この花を胸に
梅酒を飲み切った後の氷が溶けて、からんと音を立てた。飲み過ぎただろうか。いいや、まだ大丈夫。俺はドリンクメニューに目を通して次の飲み物を選ぶと、横の花田に「お前は何飲む?」と渡した。彼はそれを受け取らず、ずいと顔を寄せる。
「うーん、俺カシスソーダ」
「甘いの行くね」
「うん。デザート」
彼は呼び出しボタンを押した。顔が離れて、横顔がよく見えるようになった。こいつも酔ってるな、と赤くなった耳たぶを見ながら思う。
「で?」
花田が突然水をむけてきたので、俺は驚く。
「で、って?」
「わざわざ二人で飲むなんて、何かあったん?」
「いや、別に何かある訳じゃねえよ。ただ、最後になるからさ」
「おいおい終わらすなよ。卒業しても会えばいいじゃん」
「卒業しても、ねえ」
俺はグラスを掴むが、既に梅酒は飲み切っていたことを思い出す。迷って、氷が溶けて少しだけ出来た水を口に含んだ。
「会うのかねえ」
「何でそんなネガティブなん?」
花田が笑う。片えくぼ。だから俺は、こいつの左側に座るのが好きだった。一つずつ過去になっていく。
「逆に聞くけど、お前俺の事誘ってくれるの?」
「誘う誘う。全然誘う。ボウリングとか行こうよ」
「ホントかぁ?」
「ホントだって。一年からの付き合いじゃん」
花田はまた笑う。一年から。そうか、卒業までって事は、まだ四年しか経っていないんだな。ずいぶん長く接してきたような気がするが、そんなもんか。
思い返せば花田との出会いは、入学してすぐのオリエンテーションでたまたま一緒のグループになった事がきっかけだった。意気投合したのは当然だったのかもしれない。お互い不安で、誰も彼もが友達を求めていたから。それで誰とも意気投合しない方が難しいだろう。
でも、学科が違う、サークルも違う相手と四年間友達でいることができた事。これを偶然と呼ぶのには抵抗があった。もちろん、運命とも少しだけ違うだろう。俺はこの気のいい男の友人を続ける為にこまめに連絡を取ったし、遊びの資金に困らないようにバイトをしたし、共に進学できるように勉強もした。俺はやり切った。俺はこの四年間、きっちり花田の友達をやり切った。誰も気づくことはないだろうが、俺はこの男と、俺のエゴのために全力を捧げた。
「四年間か。長かったな」
「ええ?俺的には短かったけどなぁ」
「そりゃ、お前はな」
む、と眉を寄せた花田に、「俺には長かったんだよ」と一言。次の一杯はまだか。乾く唇を持て余す。
「まあとにかく、もうすぐ大学生活も終わりだな」
「ん?ああ、そうね。ゲーセン行くのとか楽しかったよな。お前むっちゃぬいぐるみ獲るの」
「お前が獲れって言うからだろ」
「マジで獲るヤツいる?」
「お前…あれまだ全部俺の部屋にあるんだぞ!」
「早く売れよ」
「めんどくさいからお前がやれって言っただろ」
「断ったじゃん」
「あーはいはい。いいよ、お前に子どもができたら全部送りつけっから」
「うわ、いらね!」
花田が腹を抱えて笑う。ああ、いらん事言った。飲み物が、飲み物が来ないからだ。「ぜってー送り返すから」と指を指してくるのを振り払う。こういう一瞬一瞬が俺の努力だと知る人は、後にも先にもいないままだ。
でも、これで卒業。そう思った途端、俺の緊張の糸はぷつりと音を立てて切れてしまった。だから、俺はもうこいつに会う事はない。こいつはきっとこれから知らねえ女と付き合って、結婚して、子どもを持って、幸せに生きていくんだろう。それができるヤツだから。でも、俺はその時こいつのそばに居たくないと思ってしまうから。
「なあ」
「うん?」
「幸せになれよ」
「なにそれウケる。お前もな」
花田は笑う。俺はようやく運ばれてきたグラスを無理矢理花田のグラスに打ちつける。
人知れず心に咲いたこの花は、最後まで俺の心の中だ。