▼4階・エレベーター内
▼4階・エレベーター内
――チンッ。
4階に到着したエレベーターのドアが開ききる。
舜平は固唾を飲んで、動静を見守った。
しかし、老婆は動き出そうとしない。
「……4階、4階ですよォ」
と、老婆だけに聞こえるように声をしぼり、それでも誰に言うわけでもなく虚空に目を泳がせてささやくが、ごくごく狭い空間である。ヨシオカ・ナツキの耳にもその声は達していたようで、視界の隅で眉をひそめる彼女の顔が見えた。
ヨシオカ・ナツキには、老婆の姿がどういうわけか見えていないのだ。5階で老婆が乗り込んで来てからの舜平は、とてもとても不可解な挙動をとっているものと認識されていることだろう。
くそっ。
4階で降りるんじゃねェのかよ、このババア!
早くしないとドアが閉まってしまう。これ以上不審な動きをしたくないので、『開く』ボタンは押したくない。だが、想い虚しく、扉が両側から閉まりはじめ、ボタンを押さざるを得なかった。
すかさずヨシオカ・ナツキがつっこみを入れてくる。
「乗ってくる人、いないけど。なんでドア閉じないの?」
トーンを落とした声音で言いながら、奥壁の中央付近にいた彼女が、舜平のいる操作パネルのある角とは対角線上の角へと、横歩きで居場所を移していく。
あからさまに警戒されているが、もう少しの辛抱だ。老婆がこの階で降りてさえくれれば済む。そうあって欲しい。
だがしかし、老婆が動かない。
ぜんぜん降りようとしない。
なぜだ!
「4階に着きましたよ、お婆さん!」
「お婆さん、お婆さん、って……さっきから何?」
角にすっぽりと背中を押し込んだヨシオカ・ナツキが舜平の視線を追うが、彼女には開かれっぱなしのエレベーターしか映っていないのだろう。つぶらな瞳がキョロキョロとするばかりだ。その両眼が「ひょっとして……」と舜平を捕捉しなおし、訝しげに細められる。
「お婆さんの幽霊が乗ってるなんて、言わないよね?」
「幽霊なんて言うなッ!」
舜平は食ってかかるように上気する。
「認めざるを得なくなるだろうがよ! 違うんだって! 幽霊なんかいねェからな! だからここにいるのは、おまえの目には見えないババアって、ただそれだけのことなんだよ! 今降りるっつゥーんだから、べらべら喋ってないで黙って待ってろ、わかったか!?」
まくし立てたあと、マズった、と口元をおおう。
ヨシオカ・ナツキの眼差しには、もはや明確な敵意が宿っている。腕を縮めて、黒猫のポーチを胸元でぎゅっと抱きしめていた。さながら捕食者に怯える小動物であるが、それでいて、かわいそうな人を目の当たりにしちゃった、というようなイタイタしい雰囲気も醸している。
「そういえば~、精神科って、たしか4階じゃなくて3階にあったっけな」
と、視線をそらした彼女が苦笑いを浮かべながら、なぜか独り言ちた。
……やめてくれ、俺の精神は正常だ。
世にも奇妙な光学迷彩ババアがとっとと出ていきさえすれば、それで終わる――と、ドア口に顔を戻した直後、舜平は「うォォォいっ!?」と、素っ頓狂に叫んで側壁にへばりつく。対角線上にいるヨシオカ・ナツキが、唐突な大声に驚き、ビクっと肩を震わせるがフォローを入れる余裕はない。
石のように動く気配のなかった老婆が、いつの間にか、舜平の方へと体の向きを変えていたのだ。腰が折れ曲がっているため、白髪の頭が腹付近にあり、視線を落とすと、手入れの行き届いていないしわくちゃの頭頂部だけが見える。そして老婆は顔を上げないまま、
「……サン……サン……サン……サン……」
と、念仏のように舜平の腹に向かって繰り返した。
「……3? 3階に行き先を変更したいんですか?」
「……サン……サン……サン……サン……」
「は、はい! 3階! 3階に行きます!」
すぐさま『3』のボタンを押し、一刻もはやい到達を願って『閉じる』ボタンを乱れ打つ。
「やっぱり患者さんなんだ~」
と、いくぶん緊張感が薄れ、明るさの戻ったヨシオカ・ナツキの声が背中に届く。
「ここの医者はみんな腕がいいからさ、お兄さんの頭もすぐに良くなるって」
舜平は泣きたくなる気持ちをこらえ、無言でボタンを乱打し続けた。