第15話 竜の紋章
「逃げられないのは、わかっています。ですが……」
王女はそう言って、わずかに視線を落とした。川面に映る月光が揺れ、その光が彼女の横顔を淡く照らしている。
「一度でいいから、自分の足で世界を旅してみたいと、ずっと思っていました」
声は細く、どこか頼りない響きを含んでいる。それでも、こちらを見上げた瞳はまっすぐだった。決意というものは、必ずしも大声や強い言葉で示されるわけではない。握りしめた拳の白さが、彼女の本気を物語っている。
「子供のころから、同じ夢を見ていました」
王女は小さく息を吸い、続ける。
「巨大な竜の背中に乗って、雲の上を越え、山を越え、海を越えて、世界を渡っていく夢です。どこまでも広がる空の下で、私はただ風を感じているのです」
その言葉を聞いたとき、胸の奥に微かなざわめきが走った。
王女はゆっくりと腕を伸ばし、俺の隣に立てかけてある黒鉄の大剣を指さした。
「あの剣に刻まれた紋章……」
俺は反射的に視線を向ける。剣の鍔元に刻まれた紋章は、竜が環を描く意匠だ。六つの尾が互いに絡み合い、円環を成す古い印。俺にとっては、物心ついたころから当たり前のようにそこにあった印で、深く考えたことはなかった。
「その紋章は、我が母君の形見である指輪に刻まれた紋章と同じものです」
王女は首元から細い鎖を引き出し、小さな指輪を吊るした首飾りを見せた。月光を受けて銀色に輝くそれには、確かに同じ意匠が刻まれている。六つの尾を持つ竜の環。
俺は無意識に眉を寄せる。
「母は、ルクレティアと申しました」
王女の声は、少しだけ柔らかくなる。
「光の大陸にまつわる七大貴族の一つ、その系譜を持つ人間でした。王家に嫁ぐ前は、自由を夢見る少女だったと聞いています」
侍女が静かに頷く。
「母はよく、昔の話をしてくれました。自分の父――つまり私の祖父は、飛空挺開発の特務技監を務めており、研究の一環で空島へ赴いたことがあったそうです」
空島。風の大陸だけでなく、光の大陸の上空にも、いくつかの浮遊島が存在すると聞いたことがある。零界核から立ち上る魔力流が、特定の岩盤を浮かせる現象だという説もある。
「幼い母は、その空島への旅に同行したと語っていました。雲海を抜けた先に、太陽に照らされた白い大地が広がっていたと。そこでは空気が澄み、地上とは異なる植物が揺れていたと」
王女は指輪を握りしめる。
「そのとき、母は“あるもの”と出会ったと」
俺は自然と息を潜める。
「それが何であったのか、母は詳しく語りませんでした。ただ、この指輪に刻まれた紋章を持つ者と、もう一度出会いたいと、何度も口にしていました」
王女は俺を見る。
「あなたの剣に刻まれた紋章を見たとき、私は……胸が高鳴りました」
炎の光が、彼女の瞳の奥で揺れている。
「母は言っていました。この紋章は、かつて星とともに在った者の印だと。世界の始まりを知る者の証だと」
星とともに在った者。
胸の奥にかすかな違和感が走る。記憶の奥底で、何かが揺らぐ感覚。だが、それを正確に掴むことはできない。
俺は剣を手に取り、紋章を改めて見る。六つの尾を持つ竜が環を描く古い意匠。それは単なる装飾ではないのかもしれない。
「母は、王妃として生きることを受け入れました。けれど心のどこかで、空島で見た光景を忘れられなかったのだと思います」
王女の声は震えていない。静かで、はっきりしている。
「私は、その続きを知りたいのです。母が出会ったものを。母がもう一度会いたいと願った存在を」
夜風が渓谷を抜ける。焚き火の炎が揺れ、剣の紋章が赤く染まる。
俺は言葉を失ったまま、王女と剣と、そして首飾りの指輪を見比べる。
偶然なのか。それとも必然なのか。
この紋章が、俺と王女の母を繋いでいるというのか。
川の音が、やけに大きく響く。
王女の視線は揺らがない。
彼女は逃げたいのではない。探しているのだ。
母が出会ったものの正体を。
焚き火の炎が落ち着き、赤い熾火だけが静かに揺れていた。
王女の視線と、首飾りに揺れる指輪の紋章と、俺の大剣に刻まれた竜の印。その三つが奇妙な線で結ばれていることは、さすがの俺でも感じ取れていた。
それでも、俺はわざと一歩引いた。
「……お前が探しているものがなんであれ、俺からしたら関係のないことだ」
そう前置きしてから、ゆっくりと続ける。
「母親が出会った何かだろうが、竜の紋章だろうが、王族の宿命だろうが、それはお前たちの話だ。俺は誰かの過去を辿るために旅をしているわけじゃない」
王女はわずかに息を詰めるが、視線は逸らさない。
「……ただ」
俺は剣の柄を軽く叩きながら言葉を継ぐ。
「未開の地には、確かに興味はある」
侍女の目が細くなる。王女の瞳に光が宿る。
「とくに“白環の深層”だ。零界核に近い魔力脈の上に広がる森なら、そこに棲む魔物は魔力純度が高いはずだ。魔力が濃ければ、肉質も締まり、旨味の層が深くなる可能性がある。通常個体とは違う脂の乗り方をしているかもしれないし、希少性の高い固有種がいても不思議じゃない」
俺は過去に出会った変異種を思い浮かべる。魔力が濃い地域で育った個体は、筋繊維が細かく、火を入れたときの香りの立ち方がまるで違う。白環の深層なら、そうした個体が群生していてもおかしくない。
「そこに、俺がまだ出会ったことのない美味いものがあるのなら」
自然と口角が上がる。
「行かない理由はない」
「それなら……!」
王女の表情がぱっと明るくなる。胸の前で手を握りしめ、今にもこちらへ駆け寄りそうな勢いだ。
俺は片手を上げ、人差し指を立てて制した。
「話は最後まで聞け」
王女はぴたりと動きを止める。
「さっきも言ったように、面倒ごとはごめんだ」
炎の残り火を棒で崩しながら、淡々と告げる。
「旅をすると言っても、互いに協力し合うなんて甘い話はない。俺は俺のペースで旅をしている。計画なんてものはほとんどないし、目的地だって気まぐれだ。山の向こうに旨そうな魔獣の気配があれば進路を変えるし、市場で珍しい香草を見つければ数日滞在することもある」
王女は静かに聞いている。侍女も口を挟まない。
「誰かに合わせて生活するのは性に合わない。起きる時間も、狩る時間も、移動の距離も、その日の気分次第だ。王宮みたいに決まった日程で動くことはない」
俺は二人を順番に見る。
「一緒に旅をするというのなら、俺の邪魔をしないことだ。俺が狩りをするときに口を出すな。危険だと判断したら、俺は躊躇なく撤退する。お前たちの都合で進路を曲げるつもりはない」
王女の喉が小さく動く。
「自分の飯は自分で調達しろ。俺は自分の分しか基本的に用意しない。寝床も同じだ。野営するなら、自分の場所は自分で確保する。王族だからといって特別扱いはしない」
風が渓谷を抜け、火の粉がひとつ舞い上がる。
「それでもいいというのなら」
俺は少し間を置き、視線を逸らす。
「少しは考えてやらんでもない」
沈黙が落ちる。
王女はゆっくりと息を吐き、侍女と目を合わせる。二人の間に、言葉を交わさずとも通じる何かがある。
俺は内心で苦笑する。結局、完全に突き放すことはできなかった。未開の地という餌に、少なからず食いついている自分がいる。
それでも、俺の旅は俺のものだ。
竜の紋章がどうであれ、王族の宿命がどうであれ、まずは俺の流儀を通す。
白環の深層。禁域の森。零界核の気配が濃く満ちる場所。
そこに足を踏み入れるなら、甘い覚悟では足りない。
「覚悟があるなら、示してみろ」
俺は静かにそう言った。




