還り道
「本当、ごめんね。まさか、あんな事になるなんてさぁ」
後部座席で理沙が言った。
ルームミラーの中に、申し訳なさそうに両手を合わせる理沙の姿を見た恵吾は、「いやいや」と笑って答えた。
「理沙が気にすることじゃないよ。俺達も、まさかあんな事が起きるとは思わなかったし。なぁ?」
助手席に座る充哉に振ると、充哉は座席に背を預け、気落ちした様子で言った。
「いやぁ、本当予想外だった。まさか元カレがやって来て、連れて行っちゃうんだもんなぁ。俺、茉莉ちゃん狙ってたんだけど……」
恵吾は、学生時代からの友人である理沙から「失恋してからずっと落ち込んでる友達を元気づけたい」という相談を受け、職場で出会いいつしか同僚というより友人となっていた充哉を誘って、海水浴をしに海を訪れていた。
昼過ぎまでは順調に、いわゆるダブルデートというものを楽しんでいた。
理沙に連れられた茉莉は、涼しげな水色のワンピースを着て現れた。一目見た充哉が、露骨に態度を変えたのは、思い出すだけで面白い。
恵吾は、学生時代に理沙とそのような関係になりかけはしたのだが、結局二人の間に何も生まれなかった。それ以来、ただの友人としてある程度の距離を保ちながら関係は続いている。恵吾の中で、茉莉との出会いと関係の発展を望んでいなかった訳ではないが、充哉の変わりように、理沙と共に二人を見守るポジションを取った。
皆で海に入って遊んだ後、理沙の目配せに、恵吾は「ごめん、ちょっと休憩するわ」と言って海を上がった。「私も」と続いた理沙と、あの二人上手くいくかな、等と話しながら浜で冷たい飲み物を飲んだ。
事態が変わったのは、その少し後。何やら騒ぐ声が聞こえ、そちらに目を向けると、充哉だった。
慌てて充哉の許に駆けつける。
「勝手に触んなって言ってんだよ。おい」
充哉が、目の前に立つ男に噛みついている。男は、険しい顔で、充哉が背に守る茉莉を見つめていた。茉莉は、泣いていた。
「充哉、どうした」
ちらと横目で見やった充哉が、眉間に皺を寄せ、男を指さした。
「こいつが急に来て、ま……彼女を連れて行こうとしやがったんだよ」
見れば、男の連れらしき者達が、後ろの方で様子を伺っている。恵吾と理沙が加わったことで、ゆっくりと歩み寄って来ていた。
「で、君はどういうつもりなの。この人は、俺達の連れなんだけど」
男は、恵吾の言葉を無視し、茉莉に歩み寄ろうとした。
「だから勝手に──」
「茉莉」
「……は?」
男は、茉莉の名を口にした。泣いていた茉莉が肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げる。
「湊人くん……」
え、え、と戸惑う充哉をよそに二人は見つめ合う。茉莉が、湊人の許へ駆け寄った。
「ごめんね、湊人くん。私、私……怖くなっちゃって」
それから二人は、俺こそ、私が、等と言い合い、しっかりと手を握り合って姿を消した。
茉莉は去り際に、恵吾達に向かって「ごめんなさい」と頭を下げたが、それはもう此処には戻らない、という意思表示と同義だった。
「……え?」
呟く充哉に、湊人の連れ達も困惑した様子で「なんかすんません」と頭を下げた。
白けた空気に、そのまま恵吾達は帰路に就いていた。
「いやー、まぁ、びっくり。なんかこう弄ばれた気分」
充哉の言葉に、理沙がうっと呻く。
「ほ、本当にごめん。今度他の子紹介するからさ」
「ん、まぁ理沙ちゃんは悪くないし。茉莉ちゃんも……悪くはないし。元鞘に収まれてよかったねってことで」
充哉はそう言って、はぁ、と溜息を吐いた。
車内に沈黙が落ちる。
恵吾はカーナビを操作し、音楽を付けた。軽快な音楽が流れ出す。渋い顔をしたままの充哉が「あー、これ知ってる」と怠そうに言った。
ちらと充哉の様子を見やった恵吾は、敢えて明るい声を上げた。
「そうだ、帰りに焼肉でも食おうぜ。理沙も好きだろ、肉」
理沙が、ルームミラーの中で満面の笑顔を浮かべる。
「う、うん! 好き! 充哉君は?」
んー、と唸っていた充哉は、突然、だらけていた体を起こした。
「肉、食おうぜ。こういう時は肉だよなー。元気出して行こうぜー!」
おー! と、やや無理矢理に三人で声を合わせ、理沙がスマートフォンで帰り道に寄ることの出来る焼き肉屋を検索し始める。充哉が理沙を振り返り、あの店は、この店は、と盛り上がり始めた。
──何とか、なりそうだな。
恵吾がそう思った時、車内に流れる音楽が歪んだ。バリバリ、と音が響く。
「な、なん──」
『大山理沙!』
突然、スピーカーから大音声が流れた。
大山理沙──理沙のフルネーム。
「……え?」
戸惑う三人の耳に、少しの間の後、同じ声が続ける。
『──死亡!』
シン、と車内に沈黙が落ちる。妙な緊張感が支配する。
「なんだこれ、ラジオか何かが──」
恵吾がカーナビに手を伸ばすと、後部座席で「あっ」という声がした。
「理沙?」
思わず振り返ろうとした恵吾は、突然の頭痛に襲われて顔を顰めた。充哉の「なんだこれ」という苦しそうな声が聞こえる。
音が遠退いていく。ゴボゴボゴボという音が体に纏わりつく。息が、苦しい……。
軽快な音楽が鳴っている。
「あ、これ知ってる」
充哉が言った。
「このアーティスト、結構いい歌を歌うんだよなぁ」
そう返した恵吾は、「なぁ、理沙」とルームミラーを見やった。前方の道に目をやり、もう一度ルームミラーを見やる。
──居ない。
「何言ってんだよ。理沙ちゃんは茉莉ちゃんと──あれ、どうしたんだっけ」
助手席の充哉が、首を傾げる。
恵吾は道の先を見つめながら、じっと考え込んだ。
朝早くから四人で集合して海水浴へと向かったこと。昼過ぎまでは順調に過ごしていたが、茉莉の元カレが現れたこと。それで──。
「充哉、俺のスマホ見てくれ」
サイドブレーキ横の収納を目線で示すと、そこからスマートフォンを取り出した充哉が画面を覗き込んだ。
「あ、何か理沙ちゃんからメッセージ来てる」
恵吾の伝えたパスコードを入力し、メッセージ画面を開いた充哉は、首を傾げた。
「何か手振ってるスタンプだけ」
そう言って充哉はスマートフォンを掲げた。ちらと、目を向けると、メッセージが追加された。
「何か追加で来た。読んでくれ」
画面を覗き込んだ充哉が、メッセージを読み上げる。
「今日はごめん。またね。──え、何があったんだっけ」
「……判らん。お前、茉莉ちゃんの元カレが来た後のこと、覚えてるか?」
充哉は、うぅんと唸り、首を捻った。
「……確か、茉莉ちゃんが元カレと何処か行っちゃって。それで理沙ちゃんは……」
──ゴボゴボゴボという音が耳の奥で鳴る。腕が痛む。息が……。
「少し休もう。流石に海に行った帰りは体に堪える」
「もしかしたら熱中症かもしれないぜ、俺達。二人とも記憶が曖昧なのはヤバいって。運転代わるから、休み休み帰ろうぜ」
「あぁ、すまん」
休みを挟む内、徐々に理沙の行方を思い出すことが出来た。
元カレが茉莉を連れて行った後、白けた空気の中三人で帰ろうとしていたのだが、理沙は茉莉を追い掛けたのだ。帰りは送って行く、と言った恵吾に、理沙は「大丈夫」とだけ言って茉莉を追って行った。──女子の友情というのは、よく判らないものだ。
その後、恵吾は充哉と海水浴の片づけをして……そこからは──。
茉莉の許に向かった筈の理沙の姿が脳裏に蘇る。理沙は、戻って来た?
そうだ。理沙は戻って来た。そしてその後、三人で状況に笑い合って、もう少し海で遊んでいこうかという話になって……。
だが、それなら何故今、理沙は車に乗っていないのか。置いていく筈がない。
悩む恵吾の横で、充哉が溜め息を吐いた。
「茉莉ちゃんのこと思い出したら泣けてきた」
「そんなに気になってたのか」
「だってよぅ、可愛かったじゃん。まさかこんな所で元カレと再会するなんてさ、ドラマかよって──」
その時、音楽にノイズが走った。二人の視線が交差する。
『伊月充哉!』
充哉がハッと息を飲む。
「こ、これって……さっき」
恵吾は咄嗟に指を伸ばし、オーディオをオフにした。
車内がシンと静まり返る。
そのままスピーカーからは何も聞こえてこなかった。
「……なんだ、今の」
「判らん。でも、さっき……」
「聞いたよな? 理沙ちゃんの名前で」
恵吾は緩く頭を振った。
「本当にマズイ。とっとと帰るぞ」
意識はハッキリとしていた。ただ、記憶が曖昧なだけで。
充哉は、車を降りると心配そうに恵吾を見た。
「お前、本当に大丈夫か。あれなら俺んちで休んでく?」
恵吾は首を振った。
「いや、いい。大丈夫だ。此処からならそれ程遠くないし」
「そっか。んじゃあ、気を付けて帰れよ。また月曜日に会社でな」
手を上げる充哉に手を上げ返し、恵吾は車を走らせた。
妙な一日だった。十分に暑さ対策をしたつもりだったが、駄目だったらしい。それか、これも年のせいなのか。十代の頃のようにはいかないのだろうか。そう感じるのは、少し早い気がするが。
つらつらと考えていた恵吾は、急な頭痛に顔を顰めた。
──これは、コンビニか何処かで休んだ方が良いのかもしれない。
その時、スピーカーから歪な音が響いた。
『伊月充哉!』
──あぁ、駄目だ。聞きたくない。
恵吾はオーディオをオフにしようと手を伸ばすが、元から音楽は掛かっていなかった。
『死亡!』
──あぁ……。
恵吾は、道の端に車を寄せ、停車した。
スマートフォンを取り出し、充哉のメッセージ画面を開く。暫くすると、間抜けな音の後にスタンプが送られてきた。何かのアニメのキャラクターが泣いている。
──あぁ、そうか。お前は、もう……。
近くに立つ町内放送スピーカーが物悲しげな音楽を鳴らし始めた。
夏の夕方に、まだ辺りは明るいが、じきに暗くなるだろう。
物悲しげな音楽が歪む。
『横山恵吾!』
歪な音の後に、恵吾は呼ばれた。
──あぁ。
ゴボゴボと耳の奥で音が鳴る。体に纏わりつく。息が、苦しい。
沈んでいく。
ゴボゴボゴボ……ゴボゴボ……。