10 庭には猫がてんこ盛り
マーリンが帰ったのは夕刻だった。クタクタのリーシャがやっとのことで、教えられたお別れの挨拶をすると、
「フン! ダメよ、それでは! 明日また特訓ね!」
と嬉しそうに言う。
「それでも下々の娘にしては上出来よ。苛め甲斐――教え甲斐があるわぁ」
とオホホと笑う。
応接室にいたライナムルに
「なかなかいい筋でしてよ」
とニッコリし、ロンバスが開けた扉から出て行った。扉が閉まる寸前、またもオホホと聞こえてくる。
「王城では女の人って『オホホ』って笑わなきゃいけないの?」
涙声のリーシャをライナムルが笑う。
「そんな決まりがあるわけないよ」
「でも、普通に笑ったら下品だと思われそう」
「オホホ笑いを上品だとリーシャは思っているのかい?」
真面目な顔のライナムルに、つい『いいえ』と本音で答えたリーシャだ。
「下品だとは思わないけれど、取り立てて上品だとも思えないかも」
「かもなんだね」
ライナムルが面白そうに笑う。
そう言えばライナムルはよく笑う。笑顔が素敵なライナムル。そんなことを思ったリーシャが慌ててそれを否定した。危ない危ない、騙されたりしないわよっ!
「リーシャはリーシャが思うままに笑えばいいんだ。僕は今のままでもリーシャが大好きだよ」
微笑むライナムルに、揺れるものかとリーシャが応酬した。
「だったらなんでジュジャイ伯爵夫人にわたしの教育を頼んだの?」
「あ……」
微笑みを顔に貼り付けたまま、ライナムルが瞳だけをグルグルっと動かして、天井を見る。それからすぐに視線をリーシャに戻し、
「いや、つまり、僕と二人の時は、って意味さ。二人の時は今のままのリーシャでいてよ。そうだ、ロンバスと三人きりの時も今のままでいい」
と言い訳した。傍らでロンバスがクスっと笑い、チッとライナムルが舌打ちする。
「なにしろ! リーシャには窮屈な思いをさせたくないんだ」
怒ったような拗ねたようなライナムルに、『判ったわよ』とリーシャが苦笑する。
落ち着くためか、ライナムルがコホンと咳払いをして話を変えた。
「ところでね、リーシャ。お願いがあるんだ」
来たよ、また来たよ、この甘え上手が! 心の中でリーシャが悪態をつく。
「ウルマの猫が帰ってこない。リーシャ、探してくれない?」
「ウルマの猫? ひょっとして、その子もライナムルが育てたの?」
「違うよ、ウルマの猫だって言ってるじゃん」
嬉しそうにライナムルがニッコリする。いったい何が嬉しいんだろう?
「オッキュイネが騒ぐから庭に行ってみたら、母猫と四匹の子猫がぐったりしてたんだ――ウルマが慌てて街の獣医に連れて行ったけど、母猫と三匹の子猫は助からなかった。生き残りの一匹はウルマが育てたんだ」
「それってつまり、ライナムルが育てたってことでしょう?」
「まったく……何を聞いてるんだい? ウルマが育てたって言ってるんだよ。僕にはオッキュイネがいるからね。猫を育てるなんて言ったら、父上がオッキュイネを追放しちゃう」
あぁ、そういう事なのね、とリーシャが微笑む。
「それで探すって、どうしたらいいの?」
「リーシャ、やっぱりおバ――いや、猫は猫に探させるのがよくない?」
今、おバカさん、って言おうとしたよね? そう思ったけれど、聞き流すことにしたリーシャ、
「猫に探させるってどうやって? どこに探してくれる猫がいるのよ?」
するとライナムルがニヤリと笑う。
「庭には猫が盛りだくさん。どれでも好きなのを使うといいよ」
「はいぃ?」
何も言っていないのにロンバスが扉を開き、ライナムルがリーシャの手を引いて部屋を出る。
連れていかれたのは、王城の庭の茂みの奥まったところ、低木に囲まれた広場みたいだ。そこにいるのは様々な猫たち、夕暮れが迫る中、のんびりまったり寛いでいる。
数もこれまたすごい。開けたところにいるだけでも二十匹はくだらない。人の気配に様子を見に来たのか、茂みからもぞろぞろと出てくる。
そのうち一匹がニャーと鳴いた。
(ライナムルが誰か連れてきた。人間の女の子だ)
すると別の猫もニャーと鳴く。
(ライナムルが見初めた下賤の娘かな?)
ノベッと寝そべっていたプックラぼったりした猫が気怠そうに首を持ちあげ、リーシャを見てニャオンと鳴いた。
(みっともないって噂だけれど、確かにみっともない。なんて瘦せっぽちなの?)
(そりゃ、おまえに比べりゃあ、みんな瘦せっぽちだろうさ)
すぐそばにいた年寄り猫が茶々を入れる。
(ま! よくも言ってくれたわね! わたしは可愛いから、人間がどんどん餌を貢いでくれる。だからふくよかでいられるの! 人間が怖いアンタなんかに言われたくないわ!)
(フン! 人間なんかに媚を売るなんて、猫の風上にも置けないヤツだ)
喧嘩が始まるのか? 他の猫もニャゴニャゴ言い始め、ニャーニャ―と一斉に鳴きそうだ。ところが――
ニコニコ見ているだけだったライナムルが、
「猫さんたち、ちょっと聞いてよ」
と言った途端、ぴたりと猫が鳴くのをやめた。揃ってライナムルに注目する。
「ウルマの猫が帰ってこないんだ――この娘はリーシャ、キミたちの言葉が判るらしい。知ってることを教えておくれ」
猫たちが顔を見かわした。
(ライナムルがお願いしてるよ)
(ライナムルのお願いならきかないわけには行かないね)
(ウルマの猫絡みだしね)
小さな鳴き声がコソコソ聞こえた後、ひときわ大きな猫がニャオンと声を張り上げた。
(ウルマさまの猫ホシボクロがどこにいるか、誰か知らないか!?)
応える猫の声はない。
「誰も知らないみたいよ?」
申し訳なさそうにリーシャはライナムルに告げる。ライナムルはリーシャを見もせずに、まだ猫を見渡している。
すると茂みの脇にいた猫が遠慮がちに鳴いた。
(ホシボクロってどんな猫だったっけ?)
(あぁ、あれは白猫さ。生まれた時は全身真っ白。で、だんだん耳と鼻の周りと尻尾に色がついてきて、今じゃそこはグレーだ。美人の母ちゃんに似た美男子だよ)
(あ、その猫知ってる。とっても綺麗なコ。頭が……そそ、そこにいる女の子、リーシャだっけ? と同じ色の人間の男が連れて行ったよ)
この情報は後ろのほうで毛繕いをしていた猫のものだ。わざわざ毛繕いの舌を止めての発言だ。
「それってどこで? その男っていくつくらい?」
思わずリーシャが猫に人間の言葉で問いかける。
(来客用の馬車置き場を正門に向かって出たところだよ。あの子に気が付いて男が馬車を停めさせたんだ。で、降りて来て、抱き上げて、馬車に乗せて――人間の年齢なんか判るかよっ!)
「ごめんなさいね、判らなくてもいいの。責めてるわけじゃないのよ……その馬車はよく来る馬車?」
(どれくらいでよくってなるか判んないけどよ、たまぁに見かける馬車さ。必ずその男が箱の中にいる。馬に言うこと聞かせる人間は、日によって違うよ)
「そうなんだ――」
(ウルマの猫はきっとその男に飼われちまってるんだ。それきりあの子を見ないからねぇ……あの男なら、旨いモンを腹一杯食わせてくれそうだニャあ)
最後は面倒臭そうに欠伸交じりで猫が言った。
猫から聞いた話を説明すると少しライナムルの顔色が曇った。
「リーシャと同じ髪の色で王城に出入りする男って、きっとクリセントだ」
後ろでロンバスが、小さく呻いた。
「難しいことになりましたね、ライナムルさま」
「そうだね、ロンバス――クリセントに、庭にいた猫から聞いたけどクリセントが連れて行った猫はウルマのだよ、なんて言えないからね」
「クリセントって?」
訊いたのはもちろんリーシャだ。
「バンバクヤ公爵だよ。僕の母上の、えっと……従弟だっけ?」
「わたしに訊かないでください、ライナムルさま。まぁ、仰る通りです」
ライナムルがロンバスに縋るような目を向け、ロンバスがちょっと怒って答えた。大丈夫なのか、ライナムル? 再びそう思うリーシャだ。
「でもさ、クリセントのところならホシボクロは無事だ。預かって貰っているとでも思おう――それより問題なのはホシボクロにお願いしようと思っていた件を誰に頼むかだ」
「ホシボクロにお願い?」
「うん。とある所に忍び込んで貰おうと思ってた」
ライナムル! それってあなた、猫を使役できるってことじゃないの? 思わずライナムルを見詰めたリーシャだ。
そんなリーシャに気付いたライナムル、ほんのり頬を染める。
「どうしたの、リーシャ? 僕を見詰めるなんて珍しいね」
「えっ?」
た、確かに今、ライナムルを見詰めたかもしれない。でも、あんたが赤くなるような話じゃないわ、ライナムル!
「ライナムル、あなた、今、猫を使役するって言ったわね?」
「そんなこと、僕、言った?」
両方の掌を上に向け、お手上げだというふうにロンバスに救いを求めるライナムルだ。
「使役するなどと、一言も仰っておられませんね」
ロンバスはライナムルの味方だ。
だが、リーシャだって引き下がれない。
「ホシボクロをどこかに忍び込ませるって言った!」
「似たようなことは確かに言ったよ。忍び込んでってお願いするって」
「だいたい、だいたい……だいたい、そうよ! ライナムル、あなた、ここで猫とお喋りしてるじゃない! なんで猫語が話せるの!? 猫たち、あなたの言葉に注目してた」
どう説明していいのか判らないリーシャが涙ぐみ始める。
「ヘンなリーシャ――猫たちが人間の言葉を理解するのは当たり前だよ。リーシャだって人間の言葉で猫に話しかけてたよね」
あれ? そうだったっけ? いつも猫とはニャン語で話しているリーシャだ。
「そんなはず……」
ないわ、と思ってよく考えてみる。
確かにわたし、さっき人間の言葉で猫と会話してた。えっ? 噓でしょ? そんな馬鹿な……眩暈の発作に襲われたリーシャだった。




