第8話 渓谷の夜
ガルムの石段を上りながら、俺は何度目かのため息を飲み込んだ。
相変わらず、あの王女はついてきている。
さすがに人目が気になるのか、王都を出たときのような真っ直ぐすぎる行動は控えているらしく、白いマントのフードを深く被り、口元には薄い布のマスクを当てている。侍女も同じような格好だ。だがどれだけ顔を覆っても、隠しきれないものはある。背筋の伸び方、歩幅の整い方、周囲を見渡す視線の質。長年、礼法の中で育った人間の所作というのは、そう簡単には消えない。
ガルムはこの付近の都市や街に比べれば人口は少なめだが、王都からそれほど遠くない位置にある以上、王族の顔を知る者も多い。騎士団の訓練で訪れたこともあるだろうし、祭事で姿を見せたこともあるはずだ。人口が少ないと言っても、それはあくまでこの山岳地帯の町々や商業都市と比べたらの話であって、渓谷都市としては十分に発展している。市場のある中心部は今も活気に満ち、商人たちの声と川の水音が重なり合っている。
そんな中で、あの高貴な雰囲気はどうしても浮く。
市場で星涙菜の予約を済ませた後も、俺の後方には一定の距離を保ちながら白い影がついてきていた。あからさまに話しかけてくることはないが、完全に離れる気もないらしい。
「……目立ってるぞ」
小声で呟くが、もちろん聞こえる距離ではない。
今ごろ王都はどうなっているのだろうなと、ふと考える。次期聖王候補が城を抜け出し、行方をくらませたとなれば、騎士団も侍従も大騒ぎに違いない。門番の証言から、南西方面へ向かったことくらいはすぐに割れるだろう。追手が来る可能性だってある。
悪いことは言わないから今のうちに帰った方が、大事にならないような気がする。
だが、それをわざわざ忠告してやるのも面倒だ。俺は保護者でもなければ、王宮の相談役でもない。あの王女だって、自分の立場がどれほど重いかくらい理解しているはずだ。それでも出てきたのなら、何か腹に決めたものがあるのだろう。
「……俺が言わなくても、わかってるか」
結局、独り言にして流す。
市場を離れ、街の中心から外縁へ向かう。渓谷の街は縦に広がっているが、少し外れると人の気配は急に薄くなる。岩壁に沿った細い道を下り、川沿いへ出る。夕暮れはすでに夜へと変わりつつあり、崖の上に灯った松明の光が揺れている。
「これから野営地を探す」
振り返らずに、背後の気配に向けて言ってみる。
しばらくしてから、かすかな足音が止まった。どうやら聞こえてはいるらしい。
俺は基本的に宿には泊まらないスタイルだ。ガルムにも良い宿はいくつかある。渓谷を見下ろす高台の宿は眺めがいいし、川沿いの宿は魚料理がうまい。渓谷都市ならではの穏やかな一室をたまには利用してみようと思うこともあるが、やはり壁の内側で眠るよりも、風の通る場所で焚き火を囲むほうが性に合っているのだ。
悪いがお前たちに合わせるようなことはしないぞ。
…まさか宿にも泊まらないつもりじゃないだろうな、と自分で苦笑する。王女という立場で、岩場に外套を敷いて寝る覚悟があるのかどうか。
俺は一度街を離れ、渓谷のそばを流れる川に沿って歩き出す。川は岩に囲まれながら蛇行し、ところどころに小さな砂利の中洲を作っている。水は冷たく澄み、月の光を反射して銀色に輝いている。岸辺には背の低い木々が並び、その向こうには崖が迫る。崖の上からは時折、夜鳥の鳴き声が落ちてくる。
歩きながら、地面の状態を確かめる。水位が上がっても安全な高さがあり、風をある程度遮れる岩陰がある場所が理想だ。さらに、川に近すぎず、かといって遠すぎない位置がいい。水は使うが、増水の危険は避けたい。
やがて、崖が少し内側にえぐれた場所を見つける。天然の岩棚があり、その下は平らな砂地になっている。背後は岩壁、正面は川。風は上から吹き下ろすが、直撃はしない。
「ここだな」
クルルを呼び、荷を下ろす。岩に背を預け、焚き火の準備を始める。
背後の足音が慎重に近づいてくるのがわかる。白いマントの裾が、月明かりに淡く浮かび上がる。
さて、王女様はどうするつもりだ。
宿に戻るのか、それとも本当にこの岩場で夜を越す覚悟があるのか。
俺は火打石を鳴らしながら、川の音に耳を澄ませる。
渓谷の夜は、静かだが決して優しくはない。




