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白塚小夜子1

 ごきげんよう、ごきげんよう。こんな挨拶が飛び交うお嬢様校から、私は真っ直ぐと商店街へ歩を進める。

 帰宅時間と行きつけのスーパーのタイムセールが絶妙に噛み合った事は思ってもみない幸運だった。日持ちのしない値引き食材をこうして頻繁に買いに行けるというのは、我が家計にとって非常にありがたい。

 制服を見て驚いた顔をする他校の生徒を尻目に、商店街の皆さんと挨拶を交わし、いつもの様にスーパーへ。

 ふと、入り口横の掲示板に目が留まる。ここはスーパーだけでなく商店街の色々な店のチラシが貼られているのだが、見た事の無いレイアウトの物が一枚。


『アルバイト募集、時給3000円、ご連絡はこちらまで○○○-△△△-○○○』


「三千円!?」

 聞いた事の無い時給だった。今まで数々のバイトをやってきたが、これは破格過ぎる。学生料金も、募集条件も書いていない。

 ……いや、流石に怪しい、犯罪に加担させられる様な事だったりするかもしれない。

 もう一度チラシを隅々まで凝視する。一番上に、擦れた文字でこう書いてあった。


『幽霊探しの手伝い』


「………」

 一先ずスマホで写真に収め、スーパーに入った。



 翌日の放課後、件の番号に電話をかけると、ワンコールで繋がる。

『お名前とご用件を』

 淡々とした女性の声。コールセンター嬢や受付嬢、というより、秘書の様なイメージだ。

黒壇旭日こくたん あさひと申します。アルバイト募集のチラシを拝見しましてご連絡させていただいたのですが、高校生なのですが大丈夫で――」

『ああ、アルバイトの件ですね。ちなみにどちらの学校に通われているのですか?』

華綾かりょう女子大学付属高等学校――」

『採用です。明日の放課後、裏門前でお待ちください』

「はい……はい?」

『くれぐれもお忘れなきように。遅刻、ドタキャンなさった場合即刻契約を打ち切りますので』

 『では』と、終始食い気味で通話が切られた。まだ頭の整理が追い付いていないが、メモ帳に放課後、裏門前、と記入する。

 ……冷静になってみると、かなりまずい事をしてしまったかもしれない。半グレ組織かもしれないのに、名前と学校を教えてしまった。住所が特定されるのも時間の内だ。電話の相手が女性だったから油断していたが、追及を避ける為の早口だったかもしれないし、彼女の後ろにはヤバそうな強面男性がたくさん睨みを利かせていたかも……。

 外で電話をかけたのは不幸中の幸いだ。今日は遠回りで帰宅し、明日の待ち合わせ時は周囲に気を配って、ヤバい車とかが来たら逃げよう。

 三千円……時給三千円の為に人生を棒に振るわけには……でも三千円……

 その日、夜中まで延々と悩み続け、机で寝落ちした私は、千円札に溺れて窒息死する夢を見た。



 スニーキングミッションの様な気分で登校し、授業中もチラチラと窓の外を気にし、その日の私は今までにないミスをいくつかしてしまった。

「旭日さん、ご気分が優れないのかしら?」

「うちの医者を紹介しましょうか?」

 心配してくれるクラスメイト達に、何とか笑顔で大丈夫と伝える。

 ……もし、私もお嬢様だと思われて、誘拐されて、身代金請求なんかされたら……。

「きゃっ」

 小さな悲鳴でハッと我に返る。教科書とノートが廊下に散らばっていた。

「あっ……すみません!」

「いいえ、わたくしも避ける気はありませんでしたし……」

 慌てて拾い集めるが、私の分しかない。相手は自分の教科書をきちんと胸に抱えていた。

 銀髪の、美しい少女。クラスメイトの……あまり話した事が無い……。

「お互いに怪我は無い様ですし、次の授業に遅れてしまいますので、失礼いたします」

 片手でスカートを摘みお辞儀をする。私もそれに習い同じくお辞儀を返す。

 ……ん? 同じクラスの彼女の行き先は、私と同じはずだ。遅れてしまいます、という事は。

 腕時計を確認し、競歩の如く彼女の背中を追いかけた。



 普段正門しか使わない為か、不安感のせいか、裏門はやけに不気味だった。まず、門の幅が正門と比べ圧倒的に狭い。二tトラックが通れる程度の大きさだ。次に、暗い。この時間は完全に校舎の影に入る為、広範囲まるっと薄暗い。日差しを避けてこちらで迎えの車を待つという話を聞いた事があるが、それにしては……見通しが悪くはないだろうか。

 女子高故に、中が見えない様塀は高く隙間がないレンガ積み。長年の緑化運動で植えられた木々によって、左右に続く道の先は見通せない。これはおそらく向こうからも見えない。

 誘拐という恐怖がある中、この環境はとても良くない。周囲に他の生徒がいなかったら、とっくに逃げ出していたかもしれない。

 辺りを見回す。怪しい車、人影、電話の相手が女性だったのだから、学校関係者以外の成人女性がいても警戒すべきだろう。出来るだけ早く見極めなければ、身に危険が――

「黒壇旭日様でしょうか?」

「あ、はい、そうですが」

 振り返りながら、気付く。


 電話の相手の声だ。


 どこから、どうやって。考える前に、私の視界は彼女の姿を捉える。

 その、隣にいる人物も。

「ごきげんよう、黒壇様。わたくしは白塚小夜子しらつか さよこと申します。此の度はアルバイトを引き受けてくださってありがとう存じます」

 長い綺麗な銀髪。美しい所作と顔立ち。さっきの今で見慣れたその姿。

 白塚さんは両手でスカートを摘み、深々とお辞儀をする。彼女の鞄は隣の女性が持っている、となると。

「……私、小夜子様のメイドをしております、琴平ことひらと申します。先日は雑な電話対応をしてしまい本当に申し訳ありません。あのチラシを見て電話を掛けてくる人間に碌な輩がおらず、朝からイライラしていまして。本当はお嬢様が諦めるまで全て断り続けるつもりだったのですが、同じ学校の方だというのでお嬢様のお友達になって頂き私の仕事を減らして、ではなくお嬢様のぼっち卒業、でもなく……えー、お嬢様の事、よろしくお願い致します」

 早口でまくし立て、彼女も頭を下げる。なるほど、校内からやって来たから、私は気付かなかったのだ。そしてまあ、私のバイト内容は白塚さんの友達になる事、と。

「お給料は……本当にあの通りに戴けるのでしょうか?」

「はい、もちろん。成果の有無に関わらず、ひばらい? でお支払いします。詳しい話は琴平とお願いいたします。

 勘違いも解けた様ですし、それでは早速、本日の活動を始めましょう」

 にっこりと微笑む白塚さん。ほっとして気が抜けていた事もあり、私はこれから何が始まるのかをすっかり忘れていた。



 なぜか校内に舞い戻り、三階へ向かう階段を上る。特別教室は一階、一年生の教室は二階、体育館や図書館といった別棟も一階の渡り廊下を使う為、まだこの先には行った事が無い。この学校では学年より家柄が優遇される独自のカーストがあるが、どちらにせよ私は最下位中の最下位。階段を上がる毎に緊張が増していく。対して白塚さんは悠々と、むしろ嬉々とした足取りで進んでいる、やはり本物のお嬢様は違うなあ……。

「きゃー! 白塚さんと旭日さんが並んで歩いていらっしゃるわ!」

「まあ、なんてお美しい……!」

「絵になるわねー」

 階下から何か黄色い声が聞こえるが、白塚さんも琴平さんも全くの無反応であった。


 白塚小夜子は学年一の美少女と名高い。カーストの問題で大っぴらに言えないだけで、学校全体でも一番だという声もある。銀髪は地毛で、噂ではノルウェーのクォーターらしい。成績優秀、幼い頃から数々の習い事をし、出来ない事は何も無い、なんて聞いている。

 噂。そう、全ては噂だ。彼女はクラスではいつも一人で、仲の良い友達がいる様には見えなかった。実際、どの生徒とも毎日の挨拶と少しの雑談をする程度。自分から話しかけに行く事は無いし、私が彼女と会話をした時の第一印象は「避けられている気がする」だった。意図的に誰とも慣れ合おうとしていなかったのだと、思っていたのだが。


 三階に上がり、白塚さんは迷いなく右へ曲がる。窓から裏門が見える、北側へ向かっているのだ。しかし、どこも同じ間取りの教室しかないのに、一体どこを目指しているのか。

 立ち止まった場所は、角のトイレの前。

「黒壇様、この学校の七不思議はご存じでしょうか?」

「ええと…無人の音楽室のピアノが勝手に鳴る、くらいですかね、聞いたのは」

「さようでございますか。例に漏れずこの学校も七番目は『全ての七不思議を知ると死ぬ』なので、そもそも知らない方が良いかもしれませんね。わたくしは二十八個ほど知っていますが。四回死ねますね」

「ええ……?」

 にこやかに、いたって普通の日常会話であるかの様に語る彼女。琴平さんは……呆れた表情をしている。

「トイレの怪談と言えば『花子さん』というレジェンド級がおりますが、ここのものは異なります。

 『恋占いさん』、三階の、三番目のトイレに入り、占ってください、と三回唱え、トイレの水を流す。近いうちに恋人ができるならその相手の声が、できないなら女の声が聞こえるそうです。

 一見害がなさそうに思えますが、女の声が聞こえた人は不幸な目に合う、という話もあります。占いを試し、恨めしそうな女の声が聞こえ、帰り道に事故に遭ったという卒業生の体験談がネットに掲載されていました。信憑性があるとは言えませんが、これから挑戦するわけですので多少の心構えを、という話です」

「え、やるんですか」

「もちろん。……アルバイトの内容、お忘れになられましたか?


 幽霊探し、ですよ」


 初めて見る可憐な満面の笑み。内容とのギャップが凄かった。

 大きな溜め息を吐いて、琴平さんが説明する。

「……お嬢様は、生まれてこの方、幽霊を見た事がありません。お嬢様は、自分が見たものしか信じません。自分には見えないのに、皆が存在すると言う『幽霊』というものに、お嬢様は強く興味を持ってしまいました。怪談収集では飽き足らず、危険極まりない心霊スポットに行きたいというので、お嬢様の見張りの手伝いを募集していたのです」

「門限のせいで一人では夜中に外出できないので、お友達と旅行と称し出かける計画なのです。黒壇様のおかげで同校同性同学年、とても違和感の無い言い訳ができます」

 なるほど。白塚さんの趣味が怪談という時点でかなりのイメージ崩壊が起きたが、この活き活きとした姿、普段の方が偽りというわけだ。

 そしてこれは……結局命に関わるバイトでは?

「尚、お嬢様と同行中に掛かった全ての費用、契約期間中に貴方様に発生した怪我や病気の治療費等は全てこちらが負担いたします。場合によっては給料にも上乗せを」

「さて、トイレに入りましょうか」

「そうですね、これだけ待っても誰も出入りしないなら無人でしょうし」

 俄然やる気が出てきた。旅費ゼロで旅行が楽しめる、一人分の医療費が完全に浮く、神だ、頑張ろう。

 扉を開ける時、背後から「苦学生と聞いてはいましたが、お金の為なら本当に何でもするんですね、ある意味お似合いかもしれません……」という琴平さんの呟きが聞こえた。

「ところで、さっきの話だと三階のどこのトイレか言っていませんでしたが、ここであっているんですか?」

「ここだ、と断言できる記述はどこからも見つかりませんでしたが、最も有力とされているのはこの場所です。また風水的観点からも、ここが校舎の鬼門に当たるので非常に可能性は高いと思われます。しかし、何故二階ではなく三階なのか……ふむ、風通しが悪いですね、そういう事です」

 奥の窓を開け、納得した様に呟いて閉める。

「どういう事ですか?」

「まず前提として、心霊現象の多くは科学的に説明が出来ます、ほとんどが知識不足故の勘違いです」

 怪談好きがいきなり怪談を否定し始めた。

「幽霊の出やすい場所、鬼門といった考えは、日当たりと風通しの悪さに起因します。そしてもう一つ、最大の原因となるのが湿気。日光が届かない、風が通らない事は両方室内に湿気を溜める要因となっています。それ故に風水、特に温暖湿潤気候である日本向けに改良された『家相』において、鬼門に水場を置く事はよろしくないとされているのです。ただでさえ外に出にくい湿気を、室内で余計に発生させる事になりますからね。

 で、それと幽霊と何の関係があるかと言いますと、人間は湿度が高い場所では不快感を覚えます。それは強いストレスです。ストレスを感じ続けると、精神に異常をきたしていきます。聞き間違い、見間違い、もしかすると幻覚幻聴といった症状まで悪化するかもしれません。こちらが、科学的に納得のいく説明です。


 もう一つ、可能性として挙げられるものがあります。ストレスにより過敏になった神経が、普段は捉える事の出来ない微細な気配を捉えた、というものです。この場合、幽霊と呼ばれるものには実体があり、何らかの方法で観測できるという事になります。将来的にはそういった装置の研究がしたいのですが……まあ、こちらは現状オカルト的、個人的にはまだ発見されていない科学的解釈、と称しておきましょう。

 結論として、この場所は北東、日陰、窓の前に木があり、幹部分で辛うじて風が流れる二階と違い葉が生い茂って、風通しが悪い。霊が出る条件を満たしていると言えます」

「なるほど」

 「なるほど分からない」のなるほどだ。日常で使わない単語が大量に出てきた、理解が追い付かない。

 一先ず、雇い主がここで良いと言っているのだから、ここでするしかないだろう。

「三番目のトイレ、というのも、個室が五つあるので手前からでも奥からでも真ん中が三番目。出入口からも窓からも離れた、通気性の悪い場所です。さて、それでは試してまいりますので、黒壇様はトイレ全体に異変がないか確認していてください」

「はい。あれ、私が中に入るんじゃないんですか?」

「何故ですか? わたくしが心霊現象を体験したいのですよ? 何も起きなかったら次は黒壇様の番ですが」

「あー…はい、そうですよね」

 メイドさんの苦労が良く分かった。守るべき主が自ら危険に突っ込んで行くとは……人手も増やしたくなるし、休みたくもなる。バイトの内容、二人の言い分が違ったのはこういう事か。

 白塚さんは三番目の個室に入り、鍵を閉める。

「占ってください、占ってください、占ってください」

 始まった。通る綺麗な声が、呪文を早口に唱える。ギッ、ジャー……と水を流す音。


 ………ヒィ――――ィ………


「――っ! 今、女性の悲鳴の様な……」

「これ鳥ですね、トラツグミです、鵺と呼ばれる事もあります。夜に鳴く事が多いのですが、この辺りは薄暗いのでこんな時間でも鳴くのですね。これは勘違い説が有力になってしまいました……」

 鍵を開け、肩を落として白塚さんが戻って来る。手を洗い、窓辺へ向かってしばらく外を見回した後、「あれです」と指をさした。よく見ると、黒っぽい小鳥が地面を歩いている。あれがトラツグミらしい。

「昔から定番なのです。かつて夜起きている鳥はいないと思われていた時代もあり、森で夜中に女性の悲鳴が聞こえたと伝わる怪談の殆どがトラツグミの鳴き声を勘違いしたものです。家でも聞いた事があるので、ここら一帯に生息している様です。トラツグミが悪い訳ではありませんが、がっかり中のがっかり現象です……」

 「一応、黒壇様もお願いいたします」と言われ、今度は私が個室に入る。ほとんどタネが明かされてしまったので消化試合のつもりで、雑に呪文を唱える。

「占ってください、占ってください、占ってください……」

 辺りはシーンとしている。白塚さん側も特に何も起きていない様だ。

 レバーを引いて水を流す。大の方に倒してしまったが、小で良かったなと後で気付く。

「……ふふっ」

 音の大きさと長さで大だと気付いたのだろう、白塚さんの笑い声。……無意識にこちらにしてしまったと言うと、なんだか普段からこっちが多い様な印象になってしまう気が。

 少し気恥しくなりながらトイレを出る。白塚さんはキョロキョロと部屋中を見渡しているが、浮かない表情をしているので何も起こってはいないのだろう。

「ここのトイレ、大の方が倒しやすい向きになってると思いません?」

「はい? うーん、わたくし左利きですので、そもそも右利きの方とはレバーを引く際の立ち位置が違うので……」

「ああ、そうなんですか。……ではここだけの笑い話という事で、トイレだけに水に流して頂けると……」

「? どこに笑うところが?」

「私が水流してる時笑ったじゃないですか……」

「え?」

「え?」

「……どんな声でしたか? 本当にわたくしの声でしたか? 件の女の声が聞こえたという事ではないのですか!?」

「え、と……確かに白塚さんの声でしたし、恨めしそうとかではなく、本当にくすっと笑った感じというか……笑ってないんですか?」

「わたくしの記憶にある限りでは一言も発した覚えはありませんが、記憶の空白期間が無いとは言い切れませんし、完全に無意識で発声した可能性も無いとは言い切れませんし、そもそも完全主観しかない記憶のどこまでを信用できるかというと」

「聞き間違いですね! 私の聞き間違いです! 水の音うるさかったですしね!」

「そうでしょうか……でも聞き及んでいた現象とは違う様ですし、何なのでしょう……これは交霊術の一種だとは思うのですが、集まる霊が指定できないから毎回異なる現象が起きる、なら説明はつくのですが、それにしては類似報告が多く、しかし再現実験には失敗してしまっていますし……」

「トラツグミと後は全部勘違いですよ! 琴平さん、終わりましたー! 何も起きませんでしたー!」

「了解しました。お嬢様、迎えを呼びましたのでご支度を。黒壇様もご自宅までお送り致します。給与支払いについてお話がありますのでご乗車ください」

「はい!」

「えええ…まだ納得が…うーん? わたくしには一切聞こえていませんし、本当に勘違い…?」

 手洗いを済ませ、動こうとしない白塚さんを外へ押し出す。琴平さんと合流し、二人で引っ張ると白塚さんも諦めて自分で歩き出した。

 裏門の前には黒塗りの高級そうな車が停まっていた。あのマークは確か……ロールスロイス。車の前にはいかにも執事という服装の男性が立っている。

洗井あらいさん、お客人と私はお話があるので、お嬢様を助手席に」

「了解致しました、お嬢様、こちらへ」

 琴平さんが後部座席のドアを開け、私に先に乗るよう促す。他の生徒がやっているところを見た事があるが、私がこれをしてもらうのは初めてだ。むしろバイトでドアを開ける側だった。

 そっと座席に腰を下ろす。……ああ、高級車だ……自転車のサドルとは天地の差、雲の様なふかふか……。

 気が付けば全員乗り込み、車は通りに出ていた。家の住所を伝えていないが、どうやら私の通学路を進んでいる。何か色々と調べた様な事を言っていたし、悪人ではないが、怖い人に近付いてしまった気が。

「黒壇様、お給料ですが、現金支給と口座振り込みどちらがご希望でしょうか。それと、今後の連絡用に私用の電話番号とメールアドレスを交換して頂きたいのですが」

「ええと……口座振り込みでお願いします」

 現金を数えたい欲求と他人に口座番号を教えるというリスクとの戦いの末、何とか貯金の道を選ぶ。手元に直ぐ使えるお金があるというのは危険である。引き出すという一手間が大事なのだ。

 鞄から格安四年目機種のスマホを取り出したところ、一瞬琴平さんの顔が引きつったが、故障する事なく無事に連絡先を交換出来た。

「次の日程が決まり次第連絡致します。予定がある場合は事前に、遅くとも一日前にはご連絡ください。こんな内容ですし、こちら側の日程調整は容易ですのでどうぞ気兼ねなく。犬の散歩を理由に断って頂いても構いませんから。

 一つだけ、とても大事な注意事項があります。『時間厳守』、お嬢様と行動する際は全てにおいて心掛けてください」

「はい」

「……文句は無いのですね。一度でも破ったら解雇、という付き人が皆恐れる決まりなのですが」

「社会では報連相と五分前行動は基本ですし、当然のルールだと思いますよ」

「貴女がそれを守り続けられるなら、是非とも私の後継に指名したいところです」

 あからさまに期待していない口ぶりだったが、上手く行けば就職に繋がるコネクションになりそうだ。バイトの掛け持ちで身に着けたスケジュール管理能力には自信がある。好感度はとにかく稼いでおこう。

 一度も道に迷うそぶりは無く、車は我が家の目の前で停まった。年季の入ったトタンアパート、白塚さんが興味深そうにまじまじと眺めている。

「ありがとうございました、お先に失礼いたします」

「いえ、こちらこそ、今後ともお嬢様をよろしくお願い致します」

「ごきげんよろしゅう」

 窓を開け、小さく手を振る白塚さんにお辞儀を返す。琴平さんが扉を閉め間もなく、このボロ駐車場に似合わない車は立ち去って行った。

「旭日ちゃん! ありゃいったい何だい!?」

 アパートの一階に住んでいる吉角よしずみさんが、窓から顔を出し驚いた顔をしている。夜勤なので、これから出かけるところだった様だ。

「お友達、ですね。この学校、ほんとにお嬢様ばかりで……」

「いやー、ほんとにあんな貴族みたいな人達いるんだなあ」

「ですねー」

 「旭日ちゃんみたいな美人なら将来玉の輿で本物のお嬢様になっちまうんじゃねーか!」なんて冗談を言う吉角さんに愛想笑いを返す。……達成出来たら良いなくらいの目標の一つではあるが、表に出すと相手が引いて行ってしまうのでそういう話はしたくない。

 何はともあれ、最高時給のアルバイトを手に入れた私は、軽い足取りでアパートの階段を上るのだった。


 その日の夜、琴平さんから送られてきたメール。

『お嬢様取り扱い手引き

  1、お嬢様が考え事を始めたら別の事で無理やり打ち切ります。お嬢様は時間に正確なので次のスケジュールが詰まっている状態にすると誘導しやすいです。

  2、お嬢様から出来るだけ目を離さないで下さい。何かに興味を惹かれるとほんの少し目を離した隙にそちらへ向かって行ってしまいます。その時周りが見えなくなっているので、足元の悪い場所では特に注意して下さい。

  3、お嬢様の話を聞いて下さい。内容は理解出来ないと思いますが、聞く姿勢を見せて下さい。

 以上の注意事項は義務ではありませんが、出来る限り守って下さい』

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