ペチュニアに濡れた傘
雨が降っています。
雨です。
最近知った事なのだけど、雨には二種類の雨があるらしいの。
一つは『冷たい雨』――この雨は水蒸気が凝結してできた水滴が氷晶になって、それがまた融けて降る事らしいの。日本では大半が、この『冷たい雨』みたい。
もう一つは『温かい雨』――こっちは水蒸気が凝結してできた水滴が、水滴のまま成長し、そのまま降る雨の事を言うみたい。
それなら今、降ってる雨は『温かい雨』ね。
折角、新作のファンデーションのお披露目だったのに、もうボロボロよ。アイライナーなんか伸びてしまって、渋谷の女子高生みたい。ウォータープルーフなんて信じちゃダメね。
こんな事を言ったら貴方はきっと「化粧なんてしなくていいのに」なんて言いながら、いつもは満月のように丸々とした目を三日月のようにさせて笑いながら、私の目頭から目尻にかけて弧を描く様に優しく指でなぞるのでしょうか。その行為になんの意味があるのか分からなかったけど――いえ、意味なんてないんでしょうね。
だって貴方だもの――『霧雨』のように気にもせず『にわか雨』のように突然に、そんな行為を平然に、さも悠然に行うのが貴方だものね。
今だから言えるけど、その行為はある種の犯罪よ。だってそうでしょ?
貴方が私に触れてくれるから、そんな『しなくていい行為』をしてしまうの。
そのか細い針金のような指で私を――私なんてモノに触れるから、なぞるから、支えるから、私は柄にもなく頑張ってしまったの。今考えると、とても浅はかな考えだと思うわ。幼稚な考えと言ってもいいわね――けど、どうしてでしょうね? 幼稚で浅はかとは思っても、愚かな考えとは思えないのよ。
どうしてでしょうね、どうしてなのかしらね? 満月のような目も、稲穂を磨やしたような肌も、鷹の嘴ように通った鼻も、弓のように湾曲した大きな口も、その大きな口には似つかわしくない雨音のように儚く響く声も、小枝のように細く脆い足も、その針金のような指も――
全てが、貴方の全てが忘れられない。
だから私は貴方と買った傘を棄てたの。覚えてる? その日は雨が降っていたわ。
その時は多分『冷たい雨』の方ね。
あの時の私達はまだ高校生で、世間ってものも分からなくて、自分の事しか考えられない子供だったわ。大人になんかなりたくなくて、けど子供扱いされる事を毛嫌いして。世間なんて分かりもしないのに、世間に否定される事を憎んだものだわ。本当、今思い出すと恥ずかしさで頬を染めるというより頬を引っ叩いてやりたいわ……今も変わらないものね。
ごめんなさい、私の戯言なんて意味ないわね。やっぱ私も年齢だけはとったみたい、その調子でお腹の脂肪も取ってくれないかしら? ――ここは笑う所よ?
私も大学を出て、社会に出て、世間というモノを知ったつもり。恋人だって居たわ、貴方みたいに不誠実ではない人もいたし、貴方みたいに誠実ではない人もいたの。『幸せ』という分割できる類に挟まれながら、『不幸せ』という直結しかできない類に持て囃されながら、それでもどうにこうにかしどろもどろに私は生きてきたの。
それでも、貴方という人を、たった一人の人を忘れるには無理な年月だった。
悔しい事に、虚しい事に、貴方の存在は私の逸材だった。
このペチュニアが描かれた傘の骨の錆びを見る度に、あぁ、私の想いもこれみたいに寂びてほしい。と願ったのに、その願いとは裏腹に瑞々しく潤い、肥え、日を増す毎に貴方を渇望したの。傍にいない貴方を想像し、此処にいない貴方を妄想し、自分の我儘に予想した。
それでも満たされなかった。満ちる訳がなかった。満たしてくれる訳なんてなかったの。この地球がどんなに雨に濡れようと満たされないように、私の心は満たされなかった。
ペチュニアの花を見る度に私の苦労もいつか変化するだろうか。と思ったけど、ふと、思うとその苦労を私は大事に抱えて生きていた。変化を恐れ、成果を拒んだ。貴方から他の誰かになる事を恐れ、拒んでいたの。
その時、私は分かったわ。
私は貴方に溺れて死にたかったのだと。
私は貴方に満たされ死にたかったのだと。
私は貴方に恋して死にたかったのだと。
だけど、それはもう叶えられない。夢は夢のままで、現実は現実のままで終わってしまった。突然の変化は本当に突然に起き、忽然の成果は私に有無を言わさず現実に引き戻した。泣く暇さえ与えず、啼く声さえ届かず、私は現実に引き戻されたの。
貴方はもういない。
それが現実だった。それが今現在の現実になった。変化も成果も起きてしまった。その耐えがたい現実に私はどうすればいいの? 貴方なら笑って流すでしょうけど、私には到底不可能。真面目な私には、こんなモノは耐えられない……。
どうしたい? どうすればいい? どうしたらいい? どうなればいい? どうされればいい? どうやればいい? どう行えばいい? どう贖えばいい? どうされたい? どう変わればいい? どう変わらなければいい? どうやりたい? どうやらされたい? どう生きたい?
誰と逝きたい?
それは叶えられるはずの夢だった。私は愚直で、それさえも忘れていたの。今更になって気づく貴方の重みは、満たされぬ器には入り切れなかった。その自分の愚かさを呪い、この自分の真面目さを愛し、私は貴方に逢いに行こうと思います。
右手に握る傘の骨を、自らの首に突き付け、暗い部屋の隅、満月の夜空を背に私は一瞬の狂いに身を任せ、その鋭利に尖った骨を喉元に突き刺した。
雨が降っています。
雨です。
赤いペチュニアを洗い流すように、『温かい雨』は優しく、儚く流れ落ちてゆくのです。