第16話 星が見た夢
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世界の伝承には、こんな話が残っている。
かつて竜と人は互いに海と大地を分け合い、一つの時代の中に空を抱いていた、と。
酒場で酔客が語る昔話の一つに過ぎないと、俺はこれまで深く考えたことはなかった。だが六大陸を巡るうちに、その伝承は形を変えながらどの土地にも残っていることに気づいた。火の大陸では、竜は山脈の主であり、人はその裾野に都市を築いたと語られ、水の大陸では、竜は深海を統べ、人は潮の穏やかな湾に港を開いたと歌われる。風の大陸では、竜は空を巡り、人は浮遊島の縁で風を読む術を学んだという。どの話にも共通するのは、奪い合いではなく、分け合っていたという点だ。
かつて世界は一つであったと聞く。空も海も大地も、すべてが同じ風と時の流れの中にあり、星が見る夢を抱いていた、と。
星が見る夢とは何なのか。竜が世界そのものだったという神話と、どこかで繋がっているのかもしれない。六つに分かたれた大陸も、本来は一つの環の上にあったという古い叙事詩を思い出す。六竜王が尾を噛み合い、星を抱いて眠っていた時代。善も悪もなく、生も死もただ循環の一部だったという、あの統合の時代。
俺は渓谷の縁に立ち、遠くまで続く地平線を眺めた。朝焼け前の薄闇の中、山並みは黒い影となって連なり、その向こうに広がる空はゆっくりと色を変え始めている。世界は広い。どこまでも続く大地と空を見ていると、境界など最初から存在しなかったのではないかと思えてくる。
その景色を見つめながら、俺は遠い記憶の底に沈んでいたある光景を思い出していた。
それが現実だったのか、夢だったのかはわからない。幼いころに見た幻か、竜の血が見せる残滓か。太陽の光さえ届かない遥かな闇の底で、巨大な黒い巨躯が横たわっていた。岩壁に囲まれた深い裂け目の奥、空気は冷たく、重く、時間さえ凍りついているような場所だ。
黒龍。
そう呼ぶしかない存在だった。
その鱗は光を吸い込み、闇よりも深い色をしている。翼は閉じられ、まるで死んだように動かない。だが、その巨体の前には、ひときわ異質なものがあった。巨大な卵だ。黒龍はその卵を抱えるようにして横たわり、断崖の上から差し込む微かな光を見上げていた。
光は細く、頼りない。それでも確かに闇を裂き、卵の表面を照らしていた。
黒龍の瞳は閉じていたのか、開いていたのかも曖昧だ。記憶は断片的で、音も匂いもはっきりしない。ただひとつ覚えているのは、あの存在が「外」を見上げていたことだ。闇の底から、いつか世界の外へ出たいと願っているような、そんな気配があった。
それが俺自身の記憶なのか、竜族の記憶なのかはわからない。だが、世界を渡り歩きたいという衝動の根底には、あの闇の底から見上げた光があるような気がしてならない。
……まったく、どうしてこうなってしまったのか。
俺は小さく溜め息を吐いた。
未開の地に美味いものがあるかもしれない。その一心で旅の同行を許可する方向に傾いたはずなのに、すでに面倒だと感じている自分がいる。相手が王族であるという事実が、頭の片隅で警鐘を鳴らしているのだろう。
王族は、どこまで行っても王族だ。影武者を立てようが、身分を隠そうが、その存在自体が政治の中心にある。俺のような放浪者が背負うには、あまりに重い。
それでも、竜の紋章が繋いだ縁と、白環の深層という餌は、俺の足を止めなかった。
やがて東の空が赤く染まり始める。朝焼けの光が山の端から溢れ、渓谷をゆっくりと照らしていく。夜の冷気が後退し、空気がわずかに温む。
「行くぞ」
誰に向けたともなく呟き、俺は荷をまとめた。
今日もまずは腹ごしらえと情報収集だ。ガルムの市場は朝が早い。星涙菜の予約も確認しておきたいし、変異種の噂があれば耳に入れておく必要がある。
王女と侍女が後ろに続く気配を感じながら、俺は渓谷を下り、市場へと向かった。朝焼けに照らされたガルムの街並みが、岩壁の間に浮かび上がる。
世界は広い。伝承も、竜も、王族の宿命も、その広さの一部に過ぎない。
俺はただ、自分の足で歩くだけだ。




