第22話 山間の町ダジル
ダジルの町へ足を踏み入れた頃には、空の色はすでに夕暮れの紫へと移り始めていた。山に囲まれたこの土地では日が沈むのが早い。西の尾根に太陽が隠れると、町は一気に柔らかな影に包まれる。
町の入口は木製の簡素な門で、柵の代わりに太い丸太が横に並べられている。防衛というより、外から来た旅人にここが町の境界だと知らせる程度のものだろう。門の横には小さな見張り台があり、年配の男が椅子に腰掛けて煙草をふかしていた。
俺たちを見ると軽く手を上げる。
「旅人か?」
「そうだ。今夜は宿を借りる」
「それなら中央の広場の宿だな。ここには一軒しかない」
男は慣れた調子でそう言うと、また煙草を口にくわえた。
ダジルは小さな町だ。建物は二十軒あるかどうかといったところで、どれも木造の家ばかり。屋根は急な勾配になっていて、冬の雪を落とすための造りになっている。壁には乾燥させた薬草や魚が吊るされ、煙突からは細い煙が静かに上がっていた。
町の中心には小さな広場があり、そこを囲むように家々が建っている。地面は石畳ではなく、踏み固められた土だ。夕方の空気の中で、子どもたちが木の棒を振り回して遊んでいる。犬が吠え、鶏が餌をついばんでいる。
大都市の喧騒とはまるで違う。ここでは時間の流れが少し遅い。
旅をしていると、こういう町に何度も出会う。交易路の途中に生まれ、鉱山や森の資源に支えられて細々と続いてきた場所だ。豪華な店も娯楽もないが、生活の匂いは濃い。
俺はクルルの手綱を軽く引き、広場へ進んだ。
中央に建っているのが宿屋だ。二階建ての木造建築で、屋根は濃い茶色の板葺き。入口の上には古びた看板が吊るされ、木彫りのコップとパンの絵が描かれている。
建物は横に長く、右側には馬屋が併設されている。屋根の下には干し草が山積みになり、旅人の騎獣が数頭繋がれていた。
俺はクルルを馬屋へ連れていき、柱に手綱を結ぶ。クルルはすぐに干し草を見つけ、鼻先を突っ込んで満足そうに食べ始めた。
宿の入口は厚い木の扉で、押すとぎしりと音を立てて開いた。
中へ入ると、温かい空気と料理の匂いが迎えてくる。広間には長い木のテーブルが三つ並び、奥には石造りの暖炉がある。火はすでに入っていて、赤い炎が静かに揺れていた。
カウンターの向こうに立っていた女主人が顔を上げる。四十代くらいだろうか、腕まくりをして鍋をかき混ぜている。
「いらっしゃい。旅人かい?」
「三人と騎獣一頭。部屋はあるか?」
「あるよ。こんな山奥で満室になることなんて滅多にない」
女主人は笑いながら、棚から木製の鍵を取り出した。
この宿の構造は単純だ。一階が食堂兼酒場で、二階が客室。廊下の両側に小さな部屋が並び、窓からは山の斜面が見える。裏手には井戸と薪小屋があり、浴室代わりの大きな桶も置かれている。
鍵を受け取った後、俺は椅子に腰を下ろした。
旅先に着いたら、まずやることは決まっている。飯でも酒でもない。情報だ。
「この町で、妙なスライムの話を聞いた」
俺がそう言うと、女主人の手がぴたりと止まった。
「……やっぱりその話か」
少し声を落とす。
「最近、森の奥で光るスライムが出るって噂だ。夜になると淡く光って、動物を溶かすらしい」
「場所は?」
「北の森だよ。古い鉱山の跡地があるあたり」
鉱山跡地。
俺は頭の中で地図を思い浮かべる。パルム地方の北側には、昔銀鉱石を掘っていた坑道がいくつか残っているはずだ。
「目撃は何件?」
「三件。猟師が一人怪我をして戻ってきた」
俺は軽く頷いた。
話は本当らしい。
広間の隅では、地元の男たちが酒を飲みながら談笑している。耳を澄ませると、スライムの話題が断片的に聞こえてきた。
どうやら町全体が、少しだけ落ち着かない空気になっているようだ。
俺は椅子にもたれ、ゆっくり息を吐いた。
幻のスライム。
その正体を確かめるには、明日森へ入る必要がある。
さて、どう動くか。
宿の広間を出ると、階段はすぐ目の前にあった。木製の階段で、踏み板は長い年月を経て中央がわずかにすり減っている。上階からはかすかに風の音が聞こえ、窓の隙間から山の夜気が入り込んでいるらしい。
俺は手すりに手をかけ、ゆっくりと二階へ上がった。
廊下は細く、天井は低い。壁は古い木板で出来ていて、ところどころに釘の頭が見える。廊下の片側には三つの客室の扉が並び、反対側には小さな窓があり、外の山の斜面が暗く沈んでいた。
宿の主人が渡してくれた鍵を手の中で回しながら歩いていると、背後から王女の声が聞こえた。
「ブラック様」
俺は振り返る。
ユリアナは少し躊躇うような表情で立っていた。侍女はその後ろで静かに廊下の様子を見ている。
「なんだ?」
王女は少しだけ言葉を選ぶように間を置き、それから尋ねてきた。
「ブラック様は……なぜハンターになろうと思ったのですか?」
俺は一瞬だけ眉を上げた。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
答えは単純だ。
「美味いもんを食うためだ」
俺は肩をすくめながらそう言った。
王女は少し目を丸くする。
「……それだけですか?」
「それだけだ」
俺は淡々と続けた。
魔獣というのは、危険な生き物だ。人間を襲う個体もいるし、村を壊す奴もいる。普通の人間にとっては、出来れば近づきたくない存在だろう。
王女はおそらく、そういう感覚で質問している。
「魔物と遭遇することは……怖くないのですか?」
俺は思わず笑った。
「愚問だな」
ほくそ笑みながら言う。
「美味いもんがそこにあるのに、なにを怖がる必要がある?」
王女はぽかんとした顔をしていた。
理解できないという表情だ。
俺は扉の前で足を止め、鍵を回しながら続ける。
「本当に美味いものを食えば分かるさ」
扉を開け、部屋の中へ一歩入る。
「俺が旅に出ようと思ったのはな、自分が今まで味わったことのない新しい“味”が、この世界のどこかに転がってると思ったからだ」
それが俺の旅の理由だ。
特別な理由なんてものはない。
六大陸それぞれに違う土地があり、違う生き物がいる。森の奥にはまだ誰も食べたことのない魔獣がいるかもしれないし、海の底には未知の魚が泳いでいるかもしれない。
そう考えたら、じっとしていられなくなった。
それだけの話だ。
部屋の中は簡素だった。
床は粗い板張りで、歩くと軽く軋む。壁には小さな棚が取り付けられ、油灯が一つ置かれている。窓は一枚の木枠で、外には山の夜が広がっていた。
家具はベッドが一つ、椅子が一脚、小さな机が一台。
ベッドは木枠の上に藁を詰めた寝具が敷かれている。豪華とは言えないが、野宿に比べれば十分すぎる。
「悪くないな」
俺は荷物を机の上に置き、剣を壁に立てかけた。
王女は廊下から部屋の中を覗き、少し驚いた様子だった。
「……意外と整っていますね」
「山の宿なんてこんなもんだ」
俺は椅子に腰を下ろしながら言う。
侍女は隣の部屋の扉を確認し、王女に軽く頷いた。どうやら部屋は三つ並んでいるらしい。俺の部屋が中央で、王女と侍女が両隣という配置だ。
「今日は早く寝ろ」
俺は欠伸を噛み殺しながら言う。
「明日は朝から森に入る」
幻のスライムが出るという場所は、北の森の奥だ。古い鉱山の跡地があるあたり。地形的に考えると、坑道の中か、その周辺の湿地に棲みついている可能性が高い。
スライムというのは、湿気と暗所を好む。
鉱山跡地なら条件は揃っている。
王女は小さく頷いた。
「わかりました」
それぞれの部屋の扉が閉まる音が、静かな廊下に響く。
外では風が木々を揺らしている。遠くでフクロウの鳴き声が聞こえた。
こういう山の夜は嫌いじゃない。
俺はベッドに横になり、天井を見上げた。木板の隙間から、かすかな月明かりが漏れている。
幻のスライム。
もし高魔力個体なら、かなり面白い味になるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
そして翌朝。
冷たい山の空気の中、俺たちは宿を出た。
北の森へ向かう道は細く、朝霧が地面を這っている。鳥の声が遠くで響き、木々の間から淡い光が差し込んでいた。
目的地は、古い鉱山の跡地。
幻のスライムが目撃された場所だ。
俺はクルルの手綱を引き、森の奥へ足を踏み入れた。




