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第21話 旅の醍醐味



 サンメル橋を渡る頃には、山の空気がはっきりと変わっていた。


 橋そのものは古い石造りで、峡谷の細い谷間に架けられていた。人が三人並べばいっぱいになるほどの幅しかないが、石の組み方は見事なもので、何十年もの風雨を受けながらも崩れる気配はない。橋の下では雪解け水が細い滝となって流れ落ち、谷底の岩を叩き続けている。


 橋の中央でクルルの足を止め、俺は谷の向こう側を見渡した。


 ここから先がパルム地方だ。


 山の輪郭が緩やかに変わり、岩肌の多かったガルム周辺とは違って、針葉樹の森がどこまでも続いている。深い緑の海のような景色が、遠くの山の稜線まで広がっていた。


 空は高い。


 雲はゆっくり流れ、山の影が森の上を静かに移動していく。


 こういう景色を見るといつも、旅をしている実感が湧いてくる。


 俺はクルルの首を軽く叩いた。


「行くぞ」


 橋を渡りきると、道は緩やかな下り坂に変わった。林道は細くところどころ根が盛り上がり、馬車が通るには少し厳しい道だ。代わりに騎獣で進むにはちょうどいい。クルルは軽快に足を運び、木漏れ日の中を進んでいく。


 パルム地方の森は、独特の匂いを持っている。


 針葉樹の樹脂の香り、湿った土の匂い、遠くの川の水の匂い。それらが混ざり合い、どこか冷たい空気を作り出している。歩いていると、足元から細かな苔が柔らかく沈み、踏むたびに微かな水気が伝わってくる。


 しばらく進むと、森が急に開けた。


 そこは小さな高台になっていて、パルム盆地の一部が見渡せる場所だった。


 遠くに広がる森林の海。その間を蛇のように曲がりながら流れる川。さらにその先には、淡い青色の山脈が幾重にも重なっていた。


 俺はクルルの歩みを止め、しばらくその景色を眺めた。


 旅をしていると、こういう場所に出会うことがある。


 地図には名前も書かれていない高台。誰かが意図して作ったわけでもない、自然が偶然用意した展望台。そこに立つと、大地の広さが一度に胸へ流れ込んでくる。


 王女も後ろで足を止めていた。


 彼女は黙ったまま、遠くの景色を見つめている。侍女も同じ方向を見ていたが、表情はいつも通り落ち着いていた。


「パルム地方ってのは、こんな景色がいくつもある」


 俺は独り言のように言う。


「森が深いからな。山を一つ越えるだけで、まるで違う地形が現れる」


 高台の縁に立つと、風が少しだけ強くなった。谷の奥から吹き上げてくる風で、冷たいのにどこか柔らかい。針葉樹の森を撫でてきた風は、樹脂の甘い匂いを含んでいる。鼻の奥にすっと抜けるその香りはこの地方特有のものだ。ガルムの乾いた岩山ではまず嗅げない匂いだった。


 眼下には濃い緑の森が波のように重なっていた。一本一本の木が背を競うように立ち、枝葉を広げ、互いに絡み合いながら巨大な屋根を作っている。陽の光はその屋根を完全には貫けず、ところどころに細い光の柱を落としているだけだ。風が吹くたびにその光の柱が揺れて、森の海に金色の斑点が流れていく。


 遠くの斜面では、針葉樹の間に白い花の群生が点々と見えた。あれは雪鈴花だろう。春の終わりにだけ咲く小さな花で、近づくと甘い香りを放つ。蜂や小型の鳥が好む蜜を持っていて、この地方の蜂蜜はほんのり花の香りがすることで有名だ。以前この辺りを通ったとき、宿屋の婆さんが出してくれた蜂蜜焼きのパンはなかなかうまかった。もしまだあの宿が残っているなら、もう一度食べてみてもいい。


 森の切れ目に目を凝らすと、動く影がいくつか見えた。あれは鹿の群れか。パルム鹿は体が細く、脚が長い。雪深い山でも走れるように進化した種で、冬になると毛の色が灰白色に変わる。肉は柔らかく脂が少ないが、煮込みにすると悪くない。もっとも、この地方では狩猟制限が厳しいから、簡単には手を出せないが。


 湿地帯らしい暗い緑の場所では、時折水面が揺れていた。あそこには水蛇や泥魚が多い。夜になると発光虫が集まり、川辺が淡く光ることもある。初めて見たときはちょっとした幻の景色だった。


 ……ん?


 あれは鳥の群れか?


 翼の形からすると、たぶん灰羽鷹だろう。あの鳥は谷間の気流に乗るのがうまく、森の上を長い時間滑るように飛び続ける。地上にいる小動物を見つけると急降下して仕留めるが、人間に危害を加えることはほとんどない。むしろ旅人にとってはありがたい存在で、あいつらが飛んでいる場所はだいたい風が安定している。


 旅をしていると、こういう思いがけない光景に出会うことがある。


 同じ道を歩いているつもりでも、季節が違えば景色は変わる。天気が変われば匂いも変わる。川の水位ひとつで、生き物の動きも変わる。地図の線だけを見ていても、そんなものは絶対にわからない。


 旅の醍醐味ってやつは、結局そういうところにあるんだと思う。


 王都の連中は立派な地図を広げて世界を語るが、実際に足で歩いてみると、地図なんてものはほんの骨組みにすぎない。森の匂いも、風の温度も、どこで腹が減るかも、全部歩いてみないとわからない。


 それに――大抵の場合、うまいものは地図に載っていない。


 例えばこのパルム地方だってそうだ。森の中には、地元の連中しか知らない山菜や茸がいくつもある。岩陰に生える黒笠茸は焼くと香りが強いし、湿地の縁に生える水茎草は刻んでスープに入れるとうまい。川魚も脂が乗っていて、炭火で焼くと皮がぱりっとなる。


 つまり、この森そのものが巨大な食料庫みたいなものだ。


 まあ、その食料庫には時々、牙のある番人がいるけどな。


 俺は森の奥をもう一度見渡し、ゆっくり息を吐いた。こういう景色を見ていると、世界はまだまだ広いと実感する。六大陸だの均衡だの、偉い連中が難しい顔で語っていることも、ここに立っていると少し遠い話に思えてくる。


 世界は、ちゃんと生きている。


 木が伸び、川が流れ、獣が歩く。その中を人間が少しだけ借りて歩いているだけだ。


 ――まあ、そのついでに腹を満たしているわけだが。




 高台を下りると、道は再び森の中へ戻る。


 今度は湿地が近いらしく、空気が少し重い。木々の根元には太いシダが広がり、背丈ほどの草が風に揺れている。水辺に近い証拠だ。


 やがて水音が聞こえてきた。


 森の中を横切る川だ。


 橋はないが、浅瀬が広がっている。丸い石が並び、水は膝ほどの深さしかない。クルルは迷うことなく水に入り、軽やかに渡っていく。水面に小さな波紋が広がり、魚影がすっと逃げていくのが見えた。


 川を越えた先には、古い石塔が立っていた。


 高さは三メートルほど。苔むした塔で、表面には薄く古い紋様が刻まれている。旅人の道標として作られたものだろう。パルム地方にはこういう塔が点々と残っている。昔の交易路がどこを通っていたかを示す目印だ。


 俺は塔の横を通り過ぎながら、刻まれた紋様をちらりと見た。


 古代文字に近い形をしている。意味は知らないが、何百年もここに立っていることは確かだった。


 森は次第に薄暗くなり、夕方の気配が近づいてくる。


 山の向こうで太陽が傾き始め、木々の影が長く伸びる。風が冷たくなり、鳥の声も少し静かになってきた。


 それからしばらく進んだ頃、ようやく森の向こうに灯りが見えた。


 小さな家々の窓から漏れる橙色の光。


 煙突から細い煙が上がっている。


 ダジルの町だ。


 山間の斜面に沿って十数軒の建物が並び、中央には小さな広場がある。宿屋らしい建物の前には馬屋があり、旅人の姿もちらほら見える。


 日が沈む直前の空は紫色に染まり、山の稜線が黒く浮かび上がっていた。


 俺はクルルの歩みを少し緩める。


「今日はここで休むか」


 ダジルに来るのは久しぶりだ。


 小さな町だが、悪くない宿屋が一軒ある。


 温かい飯と、まともな寝床。


 たまにはそういう夜も悪くない。

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