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第30話 料理の時間



 「すごい……」


 背後から聞こえた王女の声は、静かな洞窟の空気の中で小さく響いた。


 俺は振り返らず、足元に広がったスライムの残骸を手際よく処理していた。核を断たれたスライムの体はすでに崩壊が始まり、粘液の大半は透明な砂のように乾きつつある。食材として使える部分は中心付近だけだ。時間が経てば味が落ちる。


 ナイフを滑らせながら、俺はぷるりとしたゼリー状の塊を慎重に切り分けていった。


 柔らかい。


 そして粘度が高い。


 内部にわずかな魔力が残っている証拠だ。


 悪くない。


 俺は小さく頷くと、腰の袋から折りたたまれていた黒い袋を取り出した。


 普通の袋じゃない。


 広げると、布のように見える表面がわずかに波打つ。


 これは


 「胃袋袋いぶくろぶくろ


 と呼ばれる保存袋だ。


 素材は魔物の一種――


 深林胃獣しんりんいじゅう


 の胃壁から作られている。


 この魔物は土の大陸の湿林地帯に棲む獣で、体内に巨大な消化袋を持っている。普通なら食べ物を溶かすはずの器官だが、この種の胃袋は外界に触れると逆に保存機能を持つ。


 内部の魔力膜が温度と湿度を一定に保つのだ。


 結果として、食材の腐敗を極端に遅らせる。


 ギルドの遠征隊や放浪ハンターの間ではかなり重宝されている装備だ。


 この袋の中に入れておけば、肉でも内臓でも数日は鮮度を保てる。


 俺はスライムのゼリーをその中へ丁寧に収めた。


 袋の内側がわずかに動き、食材を包み込む。


 魔力膜が閉じる。


 これでいい。


 味が落ちることはない。


 袋の口を縛り、肩へ担ぐ。


 重量は大したことがない。スライムは水分が多いから見た目ほど重くない。


 俺は立ち上がると、背後の二人へ声をかけた。


 「帰るぞ。ここに長居しても仕方ない」


 王女ユリアナはまだ少し驚いたような顔をしていた。


 侍女の方は、すでに周囲の警戒に戻っている。


 俺は構わず歩き出した。


 坑道の空気は相変わらず湿っている。足音が岩壁に反響し、遠くで水滴が落ちる音が響く。


 帰り道を歩きながら、俺の頭の中では別のことが始まっていた。


 料理だ。


 スライムの味をどう引き出すか。


 スライムは種類によって風味が変わる。今回の個体は魔力濃度が高い。粘度も強い。となると、そのまま焼くより一度下処理した方がいい。


 軽く水で洗う。


 余分な粘液を落とす。


 それから薄く切る。


 香草オイルで表面を焼く。


 ……いや、それだけだと面白くない。


 俺は歩きながら考えを巡らせた。


 以前、風の大陸で食べたスライム料理を思い出す。あそこでは粘液を乾燥させて粉にし、スープに溶かしていた。味は悪くなかったが、あれは素材の力を半分しか使っていない。


 この個体ならもっと良い方法がある。


 表面を軽く炙る。


 内部は半生。


 そこへ山菜の苦味を合わせる。


 ガルムで手に入れた星涙菜がまだ残っている。あれを刻んで添えれば、甘味と苦味のバランスが取れる。


 さらに塩。


 ただの塩じゃない。


 パルム地方の岩塩は鉄分が多く、独特の香りがある。スライムの甘味と相性がいい。


 うん、悪くない。


 俺はそんなことを考えながら歩いていた。


 やがて坑道の奥に、ぼんやりと白い光が差し込み始めた。


 暗い坑道に慣れた目にはそれだけで眩しく、岩壁の隙間から流れ込む光が細い帯となって地面を照らしている。そこへ近づくにつれ、洞窟の中の湿った冷気に混じって、外の空気の匂いがはっきりと感じられるようになった。乾いた土の匂い、日差しに温められた木の皮の匂い、遠くの草地の青い香り。それらが入り混じり、閉ざされた坑道の空気とはまったく違う、開けた世界の気配を運んでくる。


 出口を抜けると、視界が一気に開けた。


 昼の山の光が、まっすぐに降り注いでいる。


 雲は高く、青い空が広がっていた。太陽はまだ高い位置にあり、斜面の草や木々を明るく照らしている。坑道の冷たい空気から一歩出ただけで、体に触れる風の温度がわずかに上がったのが分かる。山の風は相変わらず涼しいが、日差しに温められた空気が混じっていて、昼らしい穏やかさがあった。


 少し高い場所から見下ろすと、ダジルの村が遠くに見える。


 谷の向こう側の緩やかな斜面に、木造の家々が点々と並んでいた。数は多くない。二十軒ほどの小さな集落だが、昼の光の中で見ると屋根の木材や石垣の色がはっきりと浮かび上がっている。


 煙突からは細い煙が立ち上っていた。


 昼食の支度でもしているのだろうか。風に流された煙がゆっくりと空へ溶けていく。


 家畜の鳴き声も聞こえてきた。山羊の低い鳴き声と、どこかで鶏が羽ばたく音。ときどき犬の吠える声も混じる。人の暮らしの音だ。静かな山の空気の中で、それらの音はよく通る。


 俺たちはしばらくその景色を眺めてから、山道を下り始めた。


 細い山道は緩やかに斜面を縫うように続いていて、足元には乾いた落ち葉と小石が散らばっている。踏みしめるたびに、かさりと軽い音がした。森の木々の隙間から太陽の光が差し込み、道の上にまだら模様を作っている。


 しばらく歩くと、村の輪郭が少しずつはっきりしてきた。


 低い石垣で囲まれた畑、小さな木柵の向こうで草を食む山羊、干し草を積んだ納屋。家々はどれも質素な造りだが、手入れはきちんとされている。壁の木材は日焼けして色が落ちているが、どこか温かみがあった。


 村の空気は穏やかだ。


 昼の光の中で、人の生活がゆっくりと流れている。窓が開いている家もあり、風に乗って煮込み料理の匂いが微かに漂ってきた。香草と肉の匂いだ。腹の虫が少しだけ反応する。


 俺たちはそのまま村の中央へ向かい、まず冒険者ギルドの支部へ入った。


 小さな建物だ。古い木材で組まれた壁は少し歪んでいるが、屋根はしっかりしている。扉を開けて中へ入ると、外の光が背後から差し込み、室内の埃がきらきらと浮かび上がった。


 受付の男は帳簿を整理していたが、俺たちを見ると顔を上げる。


 俺は言葉を挟まず、袋から取り出したものを机の上に置いた。


 スライムの魔核だ。


 青い光を宿した結晶が、静かに机の上で輝いている。まだ完全には魔力が抜けておらず、内部の光がゆっくり脈打っていた。


 受付の男はそれを見て、思わず息を呑んだ。


「……本当にいたのか」


 その声は驚き半分、信じられないという色が半分だった。


 俺は軽く肩をすくめる。


 報酬の話をするつもりはない。ギルドへの証明が済めばそれでいい。帳簿に記録が残れば、あとは向こうが処理するだろう。


 俺にとって重要なのは、別のことだ。


 料理。


 俺はギルドの裏手にある小さな調理場を借りた。石造りの簡素な台所で、炉と鉄鍋、それから作業台があるだけの場所だが、食材を扱うには十分だ。


 袋を机の上へ置き、紐をほどく。


 中から、透明なゼリー状の塊がゆっくり姿を現した。


 スライムの粘液だ。


 昼の光を受けて、表面がわずかにきらめいている。まだ完全には魔力が抜けていないらしく、内部には淡い青い光が細く残っていた。鮮度は申し分ない。


 俺はそれをまな板の上へ置く。


 ぷるり、と柔らかく揺れる。


 指先で軽く触れると、弾力がある。粘度もほどよい。水分も飛んでいない。これはかなり良い状態だ。


 俺はナイフを手に取った。


 刃を光にかざし、角度を確かめる。


 さて――どう料理するか。


 スライムという食材は奥が深い。焼けば香ばしさが出るが、水分が抜けすぎると硬くなる。煮込めばとろみが出るが、火加減を誤れば味がぼやける。蒸せば柔らかく仕上がるが、下処理を怠ると魔力臭が残る。


 つまり、調理法ひとつでまるで別の料理になる。


 俺はゼリー状の塊を見つめながら、口の端をわずかに上げた。


「……面白くなってきた」


 料理はこれからだ。

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