーラは思わず身を乗り出した。
「本当ですの?」
「ああ。妙な品を並べてた。銀の懐中時計だとか、外国の彫像だとか」
「人形は?」
「持ってたな。でかいやつ」
心臓が少しだけ跳ねる。
「どこへ行ったか分かります?」
「そこまでは」
「宿は?」
「さあ」
「何か名乗っていませんでした?」
青年は考える。
「……グレイ、だったかな」
「グレイ?」
「いや、グレンだったかも」
「どちらですの」
「酔ってたからなあ」
「あなたもですの」
「酒場だし」
正論である。
エレオノーラは眉間を押さえた。
「何かほかに覚えていることは?」
「そうだな。妙なこと言ってた」
「妙なこと?」
「あの人形」
青年が声を落とす。
「買う人を選ぶんだとか」
エレオノーラは数秒黙った。
「……売る人が客を選ぶ、ではなく?」
「人形が」
「人形は選びません」
「俺もそう思った」
「まともですわね」
「でも、その商人、妙に真顔だったんだよ」
「それで父が買ったのですか」
「いや」
「違う?」
「伯爵様は最初、買う気なかったと思う」
「……そうなのですか?」
これは意外だった。
「高いって文句言ってたよ」
エレオノーラは驚く。
父に金銭感覚が残っていた。
「それで?」
「商人が何か言ったんだ」
「何を?」
「そこは聞こえなかった。でも伯爵様、急に黙って。それから買った」
「……」
「ま、酔っ払い同士の話だから当てにしないでくれよ」
「承知しております」
エレオノーラは礼を言い、店を出た。
商人は見つからなかった。
名前も曖昧。
宿も不明。
ただ。
父は最初、人形を買う気がなかった。
それだけが新しい情報だった。
どうでもよい情報のようで、少しだけ引っかかった。
屋敷へ戻ると、テオドールが人形の前に座っていた。
「何をしていますの?」
「あ、姉上」
床に座り、人形と向かい合っている。
人形はエレオノーラの部屋の椅子に座ったまま。
「お勉強は?」
「終わったよ」
「家庭教師の先生は?」
「今日はもう帰った」
「そう」
エレオノーラは帽子を外した。
「触っていませんでしょうね?」
「触ってない」
「よろしい」
「でも、名前ないの?」
「人形に?」
「うん」
「知りませんわ」
「聞けば?」
「誰にですの」
「人形に」
「答えません」
「そうかな」
テオドールは人形を見る。
「僕には、エミリーって感じがする」
「どこから出てきた名前ですの?」
「なんとなく」
「却下」
「どうして!」
「勝手に名付けないでくださいませ」
「姉上のなの?」
「違います」
「じゃあ誰の?」
エレオノーラは詰まった。
「……伯爵家の、ですわ」
「お父様が買ったから?」
「そうです」
「じゃあ父上に名前聞こう」
「やめなさい」
「どうして?」
「『予言姫』などと名付けそうです」
テオドールは少し考えた。
「ありそう」
「でしょう?」
二人で人形を見る。
額のクラックは、昨夜の化粧でかなり目立たなくなっていた。
テオドールが目を細める。
「昨日よりきれいだね」
「少し整えましたの」
「姉上が?」
「ええ」
「姉上、器用だもんね」
「必要に迫られて、ですわ」
「それでもすごいよ」
素直に言われると困る。
エレオノーラは軽く咳払いした。
「あなたはおやつを食べていらっしゃい」
「はーい」
テオドールが出ていく。
扉が閉まる。
エレオノーラは人形の前へ立った。
「……エミリーではありませんわよね?」
返事はない。
「当たり前ですけれど」
ふと。
昨夜より髪が乱れている気がした。
テオドールは触っていないと言った。
使用人が掃除の時に動かしたのだろう。
「まったく」
エレオノーラは髪を整えた。
ひどく自然に。
自分が何をしているのか、気づくのが少し遅れた。
「……売るものに手をかけても仕方ありませんのに」
そう言いながら、リボンの位置まで直す。
人形は何も言わない。
それでいい。
その夜の夜会で、エレオノーラはまた笑っていた。
「まあ、ヴァインベルク伯爵令嬢」
「ごきげんよう」
「今夜もいらしたのね」
「ええ」
「お忙しい方」
言葉だけなら褒めている。
口調で、そうではないと分かる。
「近頃、ずいぶん夜会へお顔を出されるのね」
「ご招待いただけるのですもの。ありがたいことですわ」
「まあ」
相手の令嬢が扇の向こうで微笑む。
「次のご縁をお探しなのかと思っておりました」
エレオノーラも微笑み返した。
「ご心配いただきありがとうございます」
「だって、ねえ」
もう一人が加わる。
「公爵家との婚約がなくなってから、もう二年でしょう?」
「そうですわね」
「十九歳となれば、そろそろ――」
「妹さん」
エレオノーラはさりげなく話を切り替えた。
「先日の演奏会でお見かけしましたわ。とても美しいドレスでした」
「まあ、見てくださったの?」
話題は簡単に変わる。
令嬢たちはドレスと音楽の話へ移っていった。
エレオノーラは笑顔を保つ。
慣れている。
もう何度も言われている。
婚約破棄された令嬢。
十九歳。
次の婚約者もいない。
傷物。
売れ残り。
直接そう言わないだけで、意味は同じだった。
それでも夜会へ来る。
来なければならない。
今夜は織物商の夫人に会う予定がある。
ヴァインベルク領の農村で作られている亜麻布を、王都で売れないか相談するためだ。
遊びではない。
結婚相手探しでもない。
だが説明する必要もない。
結果が出ればいい。
結果だけは、誰にも否定できない。
「エレオノーラ様」
声をかけられ、振り返る。
商会主の夫人がいた。
「お話、少しよろしい?」
「もちろんですわ」
エレオノーラは笑う。
本当の仕事は、ここからだった。
屋敷へ帰ったのは、また深夜だった。
成果はあった。
亜麻布を試験的に取り扱ってもらえることになった。
量は少ない。
価格も高くはない。
それでもゼロではない。
領地の収入源が一つ増える。
「……よし」
執務室で契約条件を書き留める。
疲れていた。
だが、今書かなければ忘れる。
明日は明日で予定がある。
そこへ。
裁縫箱が目に入った。
今夜のドレス。
袖口のレースが少しほつれている。
「……これも直しておきませんと」
エレオノーラはドレスを広げた。
レースを慎重に外す。
傷んでいる部分だけを切り落とす。
残った部分はまだ使える。
別の襟に。
袖口に。
髪飾りにも。
ほつれた短い一片だけが余った。
「これはさすがに……」
捨てようとする。
そこで人形が目に入った。
椅子の上。
昨夜と同じ顔。
同じ古い衣装。
「…………」
エレオノーラは手元のレースを見る。
人形を見る。
「あなたくらいなら、足りますわね」
返事はない。
「捨てるよりましでしょう?」
誰に確認しているのだろう。
細いレースを、人形の首元へ当ててみる。
悪くない。
「色が合いませんわね」
外す。
別の箱からリボンを出す。
薄い灰青。
「こちらの方が」
結んでみる。
人形の硝子の目とよく合った。
「……あら」
思ったより可愛い。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
エレオノーラは口元を緩めた。
「これなら、四十二リール……」
言いかけて。
やめる。
「いえ。それは無理ですわ」
そこは冷静だった。
人形を椅子に戻す。
リボンはそのままにした。
数日間、商人を探した。
酒場。
古物商。
市場。
旅商人が集まる広場。
誰も知らない。
似た男を見たという話はあっても、本人には辿り着かない。
四十二リールは戻らない。
現実が少しずつ確定していく。
「……損失として処理するしかありませんわね」
帳簿へ書く。
嫌だった。
ものすごく嫌だった。
だが帳簿は感情で数字を変えてくれない。
損をしたなら損だ。
認めて次へ進むしかない。
前世でもそうだった。
失ったものを取り返すことばかり考えていると、もっと多くを失う。
分かっている。
分かっているからこそ。
「四十二リール……」
もう一度だけ呟いた。
人形が視界に入る。
「あなた、高かったんですのよ」
沈黙。
「少しは申し訳なさそうになさい」
沈黙。
「無理ですわね」
その日から、人形はエレオノーラの部屋に正式に居座ることになった。
正式に、と言っても誰かが決めたわけではない。
売れない。
返品できない。
捨てるのも惜しい。
だから置いてある。
それだけだった。
日が経つにつれ、人形の姿は少しずつ変わった。
古いリボンを外し。
余ったレースを足し。
髪を整え。
クラックには時々化粧を重ねた。
「雨の日は少し目立ちますわね」
湿度のせいだろうか。
「修復師に頼むほどのお金はありませんし」
人形へ言う。
「我慢してくださいませ」
何を我慢するのか。
自分でも分からない。
それでも話しかける回数は増えていった。
ある日の午後。
「エレオノーラ」
母に呼ばれた。
母の部屋はいつも暖かかった。
弟を産んでから体調を崩し、寒さに弱くなった。
寝台のそばには薬。
窓辺には花。
エレオノーラはできるだけこの部屋だけは、困窮していると感じさせないようにしている。
「お加減はいかがですの?」
「今日はいいの」
「よかった」
「あなたこそ、顔色が悪いわ」
「昨日少し遅かっただけです」
「また夜会?」
「ええ」
母がため息をつく。
「エレオノーラ」
「はい」
「もう少し控えてもいいのではなくて?」
「何をです?」
「夜会よ」
「必要がありますので」
「でも」
母は心配そうに娘を見る。
「婚約がなくなってから、あなた、ずっと何かに追われているようだわ」
「そうでしょうか」
「そうよ」
「気のせいです」
「お母様は分かります」
その言葉に、エレオノーラは少しだけ身構えた。
「十九歳でしょう?」
「はい」
「まだ若いわ」
「存じております」
「なのに、まるで家の主人みたいに帳簿ばかり見て」
エレオノーラの指先が動いた。
「もう少し女の子らしくしてもいいのよ」
それだった。
「きれいなドレスを着て、お茶会へ行って。お友達と話して」
「しておりますわ」
「仕事のためではなくて」
「…………」
「そんなにいつもピリピリしていたら」
母は苦笑する。
「今度こそ、お嫁に行けなくなってしまうわよ」
悪意はない。
本当にない。
分かっている。
母は娘を心配している。
母の中では、これは慰めであり助言なのだ。
「……そうですわね」
エレオノーラは笑った。
「少し気をつけます」
「あなたは綺麗なのだから」
「ありがとうございます」
「前のことは忘れて」
「ええ」
「もっと女の子らしく笑っていれば、きっと今度は――」
「お母様」
声が少しだけ強くなった。
母が止まる。
「ごめんなさい。今日は帳簿を締めなければなりませんので」
「あら」
「失礼いたします」
「エレオノーラ?」
エレオノーラは笑顔のまま部屋を出た。
廊下を歩く。
歩幅はいつも通り。
背筋も伸ばしている。
誰にも何も言われない。
自室へ入る。
扉を閉める。
鍵をかける。
「…………」
そこでようやく。
呼吸が乱れた。
「女の子らしく」
小さく笑う。
「笑っていれば」
何かが腹の底から込み上げる。
「では」
声が震えた。
「誰がやりますの」
人形がこちらを見ている。
「誰が帳簿をつけますの」
返事はない。
「誰が薬代を払いますの」
返事はない。
「誰がテオドールの教育費を用意しますの」
返事はない。
「誰が、お父様の四十二リールを――」
そこで止まった。
妙なところで笑いそうになる。
だが、笑えなかった。
「わたくしだって」
声が崩れた。
「好きでこうなったわけではありませんわよ」
涙が出た。
驚くほど唐突だった。
泣く予定などなかった。
泣いている時間もない。
夕食前に確認する書類がある。
明日の訪問先へ送る手紙も。
ドレスの裾も直したい。
「……もう」
乱暴に目元を拭う。
「最悪」
化粧が崩れる。
それを見て、さらに腹が立つ。
エレオノーラは椅子へ座った。
目の前に、人形がいる。
額のクラック。
薄く化粧で隠してある。
けれど近くで見れば分かる。
「あなたも」
ぽつりと言った。
「傷物ですものね」
言ってから。
自分の胸に刺さった。
婚約破棄された女。
格上の公爵家から返された伯爵令嬢。
価値の落ちた女。
次の縁談が難しい女。
夜会で何度も聞いた。
直接ではない。
けれど、そういう意味の言葉を。
そしてこの人形。
高値で買われ。
すぐ落とされ。
額に傷が入り。
返品もできず。
売る価値も下がった。
「…………似ていますわね」
笑おうとした。
失敗した。
涙がまた落ちた。
「嫌ですわ」
人形を抱き上げる。
初めてだった。
思ったより軽い。
そして思ったより硬くない。
身体には布が使われているらしく、胸に抱くと少しだけ柔らかさがあった。
「わたくし」
声が小さくなる。
「傷がついたからって」
人形の額を見る。
「それで終わるつもりはありませんの」
誰に言っているのだろう。
人形に。
自分に。
たぶん両方だ。
「婚約を破棄されたから何ですの」
涙を拭う。
「家が傾いているから何ですの」
もう一度。
「お嫁に行けないから何だというのです」
最後だけ、少し強かった。
「……いえ」
考える。
「お嫁には行ってもいいですけれど」
そこは完全否定しない。
「それでわたくしの値段が決まるわけではありませんわ」
人形を見つめる。
青灰色の目。
クラック。
余り物のリボン。
ほつれたレース。
「あなたもです」
エレオノーラは言った。
「四十二リールの価値があるかは知りませんけれど」
そこは厳しい。
「傷があるからって、価値がないわけではありませんわ」
しばらく黙った。
胸の中にいたものが、少しだけ外へ出たような気がした。
人形は何も言わない。
当然だった。
未来も教えてくれない。
励ましもしない。
父より役に立たない。
なのに。
なぜか安心した。
「……誰にも言わないでくださいませね」
人形へ言う。
「わたくしが泣いたこと」
もちろん答えない。
「よろしい」
エレオノーラは人形を抱いたまま、しばらく座っていた。
その夜。
夕食へ降りる前に、鏡を見た。
目元が少し赤い。
化粧で隠す。
「……ほら」
鏡の中の自分を見る。
次に人形を見る。
「お揃いですわね」
どちらも傷を化粧で隠している。
そう思ったら、少し笑えた。
「でも」
エレオノーラは鏡へ向かって言う。
「隠しているからって、無いことにはなりませんのね」
前世でもそうだった。
平気な顔をして。
何でもできるふりをして。
家族のため。
仕方がない。
そう言い続けているうちに、自分が何を嫌だと思っていたのかさえ分からなくなった。
同じことはしない。
今度こそ。
「まず」
エレオノーラは頬を軽く叩いた。
「家を立て直します」
それは変わらない。
「テオドールへ、ちゃんとした伯爵家を渡します」
それも。
「その後は」
そこで止まった。
その後。
考えたことがなかった。
弟が成人したら。
自分は。
「…………」
分からない。
嫁ぐ?
誰に?
家に残る?
何のために?
「まあ」
エレオノーラは人形を見る。
「その時に考えればいいですわよね」
人形の口元が。
ほんの少しだけ。
笑ったように見えた。
「…………」
エレオノーラは目を細める。
「今、笑いました?」
沈黙。
「笑うわけありませんわね」
灯りの加減だ。
そうに決まっている。
だが。
エレオノーラは、その日初めて。
人形を椅子ではなく、自分の寝台脇の小机へ置いた。
理由は特にない。
ただ。
少し近い方が、落ち着く気がしただけだった。
◆◇◆
翌朝。
エレオノーラは目を覚まして、最初に人形と目が合った。
「…………」
寝台脇の小机に座らせたことを、一瞬忘れていた。
青灰色の硝子の瞳が、朝の光を受けている。
「おはようございます」
言ってから、エレオノーラは眉を寄せた。
「……何をしておりますの、わたくし」
人形に朝の挨拶をした。
十九歳。
伯爵令嬢。
元公爵令息の婚約者。
現在、独身。
そして今朝から、人形に挨拶をする女。
「よろしくありませんわね」
何がよろしくないのか、自分でもよく分からない。
人形は何も言わない。
当然である。
「まあ、いいですわ」
エレオノーラは寝台から降りた。
「誰にも見られておりませんもの」
そう言ってから、昨夜自分が人形に、
『誰にも言わないでくださいませね』
と言ったことを思い出した。
「あなた、ずいぶん秘密を抱えることになりましたわね」
少しだけ笑う。
昨日泣いたせいか、目元が重かった。
それでも不思議と気分は悪くない。
むしろ、久しぶりによく眠れた気がする。
エレオノーラは窓を開けた。
朝の冷たい空気が部屋へ入ってくる。
「さて」
今日もやることは多い。
帳簿。
領地から届いた報告書。
母の薬代。
テオドールの家庭教師との面談。
仕立屋へ届けるドレス。
それから。
この人形をどうするか。
「四十二リール……」
思い出しただけで頭が痛い。
四十二リールもあれば、母の薬を何か月分買えただろう。
使用人たちの給金だって払える。
冬に備えて薪も買える。
屋敷の雨漏りだって、そろそろ本格的に修繕したい。
それを。
人形。
一体。
「……お父様」
朝から怒りが蘇ってきた。
人形は相変わらず涼しい顔をしている。
「あなたが悪いわけではないのですけれどね」
エレオノーラは小さく息を吐いた。
「でも四十二リールは四十二リールですわ」
帳簿は嘘をつかない。
そして損失も、なかったことにはしてくれない。
朝食後。
エレオノーラは父を捕まえた。
「お父様」
「……はい」
コンラートが露骨に身構える。
「なぜそんな顔をなさいますの?」
「お前がその声で私を呼ぶ時は、大抵金の話だからだ」
「よくお分かりで」
「今日は何だ」
「人形の商人についてです」
「ああ」
父が安心した顔をする。
「なんだ、人形か」
「四十二リールです」
「金の話だった」
「最初からそう申し上げております」
エレオノーラは父の前へ紙を置いた。
「先日の記憶を、もう一度整理していただきます」
「まだ探すのか?」
「もちろんです」
「もう諦めてもいいのではないか?」
「四十二リールを?」
「……探そう」
「ありがとうございます」
父は紙を睨んだ。
「酒場へ入って」
「はい」
「そこで男に会った」
「はい」
「人形を見せられた」
「それから?」
「予言する人形だと言われた」
「本当に?」
「何がだ」
「本当に『予言する人形』と言われたのですか?」
父が黙った。
エレオノーラは目を細める。
「お父様?」
「……言われたと思う」
「思う」
「酔っていたからな」
「存じております」
「だが、未来がどうとか言っていたぞ」
「具体的には?」
「ううむ」
父が腕を組む。
しばらく唸ってから、ぽつりと言った。
「『この娘は、持ち主が選ぶ未来を知っている』とか」
エレオノーラは瞬いた。
「持ち主が選ぶ未来?」
「たぶん」
「それをどう解釈したら『予言する人形』になりますの?」
「未来を知っているなら予言するだろう」
「なぜです」
「違うのか?」
「知りませんわよ」
頭が痛くなってきた。
「ほかには?」
「……ああ」
父が少し考えた。
「傷のあるものは嫌いか、と聞かれた」
「傷?」
「そうだ」
「人形はその時、傷がなかったのでしょう?」
「なかったと思うぞ」
傷をつけたのは父である。
購入後。
酔ったまま、ぽんと放った。
その結果、額にクラックが入った。
思い出すほど腹立たしい。
「それで何と答えたんです?」
「傷くらい何だ、と」
意外な答えだった。
「お父様が?」
「私だってそれくらい言う」
「いえ……」
エレオノーラは父を見る。
酒と浪費癖を除けば、この人は確かにそういう男だった。
美醜や身分で人を露骨に差別することはない。
だからこそ、妙な商人にも簡単に懐へ入られる。
「そうしたら男が笑ってな」
父は続けた。
「『では、これはあなたのものではありませんな』と言った」
「……は?」
「私も意味が分からなかった」
「それなのに買ったんですの?」
「そのあと『あなたが持ち帰れば、持ち主のところへ行く』とか何とか」
「ますます意味が分かりません」
「だろう?」
「そこでなぜ四十二リールを払ったのです?」
「酔っていた」
「…………」
「すまん」
万能の言い訳だった。
エレオノーラは額を押さえた。
「その商人、父上へ人形を売ろうとしていたというより……」
何だろう。
父を運び屋にしたような言い方だ。
『あなたが持ち帰れば、持ち主のところへ行く』
では。
持ち主とは誰なのか。
「姉上でしょう?」
横から声がした。
二人同時に振り向く。
扉のところからテオドールが顔を覗かせていた。
「テオドール。いつからそこに?」
「傷くらい何だ、のところ」
「ほとんど聞いているではありませんの」
弟は悪びれず部屋へ入ってくる。
「だって、あのお人形、姉上の部屋にいるもの」
「売れないから置いてあるだけです」
「でも姉上、リボンつけたでしょう?」
「余ったからです」
「お化粧もした」
「傷が目立ったからです」
「昨日、抱っこしてた」
「…………」
「僕、見たよ」
「テオドール」
「はい」
「お姉様にも秘密というものがあります」
「うん」
「忘れなさい」
「無理」
「でしょうね」
八歳児は正直だった。
父が妙に嬉しそうに笑っている。
「何ですの、お父様」
「いや。お前が人形を抱くとは思わなくてな」
「わたくしだって人形くらい抱きます」
「昔はあまり興味がなかっただろう」
「……そうでしたかしら」
「五歳くらいから急に、大人びた子になったからな」
エレオノーラの胸が、わずかに揺れた。
五歳。
前世の記憶を自覚した頃だ。
「そうでした?」
「ああ」
父は懐かしそうに笑った。
「もっと甘えてくれてもよかったんだがな」
エレオノーラは答えなかった。
甘える。
その方法を、前世の自分はいつ忘れたのだろう。
今世では。
最初から、知らないふりをしていただけなのかもしれない。
午後。
エレオノーラは古物商を訪ねていた。
商人を探すのと並行して、人形そのものの価値を調べるためである。
もし相応の値段で売れるなら、売る。
四十二リールすべては無理でも、少しでも取り戻したい。
「こちらです」
布を取り、人形を見せる。
老店主は眼鏡をかけ直した。
「ほう」
人形を持ち上げる。
髪を見る。
衣装を見る。
首筋を調べる。
「古いものですな」
「価値は?」
「作りはいい」
期待する。
「ですが」
来た。
嫌な言葉だ。
「額に傷が」
「……やはり」
「かなり深いですな」
「修復できます?」
「できなくはありません。しかし完全には消えません」
店主は額のクラックを指で確かめる。
「それに、こちら」
「はい」
「化粧をなさいましたな?」
「……分かります?」
「商売ですから」
「わたくしが目立たなくしました」
「お嬢様が?」
「ええ」
「お上手です」
「ありがとうございます。それで?」
老店主が人形をもう一度見た。
「四リール」
エレオノーラは固まった。
「…………はい?」
「買い取りなら、四リールまでですな」
「四?」
「はい」
「四十二リールで買いましたのよ?」
「それは……」
「四十二」
「お気の毒ですが」
「十分の一以下ではありませんの!」
「傷がありますので」
エレオノーラは人形を見る。
人形は涼しい顔をしている。
「あなた」
思わず話しかけた。
「ずいぶん値下がりしましたわね」
老店主が少し笑った。
「人形がお好きなのですな」
「違います」
即答した。
「では、お売りに?」
「…………」
四リール。
四リールでも金は金だ。
母の薬代になる。
食費にもなる。
今の伯爵家には、四リールを笑える余裕などない。
「……売り」
言いかけた。
人形の額が見えた。
細いクラック。
自分が化粧で隠した傷。
首元には、自分のドレスから外したレース。
青灰色のリボン。
『傷物ですものね』
昨夜、自分で言った言葉を思い出す。
傷がある。
だから価値が落ちる。
商売としては正しい。
分かっている。
けれど。
「……結構です」
エレオノーラは言った。
「はい?」
「持ち帰ります」
「よろしいので?」
「ええ」
人形を受け取る。
自分でも馬鹿だと思った。
四リールを捨てた。
いや。
違う。
「この子は」
言葉を探した。
「四リールで手放すくらいなら、わたくしが持っております」
店主が微笑んだ。
「そういう価値もございます」
「慰めは結構です」
「これは失礼」
人形を布で包み直す。
店を出る。
外へ出てから。
「……四リール」
もう一度呟いた。
やはり惜しい。
「あなた、本当に高くつきますわね」
布の中の人形は、もちろん返事をしなかった。
帰り道。
エレオノーラは市場を通った。
そこで足を止めた。
布地を売る露店の前だった。
正確には、布地そのものではない。
端切れだった。
仕立屋や縫製工房で余った、小さな布の切れ端。
麻。
木綿。
毛織物。
その中には、時折、絹や上等なレースの切れ端まで混じっている。
どれも小さすぎて、まともな服を仕立てることはできない。
「お嬢様、何か?」
店番の女が声をかけた。
三十代くらいだろうか。
質素な服。
指先には、針仕事をする者特有の細かな傷がある。
「これは?」
「仕立屋から出た端切れです」
「おいくら?」
「一袋十ペンスです」
「十?」
エレオノーラは袋を開いた。
安い理由はすぐに分かった。
形が悪い。
細長いもの。
三角形。
端がほつれたもの。
少し染みのあるもの。
普通なら捨てる部分だ。
けれど。
「……これは絹ですわね」
「混じってますよ」
「こちらは?」
「たぶん、どこかのお嬢様のドレスの余りですね」
エレオノーラは一枚取り出す。
薄い青。
小さい。
ドレスには使えない。
袖にもならない。
だが。
「これなら花が作れますわ」
「え?」
「この細長いものはリボンにできます。こちらは包みボタンに」
別の布を取る。
「この染みも、ここを折り込めば見えません」
「ああ」
「捨てるには惜しいですわね」
「でも、そんな小さな布、普通は使い道がありませんよ」
「普通は、でしょう?」
口から出た。
自分で言って。
エレオノーラは止まった。
普通なら。
傷のある人形は売れない。
古いドレスは捨てる。
ほつれたレースは価値がない。
婚約破棄された令嬢は傷物。
夫を亡くした女は――。
そこまで考えたところで。
「お嬢様?」
店番の女が首を傾げた。
「……失礼」
「いえ」
「あなた、この店の方?」
「いいえ」
女は苦笑した。
「ここで雇ってもらってるだけです」
「裁縫をなさるのでしょう?」
指を見る。
「ああ」
女は自分の手を隠すようにした。
「昔は仕立屋で」
「今は?」
「夫が亡くなりましてね」
さらりと言った。
「店を辞めたんです。子どもが二人おりますから」
「なぜ?」
「仕立屋は朝から晩まででしょう。子どもを置いておけません」
「では今は?」
「市場が開いている間だけ、ここで」
「裁縫の仕事は?」
「ありませんよ」
女は笑った。
「若い娘の方が雇ってもらえますから」
エレオノーラは黙った。
まただ。
価値。
誰かが勝手につける値段。
「お名前は?」
「え?」
「あなたのお名前です」
「マルタですけど」
「マルタ」
覚える。
「もし」
エレオノーラは端切れの袋を持ち上げた。
「これを使って何か作るとしたら、何を作ります?」
「ええ?」
「何でも結構です」
マルタは困惑しながら袋を覗いた。
一枚。
二枚。
布を取り出す。
やがて指が動き始めた。
「この大きさなら……小さな巾着ですかね」
「ほかには?」
「針刺し」
「ええ」
「髪飾り。布花。それから……」
マルタが一枚の端切れを広げる。
「子どもの人形の服なら、これでも作れます」
エレオノーラの眉が上がった。
「人形の服」
「ええ。小さいですからね」
腕の中の包みを見る。
「…………」
「お嬢様?」
「この袋」
エレオノーラは言った。
「全部いただきます」
「え?」
露店の主人まで振り返った。
「全部?」
「ええ」
「十五袋ありますよ?」
「一袋十ペンスですわね」
「はい」
「では百五十ペンス。一リール五十ペンス」
エレオノーラは即座に財布を開いた。
そこで。
手が止まる。
「…………」
四十二リールの人形を抱え。
その人形を売りに行った帰りに。
さらに一リール五十ペンス使おうとしている。
「……お父様のことを言えませんわね」
「はい?」
「こちらの話です」
だが。
これは違う。
たぶん。
「全部ください」
金を払った。
そしてマルタを見る。
「あなた、明日の午後は空いています?」
「は?」
「二時間ほど」
「まあ……空いてますけど」
「でしたら、ヴァインベルク伯爵邸へいらしてください」
マルタの顔が固まった。
「は、伯爵?」
「申し遅れました。わたくし、エレオノーラ・フォン・ヴァインベルクと申します」
「えっ」
マルタが飛び上がるように姿勢を正した。
「も、申し訳ございません!」
「何がです?」
「知らなくて!」
「名乗っておりませんもの。当然でしょう」
「でも」
「それより」
エレオノーラは手帳を出した。
「二時間分のお給金はお支払いします」
「何をするんです?」
「まだ決めておりません」
「……はい?」
自分でも妙なことを言っていると思う。
「ただ」
端切れを見る。
「捨てるには惜しいものが、ずいぶん世の中にはあるようですから」
マルタは意味が分からないという顔をした。
当然だった。
エレオノーラ自身、まだ分かっていない。
これは商売ですらない。
思いつき。
ただの引っかかり。
「二時間で六十ペンス。いかが?」
マルタの目が大きくなる。
「そんなに?」
「あなたは元仕立屋なのでしょう?」
「そうですけど」
「でしたら、技術に対するお給金です」
「…………」
「安すぎます?」
「逆です」
マルタは慌てて首を振った。
「やります」
「では明日、二時に」
「はい」
「裁縫道具は?」
「持ってます」
「お持ちください」
エレオノーラは端切れを受け取った。
そして歩き出してから。
止まった。
振り返る。
「マルタ」
「はい?」
「失礼ですが、お子さんはおいくつ?」
「六歳と四歳です」
「明日は?」
「近所に頼んで――」
「連れていらっしゃい」
「え?」
「子どもも一緒に」
「でも、伯爵様のお屋敷に」
「二時間働くために、誰かへ預けるのでしょう?」
「それは……」
「でしたら連れてくればいいです」
「でも」
「テオドールの遊び相手にします」
弟の許可は取っていない。
だが、たぶん喜ぶ。
「本当に?」
「ええ」
マルタはしばらく黙っていた。
そして。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
エレオノーラは少し困った。
「まだ何もしておりませんわ」
本当に。
何も。
翌日。
伯爵邸の一室に、端切れが山になった。
「姉上」
「何です?」
「何するの?」
「分かりません」
「え?」
「だから、それを考えるのです」
テオドールが楽しそうに笑う。
マルタは二人の子どもを連れてきた。
六歳の娘、リナ。
四歳の息子、ヨハン。
最初こそ伯爵邸に怯えていたが、テオドールが犬を見せた途端、三人で庭へ飛び出していった。
例の猟犬である。
父の無駄遣いが初めて役に立った。
「……あれを買った時は本気で怒りましたけれど」
「何か?」
「こちらの話です」
エレオノーラは端切れを机に広げた。
「さて」
マルタも座る。
「本当に何を作るか決まってないんですか?」
「ええ」
「伯爵令嬢って、もっと計画的なのかと思ってました」
「失礼ですわね」
「あっ」
「冗談です」
マルタがほっとする。
「でも、わたくしもそう思っておりました」
「え?」
「自分のことです」
いつも先を考えていた。
失敗しないように。
損をしないように。
誰にも迷惑をかけないように。
こんなふうに、何になるか分からないものへ時間と金を使うことはほとんどない。
「今日は試します」
エレオノーラは言った。
「売れるかどうかは、その後です」
「売るんですか?」
「売れれば」
「売れなかったら?」
「……その時考えます」
口にして。
少し驚いた。
前の自分なら言わなかった。
その時考える。
そんな曖昧なことを。
「では」
エレオノーラは一枚の布を取った。
「始めましょう」
二人で縫った。
最初は小さな巾着。
次は針刺し。
布を丸めて花を作る。
余ったレースを縫いつける。
「そこ、逆です」
「え?」
「縫い代」
「あ」
「お嬢様、意外と雑ですね」
「……マルタ」
「はい」
「わたくしを誰だと思っています?」
「お給金をくださる方です」
「正解です」
二人で笑った。
しばらくして。
エレオノーラは例の人形を持ってきた。
「この子に服を作れます?」
マルタが目を輝かせた。
「あら、綺麗」
「傷があります」
「どこに?」
「額です」
化粧を少し落として見せる。
「ああ」
マルタはクラックを見る。
「ほんとだ」
「今日、査定していただきました」
「おいくらで?」
「四リール」
「四リール!」
「安いでしょう?」
「高いです!」
「…………」
「人形でしょう?」
「元値は四十二リールです」
「…………はい?」
「父が酔って買いました」
マルタはしばらく何も言わなかった。
「伯爵様って」
「言わなくて結構です」
「はい」
マルタは人形を見た。
「でも」
「何です?」
「この子、傷があった方が可愛いですね」
エレオノーラは瞬いた。
「どういう意味です?」
「なんていうか」
マルタは少し考える。
「大事にされてる感じがするから」
「傷があるのに?」
「傷があるからですよ」
エレオノーラは黙った。
「ほら」
マルタは額の化粧を指す。
「誰かが隠してあげたんでしょう?」
「……わたくしです」
「やっぱり」
「なぜ分かるんです?」
「この子のリボンと、お嬢様のドレス」
言われて自分を見る。
今日のドレスの袖口。
同じ灰青色だった。
「同じです」
「余っただけですわ」
「はいはい」
「何ですの、その顔は」
「別に」
マルタは笑っている。
エレオノーラは人形を取り返した。
「とにかく。服を作ってみましょう」
「はい」
二人は人形の寸法を測った。
胸囲。
胴。
肩。
袖。
「人間と同じですのね」
「小さいだけですよ」
型紙を作る。
端切れを当てる。
「こちらの絹を使いましょう」
「でも、少ししかありませんよ」
「人形なら十分です」
「ああ」
二人の目が合った。
そこだった。
人間のドレスには小さすぎる。
だから捨てられる。
だが。
人形には。
「十分ですわね」
「ええ」
さらに。
ほつれて売り物にならないレース。
短すぎるリボン。
小さなボタン。
どれも使えた。
マルタが縫い。
エレオノーラが飾りを選ぶ。
途中から二人とも口数が減った。
夢中になっていた。
やがて。
「できた」
マルタが人形を立たせる。
「…………」
エレオノーラは黙った。
青灰色のドレス。
白いレース。
腰には細いリボン。
端切れを組み合わせただけなのに。
きちんと一着のドレスに見える。
「……可愛いですわ」
「でしょう?」
「ええ」
悔しいが。
とても可愛い。
「これ」
エレオノーラはドレスの裾をつまんだ。
「材料はいくらくらい使いました?」
「さあ」
「計算しましょう」
「今?」
「今です」
帳簿を持ってくる。
「端切れ十五袋で一リール五十ペンス」
「はい」
「でも一着に使ったのは、ごく一部ですわね」
「そうですね」
袋の中身を広げる。
人形服に使えそうな布は、まだかなり残っている。
「材料だけなら」
エレオノーラは計算した。
「十ペンスも使っておりませんわ」
「たぶん」
「糸とボタンとレースを入れても……十五ペンス程度?」
「それくらいですね」
エレオノーラは数字を書く。
「では、あなたの工賃」
「え?」
「二時間で六十ペンス」
「はい」
「でも今日は試作ですし、巾着も針刺しも作りましたから――」
計算する。
「人形服一着に三十分ほど?」
「慣れればもっと早くできます」
「なら十五ペンス程度」
「そうですね」
エレオノーラは書く。
材料。
十五ペンス。
工賃。
十五ペンス。
合計。
三十ペンス。
「…………」
じっと見る。
「お嬢様?」
「マルタ」
「はい」
「これ」
人形を指した。
「一リールで売れると思います?」
「一リール?」
マルタが目を丸くする。
「人形の服が?」
「ええ」
「高くないですか?」
「庶民向けなら」
エレオノーラは人形を見る。
「でも、この大きさの着せ替え人形を娘に持たせる家です」
「あ」
「それに、これは絹です」
「端切れですけど」
「完成品を見て、端切れだと分かります?」
「……分かりません」
「でしょう?」
エレオノーラの目が変わった。
帳簿を見る時の目だった。
「貴族令嬢のドレスを一着仕立てれば、何十リールもいたします」
「はい」
「その娘が持つ人形に、同じような絹とレースの服を着せる」
「…………」
「一リール」
エレオノーラは呟く。
「出す方はいらっしゃると思いますわ」
「じゃあ」
マルタも帳簿を見る。
「三十ペンスくらいで作って、一リールで売れたら」
「七十ペンス」
「利益?」
「…………」
エレオノーラは少し考えた。
「いえ」
ペンを止めた。
「まだ利益とは言い切れませんわね」
「どうして?」
「運ぶにもお金がかかります。売る場所も必要になるでしょう。売れ残るかもしれません」
「なるほど」
「それに」
エレオノーラは自分を指した。
「わたくしの時間も使っています」
「あ」
「今まで、自分が働く分をお金として考えたことがありませんでしたわ」
伯爵家のために働く。
それは当然だった。
自分へ給金など出ない。
だから。
自分の時間に値段をつけるという発想が、まだよく分からない。
「でも」
もう一度計算を見る。
「少なくとも」
三十ペンス。
そして。
一リール。
「商売になる可能性はあります」
マルタの顔が変わった。
「本当に?」
「まだ可能性です」
「でも」
「ええ」
エレオノーラも笑った。
「試す価値はありますわ」
そこへ。
「姉上!」
扉が開いた。
テオドールたちが戻ってきた。
三人とも泥だらけだった。
「…………」
エレオノーラは固まった。
「テオドール」
「はい」
「何をしたらそうなりますの」
「犬と穴掘った!」
「なぜあなたまで掘るのです!」
「楽しかった!」
「お風呂です! 三人とも!」
子どもたちが笑いながら逃げる。
「こら! 待ちなさい!」
マルタが慌てて追う。
部屋が急に騒がしくなる。
エレオノーラは額を押さえた。
「まったく……」
それでも。
なぜだろう。
嫌ではなかった。
散らかった端切れ。
針と糸。
子どもの笑い声。
誰かと一緒に作ったもの。
帳簿上では。
今日のところは赤字である。
端切れ。
一リール五十ペンス。
マルタの給金。
六十ペンス。
合計、二リール十ペンス。
売上。
ゼロ。
「……見事な赤字ですわね」
エレオノーラは呟いた。
人形がこちらを見ている。
「何です?」
もちろん、何も言わない。
「先行投資ですわ」
言い訳のように言った。
「お父様の四十二リールとは違います」
人形は黙っている。
「違いますったら」
なぜ人形相手に弁明しているのだろう。
その夜。
エレオノーラは一人で帳簿を開いた。
『端切れ利用 試作』
そう書く。
支出。
端切れ――一リール五十ペンス。
マルタへの給金――六十ペンス。
糸、針、その他――少々。
売上――なし。
当然。
赤字。
「…………」
エレオノーラは頬杖をついた。
けれど。
机の上には。
小さな巾着。
針刺し。
布花。
そして。
人形が着ている一着のドレス。
捨てられるはずだった布。
仕事がないと言われた女性の技術。
それを組み合わせたら。
商品らしきものになった。
まだ売れてはいない。
価値があると決めたのは、今のところ自分たちだけ。
それでも。
「一リール」
エレオノーラは呟いた。
もし売れたら。
一着。
二着。
十着。
そこまで考えて、ペンを止めた。
「いけませんわ」
まだ売れてもいない。
数字だけ先へ走らせるのは悪い癖だ。
明日。
まず一着。
誰かに見せる。
そして聞けばいい。
これに一リール払うか。
払わないか。
「帳簿は嘘をつきませんものね」
人形を見る。
「売れるまでは、売上ゼロですわ」
厳しい。
だが。
分かりやすい。
エレオノーラは帳簿を閉じようとした。
その時。
風が入った。
窓が少し開いていたらしい。
帳簿のページが、ぱらりとめくれる。
「あら」
押さえようとして。
手が止まった。
開いたのは。
まだ何も書かれていないページだった。
何年も使うつもりで用意した帳簿。
先のページは。
真っ白だった。
損失もない。
利益もない。
借金も。
売上も。
まだ何も書かれていない。
「…………」
エレオノーラはしばらくそれを見ていた。
そして。
人形を見る。
青灰色の新しいドレス。
額には、消えない傷。
四十二リールで買われ。
傷がついて。
四リールと値をつけられ。
それでも今、自分の部屋にいる人形。
「ねえ」
エレオノーラは小さく言った。
「価値って、誰が決めるのでしょうね」
古物商か。
世間か。
買い手か。
それとも。
自分なのか。
答えは分からない。
けれど。
今日一日で。
少なくとも一つだけ分かった。
小さすぎて捨てられる布にも。
働き口がないと言われた人の手にも。
使い道がある。
なら。
「……わたくしにも、まだあるのでしょうね」
何が。
とは言わなかった。
人形を抱き上げる。
「明日」
エレオノーラは言った。
「あなたのお洋服が一リールで売れるか、試してみましょう」
少し考えて。
「……いえ。あなたは売りませんわよ」
危ない。
人形ごと売るところだった。
「お洋服だけです」
青灰色の硝子の瞳がこちらを見る。
「何です、その顔」
もちろん。
人形の表情など変わっていない。
それなのに。
ほんの少しだけ。
笑われたような気がした。
「……一リールで売れたら、見ていらっしゃい」
エレオノーラは人形を小机へ戻した。
「あなたの四十二リールも、いつか商売で取り返してみせますわ」
そして。
翌日。
彼女はその小さなドレスを持って、茶会へ向かうことになる。
まだこの時のエレオノーラは知らない。
捨てられるはずだった一枚の端切れが。
やがて一つの店になり。
人を雇い。
街の一角を変え。
そして彼女自身の人生まで変えることを。
人形も。
何も言わなかった。
未来を知っているというのなら。
少しくらい教えてくれてもよさそうなものなのに。
笑うはずなどない。
けれど、その夜のエレオノーラには。
ほんの少しだけ。
笑っているように見えた。
◆◇◆◇
翌日の茶会で、エレオノーラは小さな箱を一つ持っていた。
中に入っているのは、昨日マルタと作った人形用のドレス。
青灰色の絹に、白いレース。
腰には細いリボン。
材料のほとんどは、仕立屋で捨てられるはずだった端切れである。
けれど、完成したものを見ただけでは、それが端切れだとは分からない。
「まあ、可愛らしい」
最初に目を留めたのは、茶会を主催した子爵夫人だった。
「人形用?」
「ええ。試作品ですの」
「どちらのお店のもの?」
「まだ、お店はございませんわ」
「では?」
「わたくしが材料と意匠を考えて、腕のよい方に仕立てていただきました」
夫人はドレスを手に取った。
表を見て。
裏を見る。
袖を軽くつまみ、縫い目まで確認する。
「丁寧ね」
「ありがとうございます」
「これ、売るの?」
来た。
エレオノーラは、内心だけで背筋を伸ばした。
昨日、自分で決めた。
一リール。
高いのか。
安いのか。
帳簿だけでは分からない。
ならば、実際に買う人へ聞けばいい。
「そのつもりですわ」
「おいくら?」
「一リールです」
夫人が目を丸くした。
エレオノーラは反応を待つ。
高すぎたか。
ところが。
「安いのね」
「……安い?」
「ええ」
予想外だった。
「この絹でしょう? レースも悪くないし、仕立てもきれい。それに人形の服なんて、気に入ったものを探す方が大変だもの」
「でも、人形用ですわよ?」
「人間用より小さい、というだけでしょう?」
夫人は当然のように言った。
「これ、いただくわ」
「本当に?」
思わず聞いてしまった。
「ええ」
「ありがとうございます」
「それから、もう一着お願いできる?」
「どのようなものを?」
「娘の人形は金髪なの。淡い桃色が似合うと思うのだけれど」
「でしたら、生成りを少し入れた方が上品ですわ。桃色だけですと甘くなりすぎますから」
「あら、いいわね」
「レースは白で?」
「ええ」
「刺繍はいかがです?」
「入れたいわ」
エレオノーラは手帳を取り出した。
「承りました」
「お値段は?」
「一リールで」
子爵夫人が、今度は別の意味で眉を上げた。
「注文品も?」
「はい」
「あなた」
「何でしょう?」
「商売、あまりお上手ではないのではなくて?」
「…………」
それについては。
まだ分からない。
結局。
その茶会だけで、七件の注文が入った。
人形用ドレスが五着。
巾着が一つ。
刺繍入りの針刺しが一つ。
帰りの馬車の中。
エレオノーラは手帳を眺めていた。
「七件」
もう一度数える。
やはり七件。
「お嬢様」
向かいの侍女が笑った。
「何です?」
「嬉しそうです」
「……そう見えます?」
「ええ」
エレオノーラは少し考え。
素直に頷いた。
「嬉しいですわ」
誰かが。
自分たちの作ったものを欲しいと言った。
伯爵令嬢だからではない。
元公爵家嫡男の婚約者だからでもない。
商品そのものを見て。
欲しいと。
「でも」
すぐに手帳へ目を戻す。
「困りましたわ」
「何がです?」
「七件もございます」
「売れたのですから、よろしいのでは?」
「作る人が足りません」
喜んで終わりではない。
注文は約束だ。
納期がある。
品質も落とせない。
「まず、マルタと相談ですわね」
エレオノーラの頭の中では、すでに次の数字が動き始めていた。
翌日。
「七着!?」
マルタの声が部屋に響いた。
「正確には、人形服は五着です」
「それでも!」
「巾着と針刺しもございます」
「増えてるじゃないですか!」
「ええ」
「すごいですね!」
マルタは純粋に喜んでいる。
エレオノーラも嬉しい。
だが。
「問題はこちらです」
帳簿を開いた。
「刺繍入りが三着」
「ああ」
「昨日、一リールで受けてしまいました」
「……お嬢様」
「何です?」
「刺繍って時間かかるんですよ」
「今、理解しております」
「昨日は?」
「そこまで考えておりませんでした」
「珍しい」
「わたくしだって失敗くらいいたします!」
とはいえ。
これは勉強代だ。
「材料だけなら、一着十五ペンス前後」
「そうですね」
「通常の縫製なら工賃も十五から二十ペンス程度」
「慣れれば」
「ですが刺繍入りは?」
「さらに十五から二十ペンスは欲しいですね」
「…………」
一リールは百ペンス。
まだ赤字ではない。
しかし。
「箱」
エレオノーラが呟く。
「はい?」
「包装する箱が必要です」
「あ」
「茶会まで商品を運ぶ費用」
「ああ」
「売れなかった商品も出る」
「そうですね」
「それから」
エレオノーラは止まった。
昨日マルタに言われた言葉を思い出す。
「わたくしの時間」
「やっと気づきました?」
「失礼ですわね」
「でも、お嬢様が売らなきゃ売れないでしょう?」
「今のところは」
「なら、それも仕事ですよ」
「…………」
伯爵家のために働く時。
自分の時間に値段などつけたことはない。
家族のため。
伯爵令嬢として当然。
ずっとそうだった。
けれど。
商売なら。
違うのだろうか。
「……難しいですわね」
「何がです?」
「自分の働きを、お金に換えるのが」
マルタは少し意外そうな顔をした。
「お嬢様でも、そういうこと考えるんですね」
「どういう意味ですの」
「何でも分かってるのかと思ってました」
「まさか」
エレオノーラは苦笑した。
「分からないから帳簿をつけるんですのよ」
数字にすれば。
少なくとも、見落としているものが見えてくる。
注文をこなすため、マルタの紹介で二人の女性を雇った。
一人は刺繍が得意な十八歳のクララ。
もう一人は二十五歳のリゼット。
どちらも技術は十分だった。
なのに。
「どうして今は働いていないんですの?」
エレオノーラが尋ねると。
クララは病気の母親を抱えていた。
リゼットには小さな子どもがいた。
「一日中は出られないんです」
クララが言う。
「では、何時間なら?」
「え?」
「二時間?」
「それなら」
「三時間?」
「日によっては」
「では、それで」
クララが目を丸くする。
「でも、そんな働き方」
「今、作ります」
「はい?」
「仕事があって、働ける人がいるのでしょう?」
「ええ」
「時間が合わないだけなら、時間を合わせればいいではありませんの」
それだけのことだ。
少なくとも。
エレオノーラにはそう思えた。
「ただし」
彼女は付け加えた。
「働いた分は、きちんと払います」
「でも、伯爵令嬢のお情けで――」
「違います」
少し強くなった。
「これは仕事です」
施しではない。
「技術を買うのです。ですから、その分のお金を払います」
クララは黙った。
それから。
ゆっくり頭を下げた。
「お願いします」
「こちらこそ」
それから数週間。
注文は増えた。
売上も。
ところが。
「……おかしい」
エレオノーラは帳簿を睨んでいた。
売上。
増えている。
なのに。
手元の金は思ったほど増えていない。
「おかしいですわ」
「別におかしくないですよ」
背後から声がした。
エレオノーラは振り返った。
知らない青年が立っていた。
濃い茶色の髪。
灰緑色の瞳。
上質ではあるが、貴族のものではない服。
「……どなた?」
「ユリウス・ハルデン」
「存じません」
「でしょうね」
「では、なぜわたくしの帳簿を覗いておりますの?」
「覗いてません。そこに開いてあったので」
「見たのでしょう?」
「少し」
「覗いておりますわ!」
「申し訳ない」
妙に素直だった。
そこへマルタが慌てて入ってきた。
「あ、お嬢様!」
「マルタ」
「紹介しようと思ってたんです」
「この方を?」
「はい。ハルデン商会の方です」
ユリウスが軽く頭を下げる。
「父が商会をやっています。俺は次男で、仕入れと会計担当です」
「会計」
その一言で。
エレオノーラの表情が変わった。
「詳しいんですの?」
「まあ、それなりに」
「座ってくださいませ」
「急ですね」
「今すぐ」
「顔が怖いですけど」
「気のせいです」
ユリウスが座った。
エレオノーラは帳簿を彼の前へ置く。
「なぜ、お金が残らないんですの?」
「早いな」
「分かるのでしょう?」
「見れば」
「では見てください」
ユリウスは数ページめくった。
しばらくして。
「原価の見方が甘いです」
「どこが?」
「ほぼ材料費と縫い賃しか入ってない」
「それ以外も入れ始めました」
「まだ足りない」
指を置く。
「包装」
「はい」
「運搬」
「はい」
「道具の消耗」
「……」
「売れ残り」
「……」
「仕入れたけど使えなかった材料」
「…………」
「将来店を持つなら家賃」
「まだ持っておりません」
「続けるなら必要になるでしょう」
正しい。
腹立たしいほど。
「それから」
ユリウスがエレオノーラを見る。
「あなたの賃金」
「またですの」
「誰かにも言われた?」
「マルタに」
「なら二人目です」
「わたくしは経営する側です」
「経営者も食べます」
「伯爵令嬢ですわ」
「商売に伯爵令嬢かどうかは関係ない」
その言葉に。
エレオノーラが止まった。
「これは伯爵家の家政じゃありません」
ユリウスは続けた。
「あなたの商売でしょう?」
「…………」
「だったら、あなたが働く分にも値段がある」
妙な言葉だった。
けれど。
胸に残った。
「では」
エレオノーラは聞く。
「どうすれば?」
「値段を上げる」
「一リールでも?」
「安すぎます」
「でも人形のお洋服ですよ?」
「その人形」
ユリウスが部屋の隅を見る。
例の人形が座っていた。
「本体はいくらくらいするんです?」
「…………」
エレオノーラの顔が曇った。
「何です?」
「聞かない方が」
「高い?」
「四十二リール」
「…………」
「お父様が酔って買って」
「そこは後で聞きます」
「聞かなくて結構です!」
ユリウスは人形を見る。
そして言った。
「四十二リールの人形を買える家が、一リールの服を高いと思います?」
エレオノーラは黙った。
「思いません」
「……そうでしょうね」
「通常品、一リール五十ペンス」
「いきなり五割増し?」
「最低です」
「最低?」
「刺繍入り二リール」
「高くありません?」
「注文品は三リールから」
「三!」
「使う素材によってはもっと」
「売れます?」
「売れます」
「断言しますのね」
「あなた、昨日一リールって言ったら安いって言われたんでしょう?」
「……どうして知っているんです?」
「マルタさんから」
エレオノーラがマルタを見る。
マルタが目を逸らした。
「マルタ」
「必要な情報かなって」
「あとでお話があります」
「怖い」
ユリウスが笑った。
「でも」
エレオノーラは考える。
「高級品だけでは、買える方が限られます」
「なら安いものも作る」
「え?」
「値段を一つにする必要はないでしょう」
通常品。
刺繍入り。
注文品。
そして。
「普及品」
ユリウスが言う。
「同じ型紙を使う。工程を減らす。装飾も絞る」
「可愛くなくなるのは嫌です」
「まだ何も言ってません」
「そこは重要ですわ」
「分かりました。可愛くする」
「本当に?」
「あなた、意外と面倒ですね」
「何ですって?」
「褒めてます」
「どこが!」
マルタが吹き出した。
その日から。
ユリウスは、時々やってくるようになった。
通常品、一リール五十ペンス。
刺繍入り、二リール。
完全注文品、三リールから。
普及品、六十から八十ペンス。
試した。
売れた。
特に高級品は。
「……本当に売れましたわ」
「言ったでしょう」
「三リールですよ?」
「貴族は人形そのものに何十リールも払うんですよ」
「人形の服なのに」
「人形の服だからです」
「分かりませんわ」
「客の気持ちが?」
「ええ」
ユリウスは、人形を見る。
「あなたはその人形、四リールで売れたのに売らなかったんでしょう?」
「…………」
「同じですよ」
「違いますわ」
「どう違うんです?」
「この子は」
言いかける。
止まる。
「……わたくしのですもの」
口から。
自然に出た。
エレオノーラ自身が、一番驚いた。
ユリウスは。
ただ。
「そうですか」
と答えた。
何も笑わない。
からかわない。
それが。
少しだけ嬉しかった。
やがて伯爵邸の一室では手狭になった。
「店を借ります」
エレオノーラが宣言した。
「場所は?」
ユリウスが聞く。
「西区」
「……安いですが、治安はあまり」
「昼間なら問題ありません」
「もう決めてますね」
「帳簿を見ました」
「なら止めません」
借りたのは、小さな二階建て。
一階を売り場と作業場に。
二階には。
「この部屋は?」
ユリウスが尋ねた。
「子ども部屋です」
「客の?」
「働く方の」
「…………」
「何です、その顔」
「あなたらしいと思って」
「褒め言葉?」
「今回は」
「今回はとは何ですの」
さらに。
一階中央には、大きなテーブル。
「これは?」
「お茶を出します」
「手芸店で?」
「ええ」
「なぜ」
「家で一人で針仕事をしている方もいるでしょう?」
「まあ」
「ここへ来て」
エレオノーラは少し考えた。
「お茶を飲んで」
また少し。
「話して」
「はい」
「何か作って帰ればいいのでは?」
ユリウスが図面を見る。
「手芸店」
「ええ」
「工房」
「ええ」
「喫茶店」
「そうなりますわね」
「何屋です?」
エレオノーラは考えた。
「……全部?」
「雑ですね」
「うるさいですわ」
店は。
大儲けしなかった。
けれど。
潰れなかった。
一人。
また一人。
客が増えた。
人形の服を買う貴族。
髪飾りを買う商人の娘。
安い端切れを買い、自分で巾着を作る女性。
お茶だけを飲みに来る未亡人。
子どもを連れて働く女。
身分の違う人たちが。
同じ大きな机を囲んだ。
「ここ、どうやりますの?」
「そこは糸を引きすぎないで」
「あら」
「ほら、皺になります」
「本当ね」
針は。
相手が公爵夫人なのか。
市場の売り子なのか。
気にしない。
「……妙な店ですわね」
エレオノーラが言った。
「あなたが作ったんでしょう」
ユリウスが答える。
「予定ではもう少し品がよく」
「十分品はあります」
「騒がしいです」
「子どもがいるから」
「…………」
店内を見る。
笑い声。
布。
糸。
お茶の香り。
「でも」
エレオノーラは言った。
「嫌いではありません」
「俺もです」
短い沈黙。
エレオノーラは、なぜかユリウスの顔を見ることができなかった。
その店へ。
ある日。
元婚約者がやってきた。
「久しぶりだな」
エレオノーラは。
一瞬。
誰だか分からなかった。
アルベルト。
かつて。
彼女との婚約を破棄した公爵家嫡男。
その隣には。
妻がいた。
「ごきげんよう」
エレオノーラは頭を下げた。
「妻が、こちらの商品を見たいと言って」
「ありがとうございます」
妻は少し緊張していた。
「突然申し訳ございません」
「いいえ」
エレオノーラは笑った。
「お客様ですもの」
それだけ。
驚くほど。
何もなかった。
胸は痛まない。
悔しくも。
悲しくも。
彼を見返したいとも。
思わない。
「ずいぶん変わったな」
アルベルトが言った。
「そうでしょうか」
「ああ」
エレオノーラは彼の隣を見る。
「あなたも」
「僕が?」
「お幸せそうですわ」
妻が、わずかに驚いた顔をした。
アルベルトも。
「……ああ」
「なら、よかった」
本当に。
そう思った。
「エレオノーラ」
「はい」
「その……」
何かを言おうとした。
謝罪かもしれない。
昔の説明かもしれない。
けれど。
エレオノーラには。
もう必要なかった。
「奥様」
彼女は妻へ向き直る。
「人形のお洋服をご覧になります?」
「え?」
「ちょうど新しいものが入りましたの」
「あ……はい」
「こちらへ」
それで。
昔の話は終わった。
その夜。
エレオノーラは人形を机の上へ置いた。
「何ともありませんでしたわ」
報告する。
人形は。
何も答えない。
「あれほど」
エレオノーラは、クラックの上をそっと指で撫でた。
「捨てられたと思いましたのに」
昔。
婚約破棄された時。
自分は。
価値を失ったのだと思った。
格上の公爵家から返品された伯爵令嬢。
傷物。
売れ残り。
「でも」
今日見たアルベルトは。
ただの男だった。
自分の元婚約者。
ただ、それだけ。
「わたくしの値段を決める人ではありませんでしたわね」
最初から。
そうだったのだ。
古物商が。
人形へ四リールという値段をつけた。
けれど。
この子が四リールになったわけではない。
自分が。
婚約を破棄された。
けれど。
それで。
自分の価値が下がったわけでもない。
「随分長いあいだ」
エレオノーラは苦笑した。
「人につけられた値札を、自分で首から下げておりましたのね」
人形を見る。
「あなた」
少し考える。
「今なら四十二リールで売れるかもしれませんわよ」
沈黙。
「売りませんけれど」
すぐに言う。
「絶対に」
そして。
ふと。
気づく。
「では」
エレオノーラは自分の胸に手を置いた。
「わたくしの値段は?」
誰が決める。
公爵家か。
父か。
母か。
社交界か。
男か。
違う。
「わたくしですわね」
答えは。
驚くほど単純だった。
人形が。
少しだけ。
笑ったように見えた。
「……そういう時だけ都合よく笑うの、やめてくださる?」
もちろん。
人形は笑っていなかった。
それから数年。
テオドールは十六歳になった。
店は。
まだあった。
それどころか。
少しずつ大きくなっていた。
周囲にも店が増えた。
働く者が増え。
食べる者が増えれば。
食堂ができる。
子どもが増えれば。
預かる仕事が生まれる。
洗濯。
修繕。
配達。
仕事が。
また別の仕事を作る。
そんなある日。
「姉上」
テオドールが言った。
「僕、来年から父上の仕事を正式に引き継ぐよ」
「そう」
「家督も」
「ええ」
その日のために。
エレオノーラはずっと頑張ってきた。
弟へ。
傾いた家ではなく。
立て直した伯爵家を渡すために。
「姉上」
「何です?」
「僕が伯爵になったら」
テオドールは。
彼女を見た。
「姉上は何になるの?」
エレオノーラが止まった。
昔。
答えられなかった問い。
でも。
今は。
「商会の主人ですわ」
すぐに言えた。
「この店を、もっと大きくします」
「それだけ?」
「十分でしょう?」
「結婚は?」
「テオドール」
「ユリウスさん」
「…………」
「好きなんでしょう?」
エレオノーラは。
固まった。
「何を」
「皆知ってるよ」
「皆?」
「父上も」
「お父様まで!?」
「母上も」
「…………」
「僕、自分が一番遅いと思ってた」
「わたくしが一番遅いですわよ!」
テオドールは。
腹を抱えて笑った。
数日後。
閉店後。
「ユリウス」
「はい」
「お話があります」
「怖いですね」
「何が」
「その顔」
「決算前と同じ顔ですわよ」
「だから怖いんです」
二人の間に。
帳簿。
茶。
そして。
例の人形。
「わたくし」
エレオノーラは言った。
「テオドールが家督を継いだら、伯爵家を出ます」
「はい」
「知っておりますの?」
「まあ」
「なぜ皆知っているの」
「あなた以外は、あなたを見てるからでしょう」
「…………」
ずるい。
そんな言い方。
「それで?」
「店を続けます」
「はい」
「商会にします」
「はい」
「もっと人も雇います」
「はい」
「それから」
少しだけ。
言葉が詰まる。
「あなた」
「はい」
「わたくしと結婚する気はあります?」
ユリウスが。
固まった。
「…………」
「何です?」
「いや」
「ないなら――」
「あります」
「では早くお答えください」
「普通、逆でしょう」
「何が?」
「俺から言うんじゃないですか?」
「待つ理由があります?」
「……ないですけど」
「では」
エレオノーラは真顔で言った。
「どうしますの?」
ユリウスは。
しばらく彼女を見て。
笑った。
「結婚してください」
「はい」
「……それだけ?」
「何か必要?」
「いや」
「では決まりですわね」
「本当に商談みたいですね」
「大切な契約ですもの」
「契約?」
「一生ものです」
ユリウスも。
少し笑う。
「それは確かに」
やがて。
テオドールは家督を継いだ。
父コンラートは隠居した。
母は泣いた。
「本当に行くの?」
「ええ」
「エレオノーラ」
母の手を。
娘が握る。
昔。
この手の持ち主に。
『そんなに働いていたら、お嫁に行けない』
と言われた。
部屋へ戻って。
人形を抱いて泣いた。
今。
結婚する。
でも。
誰かに選んでもらったからではない。
婚約破棄された女ではなくなった証明でもない。
自分が。
選んだだけ。
「幸せになるのよ」
母が言った。
「はい」
エレオノーラは笑った。
そして。
「自分で幸せになりますわ」
そう答えた。
伯爵令嬢エレオノーラ・フォン・ヴァインベルクは。
伯爵家を出た。
平民ユリウス・ハルデンと結婚し。
戸籍上も。
社会的にも。
貴族ではなくなった。
それを。
「落ちた」
と言う者もいた。
公爵家から婚約破棄され。
最後には平民へ落ちた伯爵令嬢。
さぞ。
面白い話だったのだろう。
その噂を聞いたエレオノーラは。
「まあ」
とだけ言った。
「どうでもよろしいですわ」
「本当に?」
ユリウスが尋ねる。
「ええ」
「昔なら怒ったでしょう」
「昔のわたくしは、忙しかったのです」
「今も忙しいですよ」
「種類が違います」
「何が?」
エレオノーラは。
自分の店を見る。
働く女たち。
遊ぶ子どもたち。
お茶を飲みながら針を動かす客。
帳簿。
そして。
机の端に座る古い人形。
「今は」
少し考えて。
笑った。
「わたくしが選んで、忙しいのです」
◆◇◆◇◆
エレオノーラがヴァインベルク伯爵家を出てから、五年が過ぎた。
五年。
人ひとりの人生をすべて変えるには短く。
街の一角を変えるには、十分に長い時間だった。
かつて王都西区と呼ばれたその場所は、日が落ちれば馬車で通ることさえ避けられていた。
古びた長屋。
舗装されていない路地。
雨が降れば溜まる泥水。
働き口を失った者。
夫を亡くした女。
親を亡くした若者。
子どもを抱え、働きたくても働けない母親。
様々な事情を持つ者たちが集まっていたが、安定した仕事は少なく、子どもが大人に混じって働く姿も珍しくなかった。
そこへ。
最初にできたのが、エレオノーラの小さな店だった。
手芸用品を売る。
人形の服を売る。
注文を受けて小物を作る。
店内ではお茶も出す。
働く者は子どもを連れてきてもいい。
そして大きなテーブルでは、客が好きなだけ針を動かしていい。
最初は。
『何の店なのか分からない』
と笑われた。
けれど。
その「何の店なのか分からない場所」へ、人が集まった。
やがて店の隣に空き家を借り、工房へ変えた。
その向かいには倉庫。
さらに小さな食堂。
食堂で働く者が増え。
そこへパンを卸す者が現れ。
荷を運ぶ者が必要になり。
洗濯を請け負う者が現れ。
靴を直す職人が戻ってきた。
働く女が増えれば。
その子どもを見る人間も必要になる。
そこで、最初は店の二階にあった子ども部屋を広げた。
さらに。
読み書きのできない者が多いと分かれば、夕方から簡単な教室を開いた。
帳簿をつけられる者も育てた。
計算のできる者。
注文書を読める者。
手紙を書ける者。
できることが増えれば。
仕事の種類も増える。
そして。
仕事が増えれば。
暮らしも少しずつ変わった。
「……どうして、こうなったのでしょう」
ある朝。
エレオノーラは、商会の二階にある窓から外を眺めていた。
「あなたが始めたからでしょう」
後ろからユリウスの声がした。
「わたくしが始めたのは、端切れを使った小物屋ですわ」
「そこから人を雇った」
「ええ」
「子どもを連れてきていいと言った」
「ええ」
「茶を出した」
「ええ」
「空いてる部屋を貸した」
「使っていなかったので」
「夜間教室も始めた」
「必要でしたから」
「食堂も」
「働いている方が昼食に困っておりましたもの」
「診療所への補助も」
「それは――」
「全部あなたです」
「…………」
エレオノーラは振り返った。
「わたくし一人ではありませんわ」
「もちろん」
ユリウスは頷く。
「でも、最初に『やる』って言うのは、いつもあなたです」
「その後、あなたが帳簿を見て嫌な顔をするのですけれど」
「するでしょう」
ユリウスは持っていた帳簿を机へ置いた。
「今月の利益」
「……」
「聞きます?」
「聞きたくありません」
「七リールです」
エレオノーラは目を閉じた。
「黒字ですわ」
「商会の規模を考えてください」
「七リールも黒字です」
「人を三十七人雇って」
「はい」
「工房が二つ」
「はい」
「店舗が四つ」
「はい」
「共同食堂と託児所と夜間教室もある」
「ありますわね」
「それで七リール」
「黒字です」
「強いなあ」
ユリウスが笑う。
「あなたね」
「はい」
「昔より諦めが早くなりましたわよ」
「誰のせいでしょう」
「知りません」
「でしょうね」
結婚して五年。
二人の会話は、出会った頃とあまり変わっていなかった。
帳簿を挟んで言い合う。
原価。
仕入れ。
人件費。
そして。
最後には。
「続けられるなら」
エレオノーラが言う。
「それでよろしいでしょう」
ユリウスは少し考え。
「まあ」
と答える。
「潰れないなら」
それで。
だいたい話は終わる。
机の端には。
一体の人形が座っていた。
青灰色の硝子の瞳。
淡い亜麻色の髪。
額には。
今も細いクラックがある。
エレオノーラが何度も化粧を重ねてきたせいで、遠目にはほとんど分からない。
服だけは。
随分増えた。
新しい商品を作るたび。
「これは試作品ですから」
と言いながら。
人形へ着せる。
試作品。
という名目で。
今では人間の令嬢より衣装持ちかもしれない。
「そういえば」
ユリウスが人形を見る。
「まだ名前ないんですよね」
「ありませんわ」
「何年一緒にいるんです?」
「八年くらいでしょうか」
「それで?」
「困りませんもの」
「話しかける時は?」
「あなた、と」
「俺と同じですね」
「あなたはユリウスでしょう」
「でも人形の方が付き合い長いでしょう」
「変な張り合い方をしないでくださいませ」
ユリウスが笑った。
エレオノーラも。
少しだけ笑った。
前世でも。
今世でも。
誰かとこんなふうに。
何でもないことを話しながら朝を過ごす自分を。
想像したことはなかった。
その日の午後。
一通の手紙が届いた。
差出人は。
ヴァインベルク伯爵。
弟。
テオドールだった。
「何かあったのです?」
ユリウスが尋ねる。
「お父様が王都へ出てくるそうです」
「何か買いました?」
「なぜ最初にそこを疑うのです!」
「違うんですか?」
「今回は違います!」
「今回は」
「そこは拾わなくて結構ですわ」
エレオノーラは手紙を読み進める。
そして。
動きが止まった。
「……どうしました?」
「例の商人を見たそうですわ」
「例の?」
「人形を父へ売った人です」
「ああ」
ユリウスも人形を見る。
「まだ探してたんですか?」
「もう探しておりません」
四十二リール。
とっくの昔に。
損失として処理している。
人形を売る気もない。
返品など。
今さらするつもりもない。
ただ。
ずっと引っかかっていた。
『持ち主が選ぶ未来を知っている』
『あなたが持ち帰れば、持ち主のところへ行く』
父から聞いた。
奇妙な商人の言葉。
「会います?」
ユリウスが聞く。
エレオノーラは人形を見る。
人形は。
何も言わない。
「……ええ」
しばらく考え。
「一度くらい、四十二リールについて文句を言っても罰は当たりませんでしょう」
「そこなんですね」
「大事ですわ」
商人は。
酒場にいた。
八年前と同じ店ではない。
だが。
父は、
「間違いない!」
と言った。
エレオノーラには初対面なので、確かめようがない。
年齢の分かりにくい男だった。
五十にも。
六十にも。
もっと上にも見える。
白いものの混じった髭。
旅で焼けた顔。
古びてはいるが、よく手入れされた外套。
そして。
妙に澄んだ黒い瞳。
「あなたですの?」
エレオノーラは尋ねた。
男は酒杯から顔を上げる。
「何がでしょう」
「八年前」
エレオノーラは人形を抱き直した。
「ヴァインベルク伯爵へ、この人形を売った方」
商人は。
エレオノーラを見る。
次に。
人形を見る。
「ああ」
小さく笑った。
「ちゃんと行きましたか」
「……ちゃんと?」
「あなたのところへ」
エレオノーラは椅子を引いた。
「お話があります」
「どうぞ」
「四十二リール」
「安かったでしょう」
「高いですわ!」
思わず。
声が響いた。
酒場の客が何人か振り返る。
昔なら。
恥ずかしくなったかもしれない。
今は。
どうでもいい。
「父は酔っていたんですのよ!」
「知っています」
「知っていて売ったのですか!」
「値段はきちんと伝えました」
「そういう問題ではありませんわ!」
「ですが払った」
「払いましたけれど!」
男は。
楽しそうに酒を飲む。
エレオノーラは頭が痛くなってきた。
「そもそも」
彼女は声を落とした。
「この人形が未来を予言する、という話」
「そんなこと言いましたか?」
「…………」
「私は」
商人は首を傾げた。
「未来を予言する人形だとは申しておりません」
エレオノーラは目を閉じた。
「……やはり」
「何が?」
「父ですわ」
深いため息。
「では、何とおっしゃったの?」
「未来に関係する人形だとは」
「何が違いますの」
「ずいぶん違います」
「では、この子は何をするのです?」
「何もしません」
「…………」
「人形ですから」
隣で。
ユリウスが吹き出した。
エレオノーラが睨む。
「笑いました?」
「すみません」
「笑いましたわよね」
「少し」
商人まで笑っている。
「では!」
エレオノーラは人形を卓上へ置いた。
「この子には何の力もないと?」
「さあ」
「さあ?」
「あるかもしれない」
「……」
「ないかもしれない」
「あなた、商人として最悪ですわね」
「もう売ったものですので」
「返品いたします?」
「お断りします」
「即答!」
男は。
人形を見る。
額のクラック。
整えられた髪。
新しいドレス。
「随分、綺麗になった」
「わたくしが整えました」
「でしょうね」
「なぜ分かるのです?」
商人は。
人形ではなく。
エレオノーラを見る。
「顔を見れば」
「人形の?」
「あなたの」
エレオノーラは黙った。
商人は酒杯を置いた。
「八年前」
静かに言う。
「あなたのお父上から聞かれました」
「何を?」
「未来を教えてくれる人形なのか、と」
「父らしい質問ですわ」
「私は答えました」
商人は。
人形を指した。
「未来を教える人形ではない」
少し間を置く。
「持ち主が選ぶ未来を、黙って見ている人形だ、と」
エレオノーラは。
言葉を失った。
「……それだけ?」
「それだけです」
「では、『持ち主が選ぶ未来を知っている』というのは」
「お父上の解釈でしょうね」
「…………」
頭を抱えたくなる。
「ただ」
商人が続けた。
「長く持つ人の中には、迷った時、この人形を見る者もいる」
エレオノーラの指が止まった。
「なぜ?」
「さあ」
「またそれですの?」
「何も言わないからでしょう」
「何も?」
「ええ」
商人は人形を見る。
「人は」
静かに。
「自分の中に答えがある時ほど、誰かに決めてもらいたがる」
エレオノーラは。
何も言わない。
「けれど」
商人は続ける。
「この子は何も決めません」
「……」
「褒めない」
「……」
「止めない」
「……」
「期待もしない」
胸の奥。
少しだけ。
何かが触れた。
父も。
母も。
前世の家族も。
元婚約者も。
みんな。
何かを求めた。
こうしなさい。
こうあるべき。
家族なのだから。
令嬢なのだから。
女なのだから。
それに比べて。
この人形は。
何も言わない。
だから。
自分の声が。
聞こえたのかもしれない。
「ただの鏡のようなものですの?」
「それも」
商人は笑った。
「あなたが決めればいい」
「ずるい答えですわね」
「商人ですから」
「商人への風評被害です」
ユリウスが横から言った。
「俺たちまで一緒にしないでください」
「これは失礼」
商人が笑う。
エレオノーラは。
人形を抱き上げた。
「では」
「はい」
「どうして父へ売ったのです?」
男はしばらく。
エレオノーラと人形を交互に見た。
「この子は」
ゆっくり言う。
「あなたのお父上のところへ行きたかったわけではないように見えました」
「では?」
「その先」
商人は笑った。
「あなたのところへ」
エレオノーラが眉を寄せる。
「人形が?」
「そう見えただけです」
「笑ったりしました?」
「まさか」
商人は即答した。
「人形は笑いませんよ」
「ですよね」
「たぶん」
「最後の一言が余計ですわ!」
商人は。
声を立てて笑った。
その男と会ったのは。
それが最後だった。
後日。
父が同じ酒場へ行ってみたが。
すでにいなかった。
どこに泊まっていたのかも。
どこへ向かったのかも。
誰も知らない。
「まあ」
エレオノーラは。
たいして気にしなかった。
「今さらですわね」
四十二リールについては。
まだ少し腹が立つ。
けれど。
返す気など。
とうになかった。
それからさらに三年。
エレオノーラの商会は。
相変わらず。
大儲けしてはいなかった。
「今年の利益率」
「言わないでくださいませ」
「まだ言ってません」
「顔で分かります」
ユリウスが帳簿を机へ置く。
「去年より下がっています」
「理由は分かっております」
「共同託児所」
「必要です」
「夜間教室」
「必要です」
「診療所への補助」
「必要です」
「食堂の値下げ」
「必要でした」
「全部必要」
「ええ」
ユリウスは。
少し黙った。
そして。
「なら」
帳簿を閉じる。
「いいんじゃないですか」
エレオノーラが目を瞬く。
「怒らないんですの?」
「俺、いつも怒ってます?」
「原価率の話では」
「それは怒ります」
「でしょう?」
「でも」
ユリウスは窓の向こうを見る。
「商会本体は黒字です」
「ええ」
「借金もない」
「ええ」
「従業員への給金も遅れてない」
「当然です」
「じゃあ」
肩をすくめる。
「好きにしたらいいでしょう」
エレオノーラは。
少し驚いて。
それから笑った。
「あなた」
「はい」
「随分、丸くなりましたわね」
「誰のせいでしょう」
「知りません」
「でしょうね」
その頃には。
新聞が。
エレオノーラの商会を取り上げるようになっていた。
最初は。
『元伯爵令嬢が営む珍しい手芸店』
小さな記事。
次は。
『女性たちに新たな働き方』
さらに。
『王都西区、犯罪件数減少』
『就学児童数、五年前の三倍へ』
『かつての貧困地区に新たな商店街』
記事は。
少しずつ大きくなった。
エレオノーラ自身は。
あまり満足していなかった。
「わたくし一人が全部やったように書くのは、どうかと思いますわ」
「でも最初に始めたのはお嬢様でしょう」
マルタが言う。
「もうお嬢様ではありません」
「あ」
「何年目ですの」
「癖です」
「まあ」
エレオノーラは笑った。
「いいですけれど」
マルタは。
今では。
工房全体を取りまとめる責任者になっている。
かつて。
市場で端切れを売っていた未亡人。
今は。
十数人の職人を束ねている。
「でも」
マルタは店の外を見る。
「本当に変わりましたね」
「何が?」
「この辺り」
二人で。
通りへ出る。
昔。
雨が降ると泥水が溜まっていた路地。
今は。
石畳が敷かれている。
夜には街灯がつく。
近くには。
小さな学校。
診療所。
食堂。
「スラムって言う人」
マルタが言う。
「ほとんどいなくなりましたよ」
「完全になくなったわけではありません」
「細かい」
「大事ですわ」
「はいはい」
エレオノーラは。
それでも。
少し笑った。
街を救おう。
そんな大層なことを考えたことは。
一度もない。
ただ。
働ける人に。
仕事を。
子どもがいるなら。
子どもがいても働ける場所を。
捨てる布を。
商品に。
仕事を失った技術を。
もう一度。
使える場所へ。
それだけ。
繰り返した。
「捨てるには惜しいものが」
昔。
自分が言った。
「世の中には、ずいぶんありますわね」
でも。
今なら。
少し違う。
惜しいから。
捨てないのではない。
そもそも。
人も。
人生も。
誰かが勝手に。
「もう価値がない」
と決めていいものではない。
王宮から使者が来たのは。
その年の秋だった。
「王宮?」
エレオノーラは。
まず。
ユリウスを見る。
「何かしました?」
「なんで俺なんです?」
「王宮から人が来るような覚えがありません」
「俺にもありません」
「税金?」
「払っています」
「申告?」
「問題なし」
「では」
答えは。
もっと予想外だった。
「叙爵?」
エレオノーラは。
聞き返した。
使者が頷く。
「はい」
「どなたが?」
「あなた様です」
「…………わたくし?」
「エレオノーラ・ハルデン殿」
「平民ですわよ?」
「存じております」
「夫も平民です」
「それも」
「実家の爵位は弟が」
「存じております」
「では」
使者は。
穏やかに微笑んだ。
「王都西区における雇用創出、生活環境改善、児童教育支援、商業振興」
一つずつ。
読み上げる。
「そして」
「はい」
「それらを一時的な慈善ではなく、自立可能な商業として成立させた功績」
エレオノーラは。
何も言えない。
「陛下は」
使者が続ける。
「その功績により、あなたへ男爵位を授ける意向をお持ちです」
「……」
「正式な叙爵を」
少し間を置き。
「お受けになりますか?」
エレオノーラは。
すぐには答えなかった。
昔。
自分は。
伯爵令嬢だった。
生まれた時から。
それが当然だった。
そして。
自分から。
その身分を離れた。
平民となった。
後悔はない。
今。
再び。
爵位。
「少しだけ」
エレオノーラは言った。
「お時間をいただけます?」
「もちろんです」
彼女は。
隣室へ入った。
ユリウスも。
後から来る。
「嫌なら」
彼が言う。
「断ってもいい」
「分かっております」
それが。
ありがたかった。
受けろとも。
断れとも。
言わない。
名誉だとも。
家のためとも。
言わない。
エレオノーラは。
部屋の隅を見る。
人形がいる。
四十二リール。
返品不能。
額に傷。
古物商で。
四リール。
「……あなた」
エレオノーラは。
人形の前へしゃがんだ。
「どう思います?」
「人形に聞くんです?」
ユリウスの声。
「静かにしてくださいませ」
「はい」
人形を見る。
何も言わない。
何も変わらない。
それなのに。
なぜか。
ほんの少し。
笑っているように見えた。
「…………」
エレオノーラも。
笑った。
「そうですわね」
「何か言いました?」
「いいえ」
立ち上がる。
「決めました」
「受ける?」
「ええ」
「理由は?」
少し考える。
「利用できるものは」
エレオノーラは答えた。
「利用した方がよろしいでしょう?」
「そこ?」
「爵位があれば」
指を一本立てる。
「交渉できる範囲が増えます」
「はい」
「行政とも話しやすくなる」
「はい」
「土地取得も」
「はい」
「学校も」
「分かりました」
ユリウスが笑う。
「あなたらしい」
「褒め言葉として受け取りますわ」
そうして。
かつて。
伯爵令嬢だった平民。
エレオノーラ・ハルデンは。
自分自身の功績によって。
ハルデン女男爵となった。
叙爵の翌月。
新聞社から。
取材の申し込みがあった。
「ご活躍は以前から存じておりました」
若い記者が言う。
「ありがとうございます」
「しかし」
手元の資料を見る。
「非常に興味深い経歴ですね」
「そうでしょうか」
「伯爵令嬢としてお生まれになり」
「ええ」
「公爵家との婚約解消」
「ええ」
「ご実家の再建」
「ええ」
「弟君へ家督を譲られ」
「はい」
「平民男性との結婚によって貴族籍を離れ」
「ええ」
「そして今度は、ご自身の功績で男爵に」
エレオノーラは。
少し考え。
「そう並べますと」
笑った。
「少々忙しい人生ですわね」
記者も笑った。
「後悔は?」
「何について?」
「まず、貴族籍を離れたこと」
「ありません」
即答した。
「では、婚約破棄は?」
「それも」
「本当に?」
エレオノーラは。
少し考えた。
「当時は」
静かに答える。
「傷つきましたわよ」
「やはり」
「でも」
続ける。
「だから今がある、などと綺麗にまとめるつもりはありません」
記者が。
少し驚いた。
「嫌だったことは」
エレオノーラは言う。
「嫌だったことでよろしいでしょう?」
「……」
「傷ついたことを」
少し笑う。
「後から『必要な経験だった』と褒めて差し上げる必要などありませんもの」
記者のペンが。
動いた。
「ただ」
「はい」
「傷ついた後」
エレオノーラは続けた。
「どうするかは」
ゆっくり。
「自分で選べます」
「今回の叙爵については?」
「ありがたく思っております」
「昔の身分を取り戻した、というお気持ちは?」
「ありません」
首を振る。
「伯爵令嬢だった頃の爵位は、父の家のものです」
「では」
「今の爵位は」
少し考える。
「わたくしが働いた結果として、いただいたものです」
「同じ貴族でも」
「違いますわね」
エレオノーラは笑った。
「生まれた時から置かれていた椅子に戻ったわけではありません」
記者が顔を上げる。
「自分で歩いた先に」
エレオノーラは続ける。
「新しい椅子を一脚、いただいたようなものですわ」
「なるほど」
また。
記者のペンが走る。
商会のこと。
働く女性たちのこと。
子どもたち。
西区。
今後。
話は続いた。
そして。
最後。
「もう一つだけ」
「どうぞ」
「男爵閣下は」
記者が尋ねる。
「これまで、人生を左右するような決断を何度もされてきたと思います」
「そうですわね」
「ご実家を支えること」
「ええ」
「事業を始めること」
「ええ」
「ご結婚」
「はい」
「貴族籍を離れること」
「ええ」
「そして今回の叙爵」
「はい」
「迷われることは」
記者が言った。
「ありませんか?」
エレオノーラは。
少し笑った。
「もちろんあります」
「では」
「はい」
「そういう時、最後は何を基準になさるのです?」
「…………」
エレオノーラは。
少し考えた。
帳簿。
当然見る。
数字。
条件。
リスク。
全部確認する。
それでも。
決められない時がある。
エレオノーラは。
応接室の片隅へ目を向けた。
そこに。
一体の人形が座っている。
青灰色の瞳。
淡い亜麻色の髪。
額に。
細い傷。
「あの子ですわ」
「……人形?」
「ええ」
記者も人形を見る。
「何か特別な人形なのですか?」
「父が昔」
エレオノーラは笑った。
「酔って買ってきたものです」
「はい?」
「未来を予言する人形だと言われて」
記者の目が輝く。
「本当に?」
「いいえ」
「え?」
「少なくとも」
エレオノーラは人形を見る。
「わたくしに未来を教えてくれたことは、一度もございません」
「では、なぜ?」
「それが」
少し。
間を置く。
「笑っているように見える時があるのです」
「笑う?」
「もちろん」
エレオノーラは。
肩をすくめた。
「本当に笑うわけではありませんわ」
「ですよね」
「人形ですもの」
「では」
「でも」
エレオノーラは続ける。
「どうしても決められない時に」
人形を見る。
「この子が笑っているように見えたら」
「はい」
「決めます」
「何を?」
「自分が」
少しだけ。
笑った。
「本当は選びたかった方を」
記者は。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
「それは」
ゆっくり笑う。
「予言とは違いますね」
「ええ」
エレオノーラも。
笑った。
「未来は」
静かに言う。
「教えてもらうものではありませんもの」
翌朝。
新聞が届いた。
「載っていますよ」
ユリウスが。
食卓で新聞を広げる。
「どんな記事です?」
「見出し」
「はい」
「『傷物令嬢から女男爵へ』」
「…………」
エレオノーラの眉が上がった。
「その見出しを考えた方のお名前」
「怒らない」
「怒っておりません」
「顔」
「記事は?」
「中身はまともです」
「なら」
深く息を吐く。
「許します」
「写真もあります」
「写真?」
「昨日撮ったでしょう」
「ああ」
新聞を受け取る。
エレオノーラ。
机。
店の一角。
そして。
後ろの椅子。
例の人形。
「…………」
エレオノーラが。
止まった。
「どうしました?」
「いえ」
新聞の。
人形の部分を見る。
青灰色の目。
クラック。
口元。
「この子」
「はい」
「……」
言いかける。
すると。
ユリウスが覗き込んだ。
「笑ってません?」
エレオノーラが。
ゆっくり彼を見る。
「あなたにもそう見えます?」
「少し」
二人で。
新聞を見る。
沈黙。
そして。
「光の加減ですわ」
エレオノーラは言った。
「ですよね」
「当然です」
「人形ですから」
「ええ」
人形は。
笑わない。
喋らない。
未来も。
予言しない。
たぶん。
その日の午後。
エレオノーラは。
一枚の契約書を前にしていた。
「どうします?」
ユリウスが尋ねる。
「悪い条件ではありません」
「ただ」
「少し冒険ですね」
「ええ」
エレオノーラは。
数字を確認した。
一度。
二度。
最後まで。
「帳簿上は」
「いける」
「ええ」
「でも?」
「迷いますわ」
その時。
ふと。
顔を上げた。
部屋の隅。
青灰色の瞳。
淡い亜麻色。
細いクラック。
古い人形。
「…………」
ほんの少しだけ。
笑っているように見えた。
エレオノーラも。
笑う。
「決めましたわ」
「やります?」
「ええ」
ペンを取る。
「やりましょう」
署名する。
人形は。
もちろん。
何も言わなかった。
――あの子が笑っているように見えたら、決めるのです。
後年。
ハルデン女男爵は。
新聞の取材で。
そう語ったという。
未来を予言する人形について尋ねられるたび。
彼女は。
決まって笑って否定した。
人形は。
喋らない。
予言もしない。
笑ったりもしない。
ただ。
彼女の傍らには。
生涯。
一体の古い人形があった。
額に。
細い傷を残したまま。
捨てられることもなく。
売られることもなく。
季節ごとに。
新しい服を着せてもらいながら。
その人形が。
本当に。
何かを知っていたのか。
それとも。
一人の女性が。
自分自身の答えを。
そこに見ていただけなのか。
それを知る者はいない。
ただ。
女男爵が残した。
数多くの肖像と写真の中で。
彼女とともに写るその人形だけは。
いつも。
ほんの少しだけ――
笑っているように見えたという。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
「価値がない」と捨てられたものや傷ついたものが、工夫と情熱で新しい価値へと生まれ変わっていく様子を楽しんでいただけていたら嬉しいです。
エレオノーラとユリウスの、ビジネスパートナーから始まるちょっと不器用な関係性もお気に入りです。
もし「面白かった!」「エレオノーラ逞しい!」「人形の笑顔(?)が気になる」と思っていただけましたら、下部の評価(★)やブックマーク、感想などで応援していただけると執筆の大きな励みになります!
また次の物語でお会いできるのを楽しみにしております。




