プロローグ —— 竜の時代の終わり
竜の時代、その揺らぎのはじまり
およそ五億四千万年前。
人という名の種がまだ影も形も持たぬ時代、この星には別の支配者が存在していた。
それが竜族である。
彼らは単なる巨大な生物ではなかった。山脈に匹敵する体躯を持つ者もいれば、雲海に溶け込むほど細長い姿の者もいたが、その本質は力そのものだった。炎が燃えるとき、そこには火の竜王の気配があり、海が満ち引きするとき、そこには水の竜王の鼓動があった。風が大陸を渡り、岩盤が大地を支え、闇が夜を抱き、光が朝をもたらす。そのすべてが、六柱の竜王の働きと重なっていた。
六つの大陸は、環を描くように配置され、それぞれが異なる性質を宿していた。東では火山が絶え間なく煙を上げ、西では深い海溝が蒼く沈み、南では高地を渡る強風が止むことなく吹き続け、北では巨大な山脈が星を支える柱のようにそびえ立っていた。さらに、陽光がほとんど届かぬ常夜の地と、澄み切った光に包まれた高原があった。
その均衡は、驚くほど静かであった。火は燃えすぎることなく、海は荒れすぎることなく、嵐は巡り、岩は動かず、闇と光は交替を守っていた。竜王たちは互いに争わない。力を競い合う必要がなかったからだ。火が強まれば海が鎮め、風が暴れれば大地が受け止める。六つの力は噛み合い、世界は一つの巨大な生命体のように呼吸していた。
しかし、星は常に動いている。
長い静寂の後、最初の異変が訪れた。星を包む磁場がゆっくりと向きを変えはじめたのである。本来ならば幾万年もかけて穏やかに進むはずの変化が、このときは急激に進行した。空の色味が微妙に変わり、海流の向きが乱れ、渡りを行う生物たちが進路を見失った。風は行き場を失い、気圧の均衡が崩れはじめる。
それに追い打ちをかけるように、宇宙の彼方から無数の隕石が飛来した。火を引きながら大気を貫き、六大陸の各地へと降り注ぐ。巨大な衝撃が大地を揺らし、山を崩し、海を沸騰させた。空は灰に覆われ、昼なお薄暗い日々が続いた。
それでも、竜王たちは均衡を保とうとした。火の竜王は噴き上がる炎を抑え、水の竜王は荒れ狂う海を鎮め、風の竜王は嵐を分散させ、大地の竜王は亀裂を塞ごうとした。闇は夜を深くし、光は灰の空を照らそうとする。
ところが、六つの力が同時に最大まで引き上げられたとき、思いがけない現象が起きる。互いを支えるはずの力が、共鳴しはじめたのである。
火山は連鎖的に噴火し、海は周期を失って暴れ、嵐は消えずに渦を巻き続け、地殻は持ち上がったかと思えば沈み込み、夜は濃さを増し、光は鋭さを帯びる。六つの力は互いに干渉し、調和ではなく振動を生み出した。
竜王たちはそれぞれの大陸でこの異常を感じ取る。均衡を取り戻そうと、さらに力を注ぎ込む。だが、その試みは世界を静めるどころか、振動をいっそう大きくしてしまった。
そのとき、目に見えぬ何かが、世界の内側で切れた。
竜王たちは初めて、自分たちの感覚にわずかな差異が生じていることに気づく。同じ出来事を見ているはずなのに、感じ方が微妙に異なる。未来の予感が揃わない。ほんの小さな違いが、静かな波紋のように広がる。
完全に一つだったはずの意志に、揺らぎが生まれた。
そして、その揺らぎは形を持つ。
六柱の竜王の内側から、細かな光がこぼれ落ちた。それは炎の粒にも、水の滴にも、風の欠片にも見えた。光は空へ舞い、海へ沈み、大地へ染み込んでいく。
その光に触れたものは、変わった。
海底にいた単純な生き物たちが、突然、複雑な姿を持ちはじめる。殻をまとい、節のある脚を伸ばし、鋭い目を備え、互いを追い、逃げ、捕らえ、喰らう。生命の形は爆発的に増え、海は一気に多様な生物で満たされた。
後の世、人はこの現象を「急激な生物多様化」と呼ぶ。進化の大爆発と。
しかし、それはただの偶然ではなかった。
竜からこぼれ落ちた光が、新たな命に宿ったのである。
竜王たちは依然として空と大地に存在していたが、もはや以前のような完全性は保っていなかった。世界は一つではなくなり、わずかに分かたれた。
そしてその分かたれた隙間から、やがて人という種が歩み出すことになる。
このときはまだ誰も知らなかった。
小さな命の中に芽生えた光が、いずれ竜と並び立つ存在を生み出すことを。
海が命で満ちてから、長い時が流れた。
光の粒を宿した生き物たちは互いを捕らえ、喰らい、逃れ、淘汰されながら形を変えていった。殻は骨へと変わり、鰭は脚となり、海から陸へと進出する種が現れる。森が生まれ、空に翼を持つ者が舞い、地上を駆ける獣が増えた。
その中にひときわ特異な一群がいた。
群れを作り道具を使い、火を恐れながらも近づこうとする小さな存在。
彼らこそが、人の祖である。
人は弱かった。牙も爪もなく夜目も利かず、巨躯も持たない。だが彼らの内には他の生き物よりも強く、あの“光の粒”が宿っていた。光は彼らの脳を複雑にし、記憶を重ね、思考を連ねる力を与えた。
やがて人は火を手に入れる。
火はただの熱ではなかった。
それは竜王の一柱が司っていた力の欠片であり、人は無意識のうちに竜の残光を扱い始めたのである。
火を囲み言葉を交わし、記憶を語り継ぐ。
人は“物語”を持つ存在となった。
その頃、竜族はまだ世界にいた。空を横切り、海を渡り、山を越えていた。人は竜を見上げ、畏れ、祈り、崇めた。竜は人を滅ぼそうとはしなかった。小さな命の営みは、世界の循環の一部にすぎなかったからである。
しかし分かたれた世界では、変化は止まらない。
人は増え集落を作り、やがて都市を築く。
六つの大陸それぞれで、異なる文化が芽吹いた。
火の大陸では金属を溶かし、武具を作る技が発展した。
海の大陸では、潮を読む術と遠洋航海の技が磨かれた。
風の大陸では高地に都市が築かれ、気流を操る術式が生まれた。
大地の大陸では岩盤を掘り進み、地下都市が広がった。
闇の大陸では精神を探る儀式が体系化され、夢と欲望を研究する者たちが現れた。
光の大陸では秩序を重んじる法が生まれ、王と神官が権威を持った。
人は竜の力を模倣し始める。
火を制御し、潮を読み、風を帆に受け、地脈を感じ、闇を恐れず、光を祈る。
それは信仰であり、同時に研究でもあった。
やがて一部の賢者たちは気づく。
世界を巡る力は、竜だけのものではない――と。
竜が揺らいだあの日、こぼれ落ちた光の粒は今もなお人の内にある。
その力を引き出せば、竜に匹敵する術を生み出せるのではないか。
この思想は急速に広がった。
そして転機が訪れる。
六大陸全域で、異様な魔獣が出現し始めたのだ。
巨大化した獣、異様な光を放つ魚、闇に溶ける鳥。
それらは理性を持たず、ただ衝動のままに破壊を行った。
人々は理解する。
世界の均衡が再び揺れている。
竜王たちはこの異変を抑えようとしたが、かつてのような完全な統一はすでに失われていた。六柱の意志は微妙に異なり、対応も揃わない。
人類側では評議会が結成される。
六大陸の王と賢者が集まり、ひとつの結論に至った。
「竜の力を封じ、世界を人の手に取り戻す」
それは反逆であり、決意でもあった。
封印戦争は長い歳月をかけて準備された。
六大陸の地形そのものを利用し、巨大な術式を築く。山を削り海底に柱を立て、空に浮かぶ塔を建て、地下深くに炉を設けた。
ついに六柱の竜王と人類は正面から対峙する。
火は都市を焼き、海は艦隊を呑み込み、嵐は塔を砕き、大地は裂け、闇は心を狂わせ、光は裁きを下した。
それでも人は退かなかった。
人の内に宿る光の粒――魂が、彼らを立ち上がらせた。
六つの封印儀式が同時に発動する。
大地が震え、空が裂け、海が静まり返った。
竜王は滅んだのではない。
六大陸の奥深くへと沈められ、眠りについたのである。
その衝撃で文明の多くは崩壊した。大陸は形を変え、いくつかは沈み、いくつかは融合し、世界は再編された。
生き残った人々は封印を維持するための国家を築いた。
火の地は工業国家となり、
海の地は交易帝国となり、
風の地は諸邦連合となり、
大地の地は皇帝を戴く帝国となり、
闇の地は神権国家となり、
光の地は法を掲げる聖王国となった。
竜と人の関係は変わった。
かつては神と信徒。
今は封じられた力と、その監視者。
だが――竜は消えてはいない。
六大陸の奥底で、いまも夢を見ている。
そして人の内に宿る光の粒は、
竜の記憶の名残である。
現代文明はその緊張の上に築かれている。
封印が揺らげば、再び世界は大きく動く。
竜の時代は終わった。
人の時代が始まった。
しかしその二つは決して切り離されたものではない。
物語は、いま再び動き出そうとしている。




