第17話 渓谷の朝市
夜明けとともに、ガルムは目を覚ましていた。
市場の喧騒、川のせせらぎ、遠くで響く鍛冶場の槌音。
渓谷の断崖に囲まれたこの街は、朝日が差し込む角度が独特で、岩肌を反射した柔らかな光が市場の石畳を淡く染め上げる。川沿いの水車がゆっくりと回り始め、湿った木の匂いと焼きたてのパンの香りが入り混じって漂ってくる。
市場に足を踏み入れると、すでに活気に満ちていた。荷馬車が次々と乗り入れ、農家や猟師が籠を担いで店先に並べている。渓谷特有の段々畑で採れた山菜が籠いっぱいに盛られ、岩場で育つ香草が束ねられて吊るされている。川魚を入れた木桶には、朝捕れの銀鱗魚が跳ね、鱗に朝日を弾いてきらめいている。
俺の目当ては星涙菜だ。
渓谷の保安林にのみ自生する希少な山菜で、葉の縁に薄い銀色の筋が入り、露をまとった姿が星の涙のように見えることからその名がついた。旬のこの時期には独特のほろ苦さと甘みが増し、軽く湯がくだけで香りが立ち上る。
「おう、ブラック。予約分、ちゃんと取ってあるぞ」
顔なじみの商人が声をかけてくる。岩肌のようにごつい手で差し出された籠の中には、選りすぐりの星涙菜が整然と並んでいた。葉の張りと色味を確認し、軽く茎を折って水分量を確かめる。申し分ない。
代金を支払いながら、ついでに周囲を見回す。
隣の店では、渓谷山羊のチーズが円盤状に並べられ、熟成の進み具合によって色が微妙に違う。さらに奥では、燻製にされた岩鶏が吊るされ、香ばしい煙の匂いを漂わせている。乾燥させた薬草や、魔獣の骨から削り出した護符、川底で採れる青鉱石の加工品まで、品揃えは豊富だ。
ガルムは人口こそ周辺都市より少ないが、王都に近い立地と渓谷の資源によって、交易の要衝として発展している。朝の市場は、単なる売買の場ではない。農家が収穫を誇り、猟師が獲物を自慢し、職人が新作の道具を披露する、生活そのものの縮図だ。
川沿いでは子どもたちが桶を洗い、老婆が香草を選別している。石造りの家々の窓からは、湯気と笑い声がこぼれる。王都ほど華美ではないが、ここにはここなりの豊かさがある。
目的の品を手に入れた俺は、籠を背負い直し、市場の端にある石造りの建物へ向かった。入り口の上には、交差する剣と盾を象った紋章が掲げられている。冒険者ギルド、ガルム支部だ。
この世界におけるギルドは、単なる仕事斡旋所ではない。各地の魔獣討伐依頼を管理し、報酬の査定と支払いを行い、魔獣の生態データを蓄積する半公的機関でもある。六大陸それぞれに支部を持ち、魔導府とも情報を共有している。
建物の中に入ると、木製の掲示板に依頼書がびっしりと貼られていた。村近郊の小型魔獣駆除から、未踏区域の調査依頼まで内容はさまざまだ。受付の奥では、職員が分厚い台帳をめくり、ハンターの報告を記録している。
ギルドは国家とは一線を画しているが、完全な独立機関でもない。各大陸の王国から一定の監督を受けつつ、魔導府の方針に従って危険度の高い案件を管理する。その中立性があるからこそ、放浪者の俺でも気兼ねなく出入りできる。
「ブラック、久しぶりだな」
支部長が奥から顔を出す。年配の男で、片目に古傷がある。
「変異種の報告書、中央にも回しておいた。例の件、まだ登録は保留だ」
「予想通りだな」
俺は肩をすくめる。
ギルドにはランク制度があり、討伐実績や危険度対応能力によって階級が分けられている。高ランク帯になるほど高難度の依頼を受けられ、報酬も上がる。俺はいつの間にかその中でも上位に位置しているようだが、どこかの支部に常駐しているわけではないため、特定の国に縛られることはない。
それが俺にとっての利点だった。
ギルドの奥にある支部長室は、外の喧騒とは対照的に落ち着いた空気が流れていた。厚い木の机の上には報告書の束が積まれ、壁には各地の地図と魔獣出没地点を示す印がびっしりと貼られていた。
「そういやブラック、最近は世界各地で活躍しているそうだな?」
支部長は椅子に深く腰かけながら、片目を細めて俺を見る。
「活躍、ね」
俺は肩をすくめる。いつも通り狩りをして、食って、移動しているだけだ。
支部長は分厚い帳簿を引き寄せ、ぱらぱらとページをめくった。
「この一年で討伐した魔物の数、把握しているか?」
「数えたことはないな」
「だろうな」
彼は苦笑しながら、一枚の一覧表を机に広げる。そこにはびっしりと魔物の名称と討伐日時、場所、危険度、報告者名が並んでいた。めくられたページに記載された報告者名の欄には、ほとんどが“ブラック・ドラグニル”と記されている。
「中型哺乳型変異種、蒼氷のフェンリル亜種、岩殻バジリスク幼体群、深水域発光魚の未確認個体……。新種登録が六件、変異種の正式認定が四件。食材分類図鑑への新規項目追加が十七件」
支部長は指で数字を叩く。
「お前、この一年でBランクからAランクに昇格している」
俺は目を瞬いた。
「そうなのか?」
「三か月前だ。中央連盟から正式通達が来ている。お前の報告書は精度が高く、討伐時のリスク評価も的確だ。とくに食材としての価値や調理法まで詳細に記録してくるハンターは珍しい」
食材の項目は、俺にとっては当然のことだ。魔物は倒して終わりではない。どの部位が食用に向くか、どの処理をすれば毒が抜けるか、火入れの適温はどれくらいか。そうした情報を残しておけば、次に狩る者が無駄に命を落とさずに済む。
「ギルドが管理している魔物データベースや食材図鑑には、お前名義の項目がずいぶん増えた。連盟内では“時の人”扱いだぞ」
「勝手に盛り上がっていればいい」
俺は興味なさげに地図へ視線を移す。名前や肩書きに価値を感じたことはない。腹が減れば狩る。それだけだ。
自分が有名になっていることは、なんとなく察していた。市場で視線を感じることもあるし、若いハンターが遠巻きにこちらを見ていることもある。だが、俺にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。
「それより、面白い仕事はないのか?」
俺は掲示板の方を顎で示す。
「Aランクに上がったなら、受けられる依頼も増えたはずだろ」
支部長は口元を歪める。
「やっぱりそこか。名誉も報酬も興味なし、か」
「金はあれば使うが、目的じゃない。珍しい魔物か、旨そうなやつがいれば十分だ」
その言葉に、支部長は机の引き出しから一枚の書簡を取り出した。
「面白い話ならある」
羊皮紙には、山岳地帯の簡易地図と赤い印が記されている。
「パルム地方の山岳地帯にある“辺境の町ダジル”。最近、妙な報告が上がってきた」
「妙な?」
「幻のスライムが出現したらしい」
俺は思わず眉を上げる。
スライム自体は珍しくない。低級魔物として各地に生息している。しかし“幻”と付くとなると、魔物としての価値は全くの別物になる。
「目撃証言は複数ある。夜間、山道に淡く発光する半透明の個体が現れ、近づいた魔獣を溶かして吸収したという。討伐に向かったCランクのハンター二人が負傷して撤退している」
支部長は書簡を俺の前に滑らせた。
「通常種とは挙動が違う。溶解力が異常に高く、物理攻撃が効きにくい。魔力濃度も高いと推測されている」
俺は紙を手に取り、目を通す。山岳地帯、夜間発光、高い魔力純度。
ここ最近の異常な魔物の出没やと無関係とは思えない。
「ダジルは小さな町だ。放置すれば交易路が閉ざされる。かといって、正体不明の個体に無闇に人員を割くわけにもいかない」
支部長は俺を見据える。
「どうだ、ブラック。興味はあるか?」
俺は口元を緩める。
魔力純度が高く、発光するスライム。通常種とは異なる性質を持つ個体。もしそれが変異種なら、食材としても未知数だ。スライムの核は加工次第で珍味になることがある。高純度なら、味わいも一段上かもしれない。
「……悪くない」
俺は書簡を折りたたみ、懐に入れる。
市場の喧騒が窓越しに聞こえる。王女と侍女が外で待っている気配がある。
白環の深層に行く前に、寄り道をするのも悪くない。
「ダジル、だったな」
支部長は満足げに頷く。
「詳しい情報は受付で受け取れ。正式依頼にするなら、Aランクとして扱われるだろう」
依頼の確認を終えて立ち上がり、必要な情報だけを仕入れた後に俺は建物を後にした。朝の光はすっかり強まり、ガルムの石畳を明るく照らしていた。
幻のスライム――か。
面白い匂いがする。




