第33話 旅立つ朝
スライムの皿は、きれいに空になっていた。
炭火の上に残った鉄網からは、まだかすかに香草と油の匂いが立っている。調理場の木の机の上には、岩塩の粒と山菜の切れ端がいくつか残るだけだ。
「……満足したか?」
俺は皿を片付けながら、向かいに座るユリアナへ声をかけた。
王女は少し考えるようにしてから、静かに頷いた。さっきまでの驚きはまだ完全に消えていないらしく、表情の奥に小さな余韻が残っている。侍女の方はすでに普段の冷静な顔に戻っていたが、食事の途中で何度か皿を見つめていたことを俺は覚えている。
俺自身も、かなり食った。
変異個体のスライムは量が多いわけじゃないが、粘度が高いぶん腹にたまる。胃の中がじんわり温かい。食材の魔力が体へ染み込むような感覚は、魔物を食ったとき特有のものだ。
腹も満たされた。
さて、次だ。
俺は袋を肩へ担ぎ、ギルドの方へ歩き出した。
「まだ行くのですか?」
後ろからユリアナの声が聞こえる。
「情報を見ておきたい」
俺は振り返らずに答えた。
「この辺で動いてる魔物を確認しておく」
旅を続けるなら、それは当たり前の習慣だった。
ダジルの冒険者ギルドは、町の中心にある石造りの建物だ。昼間ほどの騒がしさはなく、夕方の空気が落ち着いた雰囲気を作っている。酒場の方からは笑い声が聞こえ、受付の前には依頼書を眺めるハンターが数人いる。
俺は掲示板の前へ立った。
紙の束が何枚も貼られている。
依頼書。
討伐情報。
調査依頼。
その中から、今この地方で手配されている魔物の資料をいくつか拾い上げる。
ギルドはこういう情報を簡単な資料形式でまとめている。
俺は一枚目を手に取った。
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■【ギルド討伐依頼資料】
魔物名:灰爪狼
分類:哺乳型魔獣
危険度:B
出没地域:パルム北西丘陵地帯
特徴
・群れで行動する肉食魔獣
・爪に鉱石成分を含み岩を削る
・夜間に活動が活発化
備考
最近群れの規模が拡大
農場の家畜被害が増加
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次の紙へ目を移す。
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■【調査依頼】
魔物名:苔鎧スライム
分類:菌系スライム
危険度:C
出没地域:サンレス湿林
特徴
・体表に苔を生やす
・毒性胞子を放出
・火に弱い
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さらにもう一枚。
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■【特別注意個体】
魔物名:岩蛇グラニール
分類:爬虫型魔獣
危険度:A
出没地域:パルム東部渓谷
特徴
・体長十メートル以上
・体表が岩殻で覆われる
・強力な圧殺攻撃
備考
討伐報酬:金貨三十枚
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俺は資料を戻しながら、軽く息を吐いた。
「この辺は大したのはいないな」
パルム地方は比較的穏やかな地域だ。魔物の密度は高いが、極端に危険な個体は少ない。農地と村が広がっている土地柄、ギルドも早めに間引きを行う。
ユリアナは掲示板を覗き込みながら言った。
「ずいぶんたくさんいるのですね」
「この程度は普通だ」
俺は肩をすくめる。
魔物はどこにでもいる。
世界のあちこちを歩けば、それこそ数えきれないほど出会う。問題は強さと場所だ。
俺たちの目的地は、ここじゃない。
王都の北。
白環の深層。
あそこには普通の魔物とは桁の違う生き物が棲んでいる可能性がある。
地図の上ではただの森林地帯として描かれているが、実際には通常の地形区分では説明のつかない異常地帯として知られている。魔力の濃度が周囲よりも明らかに高く、地脈が複雑に絡み合い、環状に連なる古代の遺構が地下深くまで埋まっているという話もある。学者たちはそれを古代魔導文明の遺産だとか、零界核と連動する調整装置だとか、好き勝手な仮説を並べているが、正確なところは誰にもわからない。
……もっとも、それすら公に語られることはないが。
禁域に指定されている場所の情報は、基本的に外へ出ない。王都が危険と判断した時点で、記録の大半は魔導府の保管庫へ収められ、一般のハンターや学者が閲覧できる資料には断片的な情報しか残らない。仮にどれほど危険な魔物が確認されていたとしても、それが正式に発表されることはまずないだろう。
つまり、実際に足を踏み入れてみるまで、何が出るのか誰にもわからないというわけだ。
そしてその白環の深層へ向かうには、このダジルからさらに東へ進む必要がある。
来た道を引き返して王都へ戻り、そこから北へ向かうという手もなくはない。街道は整備されているし、補給も容易だ。だが、それではあまりにも面白みに欠ける。わざわざ山を越えてパルム地方へ入ったのに、同じ道を引き返すのでは旅として味気なさすぎる。
パルム地方を横断する道はいくつかあるが、その中でも最も整備されているのが東へ伸びる交易路だった。古くから商隊が行き来してきた道で、山道にしては幅も広く、途中にはいくつかの宿場町も点在している。
その交易路の最初の拠点になる町。
俺はギルド支部の資料棚の横に貼られていた地図の前に立ち、指先で東へ延びる線を辿った。
パルム盆地を抜け、丘陵地帯へ入り、さらに数日進んだ先。
そこに記されている町の名前を目で追う。
「……マルカか」
思わず口に出していた。
パルム地方から東へニ、三日ほど進んだ場所にある、比較的大きな町だ。交易路を使う旅人なら、一度は耳にする名前でもある。
風車の町マルカ。
この地方ではかなり有名な場所だ。
横からユリアナが身を乗り出し、地図を見上げる。
「風車の町……?」
聞き慣れない言葉に、彼女は少し首を傾げた。
「風力都市だ」
俺は地図の上の町の印を指で軽く叩きながら説明する。
「この辺りは地形の関係で風が強い。山から吹き下ろす気流と盆地の上昇気流がぶつかるから、年中風が止まらない土地なんだ」
その風を利用して発展したのが、マルカの町だ。
普通の農村にある水車とは違い、あそこには巨大な風車が何十基も並んでいる。丘の上に林立する羽根車が絶えず回り続け、その回転が地下の魔導機関へと伝えられる仕組みになっている。
風車の回転は、単に穀物を挽くためだけのものじゃない。
地下水を汲み上げて農地へ流す揚水装置、穀倉の換気装置、さらには小型の魔導装置の補助動力としても利用されている。魔力に頼りすぎない実用的な技術として、古くから発展してきた町でもある。
丘陵地帯には広大な麦畑が広がり、風車の羽根が回る丘の斜面には黄金色の穀波が続く。風が吹くたび、麦が一斉に揺れ、その上を影のように風車の羽根が横切っていく。遠目に見ると、まるで大地そのものがゆっくり呼吸しているような景色になる。
農業も盛んだし、交易路の要所でもある。
西からパルム地方の林産物が運び込まれ、東からは穀物や加工品が流れてくる。商人や旅人の往来も多く、情報の集まる町でもあった。
俺は地図から手を離した。
「ひとまずそこへ行く」
白環の深層へ向かうにしても補給は必要だし、現地の情報も集めておいた方がいい。禁域に近づけば近づくほど、普通の町は少なくなる。準備を整えるなら、マルカのような拠点で済ませておくのが無難だ。
侍女が静かに頷いた。
「妥当な判断です。交易都市であれば装備や物資の補充も可能でしょう」
その横で、ユリアナはまだ地図を見つめていた。
風車の絵が小さく描かれた町の記号を、じっと見ている。
王都の高い塔と白い城壁しか知らない彼女にとって、風車の並ぶ丘という光景はまだ想像の中の景色なのだろう。
俺は掲示板をもう一度ざっと確認し、特に気になる依頼がないことを確かめてから背を向けた。
「今日はもう休む」
腹は満たされたし、必要な情報も見た。
やることはもうない。
外へ出ると、ダジルの町は夕暮れに包まれていた。石畳の通りには家々の灯りがぽつぽつと灯り始め、窓から漏れる橙色の光が細い路地に滲んでいる。遠くの山の向こうでは太陽が沈みかけており、空の色は紫から群青へとゆっくり変わり始めていた。
冷たい山の風が通りを抜け、煙突の煙を細く引き伸ばしていく。
俺たちはその風の中を、宿の方へ歩き出した。
明日になれば、また道を進む。
東へ。
風車の回る町へ。
◇
山の谷間にあるダジルの町は、朝の訪れがゆっくりしている。
東の稜線の向こうから差し込む光はまだ弱く、石造りの家々の屋根には夜露が残り、空気は冷たい水のように澄んでいた。遠くで川の流れる音がかすかに聞こえ、まだ人通りの少ない通りには、朝の静けさがそのまま広がっている。
俺は宿の外に出て、大きく息を吸った。
冷たい空気が肺の奥まで入ってくる。こういう朝の空気は嫌いじゃない。昨日までの疲れがすっと抜けていく感じがするし、腹の奥も妙にすっきりする。
肩にかけている袋を軽く叩き、中身をもう一度確認した。
調理道具一式、保存袋、岩塩と香草、昨夜の残りの山菜。それから魔核を保管している小さな箱。旅の荷物としてはいつもの内容だが、出発前に確認しておく癖は長い放浪の中で自然と身についたものだった。
背後で宿の扉が開いた。
振り向くと、ユリアナが出てくるところだった。白いマントを肩へ掛け、まだ少し眠気を残した顔をしている。王女という肩書きを忘れているわけではないだろうが、王宮で見るような張り詰めた表情はどこにもない。
「早いですね」
彼女がそう言った。
「旅は朝が一番動きやすい」
俺は短く答えた。
山道は日が高くなると風が変わる。午後になると雲が出て視界も悪くなることがある。移動するなら、朝のうちに距離を稼ぐのが一番いい。
侍女もすぐ後ろから出てきた。
装備を確認している様子を見る限り、もう準備は終わっているらしい。さすが王国一の剣士と呼ばれるだけあって、こういうところは抜かりがない。
俺は腰の袋から紙を取り出した。
昨夜ギルドでまとめておいた情報だ。
マルカへ向かう道は、基本的には交易路だ。パルム地方から東へ延びる道は古くから整備されていて、商人や農民が行き来している。
とはいえ、完全に安全というわけじゃない。
道の途中には丘陵地帯があり、そこには魔物も出る。
俺は紙を指で押さえながら、二人へ説明した。
「ここから東へニ日。最初の半日は林道だ。そこを抜けると丘陵地帯に出る。魔物は多くないが、灰爪狼の群れが出るって話があった」
侍女が頷く。
「群れなら警戒すべきですね」
「群れって言っても小さいやつだ。三匹か四匹だろ」
俺は肩をすくめた。
問題になるほどの相手じゃない。
むしろ気になるのは別のことだ。
パルム地方の東側は、風が強い土地だ。丘を越えると、風車の羽根が遠くから見える。
その町がマルカ。風車の町。
「空気が……冷たいですね」
彼女はそう言いながら、ゆっくり息を吐いた。
「山の朝はこんなもんだ」
俺は軽く答えた。
王都の城壁の中では感じない空気だろう。石と人の匂いに囲まれた場所では、こういう透明な風はなかなか味わえない。
話をしている間に、町の向こうから光が差し込んできた。山の稜線の向こうから朝日が顔を出し、谷間に金色の光を落としている。
その光の中で、ユリアナはしばらく立ち止まっていた。
彼女はふと足を止め、空を見上げた。
山間の空は、思っていたよりもずっと高い。澄み切った青が谷の上に広がり、朝の光を受けてゆっくりと色を変えている。王都の城壁の内側から見上げる空とは、どこか違って見えた。城の高い塔や白い壁に囲まれた空は、いつも整然としていて、どこか遠くにある絵のように感じられる。けれどここでは、空はただそこに広がり、山の稜線の向こうまで果てしなく続いているように思える。
その広さを目にした瞬間、胸の奥で何かが小さく震えた。
高鳴る鼓動は決して激しいものではない。むしろ静かで、ゆっくりと胸の奥に広がっていくような感覚だった。けれど確かに、それは昨日までの自分にはなかった感情だった。
ユリアナは昨日の出来事を思い出していた。
地下坑道の冷たい闇。湿った岩の匂い。灯りの届かない奥から現れた未知の魔物。そして――あの奇妙な戦い。
スライム。
王宮の書庫に置かれていた魔物図鑑には、もちろんその名は載っていた。だが、実際に目の前で蠢く姿を見るのは初めてだった。粘液の体が光を反射しながら揺れ動き、形を変え続けるあの不思議な存在。普通なら恐怖を覚えるはずの相手だ。
実際、最初に目にしたときは足が竦みそうになった。
だが不思議なことに、思い返してみても胸に残っているのは恐怖ばかりではない。
むしろ、あのときの光景はどこか鮮やかな記憶として残っていた。
ブラックが剣を振るい、粘液の塊が大きく揺れ、洞窟の空気が震えたあの瞬間。危険な戦いであるはずなのに、彼の動きにはどこか迷いがなく、まるで日常の延長のように自然だった。その姿を見ているうちに、いつしか恐怖よりも強い感情が胸の奥に芽生えていた。
それは――好奇心に近い。
未知のものに触れたときの、あの感覚。
そして戦いの後、ブラックが当然のように言った言葉も忘れられない。
食えるかな。
あの一言には思わず言葉を失った。恐ろしい魔物だったはずなのに、彼の頭の中ではすでに「料理」の話になっていたのだから。
そして実際に食べたスライムの味。
思い出すと、思わず小さく笑いそうになる。
王宮の食卓には、世界各地から取り寄せられた珍しい料理が並ぶ。最高の料理人たちが腕を振るい、王族のために洗練された料理を作り上げる。それが当たり前の生活だった。
けれど昨日食べた料理は、そういうものとは全く違っていた。
焚き火の上で焼かれた魔物の肉。
香ばしい匂いと、少し乱暴な味付け。
それなのに、なぜかとても印象に残っている。
王女として生きてきたこれまでの人生では、決して味わうことのなかった種類の食事だったからかもしれない。
恐ろしい出来事だったはずなのに、不思議と嫌な記憶にはならなかった。
むしろ胸の奥には、わずかな期待が残っている。
まだ名前のつかない感情。
楽しい、と言い切るには少し早い。
けれど確かに、世界が広がっていく感覚がある。
王宮の中では決して知ることのできなかった景色が、目の前に次々と現れている。
パルム地方の風が、そっと頬を撫でた。
朝の空気は驚くほど澄んでいて、冷たい水を含んだように透明だった。山から流れ込む空気には湿った森の匂いが混ざり、遠くで流れる川の気配がかすかに感じられる。
ユリアナはゆっくりと手を伸ばした。
谷の向こうから差し込む朝日を、指の間で受け止めるようにして。
柔らかな光が掌を透かし、白い指先を淡く染める。透けた光の中で、自分の手がわずかに震えているのが見えた。
いずれ王都へ戻らなければならない。
そのことは、はっきりと分かっている。
王女という立場から逃げることはできない。どれほど遠くへ旅をしても、最後には王都へ帰り、定められた役目を果たさなければならない。
それでも――
今だけは違う。
この瞬間だけは、王宮の石壁の中に閉じ込められた王女ではない。
目の前に続く道を歩く一人の旅人だ。
自分の足で。
自分の意思で。
知らない景色へ向かって。
ユリアナはもう一度空を見上げ、小さく息を吐いた。
その様子を、ブラックは少し離れた場所から横目で見ていた。
特に何かを言うわけでもない。ただ黙って、王女の視線の先にある空をちらりと見上げ、それからいつものように肩をすくめる。
余計な言葉は必要ない。
そういう空気だった。
ほんのわずか、口元が緩む。
「行くぞ」
彼はそれだけ言って歩き出した。
マルカまでの道のりは長い。
山道を越え、森を抜け、川沿いの街道を進まなければならない。
しかし不思議と気分は悪くなかった。
今日もまた、新しい景色が待っている。
そしてたぶん――
うまい飯も。




