2話
それから一年ほど後、新しい英雄候補がミデアに現れた。アンピアの丘に住み着き人々を襲っていた怪物キマイラを自慢の戦鎚で倒して名を上げたその若者の名はペイディアスといった。
ペイディアスはもともとはローデに憧れて冒険者になったミデアの地元の若者だ。一時期はローデの周りに集まっていた取り巻きのひとりでもあった。ローデは戦いの才能があるペイディアスをとくに可愛がっていたのだ。
彼はアルラトゥとの戦いでローデの名声が地に落ちたあと、いつの間にかローデの元を離れていた。その後、エルフ族との戦いにも参加して大いに戦果を挙げたペイディアスの存在は、アルラトゥによって傷ついたミデアの人々の心を大いに癒やして希望を与えた。
ある時、ミデアの酒場でローデが飲んできた時、たまたま他の冒険者と共に戦鎚を背負ったペイディアスがやってきた。
ペイディアスはローデの存在に気がつくと、そのテーブルに近づきローデの酒杯を取りあげると言った。
「何をしているんですか、あんたは……」
「何って?」
連日の深酒が染みついた顔に薄笑いを浮かべながらローデは、ペイディアスを見上げた。
「この有様はなんです?」
ペイディアスは端正な顔の眉を吊り上げる。
「俺がどこで何をしようと俺の勝手だろう」
ローデはなんとか傷ついたプライドを取り繕おうとつとめたが、その声は震えていた。
「あんたは俺に冒険者としての生き方を教えてくれたはずだ。あんたにはそれを貫く義務がある」
「俺にどうしろってんだ」
「リベンジしてください」
「何に?」
「アルラトゥにです。あんたが逃したせいで街の人々は大変な目に遭ったんだ」
「俺のせいじゃねぇよ。あんなの誰も倒せやしねえ」
「いや、あんたのせいだ」
「こんなオッサンほっとけよ。見るからに負け犬じゃねぇか」
ペイディアスと共にいた冒険者は言った。最近名前が売れてきた冒険者なのかもしれない。見たことのない若者だ。
「うるせぇ! お前に何がわかる」
ペイディアスはその冒険者にそう怒鳴ると、もう一度ローデのほうに向き直った。
「先日、他の冒険者たちの追跡によって、アルラトゥの巣はイデュイア山の麓にあることがわかりました。俺たちは討伐団を組んでイデュイア山に向かうつもりです。あんたに冒険者としてのプライドが少しでも残っているなら十二日後の早朝、太陽が昇る時刻に南門に来てください」
ペイディアスは言うだけ言うと、ローデの返事を待たずに踵を返した。うつむいたままのローデの耳にはペイディアスたちが立ち去る足音と戸を閉める音だけが聞えた。
「ちくしょう……」
ローデはテーブルの上でこぶしを握り締めた。恐怖が脳裏によみがえる。アルラトゥが恐ろしかった。
漆黒の古龍はあたりを炎で埋め尽くしたとき、一瞬だけローデがいるほうを向いた。底が見えぬほどに深い穴のような目。その目は何かを見ているようであっても何も見ていなかった。ローデのことなどまるで気にしていなかったのだ。
逃げることもできない。足がすくんで動けなかった。アルラトゥは周辺のミデア軍を焼きつくして街を破壊すると、夜空を貫くような甲高い鳴き声だけを残して飛び去った。
あの声、思い出しただけで背筋が寒くなる。アルラトゥと対峙した者で生き残ったのはローデだけだった。だからあの恐怖は奴らにはわからない。誰にもわからない。
ローデは酒場を出て、酔ったまま夜の街を彷徨った。夜の風に押されるままに、いつの間にか街の外に出ていた。しばらく歩き、水が流れるささやかな音が聞えてくると、小さな川に達した。そのまま川沿いを暗い森に入った。イオナに会いたいと思ったのだ。あわす顔がなくてあれからイオナに会っていない。イオナは今の自分を見ればどう思うだろうか。
夜明け前にイオナの家に着いた。樫の大きな木の下に、イオナの小さな庵は在る。扉を叩くことをためらい、そのまま扉の横で座りこんで目を閉じた。
目が覚めた時、毛布が被せられていた。毛布からはかすかにラベンダーの匂いがした。懐かしいイオナの香りだ。ローデはそっと扉を押し開けた。甘く暖かい空気があふれ出てローデを包んだ。
「久々よの」
食事の支度をしていたイオナはやわらかい声と視線をローデに向けた。
「ああ」
声がかすれた。それだけを発するのが精いっぱいだった。
「背中を押されに来たか? それとも」
「自分でもわかんねぇんだ」
ローデはそう言うと、テーブルの干し無花果をつかんで口にした。
「そなたがアルラトゥと戦ったことは我がそそのかしたことゆえ、責を感じていた」
「関係ねぇよ。自分で決めたことだ。それで力がなくて負けた。それだけのことだ。後悔があるとしたら……」
そこまで言ってローデは気づいた。そうだ。俺が悔やんでいるのは、アルラトゥに挑んだことでも負けた事でもない。後悔しているのはあの時、アルラトゥに呑まれて何も出来なかったことなんだ。
「やはり、もう一度戦わなければいけないな」
ローデはひとりごとのように呟いた。そうしないと自分は永遠に前に進めない。