第5話 カイル
「こんにちは、カイル。具合はいかが?」
二日ぶりに救護室の扉を開けると、リュネはベッドの上で上体を起こしている青年を見つけた。
冬晴れの、高い日差しがキラキラとガラスの窓から差し込んでいる。彼の深い黒髪が、その光をぱちぱちと弾いていて、まるで夜空のようだった。
「もう起きていて大丈夫なのね。すごいわ」
「……あの苦いどろどろ」
「ん?」
「不味すぎる。もっと飲みやすいものがいい」
黄色いまなこをじとりと細くして、カイルはぼそりとつぶやく。彼が超回復薬の味について不満を抱えていることは、既に修道女たちから確認済だ。
「ふふ、薬に文句が言えるほど元気になったなら良かった。さあ、傷の様子を見せて」
リュネは彼の背後に回り、簡素な服を脱がせる。真っ白に巻かれた包帯を取れば、傷はもう薄ピンクの痕が大きく残っているだけだった。
(ほんと、すごい回復力。それに……)
真っ白な肌に、薄く、けれどしっかりとついた筋肉。柳のような顔立ちに琥珀色の双眸。まだ完全に育ちきっていない様子が、逆に彼の可能性を示唆しているようで。
こうして半裸で微動だにしない姿でいれば、さながら芸術家が魂を込めて造り上げた、理想の美青年みたいだ。
このぼさぼさの髪を整えて、むすっとした表情を柔らかくすれば、きっと街ゆく乙女たちなど一目で恋に落ちてしまうだろう。それくらいカイルの見た目は美しく綺麗で、異様なほどだと感じた。
(確か、ここに来た時の服も上等そうだったし……実はものすごい貴族のお坊ちゃんだったりするのかしら)
「……なあ」
と、おもむろにカイルが口を開いた。リュネは考え事から現実に戻り、彼の傷に軟膏を塗り込む。
「なあに?」
「あんたが、『赦しの魔女』なのか?」
リュネはまばたきをして、密やかに息を吐いた。村人からは『魔女さま』と呼ばれることが多いが——そういった呼び名が付いていることは理解している。
ただ己のためにしている行いがそのように呼ばれることに、若干の萎縮はあるが。事実は事実だ。そうね、と彼の背中にヘラを滑らせる。
「確かに、そう呼ばれているわね。誰かから聞いたの?」
「風の噂で存在は知っていた。ここにくる村人が言っているのを聞いて……確信した」
そこでカイルは言葉を区切った。何か、決心を待つかのような沈黙。リュネもまた静かに、彼を待つ。
「俺は、あんたに会いにここに来た」
「……何か、許して欲しくて?」
「そうだ。俺は——」
「カイルさあん」
ばん、と扉が開いて、駆けてきたのは修道女のひとりだった。手には畳まれた布を持っており、リュネを見ると顔をぱっと明るくさせる。
「あっ、魔女さま! いらしてたんですね」
「こんにちは。傷の具合を見にきたの」
「ありがとうございます。じゃあ、終わったら教えてください。シーツを変えるので!」
少女は替えのシーツを置くと、にこにこしながら部屋を去った。カイルの視線がちらちらと揺れている。それを見て、リュネは思いついたことを口にしてみた。
「ねえ、カイル」
「……なんだよ」
リュネは包帯を巻き終え、カイルの腕に衣服を通させる。あからさまに不機嫌な様子の彼に、努めて軽く尋ねてみる。
「もしよければ、わたしの家に来ない?」
不機嫌な顔から、眉毛がぴくりと上がる。リュネは彼を反対のベッドに座らせると、まだ温もりのあるシーツを勢いよく剥がした。
「完全ではないけれど、あなたの具合はかなり良くなったわ。ここは教会の救護室だから、あくまでも緊急的な利用しかできないの」
それにね。新しいシーツをぱん、と広げる。カイルの視線が、ばちっとこちらを向いた。
「あなたはわたしに、話したいことがある。その場所は、二人きりの方が都合がいいんじゃないの?」
しかめっ面が、何かを考えるように視線を彷徨わせている。
やがてカイルは、にやりと、どこかからかうような様子でくちびるの端を上げた。
「察しがよくて助かるよ。けど、いいのか?」
「何が?」
「若い男女がひとつ屋根の下。『赦しの魔女』さまともあろうお方が、そんな不純なことして」
そんなこと。
思わず大声で笑いだしそうになるのをふっと留めて、リュネは微笑んだ。
「ご心配なく。あなたには、おばあちゃまが使ってた部屋を使ってもらうわ。それにもし不埒な真似をしたらわたしは許さないし、村人たちも許さないはずよ」
そんな危険な道を通りたければどうぞ。
そこまで言えば、カイルはつまらなさそうにひらりと手を広げた。
「ははっ、肝に銘じておくよ」
「物分りが良くて助かるわ。部屋を片付けるから、明日移動しましょう」
「はいはい。『魔女さま』の仰せのままに」
傷跡を避けるように、カイルは横になる。リュネは首を傾げて、じゃあね、とその場を後にした。
美しい見た目の割に、不機嫌で皮肉屋。そのくせ、妙なところで道理をわきまえる。
なんとも不思議な印象の男だと、リュネは思っていた。
☆☆☆
次の日、リュネはカイルを自分の家へと案内した。修道女や牧師からの喜びの声にも、彼は一言も返そうとはしなかったし、ぴくりとも表情を動かさなかった。
不審に思ったものの、その理由はすぐに分かることとなる。家に着いた途端、彼は椅子に倒れ込むように座って、そのまま動けなくなってしまったのだ。
「どうしたの?」
「うるさい……ちょっとくらっとしただけだ」
そう言うものの、カイルが立ち上がる様子は無い。慌てて重い前髪の向こうに触れると——じん、と指先を溶かすような温度を感じた。
「少し体が熱い……熱があったのね。早く休んだ方がいいわ」
「いや、いい」
「でも」
「いい。それより、俺の要件を聞いてくれ」
ぶんぶんと手を振って、カイルはリュネを追い払おうとする。その表情はどこか焦っているようにも見えた。
リュネはお茶を用意し、彼の前に差し出す。今にもテーブルに上体を倒しそうになりながら、カイルは目をぎらぎらさせてこちらを真っ直ぐ見やる。
その熱量。リュネは思わず背筋を伸ばしていた。暖炉の薪が、ばきりと音を立てる。
やがてカイルは、重苦しいほどの気配を持ったまま、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、あんたに会いにここまで来た。何でも許してくれる、神さまみたいな女がいると。そいつに話せば、俺の行いも許しを得たことになるかもしれないって……無駄かもしれないけどな」
祈るような、どこか諦めたような。矛盾する感情を滲ませた声でカイルはつぶやく。リュネはカップをそっと手で包み、静かに問うた。
「……それで、あなたは、一体何をしたいの」
「復讐」
重い単語だ。リュネは、自分の首すじがぴりついていることに気づく。カイルの放つ、尋常ではない空気の重さに気圧され、言葉さえ出てこなかった。
初めて彼に出会った時に感じた、緊迫した気配は……この望みのせいだったのだ。
「俺は、ある貴族に復讐をしたい」
「……それって」
怖い。繋がってしまう。目を見開く。黒髪と金の目、上等な服、うわ言につぶやかれた『アルノ』という単語……。
頭の中で警戒音が鳴り響いている。これ以上、彼の話を聞いてはならない、と。
このままでは、今まで通りに過ごすことが出来なくなると、全身が感知している。カイルの言葉を止めろ、と。
けれど。リュネは自分の手首を固く、固く握りしめ、震えを押さえた。窓ががたがたと音を立てる。暖炉の炎が目に焼き付く。
程なくそのざわめきが収まり、静まり返った部屋の中。カイルの口の動きが、ひどくゆっくりに見えた。
「——相手は、アルノ家だ」