ゲームオーバー
目覚まし時計の鳴る五分前に目が覚める。いつもの事だ。
僕はゆっくりと身を起こし、布団を跳ね除けベッドから立ち上がる。何とはなしに部屋をぐるりと見渡してみた。
ポスターも貼られていない、カレンダーも掛けられていない白い壁。本棚が二つ、一つは中身が空っぽ。捨てるのも面倒だからそのまま置いてある物だ。あとは、タンスと小学校からの勉強机。テレビはあるが滅多に見ない。テレビゲームも携帯ゲームもやらない。音楽も聞かないから、CDの一枚だって部屋にはない。
……我ながら、殺風景な部屋だと思う。
高校二年生の部屋とは思えないよな、やっぱり。
だけど、そう思うだけで実のところ、僕はそんなに困っちゃいない。娯楽に興味がないからだ。と言うより、あまり物事に対して興味が沸かないのだ。多分、生きる事に対しても執着はしていない。死んだら死んだで構わない。
何もない。
この部屋は、僕その物なんだろう。
顔を洗って、制服に袖を通して階下のリビングに行く。
僕、母、父の三人家族だが、僕が高校に入学してから家族との会話は殆どない。別段、僕が反抗期という訳じゃない。単に生活のリズムが合わないだけなのだ。父も母も朝早くから仕事に行き、夜遅くに帰ってくる。僕はと言えば、学校が近いから始業のギリギリまで家に居られるという訳だ。おまけに寝るのが早いから、両親のどちらかが帰って来る頃には寝息を立てている次第である。その気になれば会話ぐらい出来るのだけど、その気になる必要も今のところ、特にない。今のご時勢、携帯で連絡ぐらい取れるし。
だからこうして、独りでトーストを齧る作業も苦ではない。かと言って独りで居るのが楽って話でもないんだけどね。
まあ、慣れってのは良くも悪くも素晴らしい。
八時十分。
ニュース番組を流し見てから、僕は家中の戸締りを確認する。窓の傍に立つと春の陽光が瞼に降り注いだ。うーん、少し眠たい。どうしようかな、学校行かないで眠っておこうかな。
けど、悩むだけ悩んで結局家を出る。いつもの事だ。
靴を履き、玄関の鏡で身嗜みを確認して、ドアを開ける。眩しい。
学校まではゆっくり歩いても五分前に到着出来る余裕がある。焦らなくて良いのは実に良い。中学の時とはえらい違いだ。
この先の角を曲がって、信号を二つ渡れば校門が見えてくる。
うん、今日も平和だ。尤も、僕に取っちゃ平和じゃなくても良いんだろうけど。
そして僕は角を曲がり、
「記憶ってのはさ」
曲がったところで、得体の知れない誰かに話し掛けられた、気がする。
と言うのも、姿が見えない。声だけしかしないのだから仕方ない。
「……?」
気にせず歩くが、声はまた僕の耳朶を打つ。
「脳味噌に蓄積されてんだよな。だから、記憶を消すって一口で言っても難しい。結局、脳を消す訳にはいかないんだからな」
空耳の筈、ないよな。気持ち悪い。幽霊、か?
「残るもんは残るんだ。何かをやったって記憶がなくても、事実は残る。体のどこかが覚えてる。人間ってのは不思議なもんで、同時に尊いもんでもある。強い気持ちさえ残ってりゃ、あの時の事は忘れても、誰かを好きだって事は思い出すさ」
耳を塞いでも声は聞こえ続けている。まずいな、疲れが溜まっているのだろか。いや、でも疲れるような事なんて最近はしちゃいないし。
「そいじゃあな――――相棒。また会おうぜ」
「――っ!」
何故、だろう。どうしてだろう。
さっきまでの声が、急に懐かしく感じられてしまった。やけに、心地良いと感じてしまった。でも、もうその声は思い出せない。全て、風に消えた。露と消えた。
「…………?」
本当に、何だったんだろう。
さっきの声で面食らっていたが、とりあえず、僕は学校までの道を行く。
だけど、正門前の信号で捕まってしまった。ああ、ちょっとばかり歩くのが遅くなってしまったかな。
「………………」
「ん」
僕の横に、背の低い誰かが立った。
「……今朝は早いんですね、先輩」
声まで掛けられてしまう。誰だろうと顔を向ければ……ああ。
平たく言えば、そいつは僕の幼馴染だった。一つ下の女の子、である。
「久しぶり」
彼女の名前は七篠歩。僕が家族以外で名前を覚えている、数少ない知人の一人だ。
「…………声、掛けてくるんですね」
七篠は僕に視線を向けず前を見たまま呟く。その視線は多分、何も捉えてはいない。自分以外のモノを射抜くような鋭いものに見えて、その実空っぽなのだ。
彼女の不揃いなショートカットが風に揺れ、車が一台通り過ぎていく。
「掛けちゃ悪かったかな」
「別に」
別に、七篠とは喧嘩している訳じゃない。喧嘩するほど、関わり合いがない、仲が良くないだけだ。
彼女の住まいは僕の家の近くに建っているマンションの、確か、割と上の階だった気がする。
うん、家同士も近かったから、僕が中学を卒業するまでは出会ったら話すくらいの交流はあった。それこそ小学生の頃は頻繁に面倒を見ていた気がする。
だけど、それまでだ。それ以降は全く関わりがなかったのである。
僕が高校に入って生活サイクルが変わり、人付き合いも億劫になって、七篠とも出会わなくなっただけの事だ。
悲しくもなんともない。幼馴染なんて関係は年月を経る毎に疎遠になるものだろうから、ある意味自然な流れとも言えた。感情が口を挟む余地はない。
「そっか」
ただ、懐かしくはある。こうして顔を合わせ、話をするのは二年ぶりだったし。
……七篠に関する話だけは聞いていた。
凄い奴が陸上部に入ったのだと、そういう話。二年に上がってすぐだったかな。そこで初めて、あー、また同じ学校なんだと、そう思ったのである。それくらい。
お互い学校内でも通学路でも出会わなかったし、わざわざ会いに行く親交もない。しかし、こうして顔を合わせば昔からの知り合いという事で、ぎこちない挨拶くらいはする。
僕と七篠はこの程度の間柄だった。
「……先輩」
「何?」
七篠は僕の隣に並び、立ち止まっていた。信号が青になったと言うのに、彼女は進まない。どうしてだか、僕の足も止まっている。置き去りにしてしまえば良いのに。待つ理由なんか、どこにもないのに。
ただ、そうするのが当たり前のように感じて、いつも通りの事だと思ってしまう。
「あ、いえ。すみません、何でもありません」
「そうか?」
「ええ。ただ、その、何か言わなければならない事があったような気がして」
うーん。そう言われれば、僕もそんな気がする。が、二年ぶりに出会ったのだ、七篠にも思うところがあっておかしくはない。多分、大した事ではないのだろう。
「……思い出したら、また言いに行きますね」
「ああ、分かった」
彼女も同じような事を考えていたのだろう。僕を置いてすたすたと歩き出す。ま、本当に重要な事ならば、会わなければならない事でもあるのなら、また、明日にでも七篠とは出会うだろう。家も近いし。むしろ、今まで会わなかったのが不思議なくらいである。
しかし、今朝は良く分からない事ばかり起きるな。おかしな声が聞こえたり、疎遠になっていた後輩には話し掛けられるし。
「あれ?」
と、もう一つ珍しい事が校門で起こっていた。僕の通う高校は取り立てて変わったところがある訳じゃあない。進学校でもなければ、部活動に力を注いでいるでもなく、問題を起こすような生徒だっていない。だから、する必要性を感じられない服装検査なんてのは初めてだ。
校門には先生たちや数人の生徒がファイルとペンを持って、通り過ぎる生徒たちをぼんやりと眺めている。朝からまあ、ご苦労な事だな。恐らく、各クラスの学級委員長なり何なりが呼び出されたに違いない。こういう時、部活動やらに属していなくて良かったと素直に思えるのは、僕が人付き合いに寂しい証拠なのだろうか。
検査されるのであるから、一応、自分で確認出来る範囲で服装を見てみる。良し、大丈夫。シャツも第一ボタンまで留めているし、どこからどう見ても品行方正。
しかしながら、どうしてだろう。少し緊張する。何も悪い事なんてしていないのに、パトカーが通るだけで襟を正してしまいそうな小心のせいだろうか。
「あ、ちょっと待ちなさい」
「へ?」
とある女子生徒の前を通り過ぎようとしたところで、呼び止められてしまう。
「……えと、何かおかしかったかな?」
もしや、背中のところが破れていたり解れていたりでもしていたのだろうか。
が、その、僕を呼び止めた、いかにもな、委員長然とした女の子は小首を傾げている。そうしたいのは僕だと言うのに。
「うーん」
暗いところにいる猫みたいにくりくりとした瞳が、僕をじっと見つめている。
「三回回ってみてくれないかしら?」
「う、うん」
検査だから仕方ない。僕は言われたとおりにその場で三度回った。
「ワンって言って」
「わん」
「あははははっ、嘘嘘、冗談だったのに。あなたって面白いのね。教室にいる時とはまるで違う人みたい」
へっ?
「冗談、だったの?」
「からかっちゃってごめんね。あなたを見てたら、ついつい口が勝手に動いちゃって」
僕が犬みたいと言う意味だろうか。
ん? いや、それより今なんて言ってたっけ。教室にいる時の僕を知ってるって事は……あ、思い出した。確か、えーと、名前は思い出せないけど、僕の隣の席に座ってる子だ。
「そっか、君が委員長だっけ」
「えー、同じクラスなのに名前覚えててくれなかったの?」
「えっと、ごめん。朝霧さん、だっけ?」
朝霧さん(仮名)は少しだけ不満げに眉根を寄せる。
「あ、か、し。明石つみきよ。もう、自分のクラスの委員長の名前ぐらい覚えておいた方が良いと思うわよ」
全く以ってその通り。名前を間違えてしまったんだから、全ては僕に非がある。ここは大人しく頷いておこう。
「ん、なら許してあげる。……あ、あと五分ぐらいでチャイム鳴るからね。遅刻しちゃダメだよー?」
「うん、気を付けるよ」
と、今更ながら気が付いた。
「あのさ、どうして僕を呼び止めたの?」
「え?」
明石さんはうーんと考え込み、
「そう言えば、どうしてかしら。ごめんなさい、朝早かったからまだ寝ぼけてるのかもしれないわ」
人好きのしそうな笑みを浮かべる。
いつもの朝とは違い、今日は幾分か騒がしかったように思える。が、それだけだ。他にはもう何もない。授業を受けて、まっすぐ家に帰って、その繰り返し。ある意味ループ。たった三年だが、その行程の半ばにいると長く感じてしまうな。まだ二年目なのに、何だかもう三年ぐらい経っているような。
「…………」
うん、今日はもう何もない。と言うか、この先だって何もないのだろう。嬉しいと思えるような事も、悲しいやら、腹立たしいやらと思えるような事もない。誰かを好きになるなんて事も、何かを嫌いになる事だってないのだろう。
が、なんだ。しかし、と言うか。日頃無感情で無感動な僕でも、こう、何かが立て続けに起こると期待せずにはいられない。何か、起きるんじゃないかって。実際、何も起きないのが一番だと思う。波風立てないで過ごすのがこの世で最も難しく、最も尊いものだと思う。
でも。
僕のクラスの靴箱で、靴紐と悪戦苦闘している女の子が目に入った。見覚えはある。同じ靴箱を利用しているのだから、クラスメートであるのは間違いない。
くりくりっとした大きな目。明るい茶髪、ちょっと短い髪の毛。社交的、活発的な雰囲気を持ち合わせているような、そんな子だ。僕とは性別から何まで真逆の位置に存在している。
新学期がスタートして一ヵ月ちょっと。ゴールデンウィークを過ぎて、仲の良いクラスメートの顔と名前が完全に一致する時期。
残念ながら、僕はまだクラスの半分どころか、四分の一程度しか把握していなかったりする。そして目の前の彼女の名前を、僕は最初の一文字だって知らない。
彼女はよほど不器用なのだろうか、さっきから首を傾げながら、唸りながら紐を解こうとしている。
いつもなら、昨日までの僕なら無視していただろう。
「…………」
けど、どうしてだろうか。
頭の中に、名前が浮かぶ。
多分、その女の子の名前だ。強い衝動に囚われ、迫られ、そう思う。そして同時に、何か言わなきゃならない。そうも、思った。
『先輩、また明日』
足を一歩踏み出す。
『それじゃ、また明日ね』
心臓は高鳴っていた。
『また、いつか、な』
世界は、こうしてまたループするのだろう。そう思っていた。朝を迎え、学校に行き、夜を迎えて……だけど、同じ一日なんて存在しない。
何かが動けば、何かが変われば僕が変わる。そうじゃないんだ。
僕が動けば、僕が変われば、世界は変わる。唐突に、そう思った。
だから、
「おはよう――――」
僕は、彼女の名前を呼んだ。




