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教室〈2〉

 

 玄関に到着して、舞子さんと出会い、彼女の名を呼び、野球部が来る前に教室へ向かう。

 うん、順調だ。

 僕と舞子さんは教室までの階段へと足を踏み出した。

 あ、そうだ。教室へ着くまでの間に明石さんと小太り君の話を聞いておくのも良いかもしれない。でも、着くまでにはどちらか一人分の話しか聞けないだろうな。

「ねえ、舞子さん。明石さんってどんな人か分かる?」

 少しだけ考え、僕は歩幅を狭め、歩く速度を少しだけ落とす。うん、先に明石さんの情報を仕入れておく事にした。彼女と僕は隣同士の席なのだから、教室に着いてから当人の話を聞くのは、流石に躊躇われる。

「明石さん?」

 僕は軽く頷いた。

 何故か、舞子さんはにんまりと微笑む。彼女にしては珍しい表情だった。

「君、明石さんの事が気になるのー?」

「まあね」

 気になっているのだから嘘ではない。舞子さんが妙な勘繰りをしているのは鈍感な僕にでもすぐ分かったのだが、話を聞く為だ。曖昧に答えておく。

「あは、良いよ。あたしに分かる範囲で教えてあげましょう」

「ありがとう、助かるよ」

 舞子さんは胸を張って、得意そうに笑った。

「えーとね、まず、明石さんって前髪がパッツンだよねー」

 ……僕も死神さんも、舞子さんと同レベルだったらしい。別に嫌ではないのだけど、複雑な気分になってしまう。

「でもでも、可愛いよねー。目なんか暗いところにいる猫みたいにくりくりっとしててさー。背もあたしと同じくらいなのに本当スタイル良いよねー。あは、羨ましいなー」

 と、すると、舞子さんも明石さんも身長は百五十の後半といったところか。

「スタイル良いしー、運動も出来るしー、そんでやっぱ明石さんと言ったら頭が良いっ、そう思わない?」

 僕はまた曖昧に頷いておく。だって、知らないものそんな事。

「うちの学校ってプライバシーが大事とか言って成績を張り出したりしないけどさー、あたしが聞いた話によると、明石さんは学年で一番テストの点が良いんだって。あは、やっぱ学級委員長はダテじゃないんだねー」

 ソースは怪しいけど、火のないところに煙は立たず。一番かどうかは疑って掛かるべき、そして疑わなくても別に構わないポイントだけど、そんな噂があるって事から、やはり明石さんの頭が良いってのは確かなのだろう。

 更に、彼女は学級委員長の役職に就いているらしかった。でも、委員長だから頭が良いってのは偏見じゃないのかな。

「皆にもすっごい優しいしー、勉強教えてくれるし、話しててもすっごい楽しいんだよー」

 ふーむ。

「何でもこなせるスーパー委員長っ、それがあたしの知る明石つみきっ、以上です」

 明石、つみき?

 名前、なのかそれって。つみき、か。何だかちょっと変わった名前だなあ。

 ――つ、つつつつつみきちゃああああん!

 ああ。あー、あーあーあー。

 明石さんのフルネームが分かったところで、僕は嫌な事を思い出し、嫌な気分に陥ってしまう。

「あは、どうかな? 君の恋の参考になった?」

 僕と舞子さんは教室の前に着いていた。

「ありがとう」

 心ないお礼を述べて、僕は舞子さんに先んじて教室に入る。



 席に着いた僕は、小太り君の事を舞子さんに尋ねてみた。

「あたしたちのクラスで小太りって言うと、えーと、細山(ほそやま)君かな?」

 舞子さんは僕の前の空いている席を借りている。彼女は僕たちからはそこそこに離れた、一人の男子生徒をこっそりと指で示した。

 見れば、ああ、なるほど。見覚えがあり過ぎて困る男がそこにいる。

 小太り――細山君――は自分の席で背中を丸め、携帯音楽プレーヤーのイヤホンを耳にはめ、読書に興じているようだった。こうして見ると、非常に大人しいタイプの人に見える。

「細山君、か」

 しかし、こんな事を言ってはなんだけど、名は体を表さない見本のような人だなあ。

「舞子さん、彼はどんな人なの?」

「あ、あは。えーと、えーとね」

 舞子さんは困ったような笑顔を浮かべる。

「細山君はね、あたし、良く分からないんだよねー。って言うか、分かる人がいるのかなー」

「そうなんだ。うーん、それでも強いて言うならどんな人と思う?」

「……『大人しい人だったから、あんな事をするとは思わなかった』。それか、『いつかやると思っていた』って感じかなー」

 まさにその通りだった。

 舞子さんには人を見る目が備わっているようで何よりだと思う。



 舞子さんと少しの雑談を交わした後、予鈴が鳴った。

 僕はちらりと、隣に座っている人物に目を遣る。

 ――明石つみき。

 僕らのクラスの委員長。学年でも一、二を争うであろう秀才。スポーツも万能、性格も非常に良いらしい(舞子さん談)。

 明石さんの前髪は綺麗に揃えられ、後ろ髪は肩まで伸びている。そしてなるほど、確かに猫みたいに大きな瞳の持ち主だった。文句なしに美人の部類に入るだろう。

 僕は今からこの人を死なさないように行動しなくてはならない。

 鼓動が高鳴る。ここからだ。

 廊下に目を遣ると、背の高いシルエットが窓ガラスに映った。先生が、来る。

「……良し」

 小声で呟き、僕は一瞬だけグラウンド側に視線を移した。

 先生が教室に入ってくると、クラスの人たちはお喋りを止めて前を向く。

 先生は出席簿を教卓の上に広げて、教室の様子を窺っている。

「……今日も全員出席か?」

 自主性を重んじているようで重んじていない高等学校の生徒は誰も先生の問い掛けに答えない。

 あの、うるさくて仕方がない舞子さんも、そんなものどこ吹く風で廊下に目を向けていたり。

「ん、ああ、野球部がいないな……まあ良い。今朝は伝えるべき事項もない。それではホームルームは終わりだ」

 職務怠慢とも思える短さで朝礼を済ませると、先生は出席簿を畳む。

 畳んで、僕らに背を向けた。教室のドアに手を掛け、乱暴とも言える手付きで開ける。

 来る。

 ここだ。このタイミングしか有り得ない。

 僕は誰にも気付かれないように、自然な動きを意識してグラウンド側に目を向け、何となく、と言った具合に体を向けた。

 どこから来るのか分かっていて、いつ来るのかも分かってさえいれば。

 白球が、目に飛び込んでくる。

 とりあえず、一回目だ。無茶苦茶でも滅茶苦茶でも何でも構わない。やらなきゃ、こっちがやられるんだからな(細山君に)!



 結果から言おう。

 僕は何とかボールを避ける事に成功した。

 明石さんもボールを避ける事に成功した。させた。

「………………」

「………………」

 僕が、明石さんを押し倒す事によって、である。

 いや、仕方ないでしょう?

 僕が数ある選択肢の中から選んだのが、ボールがガラスを割るタイミングに合わせて、明石さんを助けるべく身を挺す。これだった。一番手っ取り早い。そう、思ったからである。

 しかし、この選択は案外失敗かもしれなかった。

 教室中が突然の侵入者、いや、侵入球に騒然とする中で、僕は明石さんに圧し掛かっている。男が、女を組み敷く構図が出来上がっている(図は合成写真ではございません)。

 ま、まあ、命あってのモノダネだし。

 ちなみに。ボールは僕と明石さんの頭を過ぎ去って、廊下側の窓を突き破り、今は転々と廊下に転がっていた。

 第三の犠牲者ぐらいは予想していたのだが、杞憂に終わり、少し嬉しい。

「あの……」

「へ?」

 僕の下から、儚げな、それでいて理知的な声が漏れた。

 明石さんである。彼女は困惑した様子で僕を見つめていた。

「助けてくれたのは有り難いのだけど、退いてもらえないかな?」

 うあ。僕最悪。ボールを避けられた感動に浸っている場合じゃない。

「ごっ、ごめん!」

 僕は急いで彼女から飛び退き、頭を下げる。

 明石さんはゆっくりと立ち上がり、制服に付いた埃を手で払っていた。

「ううん、良いの。助けてくれたんでしょ? ああ、運動場からボールが飛んできたのね。それより、あなたこそ大丈夫?」

「う、うん。大丈夫、みたいだ」

 舞子さんが絶賛していたのも頷ける。明石さん、僕に突然押し倒されて困惑していたのも一瞬で、すぐに状況を把握したらしかった。おまけに半分痴漢みたいな行為をした僕の心配までしてくれている。

 少しで良いから、死神さんも明石さんを見習ってほしい。奴にはそういうモノが足りていない。

「いったい誰かしらね。先生に言っておかなくっちゃ」

 明石さんはグラウンド側の割れた窓に近付いていく。何をするのかと思ったら、掃除用具を収納しているロッカーから箒とちりとりを持ち出した。

「……明石さん?」

 教室中が突然降って湧いた珍事に騒然とする中、明石さんは床に散らばったガラスの破片を掃除し始める。

 いや、いやいやいや。……出来過ぎだろ、この人。

 明石さんは一歩間違えば死んでいたかもしれないと言うのに、マイペースに、当たり前のように、誰よりも最初にガラス片に気付き、動き、作業を続けていた。

 完璧だ。この人は僕ら常人を遥かに超えている。もうアレだ、完璧超人だ明石さん。

「あ、明石さん、私も手伝うよ」

 女子生徒の一人が明石さんに触発され、箒を取り出し、床を掃き出した。

 そうかと思えば、何もしないのに居たたまれなくなったのか、他のクラスメートもちりとりを持ったり、乱れた机を整えたり廊下に転がったボールを片付けに行ったり隣のクラスの先生を呼びに行ったり僕に怒りをぶつけたりしていた。

「お、おおおお前えええ!」

 僕に怒りをぶつけたりしていた。

 ……って待てや。

 どうしてそうなる。

 案の定、僕に対して怒りを露わにしているのは細山君でした。

 僕は目眩を覚え、自分の机の上に腰掛ける。

「よ、よよよくもおおっ」

 おかしい。

 何がおかしいって僕が責められているこの状況と細山君の思考回路だ。どう考えを巡らせれば、僕に怒りの矛先が向く。と言うか何を怒っているんだ。どこに怒る要素があったんだ。

 教室は細山君の叫びで静まり返っている。皆、何が起こっているのか、なぜ細山君が怒っているのか、どうすれば良いのか分からないんだろう。僕にも分からない。誰か教えてください。

「お、おお前みたいなのが、のがなああっ!」

 ある意味冷め切った僕らとは反比例のグラフを描くように、細山君のボルテージは上がっていく。

 彼は額から髪の毛先から体中から汗を滴らせ、ぶふうぶふうと息も鼻息も荒く僕を強く睨み付け、顔を真っ赤にして僕を指差していた。

「え、と、落ち着こうよ、細山君」

「ぼ、ぼぼぼ僕の名前を呼ぶなああ! お、お前なんかに呼ばれるす、筋合いはないんだああっ!」

 ああ、逆効果。落ち着かせようと思ったのだけど、火に油を注ぐ形になってしまっている。

 でも名前は呼んでも良いと思うよ。クラスメートなんだから。

「そ、そそそのかち、勝ち誇ったような目でみ、見るなあああっ!」

 しかも見るなとまで言われてしまう僕。いや、見ざるを得ないんだけど。おまけに勝ち誇ったつもりはないし、今までに勝ち誇った事もない。

 誰か助け船を出してくれないかなあ。

 教室に目を向けると、クラスメートたちはやはり僕と細山君を囲むように、遠巻きにして眺めている。

 舞子さんに期待してしまったのだけど、彼女は教室にはいなかった。先生を呼びに行ったのか、それとも別の事をしているのか分からないけれど、いないのは確かである。

「く、くくくそう! つっ、つみきちゃんをお、おおお押し倒すなんてえっ、ゆっ、許せないぞおっ!」

 僕は呆れて二の句が継げなかった。

 なんだ。なんだよ、そんな事で彼は怒っているのか。僕が明石さんを助ける為、彼女に触れたのが気に食わなかったらしい。

 どうしろってんだよ、もう!

「……あの、細山君?」

 デッドエンド寸前の僕を救ってくれたのは、明石さんだった。

 明石さんは箒を持ったまま、おずおずと細山君に声を掛ける。

「彼は私を助けてくれたの。だから、そんなに怒らないで、ね?」

 誰もが思っただろう。

 これで大丈夫だろう。細山君も落ち着くだろう。

 僕もそう思って、安堵の息を吐いた。

「つ、つつつつみきちゃんまでえ! つ、つみきちゃんまでそんな事言うんだああ!」

 細山君、暴れだす。

「ほ、細山君?」

 明石さんの説得も空しく、細山君絶好調。だんだんと彼の語気は荒くなり、何を言っているのかですら分からなくなってきた。

 汗を撒き散らしながら、教室中の机や椅子を蹴っ飛ばす細山君に、誰も近付けない。

 僕としては早いところ先生に来てもらいたいところであった。下手に動けば、彼のポケットに収められているだろうバタフライナイフと再びご対面してしまう。

「ふう、ふう、ぶふうう……」

 やがて体力を消耗して疲れてしまったのか、細山君はすっかり荒れ果ててしまった教室の真ん中にどっかりと座り込んだ。しかし、その目は獲物を前にした獣のようにぎらついて、その上僕と明石さんを睨んでいる。

「つ、つ、つみきちゃんもそんな事を言うんだ、そ、そそそんな奴の方がい、良いんだ……」

 何だか、嫌な予感がしてきた。嵐の前の静けさと言うのだろうか。

 明石さんを見ると、彼女もどうやら僕と同じ気分になっているようだった。箒を握り締め、その手は僅かに震えている。

「……?」

 が、僕はあろう事か明石さんからも異様な気配を感じた。

 彼女は確かに、細山君の狂気に怯えているのだろうが、その瞳からは別の何かも感じ取れる。

 何だろう。

 明石さんは一体、何を見て、何を思っているのだろう。

「ねえ、細山君」

「な、ななななな何、つ、つみきちゃん?」

 細山君は好きな人に声を掛けられたのが嬉しいのか、僅かながらも穏やかな口調になった。捨てられた子犬が再び元の飼い主に拾われたような、浅はかなやり取りを見ている気分になる。

 誰もが明石さんの動向を窺っていた。彼女の、次に発する言葉が事態の進展を促し、動かし、決定付けるのだと、そう思って。

 細山君の狂気が教室内を満たしていた。例えるなら、僕らは今ぶよぶよのゼリーに囚われている。気持ちの悪さを感じながらも、決して逃げられない。足が動かない。そんな状況。

 だからこそ、その状況を打ち破ってくれるであろう、僕らのスーパー委員長明石つみきさんに注目が集まるのも無理はなかった。

 お願いだから、助けてください。

「――私を名前で、呼ばないでくれる?」

 お願いだから、助けてください……!

 僕は、いや、明石さん以外の人間は皆呆気に取られていた。彼女が何を言ったのか、言葉としては理解出来ていても、意味としては理解出来ていない。飲み込めていない。

 天下御免の委員長が、今、何を言ったのだ?

「つ、つつつつみ、つみ、つみきちゃん?」

「だから、止めてって言ってるじゃない」

 明石さんは委員長でクラスの皆から慕われている。

 僕が思うに、それは頭が良いとか、運動が出来るからだとか、そういう理由ではない筈なんだ。舞子さんも言うように彼女は誰からも、誰にでも好かれている。

 恐らく、明石さんは異常に空気が読める子だったのだろう。

 人の頼みを断らず、人の話を素直に聞いて、人の気持ちを尊重して。

 だからこその、委員長。

「前から言いたかったのだけど、あなたに下の名前で呼ばれるの、何だか嫌なのよ」

 その彼女が、完全に空気を読んでいない。

 いや、恐らく読んでいる。読み切っている。今僕たちが欲している言葉を、彼女は用意してあった筈なのだ。その上での、この発言。細山君を突き放す、そしてこの場の行く末を決定付けてしまう、トドメの一言。

「……終わった」

 誰かがそう、呟く。

 ありがとう。僕も同じ気持ちだよ。

「つ、つつつつつつつつつつ――」

「――やめて」

 空気が読める、誰からも好かれる、それいけ僕らの委員長、明石つみき。

 そして残念ながら、だからこそ、明石さんは細山君に好かれてしまったのだ。

「う、うううわああああああああああ!」

 この、パラノイアに。

 後はもう、野となれ山となれである。

 可愛さ余って憎さ百倍。細山君は先刻まで疲れていたのを忘れたのか、やはりポケットからバタフライナイフを取り出し、立ち上がった。

 ギョッとする教室内。

 僕はまたか、と、諦観の境地でそれを眺める。

 ここまで来てしまったのなら、生き返っても仕方がないだろう。

「ぶふあああっ! つ、つみつみつみきちゃあああああん!」

 面倒になっちゃったし、死のう。一回、やり直そう。

 明石さん目掛けて猛然と突進する細山君の前に立ち、僕は両手を広げて、その刃を受け入れた。

「なっ――!?」

 誰かの驚いた声を背に受け、僕は机を巻き込みながら倒れていく。

「お、おおおわあああ! ぼ、ぼぼぼぼくのせいじゃないっ、こっ、こっ、こいつが勝手に、勝手にいいいい!」

 細山君、うるさい。

「ぐああああああああ! つみきちゅわああああん!」

「ひっ!」

 男の声と、女の声がする。

 僕は残った意識を掻き集めて、視線を上げた。

 ああ、どうやら、細山君はまだ暴れ足りていなかったらしい。

「いやあああああああっ!」

 誰かが叫んだ。

「つ、つつつみきちゃんがわ、悪いんだからっ、だからねえ!」

 細山君は、明石さんにもその凶刃を突き立てている。

 制服の上からだったので傷口は見えないが、血液の量から考えて致命傷だろう。……僕には何となく分かる。

 再び狂騒の色を帯びる教室内。

 そこに、遅ればせながらの形でようやく先生が駆けつけて来たらしい。

「うわあ! 何だこりゃ、面倒くせえ!」

 野太い男の第一声。

 この学校にはやる気のない先生が多いらしかった。

 混乱の坩堝。僕の意識は徐々に薄れていく。持って、あと一分ぐらいだろうか。

 経験上での話になるのだが、人間と言うのは思っているよりも頑丈な生物だ。今の僕みたいに刃物で刺されても、生きる、その強い意志さえあればそこそこは生き延びられる。いや、そこそこだけどね。

 だが、逆に生きると言う意志を手放してしまえば、実に脆いものだ。

 やっぱり、ニンゲンとは…………あー、何も思いつかない。見切り発車で喋るんじゃなかった。今回もまた、しまらないな。

 結局、僕自身も死んでしまったし、何だかんだで明石さんも死んでしまった(まだ死んでないけど、もう無理だろう)。

 少しは進展したけれど、細山君を打ち崩すにはまだ何かが足りていない。それだけだ。

「う」

 僕は、最後の最後で潰れた蛙みたいな声を上げる。

 何かが僕に圧し掛かってきたのだ。

「あ、あんたの……」

 恨みがましい声が聞こえてくる。誰のものだろう。あー、分からない。

 分からない。



「おー、目ぇ覚めたか」

 僕はゆっくりと目を開き、上半身だけを起こした。

 とっくのとうに見慣れた筈の真っ白い世界が、妙に懐かしく思える。

「また、死んじゃいました」

「みてーだな」

 そして、とっくのとうに見慣れた女。馬鹿みたいに長い髪の毛を垂らし、僕を嘲笑う死神。

 でも、この世界と彼女を見る度に落ち着いてしまう自分がそこにいた。悔しいっ、でも落ち着いちゃう……! みたいな。

「まーたデブにやられやがって。体鍛えたらどーなんだ、おい?」

「どうせ鍛えても死んじゃうんですから」

 僕は立ち上がり、体を気持ち良く伸ばす。視界は三百六十度、何もない。全てが既知のもの。ああ、だからこそ落ち着くのだろうか。

 見慣れた景色。

 見慣れた死神。

 見慣れない女。

「……………………」

 見慣れない、女?

 いや、いや、いや、ちょっと、ちょっと待ってくださいよ。

「何見てんのよ、変態」

 トーンの低い声で罵られてしまった。

 僕を罵った女は、僕と同じ学校のブレザーを着て、スカートを穿いていて。あれ? この人……?

 どこかで、見た事が、ある?

 前髪は綺麗に揃えられていて、猫のように真ん丸い、大きな目。

「…………明石、さん?」

 何か、雰囲気は委員長然としていた、僕の知っている彼女と違うけど。

 こう、何だろう。刺々しいと言うか、きついと言うか。他人の空似?

「気安く名前を呼ぶんじゃないわよ」

 ああ、空似じゃない。同一人物らしかった。

「え、と。本物? 本物の明石つみきさん?」

 だが、どうしたって信じられない。

 何だって彼女がこんなところにいるんだ。

 この、死後の世界に存在しているんだ。ここには死んだ人間しか来られない筈。

 そして、明石さんは死んでいない。

 僕の生き返りチャレンジのせいで、世界は時間を巻き戻される。

 僕はまだ天国や地獄には行っていない。厳密にはその一歩手前でぎりぎり死んでいない事になっているし、明石さんに至っては死ぬ筈がない。死んだ状態でここに来る筈は、決してない。

 現に前回、彼女がボールに頭をぶつけて死んだ時はそうだったじゃないか。

「はあ? あんた、何言ってんのよ? つーか、ここどこなの?」

 口調や態度、雰囲気は僕の知っている明石つみきではないが、彼女はどうやら、認めたくはないが……。

「悪い、ミスっちまったみてーだな」

 死神さんは失敗したと言うのに(何を失敗したのかは分からないけど)、全然悪びれていなかった。むしろ楽しそうだった。おい。

「お前を呼び戻す時にやっちまったらしい。あんな、悪いけど、そこのパッツンな、死んでんだわ」

 おい。

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