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第20話 橋の向こうへ



 昼を少し回った頃、林道の先に細い川が見えてきた。山から流れ出た水が石の間を縫うように流れ、透明な水面が太陽の光を反射してきらきらと輝いている。水音は穏やかで、耳を澄ませば上流から落ち葉が水面を滑る音まで聞こえてくる。


 俺は歩みを止め、後ろを振り返った。


「さて、少し休憩をしよう」


 侍女に視線を送りながら、川辺を顎で示す。侍女は軽く頷き、周囲を一瞥してから王女に静かに声をかけた。二人は林道を外れ、草の生えた河原へと降りてくる。


 川幅は五メートルほどだろうか。水は驚くほど澄んでいて、底の小石の色までくっきり見える。山の水は冷たい。手を入れれば骨の芯まで冷やしてくれる。


 俺は大きめの岩に腰を下ろし、背負っていた荷を地面に置いた。


 クルルは待ってましたとばかりに水辺へ走り、鼻先を水面に近づけてからぴちゃぴちゃと飲み始める。小さな前脚で水を掻き、楽しそうに尻尾を振っている。


 王女は少し離れた場所に腰を下ろし、侍女はその背後で周囲を警戒するように立っている。


 俺は川の流れを眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。



 ……それにしても、奇妙な話だな。


 同行は許可した。それは事実だ。


 未開の地の話と、禁域の魔獣の肉。それは確かに魅力的だった。白環の深層には俺も興味がある。


 ただ、やはりコイツらを本当に「信頼できる」かどうかは、また話が別だ。


 一国の王女が見ず知らずの放浪ハンターに旅の同行を願う。しかも王宮から影武者を立てて抜け出し、護衛の剣士まで連れて。


 …どう考えても普通じゃない。


 俺は基本的に、人の事情に深入りしない性格だ。旅の途中で誰かと出会い、少し言葉を交わして、また別の道へ進む。それくらいの距離がちょうどいい。


 ところが今回は違う。


 王女は俺の後ろを歩き続け、侍女はそれを当然のように受け入れている。


 何か他に目的があるんじゃないか。


 もっと深い理由があるんじゃないか。


 そう考える方が、よほど自然だった。


 俺は腰の横に立てかけていた黒鉄の大剣に視線を落とす。


 黒い金属の刀身は、太陽の光を吸い込むように鈍く光っている。装飾はほとんどない。実用一点張りの武器だ。刃元には古びた紋章が刻まれている。


 昨日、王女が言っていた言葉を思い出す。


 ――その紋章は、母の形見の指輪と同じものです。


 俺は無意識にその紋章を指でなぞった。


 この剣は、俺が旅を始めた頃から持っている。どこで手に入れたのか、いつからそばにあったのかの正確な記憶は曖昧だ。気がついたときには背中にあった、と言う方が近い。


 紋章について尋ねられたことは、これまでにも何度かある。


 学者のような連中や、古い遺物を扱う商人が興味を示したこともあった。その中の一人が、妙な話をしていた。


 この紋章は古い文明のものだと。


 はるか昔に存在した文明。竜族の時代よりも後、人類の歴史がまだ定まる前に栄えたと言われる文明だ。その文明の遺物には、今の言語とは違う古代の言葉が刻まれていることがあるらしい。


 この紋章も、その古代文字の意匠のひとつだという話だった。


 正直なところ、その時は大して気にも留めなかった。剣はよく斬れればそれでいい。装飾の意味なんて考えたこともなかった。


 ところが、空島で見つけたという指輪の話を聞いてから、どうにも頭の隅に引っかかっている。


 空島。


 王女の母親が訪れた場所。


 そこに落ちていた指輪。


 そして、この剣の紋章と同じ刻印。


 偶然にしては、妙な一致だ。


 俺は立ち上がり、川辺に歩み寄った。冷たい水に手を入れ、両手で掬う。澄んだ水が指の間からこぼれ落ち、石の上に小さな波紋を作る。


 水面に、俺の顔がぼんやり映る。


 背後の森の影も、揺れながら映っている。


 ……影。


 そういえば、ガルムを出てから妙な気配を感じていない。


 王女の周りには、最初に出会ったとき、遠巻きに監視しているような連中がいた。護衛か、それとも別の勢力かは分からない。とにかく何人かが影のように動いていた。


 それが今は消えている。


 追ってくる様子もない。


 侍女の指示で退いたのか、それとも別の理由か。


 いずれにしても、王女の旅が完全に無防備というわけではないらしい。


 俺はもう一度水を掬い、顔にかけた。冷たい水が額を伝い、視界が一瞬だけ澄んだような気がする。


 こいつらの本当の目的。


 それが「王女の気まぐれ」だけだとは、どうにも思えない。


 川の流れは静かだ。山の水は何も語らない。ただ、岩の間を滑るように流れていく。


 俺は掌に残った水を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。


 

 川辺での休憩は、思ったより長くなっていた。山の水は冷たく、火照った身体をゆっくり落ち着かせてくれる。クルルはすっかり満足した様子で河原の石の上に寝転び、尻尾をゆらゆら揺らしながら腹を日差しに晒している。


 俺は川から少し離れた岩に腰を掛け、足元の小石をつま先で転がしながら王女の方を見た。ユリアナは川辺に膝をつき、両手で水を掬って顔を洗っている。フードの影に隠れていても、仕草の一つ一つが妙に丁寧で、王宮で育った人間だということがよく分かる。


 しばらく黙ってその様子を眺めていたが、やがて口を開いた。


「言っておくが、目的を果たしたらそれで終わりだぞ?」


 ユリアナは手を止めてこちらを見た。目が合うと、ほんのわずかに寂しそうな色が浮かぶ。すぐにその表情は消え、彼女は静かに頷いた。


「……わかっています」


 声は落ち着いているものの、どこか絞り出すような響きがあった。


 俺は肩をすくめる。


 本当に逃げ出したいだけなのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。


 王宮の中で決められた未来を背負わされ、逃げ場のない場所に閉じ込められている。もしそうなら、外の世界に憧れる気持ちは理解できる。旅をしていれば、そういう人間には何度も会ってきた。


 俺は小石を拾い上げて川へ放った。石は水面を二度ほど跳ね、流れの中に沈む。


「昨日ああ言ってしまったがな」


 少し間を置いてから続けた。


「本当に逃げたいと思うのなら、王女って立場も何もかも捨てちまえばいい」


 ユリアナの眉がわずかに動く。


 俺は構わず言葉を続けた。


「逃げきれないと言ったのは確かだ。王族ってのは、どこへ行っても追われる立場だからな。それでも、王位を継ぐ気がないと本気で言い続ければ、周りの考えも変わるかもしれない。時間はかかるだろうが、事態が好転する可能性はある」


 これは俺の経験則だ。人間社会というのは意外と単純で、面倒な役割を押し付けられる人間がいなくなると、別の誰かがその役目を担う。最初は反発されても、長い目で見ればそれが当たり前になることもある。


 ユリアナはしばらく何も言わず、川の流れを見つめていた。


 やがて小さく首を横に振る。


「……逃げたいと思う気持ちはあります」


 その声は穏やかで、どこか静かな覚悟が滲んでいた。


「ただ、私が逃げてしまえば、他に犠牲になるものが現れるでしょう」


 ユリアナはゆっくり立ち上がる。


「これは私個人の問題だけではないのです」


 俺は腕を組み、しばらく黙っていた。


 言っていることと、実際にやっていることが釣り合っていない。頭の中ではそう思っている。王女の責務を理解しているなら、王宮を抜け出して放浪するという選択は矛盾しているように見える。


 ただ、その言葉をそのまま口に出す気にはならなかった。


 おそらく、俺が考えているよりずっと複雑な感情を抱えているのだろう。


 逃げたくないが、逃げたい。


 自由に生きていたいが、自由を選べる立場にはない。


 個人としての自分と、王女としての自分。その二つが彼女の中でぶつかり続けている。そういう葛藤は、きっとその立場にいる人間にしか分からない。


 俺のような放浪者には想像することしかできない種類の悩みだ。


 王宮の壁の中で育ち、国の未来を背負うことを前提に生きてきた人間の不安。そういうものを、俺は感じたことがない。


 だからこそ、理解しきれない。


 実際のところ、この王女はどうしたいんだろうな。


 心の中でそう呟く。


 ただ外の世界を見たいのか。それとも、何か別の答えを探しているのか。


 旅の動機の奥にあるものを、俺はまだ掴みきれていない。


 川辺に腰を下ろしていた侍女が立ち上がり、周囲を見回した。休憩は十分という判断らしい。


 俺も腰を上げ、クルルの方へ歩く。


「そろそろ行くぞ」


 クルルは待ってましたとばかりに身を起こし、背中の毛をぶるぶる震わせた。小柄な騎獣ではあるが、山道の機動力はなかなかのものだ。人が歩くより速く、岩場でも安定して進める。


 俺は鞍に手を掛け、軽く跨る。


 林道はここからさらに細くなり、やがて山の谷間へと入り込む。その先にあるのがサンメル橋だ。


 古い石橋で、谷を跨ぐ唯一の渡り道。昔の交易路が通っていた場所で、パルム地方へ入る目印のような場所でもある。


 クルルの手綱を軽く引き、林道へ向けて歩き出す。


 背後で王女と侍女も動き出した気配がする。


 山の風が木々を揺らし、針葉樹の匂いが強くなってきた。谷の奥には、まだ見えないパルム地方の森が広がっている。


 俺はクルルの背で体勢を整え、ゆっくりと坂道を進み始めた。

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