第7話 盲目
「カイル。入るわよ」
ノックしたドアの向こうから、返事が聞こえることは無い。されど彼が起きているのは、微かな物音で分かっているので。リュネはそっと扉を開いた。
「調子はどう?」
「……別に」
ベッドの上の白い芋虫。カイルはそっぽを向いたまま、低く聞き取りづらい声で答える。もう三日もこんな調子で、食事すらまともにとろうとしないのだ。
「……背中、痛むの?」
強く刻まれたシーツのしわから予測できる。いくら命の危機を脱して、魔女の薬で超回復を遂げたとはいえ、あんな大怪我が数週間で完治するはずがない。
熱を出したということは、傷が腫れている可能性だって考えうる。けれどこの芋虫状態では……。触れれば殺す。そんな声が聞こえてきそうだ。
リュネの想定通り、彼はますます不機嫌そうに、刺々しい声で言い放つ。
「別に。俺の事なんて放っておけよ。熱だってもう下がったし」
「……そう。じゃあ、辛くなったらこっちにいらっしゃい」
ドアを閉める。リュネは指先を木目に滑らせ、ため息をついた。
(素直じゃないこと。まあ、いいわ。酷くなったら、無理にでも治療すれば)
魔女としては、ひっぺがしても治療をするべきだろうが。あんなに頑なになっている生き物を、無理に心開かせようなんてのは無理だ。というより、そんなことしたくない。
したくない事は、しない。治療を受けるも受けないも、決めるのはリュネではなくて、カイルだ。
(さあ、掃除して……本でも読もうかしら)
今日も外出はしない。少し申し訳ないが、村人にはおつかいを頼んで食料品を得たり、代わりに置き薬を配布してもらったりしている。
だってもし、頑なな扉が開いたときに、ここにリュネがいなければ——きっともう、その扉は開くことを諦めてしまうから。
「……いらっしゃい」
薬草茶の、森の中にいるみたいな香りの中、その扉はおそるおそるといった風に開いた。
見上げるほど高い位置の顔は、相変わらずの仏頂面だが……どすんと椅子に座って背中を向けてくる。
「……背中」
「痛い?」
「熱い」
服を脱がせるのを手伝い、リュネは包帯を外した。広範囲に広がる傷跡は、その縁をなぞるように赤く腫れ上がっている。
これはさぞ、痛かっただろう。
「……きっと、急に動かしたから熱を持ったのね。無理に移動させて申し訳なかったわ」
軟膏を塗りましょう。リュネは立ち上がり、暖炉の火を調節すると、用意していた軟膏の入った乳鉢を持ってきた。それから、小さく肩をすぼめてじっとしているカイルに、カップを差し出す。
ぶわりと上がった湯気に、彼の視線が向けられた。
「お茶、どうぞ。温まるわよ」
「どうせ苦いんだろ、これも」
「ふふ、残念。はちみつ入りよ」
細い、骨ばった指がカップを包み込み、中身をすする。はちみつの甘さがお気に召したのか、カイルはカップを持ったまま手放さなった。
リュネは思わず笑みをこぼし、軟膏を塗り広げる。意地っ張りで口の悪い青年の、その妙に幼い仕草がおかしかった。
「なあ、なんでだ?」
カイルがおもむろにつぶやく。暖炉の炎が、彼の黒髪をちらちらと揺らしていた。
「なにが?」
「アルノの方、味方するくせに。俺にこんなことして。治ったら復讐しに行くんだぞ、俺」
リュネはふと手を止めて、自分の発言を思い出す。それから、冷たくならないよう、けれどはっきり聞こえるよう、口を開いた。
「誤解がありすぎね。まず、わたしは別にアルノ家の味方ではないわ」
「でも、復讐は許さないんだろ」
「今は、よ。だって、判断材料が無さすぎるんだもの。わたしが『赦す』と決められるほど、情報がない」
それにね。新しい包帯をびっ、と伸ばし、リュネは続けた。
「あなたが、復讐という手段に囚われているように思えるのも、やっぱり看過しがたいわ。わたし、自分が救った命に、そんなにあっさり死なれたくないの」
「じゃあ、許せと?」
「なにを」
「アルノ家を」
カイルの言葉は、また不満を強く孕んだ口調になっていて。リュネは自分の顔が、酷く歪んでいるのに気づいた。
ああもう、どうしたって、言葉の難しいこと。
「そんなことも言ってない。ねえカイル、あなた、しばらくここに居たらいいわ。復讐するにせよしないにせよ、その判断を下せるだけの時間を過ごすの」
「そんな事して何になる?」
「復讐も、赦すも、そんな単純な二元論ではないってことに気づけるわ。あなたの判断力は素晴らしいと思うけれど、もう少し周りを見られるようになったら、もっと良くなると思わない?」
恐らく——彼はすぐに判断しなければ、生きてゆけない世界に生きていたのだ。事実、背中から強襲を受けたのに、そこから相手を防ぎ、それ以上の致命傷は受けずに逃げおおせたのだから。瞬時の判断力は並大抵のものではないだろう。
でも、それが仇となって、世界を二分して見ることしかできていない。敵か味方か。良いか悪いか。判断材料を増やすことなく、ただその場で決めているだけ。
それは、そうせざるを得なかったからなのは理解出来るが……もったいないと思ってしまう。
同時に、酷く危うい、とも。
「詭弁だろ。ただ決断を先送りしてるだけだ」
「かもね。最終的に決めるのはあなた。わたしから提示できるのは、『ここで過ごした方がいい』という意見と、場所と時間と少しの暇つぶし」
暖炉の薪が、ぱきぱきと音を立てて燃えている。カイルの表情は分からないけれど、ほとんど空になったカップを、手の中でくるくると回していた。
「あと、怪我が完治するまで休んだ方がいい、という診断もね。これは魔女としてのご意見よ」
はいおしまい。ぺん、と肩を叩くと、カイルはびくんと身体を跳ねさせた。
「いってぇ!」
「お茶を飲みきったら、ベッドに戻るのよ。温かくしてね」
服を着せるのを手伝い、リュネは後片付けをする。カイルはただそれをじっと見つめているだけだった。
やがて、椅子ががたんと動く音がして。リュネは薬草棚から目を離した。
「ああ、待ってカイル」
「……なんだよ」
「ちょっと」
背中を丸めたカイルが、彼の部屋のドアを開きかけていた。リュネは手を伸ばし、彼の額に指先をつける。琥珀の目が、くるりと見開かれる。その後に続いた小さな声の呪文に、彼の眉が不審そうに上がった。
「はい。おまじない」
「はあ?」
「よく眠って、よく元気になりなさい。復讐したくば、ね」
なんだよそれ。鼻で笑って、カイルは部屋の向こうに消えた。たとえそれが皮肉な笑みだとしても、ぶすっとした顔で復讐を語っているより、ずっと魅力的だとリュネは思う。
テーブルの上に残されたカップは、すっかり空っぽだった。
それでも彼は、警戒する獣のように眠る。
固く、固く毛布の端を握りしめ、背を小さく丸めて。世界中に威嚇しているみたいな体勢で、険しい顔をして眠るのだ。
ここに来た夜以外、すべて。
真夜中。
リュネはそっとカイルの部屋に入る。うなされる声と、淡いろうそくの灯りに照らされた、くしゃりと歪んだ表情。胸がぎゅっと締め付けられるような感覚が走る。
どうして彼にここまで手を尽くしてしまうのか。リュネ自身にも分かっていない。
同じアルノに因縁を持つ者ゆえなのか、単純に、彼の境遇を哀れだと思ったからなのか。あるいは、選択肢を持たない彼に、過去の自分——セレスティアを重ねているのかもしれない。
けれど。
リュネはカイルの額をとん、と指先で触れ、呪文を唱える。幼い日、老婆に何度も何度もかけてもらった、恐ろしい夢が解けるおまじない。
「おやすみなさい、カイル」
そこにあるのは、ただ彼が優しい眠りに沈めるよう、祈る気持ちだけなのだ。