プロローグ
なろう投稿は5作目になります。
これまで書いてきたものとは若干、趣が変わります。
少し軽い感じで笑えることを前提としました。
小生が好きだった小林信彦先生のオヨヨシリーズ(ちょっと古すぎるか)や東川篤哉先生の一連の小説の影響を受けております。
私を含め、なろうに投稿されている書き手の皆様へのエールを込めた作品です。
1
100名もの大学生の前で発表するのは緊張する。ましてやそこには学生だけではなく教授たちもおり、彼らは前席に陣取って、俺の愚にもつかない発表に聞き入っているのだ。
ここ星天大学大会議室では、人文学部日本文化学科卒業論文の発表会が行われている。
なぜか俺の卒論が優秀作に選ばれてしまった。卒業予定の全学生の論文の中から10名程度が優秀と評価され、みんなの前でプレゼンテーションをおこなうのだ。
俺としては喜ばしいことなのだが、発表となると話が違う。断りたかったがそう言う前例はないそうだ。
俺の卒論テーマは(横溝正史における日本のミステリー論)というそこいらの高校生でも書けそうな題材でもあるのだが、うちの大学だと優秀作に選ばれるらしい。今は俺の目の前の席に座っている担当教授である青山敦子が、その論文を気に入ってくれたため、今回の発表となった。青山は50歳を少し超えた、働き盛りの教授だ。元々、国立大出身で色々な経歴を持ちながら、うちの大学にスカウトされた。ちなみに星天大学は多摩地区にあるいわゆる3流私立大学である。大学のホームページには就職率98%などと記載があるが、とにかくバイトに毛が生えたような就職先でも就職数に入れているというカラクリで、そういった数字にしているという噂だ。
俺は卒論だけではなく、今回の発表用にパワーポイントも作る羽目となった。青山からは発表部材についても数回ダメ出しをされ、およそ2週間はこれに掛かり切りとなった。
元々、人前で話すのは大の苦手でもあり、ましてや当星天大学の大会議室などという200名も入れそうな場所での発表である。俺にとって緊張しないことなどありえないのだ。
講演台に立ち、ノートパソコンを操作しながら、前のマイクに向かって話す。妙にエコーがかかったような自分の声も不気味だ。最初から最後まで緊張しっぱなしで、ただ手元の原稿を読んでるだけなのだが、呂律が回らないし、声も上擦りっぱなしだった。自分でもたどたどしい発表だと思いながらも、それでも20分の発表を終え、ようやく最後の質疑応答の段となった。
「以上を持ちまして私の(横溝正史における日本のミステリー論)についての発表を終わります」
そのまま静寂の時間が流れる。講演終わりましたよ・・・みなさん。会場では寝ている学生と、寝ないようにがんばっていた教授連中が、ようやく発表が終わったことに気付いて急いで拍手をする。まさにお義理の拍手だ。
「それでは質疑応答を受けつけます」
何も出ないことを切望するが、担当の青山が周囲を見ながら、質問が出ないのを見越して手を挙げた。
「それでは質問します。長谷川さんは横溝の創作理論を中心に語られておられましたが、さらに彼の小説自体の討究もされていたと思います。他の作家には見られない、彼独自の特殊性といった部分についてはどのように考えますか?」
質問の意味を理解するのに時間がかかる。討究ってなんだ。東急の間違いじゃないよね・・・。青山先生、うちの学生の知能指数わかってますか、今の質問になんて答えればいいんだろうか、あまり時間をとっても仕方がない。適当に言うか、
「そうですね。横溝の代表作などは古典的な海外の探偵小説をベースにしておりますが、その中でも(夜歩く)などには独自性があると思います」
どうだ、青山、(夜歩く)なんて読んだことないだろう、ましてや横溝正史なんかは彼女の守備範囲じゃないはずだ。
「いや、長谷川さん、(夜歩く)はむしろ古典を踏襲している。それをいうなら短編集などには彼独自の創作物があるでしょう。蝙蝠と蛞蝓、女怪などのほうがそういった趣向が色濃く出ていると思いますよ…。まあ、いいでしょう」
俺はそのまま立ち尽くす。さすがは教授ですね。すべてを理解されてます。俺は何も言えない。仕方なく、「ほかに質問はありませんか?」とお茶を濁す。その後、質問もなく、俺は発表を終えた。
午後いっぱいをかけて行われた卒論発表会が終わり、俺は同じゼミの同僚、臼井喜朗とキャンパスを歩く。
臼井は入学当時からの知り合いで、最初から妙に俺に近づいてくる人間だった。やたら人付き合いがいいタイプで俺とは真逆だ。習得する授業科目が重なることも多く、俺を利用しようと思って接触してきたのかもしれない。ちなみに俺は人付き合いが悪く、早い話、友達も極端に少ない。彼に利用されているとはわかったのだが、断る理由もないので何となく友達付き合いをしている。ゼミも一緒になったので、俺としては珍しく長い付き合いとなった。
星天大学は多摩の山奥を新興住宅地なみに開拓して作られた学校である。そのため緑がやたらと多い。緑と言うかはっきり言って鬱蒼とした森の中である。
臼井の卒論は優秀賞には選ばれなかったが、今回の発表会ではゼミのメンバーは全員参加必須だった。
「真治さ、お前、青山の質問、答え方間違えてたよな」
「ああ、その通りだよ。仕方ないだろ、緊張してたんだよ。何言われてるかわからなくて適当に答えた」
「青山はお前が答えやすいようにキラーパスを出したんだぞ、それをお前はオウンゴールしちゃったな」
確かに臼井の言う通りだ。後から考えると卒論の修正の際にも青山から言われた内容でもあり、質問もまさに修正した部分だった。
「しかし真治はああいうおばさんにもてるんだよな。そこそこ卒論も良く出来てたのかもしれないが、基本は青山がお前を気に入っていたというところが大きいんだ」
それについて否定はしない。確かにそうかもしれない。昔から年配の女性には好かれる傾向がある。バイト先のスーパーでも野菜売り場のおばさんにはアイドル扱いでもある。
「真治はどこかお坊ちゃんのような顔立ちで、場末の王子様みたいな雰囲気があるんだよな」
「場末は余計だな。実際は貧乏な家庭の一人息子なんだけどな」
俺は父子家庭の一人息子だ。田舎は栃木県小山市で親父は中小企業の塗装工場で働いている。母親は俺が生まれてすぐに亡くなった。父は安月給の中、俺を大学まで行かせてくれたのだ。その恩に報いなければならないのだが、残念ながらこの三流大学のその中でも底辺の人文学部日本文化学科専攻という体たらくだった。
「あと、就職はどうするんだ。うちのゼミで決まってないのはお前ぐらいだろう」
「そうなんだけどな・・・」
専攻は人文学部日本文化学科でもあり、元々出版社希望だった。ただ、こういったマスコミ関係は激戦区であり、うちの大学では正直厳しい。さらに俺自身の性格も企業受けするようなものでもない。引っ込み思案の人見知りである。それなのに出版社の編集職などを希望してしまったのだ。
就職活動も遅く、3年生の3月から始めるが、当然軒並み不合格である。大手はほとんど門前払い、中小でも一次を受かれば御の字で、最終面接まで行った事もない。そんな状態だから、早々に諦めてそれなりの会社にすればよかったのだが、とあることから就職活動もせずに現在に至っている。
「まさか、大学に残るんじゃないよな」
「就職浪人なんか、ありえないよ。卒業単位は足りてるしな。うちは極端な貧乏だから、そもそも金銭的に大学に行ける身分じゃなかったんだ」
「じゃあ、これからもフリーターで生きていくのか?」
「いやあ、それはないよな・・・」
実際、俺はこの1月末になってようやく就職試験を受けるという、ほとんどあり得ない状況になっている。一応、まだ大学に求人はあるようだが、まあ、ほとんどが聞いたこともないような会社で業務内容も営業職が多くなる。あとはIT関連企業のプログラマーである。これは未経験者でも大丈夫とか言っているが、入ったら激務のようである。うちの大学でも入社した先輩は、軒並み精神に不調を来たしているという噂だ。精神的に弱い俺などが入った日には1週間も持たないだろう。
企業も大手は所定の新入社員数は充足しており、良い学生が取れなかった中小企業の人手不足対策の求人しか残っていないのだ。そういった職種だと、人見知りの文学青年にはおよそ向いていない。
「明日も就職面接に行くことにはなっている」
「どんな会社だ」
「八王子の外れにある。何かの機械を作ってる会社だ」
「なんかって何だよ、調べてないのか?そこメーカーなのか?」
「そうなのかな。今晩調べようと思ってる」
「大丈夫か、そんな感じで就職して」
「うん、お前の言う通りだ」
臼井は若干あきれ顔だが、自分でもそう思っているのだから仕方がない。
「ところで真治は今日のゼミの打ち上げには参加するんだろ?」
「今晩だよな。一応参加する」
「澪も来るらしいぞ」
「へー、珍しいな」
今村澪。うちのゼミのマドンナである。彼女はもっといい大学に行けたと思うほど、優秀であり、なおかつ眉目秀麗でまさに掃き溜めに鶴といった女性である。就職試験も軒並み合格し、最終的には俺の憧れの出版社に内定となった。うらやましい限りである。
「しかし、就職も顔なのかね。今村よりも優秀なやつはいただろうけど、合格するのは今村だもんな」
「人事担当だってさ、そこは人間だろう、同じ成績だったら顔がいい方を採用するんだよ。ルックス次第で人格も良く見えてくる」
「まあ言えてるな。顔から来る印象は大きい。おれなんか特徴がない顔だろう、結局、家電量販店の営業だもんな」
「まあ、臼井は決まっただけいいだろ、俺なんかこれからだからな」
「でも真治は顔からくる印象はいいはずだよな。顔だけ見ればどこかのお坊ちゃまに見えるからな」
「しゃべらないとな。話し出すとすぐボロが出る」
「そんなもんか」
臼井君、そこはフォローするもんだろ、「ああ、そうだ。俺、学生支援センターに顔を出すからここで別れよう」
俺はそこで臼井と別れて、ひとり学生支援センターに行く。
学生支援センターとは昔で言う学生課のことで、学生の学内での業務支援を中心に仕事をしている。クラブ活動の支援管理や就職斡旋、奨学金や学生のクレーム対応などもおこなう部署である。特にうちの大学は就職率を売りにしていることもあり、学生の就職対策は他の大学よりも熱心に行っている。そんななかでも俺は落ちこぼれているのだが・・・。
支援センターの担当者は、常に学生の相手をするわけではない。求人案内を見る場合は基本的には学生がそこにあるパソコンを使って、現在の情報を探ることになる。当大学の場合、それほどいい求人が来るものでもなく、とにかく人手が欲しい会社や誰でもいいから人数だけ揃えたいといった会社が多くなる。これは就職試験の最初の段階からそういった傾向が強い。そんなわけで実のところ支援センター側も学内に来る求人ではなく、就職サイトの求人を勧めるような状況である。当然、そちらのほうが内容が充実しているのだ。
俺は支援センターで30分ばかり求人案内を探ってみるが、やはり基本はパートに毛が生えたような仕事か、あるいはブラックを絵に書いたような企業からの求人しかない。いつもどおりだ。
今朝のテレビでは俺の星座、みずがめ座の星占いは求人に縁があるようなことを言っていたが、どうやら俺がいる星は違うらしい。
さて、どうしたものかと、パソコン上にはない情報について一応事務員に訪ねてみる。
「すみません。4年生なんですが、求人はここにあるだけですか?ちょうど今来たみたいなものはないですかね?」
20歳台後半だろうか、暇そうに書類整理をしていた女性事務員が顔を上げる。
「えーと、4年生ですか?まだ就職先が決まっていないということですね」
「そうです」
何か事務員の顔が暗くなるのが分かる。俺は末期がんの患者か。
「希望の職種はありますか?」
「ああ、できればマスコミ関係で探してるんですが・・・」
さらに怪訝そうな顔になる。探すこともせずに言い放つ。
「この時期にはないですね。新聞配達ぐらいしかないです」
いやいや、お笑いコントじゃないんだから、マスコミ希望で新聞配達はないだろう、そう思って事務員を見るが真顔である。いや、いまやそういった状況だということか。
「わかりました。自分で探してみます」
「就職サイトなどを活用されるといいと思いますよ」
「はい、わかりました」
そのまま為す術もなく支援センターを後にする。
さて、ゼミの打ち上げまでにはまだ時間がある。
明日の面接も望み薄だし、いよいよ身の振り方を決めないとならない。田舎の栃木に帰るというのは最終手段だが、もうそれぐらいしかないのかもしれない。親父の知り合いの工場勤務ぐらいしかないのか、油まみれ、汗だく、外国人の世話、危険と隣り合わせのもろ3Kのブラック企業。ああ、いやだいやだ。このまま気ままな学生生活を満喫したい。
そもそもはっきり言って、俺の究極の目標は引きこもり生活なのだ。
実際、中学生の頃にはいじめもあって引きこもりに近い学生だった。そのたびに親父が俺を説得し、なんとか学校にも行くことが出来た。高校もあまり学校には行かなかったが、それでもギリギリの出席日数で卒業までかこつけた。そんな状況なので成績もよくなかった。家は極度の貧乏だったが、大学進学も親父の頑張りで行くことが出来た。どこにそういったお金があったのか不思議なくらいだ。
引きこもりを目指したいのは人との交流が苦手なこともあるが、自分の価値観と異なる人間との接触が好きではない。これは万人がそう思うのだろうが、俺は極端にその傾向が強い。それこそ人が集まる場所で、なんであんなことするんだろうと言った人間を見るとそれだけで憂鬱になる。公共道徳が守れない人、自分だけが良ければいいと言った行動を取る人、引きこもりたい自分が言うのはおかしいかもしれないが、そういった人間を見るのが嫌いなのだ。見るだけで嫌悪感が体内に充満する。よってそういう人間と交流などは到底ありえない。多分、俺と同じように感じて、親の畝をかじって引きこもってる輩はたくさんいるはずだ。日本における引きこもり数の多さは社会問題にもなっていると聞く。
親父は地元の工業高校出身で極端に大学進学に憧れていた。せめて自分の息子だけは大卒の肩書を持たせたかったようだ。今となっては大卒にどれほどの価値があるかはわからないが、親父の世代ではそう思うようだった。俺も勉強がしたいわけではなかったが、大学生活の4年間には憧れていた。俺にとって大学生活は単なる引きこもりの延長なのである。
そんな俺でも唯一好きなものはあって、小説の類、特に推理小説は好きだった。中学高校と学校や地元の図書館には通い詰めたし、文芸部にもはいって本だけは読んでいた。大学も文学部に入りたかったが、いかんせん頭がない。今や文学部と銘打っている大学はそれこそ、国立や一流私大しかないのだ。それ以外は文学部という派手なタイトルの学部を大手を振って看板に出すことは命取りになる。世間は冷たいのだ。うちの学校も文学部と言う名前ではなく人文学部である。授業の内容も文学研究なるものを歌う事はしない。一般企業受けをするような内容にカモフラージュしている。企業にとって文学をやることに意味を持っていないのだ。それよりも経理や法務関連の知識を求める。まあ、当然の流れだ。
文学部を専攻する人間の究極の目標は文筆家だと思う。かくいう俺の本当の夢は小説家だった。昔からちょこちょこと書いてはいたが、やはり基本的に才能がない。大学に入ってからも、小説を書いてみては新人賞に応募もしたが、当然落ちまくった。なまけ癖もあって数もそんなには書けなかったが、やはり才能がないということだろう。新人賞も確実に1次で落ちる。出版社事情も詳しくは知らないが、まずは出版社の編集担当の選考前の段階で落ちているらしい。数から言っても編集がすべての原稿に目を通すことは困難で、その前に委託先などが足切りをするらしいが、俺はそこで落ちているのだ。よって編集さんから声がかかるなどと言ったことは一度もない。人づてに聞いたところによると、それなりに今後に期待の持てそうな作家のところには、編集者から連絡が来るそうだ。俺にはそういった経験は皆無だった。
そんな俺だったが、昨年の夏にある出来事が起きたのだ。これが俺にとってのすべての元凶だった。言い換えればそれがあったために現在就職も出来ずにいるのだった。
2
あれは就職試験も敗戦必至の7月頭のことだった。春先に応募した新人賞の落選が決まったようで、それをそのまま小説投稿サイトへ掲載することにした。
こういったサイトからでも一定の評価がもらえれば小説家デビューが出来るようで、実際、本屋大賞まで行きそうな作家もそういったところからデビューしているらしい。
まあ、一次で落っこちた作品が評価を受けることもないとは思ったが、ダメもとで掲載したのだ。また、投稿サイト側ではそういった小説を載せることに問題はない。スマホを使って非常に簡単に作業できるのも便利だ。自分の小説がどのように評価されるのか、作家として読者の反応が直に見ることが出来るのも面白い。
しかしながら、こういう投稿サイトで人気があるのは、どうやらライトノベル系のいわゆる異世界ものが花盛りなのだ。俺が書くような本格ミステリーは、いまいち受けが悪い。さらに元々、面白くないのか、掲載した後も読者数も極端に少なく、やはり一桁の評価だった。
まあ、そんなものなのかと諦めていたところだったが、サイトに登録してから1カ月が過ぎたころに突然、俺宛にメールが送られてきたのだった。
希望文庫という聞いたことがない出版社だったが、なぜか俺の小説に興味を持ったそうだ。一度、会って話をしたいとそこの編集の人間が言ってきた。
気を付けないといけないのがこういった話には裏がある。会ってみると自費出版のお誘いだったり、出版に当たって一時金が必要だとか、そういった詐欺まがいの事案もあるようだった。それでその編集に何度も確認するとそういうことではないという。純粋に俺の作品が気に入ったというではないか、それで物は試しと会うことにした。
通常、その希望文庫社で会うものだと思ったが、アパートの近くに来る用事があるとかで、先方の編集者が近くのファミレスまで来てくれた。
駅から歩いて数分のところにある低価格で売りのファミレスに俺が入ると、メールにあったとおりに入り口付近の座席に、いかにもと言った背広を着た黒縁眼鏡の中年男性がいた。前もって話があったように背広は紺色ということですぐにわかった。このファミレスにそういった格好の人間は極端に少ないのだ。学生か作業服の人間、もしくは有閑マダムが主な客層だ。
「大村さんですか?」
男は俺に気が付いていたようで、席から立つとお辞儀をしながら話す。
「はい、大村です。長谷川さんですね」
満面の笑みでそう言いながら、名刺を出してきた。名刺には希望文庫、大村敦とあった。
俺はドリンクバーでアイスコーヒーを取る。そしてその大村と打ち合わせに入る。彼はすでに食事を済ませていたようで、テーブルには何かの食べかすが残っていた。
「メールや電話で話をさせていただいたように、長谷川さんの小説を当社から出版できないかという依頼になります」
「えーと、電話でも確認させていただいたように、私の方から金銭の拠出は不要なんですよね」
「はい、もちろんです。長谷川さんから提供していただくのは小説のみでございます。まあ、出版に当たっては幾分手を入れて頂く必要はあります」
「はい、それは当然だとは思っています」
素人の小説が、そのままの形で出版されることはないというぐらいは理解している。
「また、出版後の印税などについては弊社の規定に則って進めさせていただきます。弊社の場合、いわゆる出版社の相場といったものから、大きく逸脱するものでもないのでご安心ください」
あらかじめ大村から送られてきた希望文庫の規定については目を通していた。
「御社の規定によると、印税は販売価格の10%とあります。それでいいんですか?」
「ええ、そうです。仮に700円で本を出版した場合、10万部売れたとして700万円が作家さんに支払われます。100万部だと7000万円になりますね」
税金も取られるのだろうが、にわかには信じられない高額である。まあ俺の小説がそんなに売れるはずはない。それは俺が自信を持って言える。
「もし、仮に全然売れなかった場合はどうなります。何かペナルティのようなものはあるんでしょうか?」
「いえ、そういったものは弊社側で負担します。まあ、実際、売れ残ったりする本もありますから、それは処分するしかないんですがね。あと映画化やアニメ化、もしくはコミカライズされるようなことになれば、その時は別途、ご相談させていただきます。決して弊社側が勝手に作業するようなことはありません」
ここまで聞いて増々、怪しい気がしてきた。大手出版社ならまだしも希望文庫なる出版社だぞ、そんな大手並みの対応が出来るのか。
「あの、失礼ですが御社からすでに発行されているような本はあるんですか?」
この話には大村は少し困ったような顔になる。
「はい、そうですね。実は弊社はこれからといった出版社なんですよ。社長の吉岡は大手の出版社を今年になって独立し、年内を目途に出版業界に殴り込みをかけるといった状況でして、はい、ここだけの話ですが、本屋大賞ノミネート作家の出版も予定しているところなんですよ」
「それは誰なんです?」
「申し訳ありません。それについては今申し上げるわけにはまいりません。今しばらくお待ちください」
どんどん胡散臭い話にはなるが、俺としては何も痛むものがないということだから、良いのかとも思う。
「あと契約書とかはあるんでしょうか?」
「はい、実は出版業界には作家と出版社で明確な契約書はないんです。昔からの伝統と言いますか、そういうことになっております。口頭でのお約束になりますね」
それについては聞いたことがあった。確かにそういうもののようだ。
「わかりました」俺は断る理由もないので了解する。
「あとですね。一点、お願いがあります」
ほらなんか言って来たぞ。いよいよ詐欺かな。
「今、投稿サイトに掲載されている小説を撤回していただけますか。その上で弊社は編集作業に入ります」
「ああ、そうですか、載せたままだと何か問題でもありますか?」
「そうですね。今後、発売された場合の売り上げに影響しますので」
「ああ、なるほど。わかりました。早速、掲載をやめるようにします」
「はい、よろしくお願いします」
「とまあ、こういう話なんだ」
俺は夜の居酒屋にいる。今はまさに青山ゼミの打ち上げ真っ最中である。宴もたけなわ、打ち上げに参加したメンバーからの素朴な質問で、なぜ、俺が就職していないかを説明しているのだ。
宴会場は多摩センター駅近くの居酒屋(鍵や)である。うちのゼミは20名近くいる比較的大きな集まりになっている。ここはちょうどその人数が収まる個室宴会場があり、重宝している。
例のゼミの華、今村澪は俺の向かいの席に座り、先ほどからこの話に聞き入っている。
「それで長谷川君はその小説をサイトから削除したんだ」
「うん、そうした」
「希望文庫だよね。サイトはあるの?」
「一応、あったんだよ。ほらここに」俺はそう言ってスマホを見せる。
サイトには新規の出版社として希望文庫社のホームページが存在していた。住所や連絡先などの記載もある。
ゼミのみんなも確認して、納得したようだ。
「それでその後、その出版社はなんて言ってきたの?」
「俺の小説だと。枚数が不足するんであと100ページ分、追加するように言ってきた」
「原稿用紙換算なの?」さすがは出版社内定の今村だ。質問が専門的だ。
「えーと、原稿は40×40で書いていたんで、原稿用紙換算ではないんだ」
「それで100枚か、それは大変だね。相当、書き足さないとならないね」
「そうなんだよ。それでその後、一カ月かけて100ページ分追加したんだ」
「そんなに大変なのか?」俺の隣の席に胡坐をかいて座る臼井がほとんど開いてないようなとろんとした眼で言う。臼井君、飲みすぎだよ。
「書いたことあるならわかるけど、その分量は大変だよ」
さすがは今村さん、わかってくれてる。
「今村さんも書いたことあるの?」
「まあね。でも早々に諦めた。私にはとても作家になれるような才能は無いのがわかった」
「えー、今村さんならいけるんじゃないの。だって大手出版社内定だもん」臼井が呂律の回らないしゃべり方で今村さんに向かっていく。彼女はそれを避けるようにしながら、
「小説家の才能は持って生まれたものだと思うよ。東大出身者が作家になれるかっていうとそうでもないもの。むしろそういったところとは違った才能だと思う」
「へー、そんなものか、じゃあ真治にはそういった才能があったってこと?」
話がおかしな方向に行ったので、今村さんは露骨に迷惑そうな顔をしながら、
「それで長谷川君はその後、どうしたの?」
「希望文庫に修正した原稿を送ったのが8月末で、その後、また原稿の追加修正依頼が来たんだ。今度は内容を倍にしてくれって」
「何なのそれって?」
「いや、大村氏が言うには内容によくわからない部分が多いから、もっと詳細に膨らませるようにって指示が来た」
「うそでしょ、そんな曖昧な指示ある?」
「そうなんだよな。多分、だまされたんだと思うんだけど」
「俺もマッチングアプリで知り合った女に、ぼったくりバーに誘われたことがあるけど、そういう詐欺だな」と臼井が話に加わる。
「いや、それとは違う気がするな」俺はやんわりと臼井に拒否感を見せる。
「でもさ、騙したにしてもどういう意図なんだ?誰が得するんだよ」それでも臼井が懲りずに会話に加わる。
「うん、誰も得しないんだよな。俺だけが就職できないというマイナスが残った」
「じゃあ、それが目的だ」
「え、そうなると単なるいたずらなのかな。俺の知り合いの?」
「長谷川君の知り合いでそんなことしそうな人っているの?」
「いないと思うよ。元々知り合いが少ないから、あえて言うなら・・・」そう言いながら俺は隣の臼井を見る。臼井は今にも眠りに落ちそうな真っ赤な顔をしているが、もはや自分が疑いをかけられていることにすら気づけない状態だった。今村が質問する。
「ふーん、で、その小説の中身ってどういうものなの?」
この段階で臼井はついに撃沈したようだ。テーブルに顔を付けて眠りに入った。
「今村さんは日本の埋蔵金伝説って知ってる?」
「埋蔵金、そんなものあるの?」
「うん、日本三大埋蔵金って言うのがあるんだ。豊臣秀吉の埋蔵金、徳川の埋蔵金、そして、結城埋蔵金なんだけどね」
「へー、面白そうね」
「それを埋蔵金ハンターが発掘するっていう話なんだよ」
「でもそれは実話から来ているんでしょ」
「埋蔵金の伝説は実話だよ。それぞれ言い伝えがあってそれを実際に掘り当てようとした人もいるんだ。俺は適当に新解釈を加えて財宝を見つけようって言う話にしたんだ」
「面白そう」
「でも、新人賞は一次も駄目で、投稿サイトに載せた段階でも評価してくれたのは数人だった」
「でも、その出版社は興味を持ったんだ」
「そうみたい」
「ちょっと読んでみたいな。見せてよ」
「まじ?つまんないと思うよ。絶対」
「いいから送ってよ。私のメアド教えるね」
「わかった。じゃあ送るよ」
なんか今村のアドレスを教えてもらえたこともうれしかったが、彼女が俺の小説を読んでみたいと言ってくれたことがものすごくうれしかった。まあ、評価はされないんだろうけど・・・。
「ところで今村さんは出版社に入ったらどういった職種に付くの?」
「それはまだわからない。配属は研修が終わってから決まるみたい」
「希望はあるんでしょ?」
「まあね。編集希望だけど、うちの学校じゃ無理じゃないかな。総務か営業事務辺りかもしれない」
「そうかな。最近は学歴じゃないような話も聞くよ。今村さんならいい編集者になれそうだよ」
「嘘でもそう言ってもらえるとうれしいな。じゃあ、いつかは長谷川先生の担当編集になれるかな」
まさに俺にとって夢のような話だった。間違ってもそんなことは起きないとは思うが、夢は見ないことには始まらない。
「うん、俺もそうなれば最高だと思う。ああ、話は変わるけど・・・」
今村さんがきょとんとした顔をする。こういう顔も実に絵になる。
「こんな質問は失礼かもしれないけど、今村さんならもっといい大学に入れたんじゃないかと思うんだけど・・・」
「ああ、その話か、実は私は受験が苦手だったの。試験会場に行くと妙に緊張しちゃうっていうか、一種の精神障害みたいな感じかな。あと、文学部志望だったからいい学校はそれなりに偏差値も高いしね。それとうちの大学って私の自宅から近いから、それもあったの」
「そうなんだ。今村さんが精神的に弱いって言うのは意外な気がするね。強そうに見えるけど」
「歳とともに徐々に変わってきたかな。今は大丈夫になった」
人には色々な悩みがあるのがよくわかる。彼女のような才女であっても躓きはあったのか、俺なんか躓きっぱなしだけど。
宴会は終了となって2次会に行く連中もいたみたいだけど、俺はこれから就職試験も続くので早めに切り上げてアパートに帰ることにした。まあ、今村さんも帰宅するというのでそれもあった。元々、仲間とワイワイやるというのもあまり得意ではない。酔いつぶれていた臼井は宴会終了時にむっくりと起きだして2次会に向かっていった。あいつのバイタリティを少しは見習いたい。
俺は一人で歩いて多摩センター駅まで向かう。時刻は午後9時過ぎでまだまだ周囲は宵の口と言った雰囲気だ。この駅は京王線、小田急線、多摩モノレールが乗り入れており乗り換え客も多く、この地域では最も発展している駅かもしれない。周辺には店舗も多いし、ビルもたくさん建っている。さらにはサンリオピューロランドも近くにある。まあ、そこには行ったことは無いけど・・・。
それと先ほどの宴会では話さなかったが、俺には出版依頼以外にも気になることがあった。その依頼が来た前後からだが、何故か人の気配のようなものに気づくことが増えた。気のせいだとは思うのだが、誰かに見られているような、あるいは尾行されているような、そういったことを感じることが増えたのだ。臼井には話したことがあるが、彼が言うにはそういうのは一種の精神障害だそうだ。人に見られていると感じるのは統合失調症といって立派な病気らしい。確かに色々な心労が重なっているから、そんな気もするのかもしれないなとは思う。
そして駅に向かう道すがら、今も後ろから付けられているような気がしていた。酒に酔っていることもあって増々そんな気になっているのかもしれない。気になって後ろを見てもやはり誰もいない。酔っぱらって千鳥足で歩く背広姿の勤め人はいるが、俺を尾行しているような人はいないのだ。いよいよ、病院にでも行った方がいいかもしれないと思い出す。
そんなことをつらつらと考えながら多摩センター駅に着いた。この駅は高架になっており、ホームまで行くにはけっこうな階段か、エスカレータを利用することになる。この駅が出来た当時は土地もたくさん使えたので、駅も壮大にしたかったのだろうか。
ホームに立つと9時過ぎという時間のせいもあって人はまばらだった。
そこへちょうど特急電車が到着した。
都心からくる電車だとそれなりに降りる乗客は多い。この周辺はベッドタウンである。時間的にも会社帰りといった人間が多いのだ。降りてくるサラリーマン風の人間は軒並み顔に疲労感を漂わせている。
俺のアパートはここから隣の駅までいくのだが、そこに特急は止まらないので、この電車は見送る。そして考える。会社勤めとなるとこういったラッシュも経験しないといけなくなる。人混みは最も嫌悪する事項でもあり増々憂鬱になる。会社で疲れてラッシュでも疲れるとは信じられない。やはり理想は家で引きこもって仕事のできる作家業である。希望文庫に騙されていることは確実なのだが、どこかに一縷の望みを託してしまう。芥川のクモの糸のように細い糸でもすがりたくなる。
数分待って、ようやく各駅電車が来た。隣の駅なので一駅のみだが、多摩センター駅からでも歩かないで乗ることが多い。一駅の区間が長いこともあるが、通学定期もあるし、歩く元気がない。
さらにはバイト先も多摩センター駅なので通勤代がでるのだ。学生定期を持っているので二重取りなのだが、バイト先に聞いてもそれは構わないそうだ。通勤代は手当の意味合いが強いとのことだった。それで遠慮なく定期を使っている。自転車で通学している連中も多いが体力のない俺にはとても無理だ。この一帯はとにかく坂が多い。電動自転車などは高額で最初から却下だ。
電車が徐々に近づいてくる。俺は常々、空いていそうな最後尾に乗る癖がついているので、ホームの後部側に立っている。電車が減速を始め、先頭車両が俺の前を通過しようとする瞬間、いきなり俺の腕が掴まれた。何事だ。さらに激しく引っ張られて、ついに俺はホーム上に転倒してしまった。そしてさらにとんでもないことが起こった。誰だかわからないが俺の後ろから走るように車輛に飛び込む人間がいたのだ。
電車はすさまじい音を出しながら緊急停止する。激突の音なのかなんの音かよくわからないが鈍い音が響く。もしかすると今の音は人間が・・・した音。そして飛び込んだ人間は明らかに車輛の下にいる。やばい、これは見てはいけないものだ。初めて人身事故に遭遇してしまった。
電車はそれなりの速度で走っていたので、もちろん止まれるわけはない。結局、その後も数十メートルは走り続けていった。
ホームにいた乗客たちは恐る恐る車輛の下を覗き込む。これはホラー映画を見たい心境と一緒なのか、俺には無理だ。なんとスマホで撮影しているやつもいる。まったくどういう神経なのか。
そしてふと我に返る。あまりのことに動転していたが、先ほど俺の腕をつかんだやつはどうなったのか、ここで周囲を見渡すが、近くにはそれらしい人間はいない。ひょっとすると飛び込んだ奴が俺を押しのけたのだろうか、あまりのことに状況が呑み込めていない。
止まった電車から運転手が降りてきて、車両の下部を確認している。さすがに顔色はよくない。車掌や駅員も続々とホームに集まってくる。
さて、俺としてはこのままここに留まっている意味はない。人身事故だとこの後、約1時間以上は動かなくなるだろう。そう思って駅から出て歩くことにする。
しかし、とんでもない経験をしてしまった。この体験を小説に反映できないものか、そんなことを考えながら坂道だらけの自宅まで歩いて帰った。