第2話:『敬意としての沈黙――三十秒を捧げる前夜』
『一分の沈黙』について話し合う声が聞こえてくる。
コーヴィン「ならば、その沈黙を、われわれの意思に変えればいい。いっそ『一分の沈黙』を、われわれが責任を持ってやるんだ」
梟臣「……意味が追いつかない」
コーヴィン「番組を守るためじゃない。私たちが沈黙に向き合うためだ」
呪文のような提案は、携帯の着信で裂けた。スピーカー越しの声は砂利を噛む音色だ。
編成部長「冗談じゃない。炎上する。次回で結果が出なきゃ終わりだ」
梟臣「もう一度だけ、やらせてください」
通話が切れたあとに残るのは、オンエア中のそれとは別種の粘る静けさ。友情という名のガラス細工はひび入りだが、まだ崩れていない。
梟臣「一旦区切ろう。決めないで進む方法を選ぼう」
脚本のような台詞なのに、今は効く。合意ではない沈黙が、私たちの間を流れ始めた。
決断は、言葉になる前の静寂で育つ。私は台本の余白にそれを書き写す。消しゴムの粉が指先につく。匂いは終わりの始まりに似ている。
梟臣は窓の外を見て、コーヴィンは黙って原稿を覗く。猟斗は音響室でミキサーの前、震えのない手。私はペン先を落とした。まだ始まったばかりだ。
交わした沈黙は、奇妙に重くなっていく。決めないで立つとは、腕を組んで闇に立つこと。安心と、それ以上の不安が同居する。
コーヴィン「面白い。われわれは、一種のサバイバル・ゲームを始めてしまった。ただ、そのルールブックを誰も知らない」
梟臣「俺たち、友達だろ」
少年めいた一言が、かえって空気を引き締める。ガラス越しに猟斗がスイッチをなぞる。金属の冷たさで現実を確かめる仕草。
祈麟「……ルールブックは、これから、書けばいい」
白紙にペン。私の仕事は混沌に段取りを与えること。編成からは条件付きの許可。次回で数字が戻らなければ打ち切り——それは執行猶予だ。
梟臣「あの一分を、どう説明する?」
コーヴィン「説明は、いらないだろう。謝罪も、いらない。ただ、やるだけだ。われわれは、ただ、沈黙を、もう一度、やる。今度は、わざと」
常軌を逸している。だが、逸れることでしか届かない中心もある。
梟臣「馬鹿だろ」
祈麟「……面白いかもしれない」
猟斗「やるんですか?」
震えの中に、光が混じる。自分たちの墓碑銘を刻むような準備だが、そこに自由がある。
コーヴィン「善きかな。最後の夜を祝おう」
夜が明けても、スタジオは夜の温度のまま。コーヒーフィルターの湿った重み。ポットの匂いは昨日と同じ、世界はもう違う。最後の放送という言葉が空気を重くする。
祈麟「……始めるよ」
台本にはキーワードだけ。沈黙/未判断/友情。
梟臣「――今宵、僕らは沈黙を捧げる」
銀の鎖の声は健在だが、今夜はどこか重い。猟斗のフェーダーは滑らか。冷たさが心を凍らせたのではなく、安定を与えたのだと信じたい。コーヴィンは腕を組み、見届ける役だ。
赤いランプが灯る。血色の円が壁に浅く張り付く。
梟臣「ラジオは音の芸術だ。じゃあ、音がなければ?」
祈麟「――沈黙がある」
梟臣「沈黙とは、何だ?」
コーヴィン「……沈黙は、ただの沈黙だ。それ以上でも、それ以下でもない」
私は耳でなく皮膚で聴く。ペン先が繊維を掻き分ける音。消しゴムの粉が机に白い模様を置く。今夜は違う。
祈麟「――沈黙は、未判断のまま隣にいることだ」
スマートフォンが震える。スポンサー担当から**“冒頭三十秒の査閲”**の通知。弔いの鐘みたいな電子音。
梟臣「……来たな」
コーヴィン「ああ、市場の論理だ。神よりも、絶対的な存在だね。では、その三十秒に何を捧げようか。われわれの最後の言葉? それとも、あの、尊い沈黙を?」
猟斗「……僕が、音を——」
祈麟「待って」
私は制した。
祈麟「この三十秒、何も流さない。敬意としての沈黙で埋める」
コーヴィンの目がわずかに開く。梟臣は呆然、猟斗は机に顔を伏せる。
コーヴィン「……面白い。市場の論理を、芸術の論理でねじ伏せる。これぞ、反体制の極みだ。だが、許されるのか?」
祈麟「それが、私たちの友情だ」
猟斗「……友情、ですか」
祈麟「ええ。友情とは、互いを理解することではない。互いの不理解を受け入れることだ。互いの未判断を、背負うことだ。」
コーヴィン「……なるほど。では、誰が責任を取る?」
梟臣「俺が取る」
勢いではなく、重さで言った。
祈麟「みんなで取る。ただし、それは、あとで。今は、ただ、沈黙を、送る」
猟斗が顔を上げる。涙はなく、好奇心の光。
祈麟「猟斗くん、お願いします」
猟斗「……はい」
彼は立ち、音響室へ。背中が少し大きい。
赤が再び灯る。
梟臣「――ここから三十秒、沈黙です」
言葉と同時に、フェーダーがゆっくり降りる。空調の低周波だけが残り、それさえ薄まる。完全ではない静寂。四人の呼吸だけが、密室に細い時間を刻む。
祈麟「――これが、友情の形」
思わず、呟いてしまった。
コーヴィン「CM枠ぜんぶ沈黙で埋める案もあるが——代償は?」
梟臣「俺が、どうにかする」
祈麟「私たちで、どうにかする」
沈黙が終わる。ランプは赤のまま、次の言葉が喉の前で待っている。
——決めないまま進む手順は、いま確かに始まった。




