誕生日
注:作中の全部はフィクションです。
誕生日で真っ先に思い出すのは笹だ。
別にわたしが7月生まれだからではない。
もう何年も前のことだが、姉が隔離病棟に入院した。
全面が体育館みたいなオレンジ色で、意外と広いんだなと思ったのを覚えている。トイレはむき出しで、窓がない。ベッドではなく、布団が一組敷いてあった。
その布団の上で、姉が泣いていた。両親は、なにごとか、励ますような事を言っていた気がする。母は一緒に泣いていた。
帰るとき、受付ロビーに立派な笹が飾ってあるのに気づいた。
たわんだ枝にカラフルな短冊がいくつも結んであって、きっと小さな子どもが書いたのだろうわんぱくで元気な字から、毛筆の丁寧で達筆な手跡まで、さまざまに願い事が書いてあった。
一枚、ちょうどわたしの目の高さに、紫色の短冊が垂れていて、ただひとこと、
『かえりたい』
と書いてあった。
父が運転する車の中で、ふと今日は自分の誕生日だったと思い出した。腕時計を見た。あと数時間で日付が変わる。
誰にもおめでとうとは言われなかった。
精神病院に入院した姉はみるみる元気になった。
過保護な母が尋常じゃない量のお菓子を差し入れするものだから、姉のロッカーだけパンパンで、看護師さんに怒られた。
早々に共同の病室へ移動となり、姉はすぐに他のベッドのみなさんと仲良くなった。食事制限中の人にもこっそりお菓子をあげてしまうので看護師さんに怒られた。すごく申し訳なかった。
姉がコンタクトレンズをつけたまま寝てしまい、目の中でレンズがパキャパキャに割れたので一度眼科に移送しなければならなくなったときが一番怒られた。
仕事を途中で切り上げて付き添わなければならず、それがいかに迷惑で苦痛で大変だったか、母はわたしに夜10時から1時にかけてこんこんと吐き出した。
次の日寝坊して母に怒られた。
遅刻したので教授に怒られた。単位を落とした。
単位を落とした事を知った両親に怒られた。
あと見舞い先で姉にも怒られた。差し入れた漫画がリクエストと違ったからだ。
その時突然わたしが笑い出したので姉はびくりとして気味悪げにわたしを見た。
姉に頼まれた漫画はすけべ本だった。法律に触れるからそもそも買えなかったのだと言い訳しようとしたとき、自分はもう18歳なのだということに気がついたのだ。どうにも妙なタイミングで自分の誕生日を思い出したのが可笑しくて、笑ってしまった。涙が出るほど笑った。
誰にもおめでとうとは言われなかった。
父が癇癪を起こして母が泣いた。
皿の破片を拾いながら「かえりたい」と思った。
ここが家なのに、不思議だった。
あの紫の短冊の人は、望んだ場所にかえれているといいのだけれど。
「誕生日おめでとう」
何年も音信不通だった姉から突然宅飲みに誘われたかと思ったら、こぎれいな2LDKのローテーブルに黒皮のバッグを置かれた。くれるらしい。
姉はよくしゃべった。
そういえば彼女はよくしゃべる人だった。
母の口座から盗んだ金はおおむね全部溶かしたことや、父の従兄弟との関係は清算して今はフリーであることや、最近2回目の堕胎をしたことや、コンパニオンの仕事の愚痴や同僚の悪口など、いろいろずっとしゃべっていた。水のように焼酎を空けていくのが凄いなと思った。
「そっちはどうだった?」
わたしは何を言えばいいかわからなくて、結局何も言わなかった。
母が従兄弟の妻に切りつけられたことや、法テラスに何度も通って一昨年やっと返済が済んだことや、来週で父の死亡認定が下りることや、たくさん頭を下げたこと、何度も謝ったこと、最後にちゃんと眠ってちゃんと食べたのがいつだったか全然覚えていないこと、ぜんぶ何も言わなかった。
ただただ手元のマグカップにラベルのないペットボトルから液体を注いではゴクゴク飲んだ。
「すっごい飲むじゃん」
姉が笑った。わたしも笑った。
喉が焼けるように痛い。ペンダントを掴んだら冷たかった。ペンダントトップの中身が母だということも言わなかった。わたしの誕生日は今日じゃないことも言わなかった。
もうぜんぶいいのだ。
今日と言う日が姉にとって最悪になりさえすればなんだっていいのだ。
「ねえ、何飲んでるの?」
わたしはにっこり笑ってまたゴクゴク飲んだ。
ゴクゴクゴクゴクゴクゴク飲んだ。
シャワーを浴びに行った姉が「ねえハイターないんだけど」と言うのが聞こえる。
姉はわたしの誕生日を覚えていなかったけど、今日と言う日が忘れられない日になるといいなと思った。
「飲んじゃだめだよ」って書いてあるものは飲んじゃだめです。
読んでくださってありがとうございました。m(_ _)m




