第008話:早朝訓練2日目――断ち切られた虚像と自動収集
午前四時十五分。
夜の帳が白み始める前の、最も深く、重い静寂が世界を包んでいる。
佐藤通は、昨日より十五分早く覚醒した。微睡みの残滓を振り払うように頭を振ると、脳裏には昨日の屋上で交わした有栖との「契約」――あの、あまりにも不合理で温かいランチの約束が鮮明に浮かび上がる。
「……あんな風に言われた手前、派手な傷を負って帰るわけにはいかないか」
独り言は、無機質な自室の壁に吸い込まれて消えた。彼はタクティカルウェアに袖を通し、その機能的な繊維が肌に馴染む感触を確かめる。鏡の前に立ち、銀のフレームが静かな光を放つ『深淵のモノクル』を装着した。
左目のOSが瞬時に起動し、網膜上に情報の激流が奔流となって流れ込む。
(個体名:佐藤通。精神コンディション:極めて安定。……新スキル【雷魔法】【無限インベントリ】の初期同期を完了。本日の『訓練』、および『清掃作業』の開始を推奨します)
「ああ。今日は昨日以上に、街の空気が『ノイズ』で濁っているようだ」
通は窓から音もなく跳躍した。重力を無視したような着地。彼は夜明け前の、まだ眠りの中にいる渋谷の街へと、一片の影となって溶け込んでいった。
本日の目的地は、スクランブルスクエアの地下深層。
迷路のように入り組んだ地下鉄通路のさらに下、通常の地図には決して記されることのない「建設中止となった幻の貯水槽」だ。そこには、都市が吐き出した負の感情と漏れ出た魔力が淀み、大気が粘り気を帯びた「高密度空間」を形成していた。
(スキャン完了。座標、地下四十五メートル。敵性個体:単一。……しかし、その魔力波形は昨日の処刑騎士三体分を遥かに凌駕。特Aランク上位――『次元の断罪者』と推定)
「次元の断罪者、か。……通勤ラッシュが始まる前に、片付けておきたい『バグ』だな」
通は物理的な壁を「透過」するようにして、最深部へと降り立った。
広大な地下空間。ひんやりとした湿り気と、腐敗した魔力の異臭が鼻を突く。その中央に、和装のシルエットを纏い、全身を空間の歪みそのもので構成したような異様な魔物が静座していた。
顔と呼べる場所には巨大な『亀裂』が走り、その手には実体を持たぬ「暗黒の線」にしか見えない太刀が握られている。
「キ……、サ、マ……ハ……」
ノイズに塗れた、神経を逆撫でする声。
断罪者が立ち上がった瞬間、周囲の空間がガラス細工のように無数のひび割れを刻んだ。
特Aランク。それは一国を壊滅させかねない、歩く厄災。現代の探索者ギルドが総力を挙げ、多大な犠牲を覚悟して挑むべき相手。
だが、レベル131という常軌を逸した領域に立つ通にとって、それは「処理すべき不具合」の一つに過ぎない。
「……名刺交換の儀式は抜かしてもいいだろう。俺は少し急いでいるんだ」
通が静かに警棒を抜く。
その刹那、断罪者の姿が完全に消失した。
(警告。前方〇・〇一秒後に『次元断』が発生。……左四十五度へ〇・三ミリの回避を推奨)
「……見えている」
通は動じない。
ただ、首をわずかに傾けただけだ。
耳元を、大気を切り裂く不可視の斬撃が通り過ぎ、背後の厚さ数メートルはあるコンクリート壁が、豆腐のように滑らかに両断された。
「ギ、ィィィ……ッ!」
背後から迫る、暗黒の太刀。
通は警棒を逆手に持ち替え、魔力で強化された鋼の芯で、その「空間の刃」を真っ向から受け止めた。
キィィィィィィン!
空間そのものが悲鳴を上げ、凄まじい火花が闇を照らす。
物理法則を蹂躙する斬撃と、それを力技でねじ伏せるレベル131の質量。衝突が生み出した衝撃波が、地下空間を激しく揺さぶった。
「昨日手に入れたスキルの、実戦テストだ。……逃がさないぞ」
通が指先を鳴らす。
「――雷魔法:『紫電の檻』」
通の足元から、蜘蛛の巣のように緻密な青紫色の雷光が広がり、逃げ場のない魔力グリッドが空間を支配した。
断罪者が「次元転移」で逃れようとするが、雷の檻がその『座標』を先読みし、空間ごと焼き切る。
(解析:対象の転移ポイントを完全封鎖。……物理干渉、可能となりました。デバッグを開始してください)
「了解だ」
通の動きが、爆発的な加速を見せる。
もはや、常人の肉眼では残像すら捉えられない。
断罪者は千の刃を繰り出し、空間を微塵に刻もうとするが、通はその刃の「隙間」を、まるで朝の散歩でも楽しむかのようにすり抜けていく。
三十二歳の魂が持つ、極限の冷静沈着。
「……そこだ」
通の掌が、断罪者の中心にある『亀裂』に優しく触れた。
ただの接触。だがそこには、レベル131の膨大な魔力が、特定の共鳴振動数を持って流し込まれた。
「共振破砕」
ドォォォォォォン!
断罪者の内側から、耐え難いほどの閃光と雷鳴が溢れ出した。
強固な防御を誇っていた空間の歪みが中和され、特Aランクの怪物が、内側から崩壊していく。
「ガ、アアアアア……ッ!」
絶叫と共に、次元の断罪者は塵となって霧散した。
本来なら数日を要する死闘。通はそれを、わずか三分間の「ルーチンワーク」として終わらせた。
(……戦闘終了。経験値を取得。……レベルアップには至りません。現在のレベルで次へ至るには、このクラスの魔石がさらに千個は必要です)
「……厳しいな。まあ、昇進がそう簡単にいかないのは、前世でもよく知っている」
通は自嘲気味に笑ったが、その直後、足元で予期せぬ変化が起きた。
シュルルルル……!
断罪者が消えた跡に残された、禍々しくも美しい紫色の特大魔石。そして太刀の残滓である『次元の刃片』が、通の意志に関わらず空間の裂け目へと吸い込まれていく。
(新スキル【無限インベントリ】が正常に作動。……ドロップ品を自動収集しました。ストレージ内を確認してください)
「……ほう。これは、想像以上に『快適』だな」
これまでは、魔物を屠った後に骸から魔石を抉り出すという、泥臭い肉体労働が必要だった。だが、この自動収集機能は、戦った後の「後片付け」を完璧に自動化してくれる。
ビジネスにおけるRPA(自動化ツール)を初めて導入した時のような、ささやかだが確かな感動が通を包んだ。
「さて、今日の成果(売上)は……」
モノクルを指先でスワイプし、インベントリの内容を確認する。
『――特Aランク:次元魔石 ×1』
『――レア素材:次元の刃片 ×3』
『――おまけ(雑魚):ゴブリンの牙 ×12』
「……これ一つで、昨日のボーナスをさらに上回るか。一真(親父)の会社に流せば、また面白い反応が見られそうだ」
通は満足げに頷くと、地下の暗闇から地上へと向かった。
地上に出ると、空は完璧な朝焼けに染まり、遠くから始発電車の規則正しい音が響き始めていた。
帰宅し、手早くシャワーを浴びて、通は再び「佐藤通(15歳)」という仮面を被る。
リビングに降りると、一真が新聞を広げ、恵美が朝食の準備をしていた。香ばしいトーストの香りが、戦いの後の殺伐とした神経を解きほぐしていく。
「……お早う、通。今日のジョギングも、随分と激しかったようだな」
一真が新聞の隅から、鋭い眼光を向けてくる。
通のウェアが、微かに焦げたオゾンの匂いと、濃厚な魔力の残滓を纏っていることに気づいているのだ。
「ああ。少し、道が荒れていたからね。……インベントリ(共用ストレージ)に、今日の『サンプル』を置いておいたよ。親父」
「……あとで確認しておく」
一真はニヤリと不敵に笑い、再び新聞に目を落とした。
その時、通のスマホが、ポーンという軽快な音を立てて震えた。
『神崎有栖:おはよ! 今日の卵焼き、昨日より上手に焼けたよ。学校で待ってるね!』
液晶画面を見つめる通の口角が、無意識に、わずかだけ上がった。
(個体名:佐藤通。心拍数が微増。……分析:あなたは昨日の死闘よりも、これから始まる『ランチ・ミッション』に、より強い緊張と期待を抱いています)
「……黙ってろ。これは、良好な関係維持のための、ただの定例会議だ」
通はスマホをポケットにしまい、カリカリに焼けたトーストを口に運んだ。
レベル131の最強の帰還者。
だが、その力すら届かない、有栖の作る「温かい弁当」という名の、最も攻略困難で、最も心地よい戦場へ向かうために。
佐藤通の、波乱に満ちた二日目が、今始まった。
【現在の佐藤通:レベル131。所持金:大幅増(見込み)。神崎有栖の期待度:MAX。……登校開始】




