淀みの先にあるものは……
明るいテンポで話は進みますが、最後はダークかも。センシティブな内容が含まれるので、苦手な方はお避け下さい。
「あんたの男、浮気しているらしいわよ。だから言ったじゃないの。もっと小綺麗にしろって!」
食堂の女将さんが酷く腹を立てながら、人夫服の若い女性客の前にランチの載ったプレートを音を立てて置いた。
グラスの中の水が少し溢れた。
「だけど、がっかりだね。あの男は! 父親とは違って良い奴だと思ってたんだけど、やっぱり血は争えないね。いや、男なんて皆おんなじなんだね!」
この店の旦那さんが厨房の中で情けない顔をしているのが見えた。
この食堂の旦那さんは若い頃散々女遊びを繰り返していたそうだ。
何度目かの浮気がばれた後、怒り狂う女将さんに対して、旦那さんはこう言ったらしい。
「お前がお洒落もせず、いつも体に油の臭いを付けててさ、女の魅力がないから悪いんだぜ。だから小綺麗でいい匂いのする女に誘われてついコロッといったんだ。
俺が他の女に目移りするのはお前のせいだ」と……
それを聞いた女将さんは息子を置いて家を出て行った。
しかしすぐに戻ってくるさと旦那さんは高を括っていた。女将さんは息子を何より大事にしていたし、家事や店の仕事に対する責任感も強かったからだ。
ところが一週間経っても十日経っても女将さんは戻ってこず、旦那さんは慌てた。
家や息子のことだけでなく、食堂も女将さんがいないと回らなかったからだ。
旦那さんは街中女将さんを探し回って、ようやく見つけ出すと、謝りもせずに店へと無理矢理に引きずって行った。
しかしその後まもなくして、旦那さんは一時的に店を閉めることになった。
何故ならお客さんのクレームが半端ないほど多くて、その処理に対応できなくなったからだ。
以前の女将さんなら注文を聞いて料理を運び、食べ終わった食器を片付けてテーブルを拭く。流れるようにスピーディーにテキパキと動いていた。本当に働き者だと評判だった。その上愛想がよくて親切で。
しかし二週間ぶりに連れ戻された彼女は優雅にのんびりと注文を聞き、料理はまあ普通に運ぶが、食べ終わった食器を運ぼうとはしないし、汚れた食器も洗わなかった。
何故なら手が汚れるし荒れるから。そして優雅に動いていたのはお洒落なドレスが動きにくいから。
そして極め付きだったのは香水の甘い香り。そんなものをプンプンさせていたら、食事が不味くなる。
安くて旨くて早い。
それが評判の人気店だった。
しかし味と値段は変わらなくても、料理が出てくるのは遅いし、いつまでも汚れた食器は置きっぱなしだし、不愉快な香水の匂いはするし、女将さんは愛想がないし、旦那は不機嫌だし……
次第にお客さんの足が遠退いていった。そしてそんなある日、常連客だった男性が女将さんに尋ねた。何故そんなに変わってしまったのかと。
すると女将さんはこう言った。
「私は親の反対を押し切って駆け落ち同然で旦那と結婚したんだ。だから好きな男のためだと思って身を粉にして働いてきた。
でもね、旦那は私を嫌いになったんだって。私はお洒落もせず、いつも油の臭いをさせていて、女の魅力がないからだって。
旦那には私への愛がもうなくなっていたんだ。今頃ようやくそれに気付いたのよ。それに別に愛する女がいるなら仕方ないと、私は身を引くつもりで家を出たんだ。息子は落ち着いたら迎えに行こうとね。
でもね、今更親元の所へも戻れないし、どうしたものかと思っていたら、旦那が探しに来てくれたんで家に戻ったのさ。おそらく愛情はなくなったけど情は持っていてくれたんだねと感謝したよ。
だから、旦那に嫌な思いをさせちゃ悪いから、せめて今度は旦那の好みになろうと思ったのさ。
お洒落をして女らしく優雅に動き、油の匂いがしないように香水振りかけて……」
女将さんはしおらしくこう言ったが、それが彼女の復讐だということは、その常連客だけでなく、旦那さんにもわかった。
しかし、女将さんの言葉を鵜呑みにして聞いていた者も多く、女将さんは健気で旦那思いで女性の鑑。
それに比べて旦那の方は糟糠の妻をあっさり捨てた上に、働き手が欲しくて縛り付けておく最低なクズ夫だと評判が立ったのだ。
その後旦那さんは平身低頭して許しを乞うた。しかし、女将さんは自分の真心を裏切った旦那さんを到底許すことはできなかった。
旦那が自分に求めているのは、そう、噂通り働き手としてだ。冗談じゃない。
女将さんは離婚を要求して、今度は息子を連れて家を出て行った。ただしその後は一従業員として、以前のように明るく元気にテキパキと食堂で働くようになった。
安くて旨くて早い……
しかも元気で明るくて親切で、しかも以前よりずっと綺麗になった雇われ女将さんのおかげで、お客さんはその後徐々にお店に戻ってきた。
妻を無くした旦那さんは、浮気相手に自分と結婚をして家のことをして欲しいと頼んだ。
しかし今までは不要だった妻への手当と子供の養育費を支払うことになって、旦那さんは自由になるお金が少なくなった。その結果旦那さんは、浮気相手にはすぐに見限られて捨てられてしまった。
旦那さんは仕事で疲れて帰ってきてから自分で家事をしなくてはならなくなった。旦那さんはすぐに音を上げて寄りを戻してくれと元妻に懇願した。
すると女将さんは言った。
「今まで私はそれを一人でやってきたんだよ。しかも子育てをしながらね。だから、あんたにだってできるよ。頑張りな!
私はようやく自分の時間とお金を持てるようになったんだから、それがたとえわずかでも、これからは少しでもお洒落をして楽しむさ。
まあ、私は元がいいからね、少し磨けば恋人の一人二人すぐできるだろう。もう誰とも結婚する気はないけれど、今度は貢いでもらう側になるつもりだよ!」
旦那さんはヘナヘナと店の床に座り込んだのだった。
その後旦那さんは心から反省して、雇われ女将となった元妻にせっせと贈り物をし、愛想を振り撒き、彼女以外の女性と付き合うことはもうなかった。
女将さんも結局口だけで男遊びをすることはなかった。ただ女磨きは欠かさなかった。
四十代になった今でも彼女はとても美しく、絶えず男達に言い寄られていて、旦那さんをやきもきさせている。
人夫服を着た若い娘は、この店の旦那さんと女将さんの事情をよく知っていた。
だから怒る女将さんときまり悪そうにそっぽを向いている旦那さんの顔を見比べて、困ったように苦笑いをした。
この娘の今は亡き両親と、この食堂の元夫婦は若い頃から親しく付き合っていた仲だった。
なんと彼らが駆け落ち同然で隣国からこの国に逃げる時、両国の境にある川の渡しの船頭をしていたのが娘の父親だった。そして、右も左も分からない二人の面倒を何だかんだと見てやったのが娘の母親だったのだ。
そしてその後両親が亡くなって、幼い弟を抱えて途方に暮れた彼女を助けて面倒を見てくれたのが、この女将だった。昔の恩を返すよと。
女将さんは本当はこの恩人の大切な娘をこの食堂で働かそうとしたが、彼女の一人息子が反対した。
それで近所の運送屋を紹介したのだ。息子もそこで働いていたので、野郎だらけの職場でも、まあ、彼女の身の安全は守れるだろうと。
息子は何故か幼い頃からやたら体を鍛えていたし、喧嘩も強かったので……
その女将の息子とその娘は幼馴染みだった。しかも、お互いに複雑な家庭環境で育っていたので、何かと助け合っているうちに自然に恋人同士になっていた。
『父親とは正反対の誠実で優しい息子だから、あんたの娘を幸せにすると思うよ。だから安心して……』
そう、女将さんは娘の母親の墓に最近参ったばかりだった。それなのに……
女将さんがカンカンに怒っている時に、その話題の彼女の息子が調理場のドアから顔を覗かせた。旦那さんは中に入って来るなと、慌てて彼の息子に合図を送った。
しかし息子は平然とした顔で、食材の入った箱を抱えて入ってきた。そしてその荷物を床に置くと、恋人に向かって手を振った。
すると愛しい恋人は他人には決して見せない奇麗な笑顔を彼に見せた。
そう。息子は浮気などはしていなかった。彼は幼い頃から彼女一筋だったのだから。
息子の恋人は、美人と評判だった彼女の母親に瓜二つの美人だった。しかも頭が良くて優しくてしっかり者。そしてちょっぴり気の強いところも彼は気に入っていた。まあ、最後のは誰にも言わないが。何故ならマザコンだと勘違いされそうだから。
彼は恋人のことが大好きで大切だったから、彼女の父親や自分の父親と同じ轍を踏むつもりは絶対にないのだ。
彼女の父親は美人の妻を他人に見せびらかし、自慢したいがために妻を危険な目に遭わせた。なんの予防対策もせずに。
その結果、妻が誰の種かわからない子を身籠ると、今度は妻を責めていびり殺し、自分もやけになって後を追うように死んでしまった。幼い子供を残して。
そして自分の父親も同じようにクズだった。自分を愛して尽くしてくれていた妻に感謝するどころか、妻を侮蔑して蔑ろにして浮気した。しかも、妻へ詫びるどころか自分のためだけに復縁を迫るような身勝手な男。
間近でそんな男達を見てきたのだ。息子が彼らを反面教師にするのは当たり前のことだった。
彼は恋人が外出する際には、体型がわからないようにブカブカの男物の服を着せて、美しい金髪は大きめのハンチング帽の中にしまい込み、顔を汚させた……
しかしそのような格好のまま食堂で働かせるのはさすがに無理だ。だから自分と同じ仕事に就かせた。幼い頃から渡し舟の荷下ろしをしていて、彼女は見かけによらず力仕事を得意としていたから。
しかし年頃の彼女をいつも男のような格好ばかりさせておくのは可哀想だ。だから、仕事で隣国へ行った際は普通に女性の格好をさせてデートを楽しんでいるのだ。
それを今回知人に見られたというわけだ。
「あの男が連れていた女って、凄い美人だったんですって。でも負けちゃだめよ。あんただって磨けば凄い美人なんだから! それに力じゃ負けないから、一発殴ってやりなさい、そんな泥棒猫。脅せば消えるよ。そんな女。
あの男はほら少しいい男だから、女がほっとかないんだよ。でも浮気はしていないよ、絶対に! あれは父親とは違うから」
息子のことに腹を立てながらも息子を信じている母親に、若い二人は顔を見つめ合って笑った。
✼✼✼✼✼
この娘がまだ幼い頃、川べりのあの船着き場近くの質素な小屋で、彼女の母親は屈辱的な目に遭わされた。
相手は隣国へ遊びに向かおうとしていた不良少年だった。おそらくまだ十三、四歳だったろう。まだ七歳だった彼女から見ても少年だということがわかった。
しかしいくら少年だとはいえ、彼にはお付きの年上の護衛達が付いていて数人ががりで押さえつけられたので、母親は逃げようがなかった。
父親がいない時は絶対に天袋から出るなと厳しく言われていた彼女は、ただ震えながらじっとしているしか術がなかった。
もしやめてと母親の元へ行っていたら、おそらくたとえ幼かろうが彼女も同じ目に遭っていただろう。彼らの目は狂気に満ちていたから。
あの日からずっと、彼女は大きな川の端の淀みに留まっていたが、今ようやくそこから抜け出そうとしていた。
愛しい恋人のおかげで。
そして守るべき年の離れた弟と、応援団長のような女将の存在のおかげで。
間もなく淀みから抜け出し、やがて弟を大海へと連れて行くことができるだろう。私にはあの日あの場所に落とされていた指輪があるのだから。
そう。王家の紋章付きの金の指輪が……
そして大勢の衆人の中でその指輪を身に着けた、己と瓜二つの少年を見た時、かつての不良少年がどんな顔をするのか早く見てやりたいものだ。
できればその男の結婚式……いやそれでは花嫁さんにあまりにも気の毒だから、婚約発表あたりにできれば理想だな……
計画は順調だ。
彼女はそんな情景を思い浮かべて、恍惚とした妖しい微笑みを浮かべたのだった。
短くまとめたいと思いつつ、いつも長めの短編になってしまうのですが、ようやく約五千文字くらいの短編ができました。
しかも内容は珍しくダークかも。
幼い頃に見た怖い夢(時代劇の殺人シーンのような……)が元ネタですが、よくもこんな夢をみたもんだと驚きです。あまりにもショックで忘れられませんでした。
読んで下さってありがとうございました!