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第13話 禁域と呼ばれる場所



 俺はこれまで六大陸を渡り歩いてきたが、それでもなお、この世界の全体像を掴んでいるとは到底言えない。火の大陸の果てに広がる溶岩海は夜になれば赤く波打ち、空を焦がすような熱気を放つし、水の大陸の外洋では水平線の彼方に巨大な渦潮がいくつも生まれては消える。風の大陸では雲海の上に浮かぶ浮遊島が連なり、足元には何千メートルもの空間が広がる。土の大陸では山脈の地下に幾層もの洞窟都市が眠り、闇の大陸では霧の森が延々と続き、昼でさえ薄暗い影が地面に絡みつく。


 そして光の大陸。人の手によって整えられた聖林と白亜の都市群。しかしその整然とした景色の裏側には、まだ触れられていない領域があるはずだ。


 俺は目を閉じ、想像を膨らませる。


 地図に載らない谷。零界核へと続く地下回廊。数千年前の竜族の遺構が眠る断崖。人の立ち入りを拒む結界の森。もしそこに踏み込めば、どんな光景が広がっているのか。光の大陸の魔力が最も濃く集まる場所には、通常とはまったく異なる生態系が形成されているかもしれない。光属性が飽和した森では、植物そのものが発光し夜でも昼のように明るいかもしれないし、逆に光が過剰に干渉することで影が濃く沈み、視界が歪む空間もあるかもしれない。


 世界は広い。俺が見てきたのは、そのほんの一部に過ぎない。そう思うと、胸の奥がじわりと熱を帯びる。


 そのとき、侍女が静かに口を開いた。


「手始めに、この光の大陸でも禁域とされている“ある場所”にお連れいたしましょう」


 俺は目を開け、彼女を見据える。


「禁域、だと?」


「はい。王都の北東、聖林のさらに奥に位置する《白環の深層》と呼ばれる区域です」


 白環の深層。聞いたことはある。聖林の最深部、零界核へと繋がる魔力脈の上に広がる森で、通常のハンターは立ち入り禁止とされている区域だ。表向きの理由は「魔力過多による生態系の保護」となっているが、実際には零界核の安定運用に関わる重要地帯でもあると噂されている。


「そこは、常時淡い光に包まれています。昼夜の区別が曖昧で、樹木の幹には光紋が浮かび上がる。森の奥には、古代の魔導装置の残骸が散在し、零界核から漏れ出す余剰魔力が独自の生態系を形成していると伝えられています」


 侍女の説明は淡々としているが、内容は十分に刺激的だ。


 余剰魔力によって変質した植物や小型魔獣。通常個体とは異なる属性配列。記録されていない変異種。そこには、俺の知らない味があるかもしれない。


 興味は、確実にそそられている。


 だが、俺はすぐに冷静さを取り戻す。


「……話としては面白いが、問題が山積みだな」


 まず第一に、王女を同行させるという事実そのものが爆弾だ。光の大陸の次期聖王候補が禁域に立ち入るなど、政治的に見ればとんでもない事態だろう。もし露見すれば、魔導府も騎士団も黙っていない。


 第二に、禁域は文字通り危険だ。魔力濃度が高ければ、生態系は予測不能になる。通常の常識が通用しない可能性がある。俺一人ならどうにでもなるが、王女と侍女を抱えた状態でどこまで対応できるかは未知数だ。


 第三に、六環均衡の緊張状態だ。火の大陸のアグニア連邦が独立を主張し、各大陸が神経を尖らせているこの時期に、光の大陸の王女が禁域へ足を踏み入れるというのは内部的にも外部的にも波紋を呼びかねない。もしこれが政治的な策謀と疑われれば、俺自身も巻き込まれる。


 そして最後に、俺自身の問題だ。


 俺は自由でいたい。どこへ行くか、何を食うか、誰と関わるかを自分で決める。王女を同行させるということは、その自由の一部を手放すことを意味する。野営一つとっても、王族を安全に休ませる配慮が必要になるだろうし、戦闘になれば優先順位も変わる。


 侍女は俺の沈黙を見守っている。王女も、わずかに息を詰めているのがわかる。


 未開の地は魅力的だ。…魅力的ではあるが、その一歩を踏み出すにはあまりにも背負うものが大きすぎる。


「……簡単な話じゃないな」


 俺は焚き火に薪をくべながら、低く言う。


 世界は広大で、未踏の地は確かに存在する。ただそこへ行くための代償が何かを、まずは整理する必要がある。


 俺は二人を見やり、静かに息を吐いた。


 未開の地に踏み込むか否か。その前に、越えるべき条件があると思ったからだ。


「まずはその身なりだ」


 王女は簡素な旅装に着替えているとはいえ、所作と雰囲気までは隠しきれていない。白い布で顔の下半分を覆い、フードを深く被っても、育ちの良さというのはどうしても滲み出る。


「王女であることが周りに知られれば、旅を続けようにも追手から逃げることなどできないだろう。ガルム程度ならまだしも、王都からそう遠くないこの辺りで顔を覚えている者がいないとも限らない」


 俺は侍女に視線を向ける。


「そもそもお前たちはどうやって王宮から出てきたんだ。まさか後先のことも考えずに門をくぐってきたんじゃあるまいな?」


 問いかけると侍女は静かに背筋を伸ばし、落ち着いた口調で答え始めた。


「ご心配には及びません。現在、王宮には王女様の影武者を配置しております」


「影武者?」


「はい。容姿や体格の近い者を以前より訓練し、公式の場では代役を務めております。政務は主に側近と摂政が補佐しており、短期間であれば不自然さは生じません」


 俺は思わず眉を上げる。


「影武者なんて物騒なものを用意しているのか」


「王族であれば珍しいことではありません。公の場に立つ存在には、常に危険が伴いますので」


 彼女は淡々と続ける。


「王女様が城を抜けたことは、私を含むごく一部の護衛隊しか知りません。表向きは、王宮内で療養されているという扱いです。近衛騎士団も全面的に協力しております」


 つまり、無計画に飛び出してきたわけではないということか。


 侍女の説明はよどみがなかった。


「旅に出ることは、私たち護衛隊が全面的にサポートしております。一定距離を保ちながら、数名が周辺で警戒にあたっていますし、必要があれば即座に合流できる態勢を整えております」


 俺は周囲の闇に目を凝らす。確かに、さきほどから微かな気配がいくつか感じられていた。野生動物ではない、訓練された人間の動きだ。


「……用意周到だな」


 素直にそう言うしかなかった。


「元々、王女様が外の世界を視察したいという意向は以前からございました。公的な視察ではなく、民の暮らしを肌で感じる形での旅を、長期計画として検討していたのです」


 侍女は俺を見る。


「今回、あなたを王都近郊でお見かけし、その実力と、どこにも属さない放浪ハンターという立場に惹かれました。王女様の身を守る力があり、かつ特定の国家に縛られていない存在は、極めて貴重です」


 計画自体は以前からあり、俺は偶然その引き金になったというわけか。


 いくつか腑に落ちない部分はあった。影武者が本当に見抜かれないのか、王宮内に裏切り者がいないのか、火の大陸の動きが活発な今、このタイミングで王女が不在になることの影響はどうなのか。疑問は尽きないばかりか、準備していたにしては行動が突飛すぎると感じていた。


 それでも、少なくとも後先を考えずに飛び出してきたわけではないとわかっただけで、胸の奥にわずかな安堵が生まれたのも事実だった。無謀な逃避行に巻き込まれるのは御免だが、周到に練られた計画なら話は別だ。


「……ずいぶん用意周到だな」


 俺は正直な感想を漏らす。


「はい。王女様のご意志は固く、我々もそれに応える覚悟で準備を進めてまいりました」


 侍女の瞳には迷いがない。


 そこまでして旅をする理由は何なのか。


 俺は焚き火から視線を上げ、王女を見る。


「一つ聞かせろ」


 声は低いが、問いははっきりと投げる。


「そこまでして旅に出るメリットが、本当にあるのか?」


 王女は静かに俺を見つめ返す。


「今ある現実から目を背けて、外に出たところで何かが変わるのか。城の外で景色を眺め、民と同じ空気を吸ったところで、六環均衡の重みが軽くなるわけじゃない。王位に就く未来も消えない」


 川の流れが一定の音を刻んでいる。


「世界は広い。お前が知らないものも多いだろう。だが、いずれ嫌でも知ることになる。机の上であれ、議場であれ、決断の場であれ、望まずとも向き合う日が来る」


 俺は続ける。


「旅に出ることが、その覚悟に繋がるのか。それとも、ただの息抜きか。現実から距離を置くための口実なのか」


 炎が揺れ、王女の横顔に影を落とす。


「俺は逃げ場にはならない。誰かを甘やかすために旅をしているわけでもない」


 言葉を選びながらも、核心を突く。


「それでも来るというなら、理由を知りたい」


 侍女は黙って王女を見つめている。答えるべきは主君だとわかっているのだろう。


 夜の渓谷に、静かな緊張が流れる。


 王女はゆっくりと息を吸い込み、口を開こうとしていた。

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