第1話 黒竜喰いは今日も腹が減る
腹が減った、という感覚で目が覚めるのは、もう三年も続いている習慣だ。
人は朝日で起きるとか、鳥のさえずりで目覚めるとか言うらしいが、俺の場合はだいたい胃袋だ。空腹というのは実に誠実な目覚ましで、どんな高尚な夢を見ていようと、容赦なく現実へ引き戻してくれる。
俺の名はブラック・ドラグニル。
もっとも、これは自分で名乗っているだけで、本名かどうかは正直よく覚えていない。三年前、放浪の旅を始めたときに、なんとなく口にしたのがこの名前だった。黒い髪に黒い瞳、それから背負っている黒鉄の大剣。安直だが覚えやすい。ギルドの連中は勝手に「黒竜喰い」だの「六環の亡霊」だの物騒な呼び名をつけてくれたが、俺としてはそこまで大層な存在になった覚えはない。ただの腹ぺこハンターだ。
今いるのは、ルミナリア神聖王国の北方街道沿いにある小さな宿場町だ。白い石で舗装された通りはやけに清潔で、建物も尖塔だらけ。朝から祈りの声が響いているあたり、この国らしいといえばらしい。正直、俺には少し眩しすぎる土地だが、ここに来た理由は単純明快だった。
聖林豚。
光属性を帯びた猪型魔獣で、肉質は柔らかく、脂がほんのり甘い。以前この国を通りがかったときに一度食べたが、あれは衝撃だった。焼いただけでうまい。塩を振ればなおうまい。ハーブを添えれば最高だ。
だから戻ってきた。実に単純な動機である。
ギルドの掲示板には、ちょうど聖林豚三頭の討伐依頼が貼られていた。報酬は銀貨八枚。正直安いが、俺にとっての本当の報酬は肉だ。
「また食べる気?」
受付嬢のマリナが呆れた顔で俺を見る。
「討伐依頼だろ。仕事は仕事だ」
「仕事の後の解体と調理に一番力入れてる人が何言ってるのよ」
否定はしない。実際、俺は戦闘よりも焼き加減のほうが気になる性分だ。
森に入ると、空気が変わる。白い光が木々の隙間から降り注ぎ、葉の一枚一枚が淡く輝いている。神聖な森と呼ばれるだけあって、どこか静謐で、それでいて底知れない気配を孕んでいる。だが、猪はそんな雰囲気を気にする生き物ではない。
ほどなくして、一頭目を見つけた。木の根元を掘り返している巨体は、こちらに気づくとすぐさま牙を向けて突進してくる。体格は立派だが、動きは素直だ。横に身をひねり、勢いを利用して柄で顎を打ち上げる。浮いた腹部に刃を滑り込ませると、光を帯びた血がぱっと散った。
手応えは悪くない。脂も乗っていそうだ。
二頭目、三頭目もほどなく現れた。群れだったらしい。三頭まとめて襲いかかってくるが、足運びを間違えなければどうということはない。斬撃と踏み込みを繰り返し、最後の一頭が倒れたときには、森は再び静寂を取り戻していた。
問題はその後だった。
三頭分の肉はさすがに重い。背負って町まで戻るのは骨が折れる。解体してから運ぶか、それとも一度町に応援を呼びに行くか。猪の横で腕を組んで悩んでいると、不意に森の奥から爆ぜるような轟音が響いた。
空気が震え、地面の土がわずかに舞い上がる。
嫌な予感がした。ああいう音は、だいたい“でかいの”が出た合図だ。
少しだけ迷った。面倒ごとに首を突っ込む義理はない。だが好奇心と、そしてほんのわずかな期待が胸をよぎる。でかい魔獣は、往々にしてうまい。
「……猪、誰かに食われるなよ」
枝で簡単に目印を作り、俺は音のした方へと足を向けた。
進むにつれ、木々がなぎ倒され、地面に深い爪痕が刻まれているのが見えてくる。空気には焦げたような匂いと、強い魔力の残滓が混じっていた。明らかに聖林豚とは格が違う。
やがて開けた空間に出た瞬間、視界いっぱいに白い巨体が映った。
巨大な獣だった。馬車を三台横に並べたほどの体躯。全身から光を放っているが、ところどころ黒く侵食された斑が浮かんでいる。騎士団らしき一団が結界を張り、必死に応戦しているが、押されているのは明らかだった。
騎士の一人が吹き飛ばされ、結界が軋む。
俺はしばらくその光景を眺め、それから率直な感想を口にした。
「……でかいな」
恐怖は湧かなかった。むしろ、純粋な興味と、ほんの少しの高揚感。あの体格なら、相当な量の肉が取れるだろう。黒く侵食された部分が気にはなるが、そこはうまく削げばいい。
俺が一歩踏み出すと、獣がこちらに視線を向けた。光の奥で、何かが蠢く。
「悪いな。今日は腹が減ってる」
自分でも呆れるほど身勝手な理由を口にしながら、俺は駆けた。踏み込みと同時に大剣を振るう。刃が光を裂き、衝撃が腕を通して伝わる。硬い。だが、芯はある。
黒く侵食された部分へと狙いを定め、二撃目を叩き込む。獣の咆哮が森を揺らし、光が弾ける。騎士たちの視線が一斉にこちらへ向いたのがわかるが、気にしている余裕はない。
呼吸を整え、足を運び、刃を重ねる。やがて巨体は大きくよろめき、最後の一撃で地面に崩れ落ちた。
静寂が戻る。
騎士の誰かが、震える声で呟いた。
「……終わったのか?」
俺は獣の脇腹を軽く蹴ってみる。反応はない。どうやら本当に終わりらしい。
「さて」
顎に手を当て、巨体を見上げる。
「これ、食えるかな」
騎士たちが一斉にこちらを見る。その視線には畏怖と驚愕が混じっているが、俺の頭の中はすでに調理法でいっぱいだった。
通りすがりのハンターにすぎない俺は、今日もまた、腹を満たすために剣を振るっただけだ。だがどうやら、この一件は思ったより大きな波紋を呼びそうだった。
――とはいえ、まずは焼き加減だ。
俺の放浪は、相変わらず食欲を中心に回っている。




