第1話:『一分の空白――深夜ラジオ、最初の沈黙』
スタジオの焦げたコーヒー、フェーダーの乾いた埃、原稿紙の毛羽立ち。指先で順に点検するのは、わたくし——紙府祈麟である。昨日の夜と同じ匂い。深夜を食い破るには弱すぎる香りだが、この弱さこそが『しののめFM』の輪郭だ。**完璧な静寂は存在しない。**あるのは、不完全な音の層。私たちはその上で呼吸する。
わたくしたちの段取りは、世界と自分のあいだに張る緊張の糸である。手元に広げた台本——この番組『シンフォニア・ミッドナイト』の時間法。建前は『一秒も狂わない』。建前の正体は希望、理想の仮名。
祈麟「あと十分で本番ね」
わたくしは原稿角の毛羽立ちの向きで湿度を読む。癖のようなものだ。繊維がふくらめば、インクはほんの気分を変える。そういう些末で世界は回る。少なくとも、わたくしの世界は。
祈麟「ねえ、梟臣くん」
マイク前の男、鵺守梟臣。口角はゆるく、声は磨かれた鎖の響き。勢いで客席を引っ張るが、止める役は別だと心得ている。推進力と制動力を、私たちは分担している。
梟臣「大丈夫。今日もいける。なあ、猟斗」
猟斗「……はい」
音響は鼓谷猟斗。臆病=精密。彼の手は常にわずかに震えるが、スイッチは宝石のように正確に填まる。嘘が嫌いな指先。怖さを許容することで、彼は静寂の縁を作る。
コーヴィン「準備、万端。言葉ではそう言うよ」
少し舌足らずな日本語が、窓の闇から割って入る。翻訳兼コメンテーター、コーヴィン・ケリグマー。この密室に差し込む外の空気。諧謔と皮肉を細く差し、内輪の速度に楔を打つ役目だ。
壁際のアナログ時計に耳を寄せる。秒針、空調の低周波。ほかの雑音は猟斗が殺した。すべては台本通りに——そのつもりだった。
今宵の『シンフォニア・ミッドナイト』が始まる。
梟臣「区切ろう、深夜の境目を。ここからは君の耳だ」
ジングルが抜け、CMへ十秒。わたくしはページをめくる━━"するり"。
梟臣の声は、橋渡しとして完璧に沈黙へ沈む。沈黙はすぐ戻るはずだった。十、二十、三十——**長い。**私たちの十秒は、六十秒になった。
なぜ。誰のミス?台本を見る。梟臣はわたくしを見る。猟斗はパネルから目を外さない。コーヴィンは、なぜか窓の外に笑みを送る。電波の海に放たれた一分間の空白。
耳鳴りのような空調の低い息が、血中へゆっくり沈む。生放送の一分は永遠の縮図だ。沈黙の重みが肺に直接置かれた気がする。机に短刀——いや、責任の刃が立った感覚。
祈麟「……どうして」
声は出ない。
梟臣「――次、CM」
彼だけが前に進める。やがてCMが終わり、オンエアの赤が戻る。血の色は、猟斗の顔を蒼くする。
梟臣「……ただの沈黙だ。深夜の詩として」
コーヴィン「いや、あれは詩にもなってないな。いまのは空のコップだね」
猟斗「すみません……フェーダーの……」
彼の言葉は途中で乾く。
ブラインドの隙間から、街の灯が線画になる。あの光の向こうで、誰かがメールを打つ気配だけが現実だ。悪意でなくても、結果は冷酷になる。善意は鋭利だ。
赤ランプが落ちても、機材の熱に焦げの匂いが残る。スマートフォンの青白い四角が、闇を浅くする。画面には、匿名の文句が整列していた。**プロ意識の欠如。**陳腐で正確。だから毒。
コーヴィン「プロは機械じゃない。機械の速度に嫉妬はするけど」
梟臣「俺の責任だ。フォローすべきだった」
勢いで責任を抱えると、本質が別名になる。
猟斗「僕が、音のチェックを——」
震えが、語尾をほどく。
三人の顔を見る。責任、言い訳、傍観。**どれも違う。私たちはもう“速い合意”**のドアノブに手をかけている。沈黙は、その手を外した。
祈麟「……誰のせいでも、ないかもしれない」
声は埃に吸われる。
猟斗「僕が、全部……すみません……」
壊れたレコード——ではない。罪悪感のループ。
コーヴィンは唇を湿らせ、外からこちらを透明に観察する。魚になった気分だ。水槽の内と外。ガラスの厚さだけが救い。
梟臣「直そう。ここで。続けるために」
祈麟「“直す”って、どこから」
原稿用紙の余白が急に広い。何を置くのが正しいのか。
祈麟「……あの沈黙は、誰のミスでもなかった。誰のせいでもない。」
スマートフォンが鳴る。━━"ピッ"。
待機室の蛍光灯が、影を四つ引き伸ばす。編成部からの簡潔な報せ。匿名、複数。二語の鉄格子が、未来を狭める。
梟臣「俺が謝る」
立ち上がる膝が空振りする。勢いは重さに負ける。
祈麟「……そのメール、もう一度見せて」
まさか、身内? ——**断定はしない。**それが今夜の規則。
コーヴィン「性急だよ。沈黙自体じゃない。解釈の速度が問題だ」
彼の声が、裁判所の木槌みたいに乾く。
コーヴィン「問題は、沈黙そのものではない。沈黙をどう解釈したか、だ。われわれはあまりに早く『ミス』という結論に飛びついた。そして、その犯人探しに躍起になっている。まるで、古いミステリードラマのように」
空調がひと息つく。紙の毛羽立ちの向きが、さっきより湿っている。機材が泣く予兆。わたくしは台本の余白に、小さく点を打った。保留の印だ。
——スタジオの空気が少しずつ変わっていく。




