第35話 炎の侵攻
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竜暦1334年 4月3日
02:47
火の大陸西岸
アグニア連邦軍 第一西方軍港
ヴァルカド海軍基地
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夜の港は完全な灯火管制下にあった。
海面には灯りが一つもない。岸壁の照明塔もすべて消灯され、代わりに低い赤色の誘導灯だけが地面に並べられている。海上の船影は、暗闇の中に浮かぶ巨大な岩礁のようだった。
軍港ヴァルカドは、アグニア連邦最大の軍事港である。
火山帯の海岸線を削って築かれたこの港は、外海から直接視認できない構造になっている。天然の断崖が湾口を覆い、海峡は曲がりくねっているため、大艦隊が内部に停泊していても外洋からは確認できない。
つまりこの港は、戦争準備のための港だった。
岸壁にはすでに兵員輸送列車が到着していた。
地下鉄道網から浮上した装甲列車が、静かに停止する。貨車の扉が開き、兵士たちが整然と降りてくる。背嚢は最小限、装備は標準化された軽装突撃装備。彼らは火山地帯での戦闘を前提とした耐熱装備を身につけている。
この兵士たちは、
アグニア連邦軍 炎導十三兵団
の一部隊だった。
十三兵団は連邦軍の象徴である。
だが実際の構成は神話的な「十三」ではない。
兵団という名称は歴史的呼称に過ぎず、実態は複数の軍団規模の戦力を束ねた統合打撃群だった。
総兵力およそ六万。
そのうち今回の作戦に投入されるのは三個兵団。
兵士たちは何も語らない。
すでに作戦命令は三日前に配布されている。
兵士たちが知っているのは、
「演習ではない」
ということだけだった。
港湾中央に建てられた司令棟は、厚い防火石壁と魔導遮断層によって幾重にも防護された要塞構造の建物であった。外部からの衝撃や魔術的干渉を遮断するため、壁面には耐熱鉱石が埋め込まれ、内部の空気すら外界と隔離されている。そこに設けられた作戦室では、数十名の将校が半円状に並び、部屋の中央に広げられた巨大な戦略図を囲んでいた。
机の上に置かれているのは、この海域の最新の精密海図である。魔導観測衛星と龍脈測定塔によって収集された海底地形、潮流、海底火山帯の分布、そして航行可能な水路までもが細かく刻まれていた。地図は火の大陸西岸から始まり、その対岸に広がる光の大陸西部沿岸までを一枚の平面の上に収めている。
二つの大陸は、最短距離でおよそ三百海里。
数値だけを見れば遠くはないが、この海域は単純な外洋ではなかった。
海底には火山活動帯が走り、数百年前の地殻変動によって形成された浅瀬と暗礁が無数に散らばっている。潮流は不規則に変化し、龍脈の影響を受けた海域では磁気の乱れも生じる。大型艦隊が安全に航行できる水路は、実際にはごく限られていた。
つまり、軍事的観点から言えば――
この海域で侵攻に利用できる航路は、実質的に三つしか存在しない。
それが、この軍事作戦の出発点だった。
戦略図の上には赤い線が三本引かれている。
それぞれが侵攻航路を示していた。
第一航路は北方海峡を抜けるルートである。火山帯が比較的薄く、深度の安定した海域を通るため大型艦隊の移動が可能だ。ここから侵攻すれば、光の大陸北西部に位置する港湾都市群へ接近できる。そこはルミナリアの防衛網の外縁にあたり、港湾設備は整っているが軍備は比較的薄い。
第二航路は中央海域を横断するルートである。ここは古くから交易船が行き交う海運路であり、水深も比較的安定している。ただし航路が開けている分、哨戒船による監視も多い。だがここを封鎖できれば、光の大陸西側の海上交易は瞬時に麻痺する。
そして第三航路。
南方海域。
ここは三つの航路の中で最も距離が短い。火の大陸と光の大陸の距離が最も狭まる地点であり、最短で対岸へ到達できる。しかし同時に、ルミナリア西岸防衛網の中心部でもある。沿岸には防空塔が並び、港湾砲台と観測所が密集している。
その航路の先にある都市。
聖王国ルミナリア西岸
港湾都市アルヴェリオ。
西方最大の軍港であり、同時に光の大陸西部最大の交易中継地でもあった。ここには西方艦隊の主力が停泊し、海運の半数以上がこの港を経由している。
つまり――
ここが沈黙すれば、光の大陸西側の海運は事実上停止する。
アグニア軍が主攻撃軸に定めたのは、この第三航路だった。
作戦名。
再燃計画 第一段階。
しかし、この作戦の目的は単なる港湾制圧ではない。
作戦室の中央には、海図とは別にもう一つの物体が置かれていた。
黒い円筒形の装置。
直径は約一メートル。外殻は多層構造の耐熱魔鉱装甲で覆われ、その表面には細かな導力回路が刻まれている。内部には赤く脈動する結晶体が封入されており、装置全体からかすかな熱と振動が伝わっていた。
これは通常の兵器ではない。
試作圧縮魔導炉。
アグニアの研究者たちは長年にわたり、火の零界核の構造解析を進めてきた。もちろん、本物の零界核は各大陸の地下深部に封じられており、直接観測することは不可能である。だが龍脈観測装置による魔力流動データ、古代魔導文明の残した断片的記録、そして数百年分の地殻魔力変動の統計から、零界核の基本構造はある程度推定されていた。
そこで導き出された仮説は、従来の常識を覆すものだった。
零界核は、巨大なエネルギー源ではない。
むしろ逆である。
膨大なエネルギーを“圧縮し続ける装置”だった。
龍脈を流れる魔力は、零界核によって収束し、安定した循環へと変換される。もしその圧縮構造を人工的に再現できれば、一瞬だけだが極端なエネルギー解放を引き起こすことが可能になる。
アグニアの工学者たちは、この理論を軍事技術へ転用した。
小型化された圧縮魔導炉。
通常の魔導炉の数十倍の魔力を瞬間的に放出する試作装置。
この装置はまだ量産兵器ではない。だが砲弾として射出すれば、爆発というよりも圧縮魔力の衝撃波を生み出す。港湾設備や要塞施設の魔導炉を過負荷状態に陥らせ、都市機能を一撃で麻痺させることができる。
アグニア軍はこの兵器を、
火核弾
と呼んでいた。
机の前に立つ男が、低く問いかける。
「海上哨戒の状況は」
低く落ち着いた声が、作戦室の中央に静かに落ちた。
問いを受けた副官は、一歩前へ出ると、手にしていた報告板を開いた。室内に並ぶ魔導灯の青白い光が、磨き上げられた床と巨大な海図卓の上を照らしている。そこにはアルヴェリオ海峡を中心とした海域の詳細な海図が広げられており、無数の航路線と観測点、哨戒区画が細かく書き込まれていた。
「光の大陸側の哨戒線は現在も通常配置を維持しています。巡視艦二隻、魔導観測船一隻。交代周期も規定通りで、戦時態勢への移行は確認されていません。警戒レベルは依然として低位のままです」
報告は簡潔だったが、その内容は十分だった。
副官の声が止まると、作戦室には再び静かな空気が戻る。
その中央に立っている男は、ゆっくりと頷いた。
炎の国アグニア連邦。
その軍を統括する人物――
アグニア連邦軍総司令 ヴァルグ=レイダス
背筋を伸ばしたその姿は、まるで石像のように動かない。長年戦場を渡り歩いた男に特有の、余計な動きのない佇まいだった。鋭い眼差しは海図の上を静かに滑り、指先はまだ何も指していない。
しばらくの間、彼は何も言わなかった。
ただ海図を見ていた。
アルヴェリオ海峡。
六大陸を結ぶ最大の交易路の一つであり、同時に光の大陸と火の大陸を隔てる狭い海域でもある。潮流は複雑で、海底の地形も入り組んでいるため、大規模艦隊の運用には高度な航海術が必要とされる場所だ。
しかし同時に――
ここを押さえれば、海の物流は止まる。
やがてヴァルグは口を開いた。
「三百年」
その言葉は、独り言のように静かだった。
だが、室内の空気はわずかに張り詰める。
「世界は三百年、戦争をしていない」
誰も答えなかった。
答える必要がないからだ。
それは事実だった。
六環均衡が成立して以来、六大陸の間で全面戦争は一度も起きていない。各地で紛争や衝突は繰り返されてきたが、それらはすべて局地的なものに留まり、大陸国家同士の戦争へ発展することはなかった。
均衡。
それがこの三百年の秩序を支えてきた言葉だった。
だが――
ヴァルグはゆっくりと手を伸ばした。
そして海図の一点を指した。
アルヴェリオ。
海峡の中心に位置する、光の大陸側の港湾都市。
「誰も、戦争の始め方を覚えていない」
その声は、低く落ち着いていた。
感情はほとんど乗っていない。
その言葉の重さを、この部屋にいる将校たちは理解していた。
戦争がない時代が長すぎたのだ。
戦争というものが、歴史の教科書の中の出来事になりつつある。
しかし国家というものは、均衡だけで永遠に保たれるわけではない。
ヴァルグは短く命じた。
「第一艦隊は北方港湾を封鎖」
すぐに記録官の筆が動く。
「第二艦隊は交易航路を遮断。商船の進入をすべて止めろ」
副官が静かに復唱する。
「了解。第一艦隊、北方封鎖。第二艦隊、航路遮断」
そして、ヴァルグはわずかに言葉を切った。
ほんの一瞬の沈黙。
その後で続けた。
「第三艦隊」
その声は、ほとんど囁きに近かった。
「アルヴェリオを沈黙させる」
その瞬間。
作戦室の空気が、凍りついた。
誰も声を出さないのは、その意味を全員が理解していたからだ。
これは宣戦布告ではない。
まだ世界は何も知らない。
外交は破綻していない。
条約も生きている。
しかし――
実際の戦争というものは、宣言から始まるわけではない。
最初の一撃から始まる。
ヴァルグは最後に静かに言った。
「炎は閉じ込められることを好まない」
それはアグニアに古くから伝わる言葉だった。
炎とは力であり、変化であり、停滞を焼き払うものだ。
窓の外では、港の夜が広がっていた。
巨大な戦艦が、ゆっくりと岸壁を離れていく。
魔導炉の低い唸りが海面を震わせ、蒸気と魔力の光が夜の空へと立ち昇る。黒い船体が一隻、また一隻と隊列を整えながら外海へ滑り出していった。
アグニア艦隊。
総数、二百七十隻。
その先頭を進む旗艦の艦首には、燃え上がる炎の紋章が刻まれている。
夜の海は、まだ静かだった。
風も弱く、波も穏やかだ。
その静寂の下で、確かに何かが動き始めていた。
歴史という巨大な歯車が、ゆっくりと回り始める。
竜暦一三三四年四月。
均衡の時代は、終わろうとしていた。




