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第19話 パルム地方の山々



 ギルドを出て石畳の通りを歩いていると、後ろから王女が少し早足で近づいてきた。


「これからどこに向かうのですか?」


 真っ直ぐな声でそう尋ねてくる。


 俺は振り返りもせず、軽く肩越しに答えた。


「白環の深層に行く前に、ちょっとした腹ごしらえだ」


 王女が小さく首を傾げた気配がする。侍女の方はすぐに何か察したらしく、黙って俺の後ろを歩き続けている。


 俺は市場で買った袋を開け、中から丸い木の実を取り出した。茶色い殻に細かな縞模様が入った、拳ほどの大きさの実だ。渓谷林に生える巨木から採れるもので、脂分が多く甘みも強い。


「ほら、クルル」


 腰のあたりから顔を出した小さな影に放り投げると、空中で器用に受け止める。クルルは木の実を両前脚で抱え込み、満足そうに齧り始めた。殻を割る軽い音が、朝の空気にぱきぱきと響く。


 ガルムの街は崖の中腹に築かれている。市場のある中央区画から下へ降りる坂道は、岩肌に沿って曲がりくねり、ところどころに古い石階段が残っている。俺たちはその坂をゆっくりと下っていく。


 渓谷の底を流れる川は、朝日を反射して白く光っている。吊り橋の向こうでは荷馬車が行き交い、木材を積んだ運搬隊が山道へ向かっていた。


 街を抜ければ、そこから先は整備された街道が急に細くなる。


 王都へ続く大街道は東へ伸びているが、俺たちが向かう方向は西南西。パルム地方の山岳地帯へ向かう古い交易路だ。地図上では細い線が一本引かれているだけの道で、実際には岩場と林道が交互に続く程度のものだ。


 ダジルという町は、そのさらに奥にある。


 渓谷を抜け、低い尾根を越え、針葉樹の森を横断し、いくつもの支流を渡った先にある小さな山間集落。昔は鉱山の中継地として賑わっていたらしいが、鉱脈が枯れてからは交易路の休憩地として細々と生き残っている。


 距離だけで言えば、ガルムから直線で百キロほど。普通の旅人なら四日から五日はかかる道のりだ。


 もっとも、俺は普通の旅人じゃない。


 俺は坂道を下りながら、頭の中で地形を組み立てていた。ガルムの西側には、細い尾根が三本並んでいる。その間に流れる小川を辿れば、山越えの距離をかなり短縮できる。問題は途中の崖だ。地図には載っていないが、昔一度通ったとき、岩棚の狭い通路があった記憶がある。


 そこを抜ければ、パルム地方の針葉樹林帯に出る。


 その森は広い。昼でも薄暗く、霧が立ち込めることも多い。大型魔獣の縄張りもいくつかある。普通の商隊は北側の大きく迂回する街道を選ぶ。安全だが、距離は倍以上になる。


 俺はそういう道を選ばない。


 遠回りは好きだが、退屈な遠回りは好みじゃない。


 王女が再び声をかけてきた。


「腹ごしらえ、というのは……そのダジルという町で何か食べるのですか?」


 俺は小さく笑う。


「まあ、そんなところだ」


 厳密に言えば食べるというより、狩る方に近い。


 幻のスライム。あれが本当に高魔力個体なら、魔核の質は相当なもののはずだ。スライム核は加工次第で極上の出汁になる。透明な核を細かく砕き、弱火で煮出すと、独特の甘い香りが出る。魚介とも肉とも違う、不思議な旨味だ。


 未開の地に行く前の前菜としては、悪くない。


 俺は坂道の途中で足を止め、振り返った。


「白環の深層は東北東だ。ダジルは西南西。真逆の方向だな」


 王女は一瞬だけ驚いた顔をする。


「では……かなり遠回りになるのでは?」


「なるな」


 俺はあっさりと答える。


「それがいいんだ」


 旅というのは、目的地にまっすぐ向かうだけじゃつまらない。寄り道をして、予定外の景色を見て、知らない食材に出会う。その途中で思いがけない魔獣と遭遇する。そういうものが積み重なって、旅は面白くなる。


 一直線の旅路なんて、ただの移動だ。


 俺はそういうのが好きじゃない。


 坂道を下りきると、街の外れの林道に出た。ここから先は人の気配がぐっと減る。道幅は狭くなり、地面には古い荷車の轍が残っている。


 クルルが木の実を食べ終え、満足そうに尻尾を振った。


 俺は空を見上げる。朝の雲がゆっくりと流れ、山の向こうへ消えていく。


 さて、まずは西へ。


 パルム地方の山々が、その先に広がっている。




 ガルムの街を離れて半日ほど歩くと、渓谷の景色はゆっくりと姿を変えていく。切り立った岩壁の間を抜けていた道は次第に緩やかな斜面へと移り、足元には針葉樹の落ち葉が厚く積もるようになった。空は高く、風は乾いていて、山の匂いが濃い。


 俺は林道を歩きながら、ふと思い出した。


 ……そういえば、王女の母親は「空島」に行っていたと言っていたな。


 普通、そんな場所に行ける人間はほとんどいない。


 空島というのは、その名の通り空に浮かぶ島だ。巨大な岩塊や土地の塊が、重力を無視するかのように空中に浮遊している。風の大陸の上空には特に多く存在すると言われているが、光の大陸の空にも小規模なものが点在しているという話を聞いたことがある。


 問題は、そこへどうやって行くかだ。


 ああいう場所に辿り着く方法は大きく分けて二つしかない。ひとつは、化け物じみた飛翔能力を持つ騎獣に乗ること。もうひとつは、特殊な機構を持った飛空挺を使うことだ。


 前者は現実的じゃない。大陸を跨いで飛ぶような飛翔獣は、基本的に人間を乗せたりしない。人を乗せるように訓練できる個体もいるにはいるが、それでも空島の高度まで飛べる個体となると、もはや災害級の魔獣に近い。


 そうなると残るのは飛空挺だ。


 俺は歩きながら、ちらりと王女の方を見た。


「そういえば、お前の母親は空島に行ったことがあるって言っていたな」


 ユリアナは少し驚いたように目を瞬かせた。


「はい。母は昔、空島を訪れたことがあると話していました」


「普通そんな場所に行くには、かなり特殊な飛空挺が必要になる。七大貴族の血筋で、飛空挺開発部の特務技監だった父親と一緒に行ったと言っていたが……」


 俺は軽く息を吐いた。


「数十年前に空島に行ける技術があったとは、正直驚きだ」


 ユリアナはしばらく考えるように視線を落としていたが、やがて静かに口を開いた。


「母の父……つまり私の祖父は、王国の飛空挺開発局に所属する技師でした。正式な役職は“特務技監”。王国の空域航行技術の研究を任されていたそうです」


「へえ」


 俺は相槌を打つ。


 飛空挺について詳しいわけじゃない。空を飛ぶ船があるという程度の知識しか持っていないし、政治や技術の話にはあまり興味が湧かない。


 それでも空島という言葉には、昔から妙な魅力を感じていた。


 空に浮かぶ島。


 そこにどんな生き物が棲んでいて、どんな植物が育っているのか。想像するだけで腹が鳴りそうになる。夜の焚き火の前で、空島のことを考えて眠れなくなったことも一度や二度じゃない。


 俺が興味を示したのを察したのか、ユリアナは続けた。


「七大貴族という言葉は聞いたことがありますか?」


「名前くらいはな」


 光の大陸の政治構造に関わる古い家系、という程度の認識だ。


 ユリアナは歩きながら説明を始めた。


「光の大陸には、王家を支える七つの名門家系があります。これを七大貴族と呼びます。それぞれが特定の分野を担っていて、王国の機能を支える役割を持っています」


 俺は黙って耳を傾ける。


「例えば、軍務を担う家系、法務を管理する家系、学術研究を担う家系。そして空域航行や飛空挺開発を担当する家系もあります」


「なるほど」


「母の家系は、その空域技術を担う一族でした」


 つまり飛空挺の開発や改良を代々引き継いできた家系というわけだ。


「祖父は若い頃から飛空挺の研究をしていたそうです。空島へ到達するための高度航行技術や、気流の観測装置を開発したと聞いています」


 空島へ向かう飛空挺には、普通の航行船とは違う構造が必要になる。高高度では気流が荒く、魔力の流れも不安定だ。船体の安定装置や魔導推進機関の出力を調整しなければ、空域に入った瞬間に機体が吹き飛ばされる。


 俺は空を見上げる。


 青い空の向こうに、目には見えない層が幾重にも重なっている。


「母は子供の頃、その祖父に連れられて空島へ行ったそうです」


 ユリアナは少し懐かしそうに微笑んだ。


「そこには普通の森とは違う植物が生えていて、風がずっと吹き続けていたと言っていました。空に近い場所だから、鳥の群れが目の高さを横切っていくのだと」


 俺は思わず口元を緩める。


「それで、何か食えるものはあったのか?」


 ユリアナは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「母は、空島には見たことのない果実があったと言っていました。風に揺れる木の枝に、透明な実がたくさんついていたそうです」


 透明な果実。


 想像しただけで興味が湧く。


 高高度の魔力環境で育った植物なら、味もきっと普通じゃないはずだ。


 俺は小さく呟いた。


「空島か……」


 いつか行ってみたいと思っていた場所のひとつだ。


 空の向こうに浮かぶ島。


 そこにどんな味が待っているのか、考えるだけで少し胸が高鳴る。

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