第6話 山へ続く道
ルミナリア王国とその周辺の地方に来るのは久しぶりだが、それにしても今の政治事情はいったいどうなっているんだろうなと、俺は街道を進みながらぼんやり考えていた。いくらなんでも一国の王女ともあろう者が護衛の大部隊も連れず、たった一人の侍女とともに放浪の旅に出るなど前代未聞もいいところだ。王族というのはもっと何重にも守られ、何層もの儀礼に包まれている存在だと思っていたのだが、少なくとも俺がこれまで各地で見聞きしてきた限りでは、王女が自ら旅装を整え門をくぐって追いかけてくるなどという話は一度もない。
もっとも、俺は王宮だの王族だのの日常や生活について詳しいわけではないし、正直なところ大して興味もない。豪華な食事や柔らかい寝台、磨き上げられた床や整然と並ぶ侍従たちの姿は想像できるが、実際にそこへ足を踏み入れたいと思ったことはない。ただ、それでもあの王女の行動が“普通じゃない”ということくらいは、さすがの俺でもわかった。秩序を何より重んじる光の国で、次期聖王候補が勝手に城を抜け出すなど穏やかな話で済むはずがない。
とはいえ、俺が止めても意味がないらしい。
王都を出て半日ほど進んだあたりで、背後から蹄の音が規則正しく響いてくるのに気づいた。振り返らなくてもわかる。あの白マントだ。いや、正確にはもうマントは外しているが、金の髪は隠しきれていない。
「……どこまでついてくるつもりだ」
小さく呟きながら、俺は歩調を少し速める。
だが、追ってくる影は離れない。
ちらりと横目で確認すると、王女と侍女はそれぞれ騎獣にまたがっていた。馬ではない。ルミナリア特有の白毛の騎獣で、鹿に似た角を持ちながら体躯は馬よりもひと回り大きい。脚は長く、筋肉のつき方も均整が取れている。
「ふむ、良い騎獣を持っているな」
思わず感心する。王族仕様の個体というだけあって、ただの乗用ではなく戦場でも通用する血統だろう。足さばきが軽く、岩場でも安定している。俺の相棒――クルルと比べても、機動力は負けず劣らずといったところだ。
クルルは俺の隣を軽快に走っている。黒毛の小型騎獣で、見た目は狼と山猫を足したような姿だが、脚力と瞬発力は並の馬を軽く凌ぐ。三年前、北の荒野で偶然出会い、それ以来の付き合いだ。気まぐれだが、俺の旅には欠かせない存在だ。
「クルル、あいつら速いな」
軽く声をかけるとクルルは鼻を鳴らし、さらに速度を上げる。それに合わせるかのように、背後の白騎獣も苦もなく追従してくる。さすがに王族の乗り物だ。金はかけているらしい。
それにしても、本当に旅をするつもりなのだろうか。
王宮にいれば衣食住は保証され、危険からも守られるだろうに。あてもない街道を進み野営を覚悟し、魔獣と遭遇する可能性がある場所へ向かうなど、無謀もいいところだ。俺の旅は気まぐれだが、彼女のそれは賭けに近い。
「……まあ、俺には関係ないか」
そう自分に言い聞かせるが、完全に切り捨てられているわけでもない自分がいるのが厄介だ。
街道はやがてなだらかな丘陵地帯へと変わり、さらに進むと地形が徐々に険しくなってきた。遠くに連なる山々が、青く霞んで見える。あれがガルムへと続く山岳地帯だ。岩肌がむき出しになり、谷は深く刻まれ、ところどころから細い滝が白糸のように垂れ落ちている。
道の両脇には、低木と岩が入り混じる。風が吹き抜けると、乾いた草の匂いと、かすかに湿った苔の匂いが混ざり合う。空は高く、雲は流れが速い。平地とは空気の密度が違う。山の気配が濃くなってくる。
さらに進むと地面は赤みを帯びた岩盤へと変わり、道は細く蛇行し始める。左手には切り立った崖、右手には深い谷。谷底には川が流れ、その水音が遠くから響いてくる。岩壁にはところどころ洞窟の口が黒く開いており、ああいう場所にはだいたい岩蜥蜴か山狼が住み着いている。
ガルムは、この山岳地帯の裂け目に築かれた都市だ。渓谷の両側に家々が張り付くように建ち、吊り橋で行き来する。朝は霧が立ち込め、昼には岩肌が陽光を反射し、夜には星がすぐ頭上に見える。あの場所の市場には、山菜と乾燥肉、香辛料が豊富に並ぶ。俺の目的は、あくまでそこだ。
背後から、再び蹄の音が近づく。
「ブラック様!」
王女の声が、山風に乗って届く。
俺はため息をつきながら振り返る。
「まだ帰る気はないのか」
彼女は真剣な顔でうなずいた。
「はい。私は、自分の足でこの景色を見たいのです」
彼女の視線は険しい山々へ向けられている。その瞳には恐れよりも、どこか期待が宿っているように見えた。
無謀だ、と頭では思う。しかしその表情は、王宮の白壁よりもこの荒々しい山のほうが似合っているようにも見えた。
「……好きにしろ。ただし、俺は世話しないぞ」
そう言って前を向く。
ガルムへ続く山道は、もうすぐだ。
星涙菜も岩蜥蜴も、そして面倒ごとも、きっとあの先で待っている。




