序章
最初におかしいと思ったのは、音だった。
山に入った瞬間、足音が一拍遅れて返ってくる。
土を踏む感触は確かにあるのに、音だけが空気に吸われ、忘れた頃に背後から聞こえてくる。
風は吹いていない。
木々は揺れていない。
それなのに、森全体が呼吸しているようだった。
同行していた男が、立ち止まった。
「……今、誰か呼ばなかったか?」
耳を澄ます。
遠くで、かすれた声がした気がした。
老人のようでもあり、女のようでもあり、子どものようでもある――言葉にならない、声の残骸。
進むほどに、山は整いすぎていく。
倒木は不自然に道を避け、岩は必ず人が通れる幅を残して並んでいる。
まるで、迷わせるために整理された迷路だ。
やがて、小屋が現れた。
苔むした山小屋。
古いが、崩れてはいない。
入口の前には、誰かが最近まで使っていたような足跡が残っていた。
中には、老婆が一人いた。
「山はな、夜になると道を変えるんじゃ」
囲炉裏の火はついていないのに、部屋は妙に暖かい。
老婆は笑っているが、目だけが笑っていない。
「帰るなら、日があるうちに帰りなされ」
外へ出ると、空の色が変わっていた。
まだ昼のはずなのに、影が長すぎる。
来たはずの道が、なかった。
代わりに、同じ山小屋が、同じ角度でもう一度現れる。
背後で、足音が重なった。
自分たちのものより、一歩多い。
振り返ると、誰もいない。
だが、木々の影だけが、人の形に寄ってきている。
その夜、無線は雑音しか拾わなかった。
ノイズの奥で、確かに聞こえる。
「――まだ、出るな」
翌朝。
現場に残っていたのは、壊れた地蔵と、二つに裂けた御札。
そして、血のついたリュックサックだけだった。
山は、何も語らない。
ただ、入り口を閉じただけだった。




