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第24話 異常な気配



 地下空洞の奥へ足を進めると、空気の質が微妙に変わっていることに気づいた。湿度は高いままだが、どこか乾いたような匂いが混じっている。岩壁は崩落した部分が多く、砕けた岩塊が斜面を作り、その間を細い通路のような空間が続いていた。頭上の裂け目から落ちる光が、薄い霧のような湿気を照らしている。


 普通なら、こういう場所にはいくつかの気配があるものだ。


 地下昆虫が岩の隙間を這い回り、湿地を好む小動物が水を飲みに来る。小型の魔物が棲みついていることも珍しくない。魔物がいれば、その匂いや足跡、体液の跡が残る。


 しかし、この空洞は妙に静かだった。


 侍女が周囲を見渡しながら言う。


「魔物の巣なら、この辺りから臭いがするはずですが」


 彼女の鼻は相当利くらしい。王宮の護衛という立場なら、戦場や森での経験も多いのだろう。


 王女も少し首を傾げる。


「確かに……何も感じません」


 俺は答えず、地面にしゃがみ込んだ。


 泥の表面に指を当てる。


 湿り気はある。地下水が染み出している証拠だ。だが、その表面は驚くほど滑らかだった。普通の洞窟なら、何かしらの痕跡が残る。小さな足跡、這った跡、削れた泥。


 俺は泥を指先で軽く撫でた。


 何もない。


「足跡がない」


 そう呟いた。


 侍女がわずかに眉をひそめる。


 俺は立ち上がり、周囲をもう一度見渡した。


 虫の痕跡もない。


 小動物の糞もない。


 岩陰に棲む魔物の気配もない。


 ここまで何もない場所は、むしろ珍しい。


「妙だな」


 口の中で小さく言葉を転がす。


 説明はまだつかない。何がどうおかしいのか、はっきりとは分からない。経験が警鐘を鳴らしているだけだ。


 俺たちはさらに奥へ進んだ。


 崩落した岩の斜面を越えると、空洞はさらに広がっている。上部の裂け目が大きくなり、地表からの光がより強く差し込んでいた。その光の下で、地下植物が生えている。


 苔のような植物と、細い葉を持つ草だ。


 俺はその光景を見て足を止めた。


 王女も気づいたらしい。


「……どうして全部同じ方向に?」


 地下植物が、まるで風に吹かれたように同じ方向へ傾いている。


 侍女が天井を見上げる。


「日光は上から差しているはずですが」


 確かに、光は上から落ちている。植物が伸びるなら、普通は光の方向に向かうはずだ。ところが、ここに生えている草は、すべて横へ傾いて枯れ始めている。


 風が吹いた跡のようだ。


 しかし、この地下空洞には風がない。


 俺は近くの水たまりに目を向けた。


 岩の窪みに溜まった地下水だ。透明で、底の小石まで見える。


 普通なら、水は微妙に動いている。地下水脈の流れや、わずかな空気の振動で表面に細かな波紋ができる。


 しかしここでは違った。


 水面が完全に静止している。


 鏡のように、周囲の岩を映している。


 俺はしゃがみ込み、水面をじっと見つめた。


「風がないのに、水が動いてない」


 小さく呟く。


 侍女が近づき、水たまりを覗き込む。


 何も言わないが、違和感は共有されているようだった。


 この空洞は、何かがおかしい。


 自然の流れが、どこかで止まっている。


 俺は立ち上がり、岩壁を軽く叩いた。


 鈍い音が空洞に響く。


「ここは……魔物の巣じゃない」


 侍女が振り向く。


「では何ですか?」


 俺はしばらく考えた。


 答えは出ない。


「……分からん」


 自分でも珍しい言葉だ。


 今までいろんな洞窟や巣を見てきた。魔獣の巣、盗賊の隠れ家、竜の寝床。どれも特徴がある。


 ここは、そのどれにも当てはまらない。


 しばらく考えていると、足元で小さな音がした。


 岩が擦れるような音。


 俺は視線を落とす。


 近くの岩の塊が、ゆっくり形を変えている。


 王女が小さく声を上げた。


「岩が……動いています…ッ」


 岩の表面が溶けるように崩れ、粘り気のある塊が姿を現す。灰色の半液体が地面を這い、ゆっくりと形を作り始めた。


 侍女が剣を抜く。


「魔物です!」


 俺は首を横に振った。


「いや……」


 岩の塊は人の背丈ほどの大きさになり、粘液の中に黒い筋が脈のように走っている。


「これは魔物じゃない」


 侍女が目を細める。


 俺は剣を抜いた。


 動きは遅い。粘液が地面を這うように広がるだけだ。岩を溶かしながら、少しずつこちらへ寄ってくる。


 剣を振り下ろす。


 刃が粘液を切り裂き、内部の核のような部分に触れた。


 鈍い衝撃。


 次の瞬間、塊は崩れ落ちた。


 粘液が乾いた砂のように崩れ、地面に散らばる。


 王女が息を呑む。


「……光核がありません」


 俺も地面を見つめた。


 普通の魔物なら、必ず残る。


 魔力の結晶――魔核。


 ここには何もない。


 俺はゆっくり息を吐いた。


「……変異種か」


 空洞を見渡す。


 地下植物の枯れ方、水の停止、魔物の不在。


 すべてが一つの違和感に繋がっている。


「この場所……」


 言葉を探す。


「巣じゃない」


 侍女が聞き返す。


「嫌な?」


 俺は少し考えた。


 そして答えた。


「生き物が近づかない場所だ」


 王女が眉を寄せる。


「どういう意味ですか?」


 俺は洞窟の奥を見つめた。


 暗闇が続いている。


 その先に、まだ何かある。


「……分からん」


 ただ一つ言えるのは、


 ここは普通の場所じゃない。



 変異種だと思わしき魔物の残骸は、崩れた砂のように地面へ広がったまま動かなかった。ついさっきまで岩の形を保っていた塊が、今はただの灰色の粉へ変わっている。剣先で軽く突いてみると、さらさらと崩れ、乾いた土のように指の間から落ちていった。


 地下空洞は相変わらず静まり返っている。天井の裂け目から落ちる光が岩壁を照らし、空気の中の細かな水滴が淡く輝いている。視界は十分にあるのに、どこか見通しの利かない場所だと感じるのは、この静けさのせいかもしれない。


 侍女が周囲を警戒しながら口を開く。


「先ほどの生物……あれは本当に魔物ではないのですか?」


 俺は岩の斜面を見上げながら答えた。


「魔力は感じた。だが、構造が違う」


 自分でも説明しきれない感覚だった。


 王女は少し離れた場所で、崩れた岩壁を見上げている。


「王宮の文献で、似た話を読んだことがあります」


 彼女はゆっくりと言葉を探す。


「大昔、地脈が乱れた場所では、魔物ではない“異形”が生まれることがあると……」


 侍女が視線を向ける。


「古い災害記録の一節ですね」


 王女はうなずいた。


「正確な内容は覚えていません。ただ……自然の流れが壊れた場所では、生き物が近づかなくなると書かれていました」


 俺は岩の上に足を掛け、少し高い場所へ登った。


 空洞全体を見渡す。


 ここは巨大な地下谷のような構造になっている。崩落した天井の裂け目が何本も走り、その隙間から地表の光が差し込んでいる。岩壁のあちこちから地下水が染み出し、細い流れが地面の窪みに溜まっていた。


 普通なら、この環境は生命に満ちているはずだ。


 湿気があり、光があり、水がある。


 洞窟植物が生え、小動物が棲み、魔物が繁殖する。


 しかし、この空洞にはそれがない。


 植物は枯れかけている。


 水は動かない。


 虫の羽音も聞こえない。


 何かが、ここを拒んでいる。


 俺は岩壁に手を当てた。


 冷たい。


 しかしその奥から、わずかな振動が伝わってくる。


 地脈だ。


 地下深くを流れる魔力の脈が、この空洞の下を通っている。


 俺はゆっくりと空洞の奥へ視線を向けた。


 暗闇の先に、さらに深い通路が続いている。崩落していない坑道の一部だろう。そこから微かな湿気が流れ出ている。


 スライムが棲むなら、あの辺りだ。


 スライムは湿気と魔力を好む。


 この空洞は異常だが、その奥にある地下水脈は条件が揃っているはずだ。


 俺は岩の斜面を降りた。


「もう少し奥を見てみる」


 侍女が即座に動く。


「先行します」


 俺は手を上げて止めた。


「いや、俺が行く」


 こういう場所では、魔物の気配を読むのが一番重要だ。剣の腕より、感覚の問題になる。


 空洞の奥へ歩き出す。


 地面は崩れた岩と泥が混ざり、歩くたびに靴底が沈む。頭上の裂け目から落ちる光はここまで届かず、奥へ進むほど影が濃くなっていく。


 水音が聞こえてきた。


 地下水が流れているらしい。


 その音に混じって、かすかな震えが伝わる。


 俺は足を止めた。


 岩壁の隙間から、淡い光が漏れている。


 青白い光だ。


 王女が後ろで息を呑む。


「……あれは」


 光はゆっくりと動いている。


 水のように揺れ、岩壁に影を映している。


 俺は剣の柄に手を掛けた。


 その光が、岩陰から姿を現す。


 透明な塊だった。


 半透明の体の中で、淡い光がゆっくり脈打っている。


 表面は粘液のように揺れ、地面を滑るように移動している。


 スライムだ。


 ただし、普通の個体ではない。


 体の奥に、星のような光が浮かんでいる。


 王女が小さく呟く。


「……綺麗」


 確かに、美しい光だ。


 地下の闇の中で、静かに輝いている。


 俺はその姿を見ながら、胸の奥で別の感覚が芽生えていることに気づいた。


 このスライムは、普通じゃない。


 体の中にある光。


 魔力の脈動。


 そして、この空洞の異常な静けさ。


 全部が繋がり始めている。


 俺はゆっくりと剣を抜いた。


 スライムは俺たちに気づいた様子もなく、岩壁に沿って滑っている。


 青白い光が、空洞の壁に淡く反射している。


 その光を見つめながら、俺は心の中で一つの言葉を思い浮かべた。


 これはただの魔物じゃない。


 この場所に残された、何かの痕跡だ。


 星の傷のようなものが、この地下に残っている。

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