保健室〈2〉
保健室で、僕は女の子と出会った。
「うわあああっ、寄るな、来んなよ人殺しぃ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ。まだ殺してないんだし」
「うわあああっ、まだって事はいつか殺すつもりなんじゃねえかあ!」
その女の子に、僕は人殺しと罵られている。何をしたって言うんだ。
僕はただ、ハサミを持って襲い掛かる七篠からそれを奪い、彼女を組み敷いているだけじゃないか。
「違う。僕は、無実だ」
「どう考えたって犯罪者じゃないかよう!」
それでも僕はやってない。
とりあえず、ハサミを捨てる。七篠から退く。
「落ち着いて話をしよう」
「ひ、人殺しと話すことなんかない!」
困ったな。もう時間がないのに。
「うるさい、黙りなさい」
「ひっ……」
女の子が肩を震わせて慄いた。正直に言おう、僕も恐い。
「私たちには時間がないの。あんた、大人しく質問に答えなさい」
明石さんは女の子の間近でメンチを切っている。
「……ひ、ひいっ」
「分かったの?」
両肩を掴まれた女の子はかくかくと首を振った。ふう、何とかなりそう。
だけど、やっぱり僕たちが犯罪者チックなところは否めなかった。
女の子をベッドの上で正座させると、明石さんは腕を組んで立ち上がる。
「あんたの名前は?」
「え、え……?」
「名前は?」
「ゆっ、ゆうき」
ダン、と。明石さんは近くにあった椅子を蹴り飛ばした。
「ひ……っ!」
ちなみに、今びびって声を上げたのは七篠である。
「フルネームで答えなさい」
「か、河原ユウキ、です」
「河原……? ふうん、そ。じゃユウキ、あんたは、どうしてここにいるのかしら」
女の子――ユウキちゃんは視線を泳がせながらスカートの裾を握り締めた。
「あ、あの、あの。わ、分からない、です……」
「はあああ? あんた馬鹿? 馬鹿なの?」
うわー、明石さん超楽しそう。
「ここ、あんたの学校?」
「違います……」
「だったらおかしいわよね? ねえ、私、隠し事って嫌いなの」
「しっ、知らないもんは仕方ねえだろぉ!」
「先輩には敬語使えやオラア!」
「ごめんなさい!」
ああ、ちなみに、今謝ったのは僕だ。
「知らないのにこんなとこ来る筈ないでしょうが。ほら、言いなさい。言わなかったら……」
明石さんは何故か落ちていたハサミに目を向ける。ユウキちゃんは何か察したのか、助けを求めるように僕たちを見てきた。
僕はそっぽを向く。いや、だってさ、犯罪者に助けを求めちゃ駄目じゃないの?
「言いなさい。さん、にい、いち……」
「わっ、分かった! 言う、言うからっ」
ユウキちゃんは両手をばたばたさせながら、縋るように明石さんを見る。
「その前に、あ、あんたたちはあいつらの仲間じゃないよな?」
あいつら? 仲間とは何の事だろう。少なくとも、僕らにはこれ以上協力者はいない。
「あいつらってのが誰なのかは知らないけど、僕たちには他に仲間なんていないよ」
「ほっ、本当か?」
「本当だって。ついでに言うなら仲間どころか友達すらいないんだから」
「見りゃ分かるよ」
死のう。
子供にすら見通される薄っぺらな人生なんか、意味ない。
「……先輩、落ち着いてください。ああ、ハサミに手を伸ばさないで。しっかり。大丈夫です、私にも友達いませんから」
「はっ、そうだった。この世界で孤独なのは僕だけじゃない」
「そうです。安心してください。さあ先輩、二人で舐め合いましょう」
「へっ、変態がいる! 舐め合うって何をだよぉ!」
「ほっときなさい。それよりもあんたは話を続けなさい」
次は変態か。
僕はしがみ付いてくる七篠をひっぺがして、ユウキちゃんの話に耳を傾ける。
「……今日の朝なんだけどさ。家に、変な奴が来たんだ」
「明石さん、何か僕に用?」
「何もないわ。ユウキ、変な奴って、男?」
「う、うん。姉ちゃんが学校行ってすぐ、白い服着た奴が勝手に上がり込んできたんだ」
勝手に家に入ってきた。確かに、疑う余地もなく変な奴だな。
「そいつ一人で入ってきたの?」
「多分。でも俺、すぐに気を失っちゃって」
「……へたれですね」
「違うぞ! 何か変なものを嗅がされたんだ! そ、そうだ、ありゃクロロルシルフルって奴だった!」
そんな盗賊知らないし。第一、クロロホルムには即効性がない筈だ。その手のドラマで良く見かけるけど、ハンカチに染み込ませた時点で薬品自体が揮発しているから効果は薄い。と、聞いた事がある。まあ、それでも五分ぐらいハンカチを口元に当てていれば気絶するだろうな、酸欠で。
「分かった、分かったわよへたれ」
「分かってねぇじゃんかよ!」
「分かったから続けなさい。で、それからどうしたの?」
「気付いたらここで寝てたんだよ」
明石さんが露骨に顔をしかめる。
「使えないわね」
「だってしょうがねぇじゃんかよ!」
まあ、話は大体掴めた。保健室の謎が解けた。
まず僕が殺された理由、それは、ユウキちゃんを見ようとしてしまったせいである。どうして彼女を見たら殺されるのかは知らないが、とにかく、見てはいけない誰かはこれで分かった。
次に、ユウキちゃんをここまで連れてきた誰かだが……。
「単純に考えりゃ、犯人は保健の先公よね」
そうだろうね。でも、どうしてこんな小学生女子を誘拐してきたのかが理解出来ない。
「つーか姉ちゃん呼んでくれよ。俺、家に帰りたいんだけど」
尤もな意見である。僕だって子守はごめんだ。
「七篠、五時間目まであと何分だ?」
「……およそ十分ですね」
仕方ない。ユウキちゃんにはここにいてもらって、そのお姉さんとやらを事情はぼかして連れてこよう。
「分かった。お姉さんの名前を教えてくれるかな?」
「シイナ」
シイナ、河原シイナね。うん、全く心当たりがない。
「……私のクラスにはいない子です」
「多分、僕のクラスにも」
僕と七篠は同じように唸った。
「河原、シイナ。ああ、それって生徒じゃないわ」
「え? そうなの?」
「あんた、本当に分かんないの?」
明石さんは額に手を当て、やれやれと息を吐く。
「河原シイナ。二年三組の担任よ」
河原シイナ。二年三組の担任教師。
僕。二年三組の生徒。
ああ、つまり、ユウキちゃんは僕の担任の、妹と言う事になる。
「どうして気付かないのかしらね。あんたって本当愚鈍」
そんな事言われてもなあ。
だけど、これでまた見えてきたぞ。ユウキちゃんは全く訳の分からないところに連れてこられた訳じゃないらしい。どうやら、お姉さんこと、河原先生の職場に連れてこられたらしい。
「ユウキちゃんには心当たりがないのかな?」
「ねぇよ、ウスラトンカチが」
さっきから、ユウキちゃんの僕に対する態度が冷たい。明石さんにやられている分を僕で発散しようとしているのだろうか。
「……ここで考えていても仕方がないのでは?」
「確かにそうね。じゃ、職員室まで行きましょう」
「あ、ちょっと待って」
不機嫌そうにこちらを見る明石さんにたじろぎながらも、僕は自分の意見はしっかり伝えようと頑張る。
「多分、職員室には誰もいないと思うよ。ほら、七篠だって五時間目で確認したろ?」
「……ああ、そう言えば。では、河原先生はどこにいるんでしょうか」
僕が知りたいね。
「何にしろここから出なくちゃ話にならないわね」
明石さんが足を踏み出すと同時、保健室の戸が開く音が聞こえた。あれ、もしかして。
全員が口を閉じ、空気と一体化していく。一歩一歩、こちらに向かってくる足音。
そして、その足音は僕たちのいる部屋の前に立ち止まり、戸が開かれ――。
「何やってんだよっ」
開き掛けた戸を、明石さんは押さえていた。
「誰かいるのかっ!」
向こう側から聞こえてくるのは男の声である。まずい、ばれた。大人しく隠れていれば、まだ寿命が延びたかもしれないのに。
「手伝いなさいよ馬鹿っ」
「手伝えったって……」
籠城したって先は見えない。諦めた方が良いんじゃないのか。戸は少しずつ開いているし。
「……させません」
男の腕が明石さんへと伸ばされた瞬間、七篠が箒を持って戸に滑り込む。彼女は自らの足を支えにしながら、開くのを防ぐ。更に、持っていた箒を斜めにして支えを強化する。
仕方ない。
「代わって!」
僕は明石さんに駆け寄り、彼女の役目を受け継ぐ。
「持たせてよね」
自由になった明石さんは、床に転がったままのハサミを引っ掴み、何もない空間をもがいていた男の腕に、突き立てた。
「ぐあ……っ」
うわ、痛そう。痛みに耐えかねたのか、腕は戻っていく。ま、これで少しは時間が稼げたか。ハサミは持っていかれたから武器になりそうなものはもうない。次に同じ事をやられたら厄介だ。
「バリケードでも作ろうか」
言いつつ、僕はベッドを動かしている。七篠は支えになったままだったから、明石さんが手伝ってくれた。
「お前ら、すげぇんだな」
「そうでもないよ」
今まで茫然としていたユウキちゃんが、きらきらとした瞳を向けてくる。何だかこそばゆい。
「ま、あの程度なら雑作もないわね」
「うおー、アカシかっけえな!」
「あら、ありがとう」
褒められて気を良くしたのか、ユウキちゃんから呼び捨てにされている事に気付いていないのか。明石さんは満更でもなさそう。
一つ目のベッドを戸の前に置く。これじゃあ足りないな。と言うか、引き戸には効果はない。
「七篠、もう一本くらい箒を足しといてくれないか?」
「……分かりました。それと、窓際にも何か置いた方が良いのでは?」
廊下側と、運動場側か。ベッドを一つずつ置けるけど、やはり心許ない。
「置かないより気は楽になりそうだな。頼むよ」
七篠は頷き、バリケードの形成に取り掛かった。
「さっきの奴、どこに行ったのかしらね」
「多分、誰かを呼びに行ったんじゃないかな。ああ、それよりも、顔とか見えなかった?」
「それどころじゃなかったわよ。あんたこそ見てなかったの?」
本当に申し訳ない。
「まあ、良いけどね。それよりも、どうするのよ。ここに閉じこもってても意味ないわよ」
閉じこもる原因を作ったのは明石さんなのに。でも何も言えない僕。
「うーん。せめて、相手の正体を確認出来たら心置きなく死ねるんだけどな」
「おっ、俺は死にたくないぞ!」
おっと、ここにはチャレンジの部外者がいたんだっけ。
「ああ、物の喩えだよ。僕だって死にたくはないさ」
「な、なんだ。そうなのか。ったくよぅ、びっくりさせんじゃねえよバカ!」
口悪いなー、こいつ。しかも僕に対してだけ。親の顔が見てみたい。
「……先輩、終わりました」
「ありがと。それじゃあ、次は頭を働かせようか」
「あ、その事についてですが」
おや、何か良い案でも思い付いたのだろうか。
「……追撃が来ます」
「追撃?」
「ええ、向こうから足音が複数聞こえてきましたから」
思ってたよりも早い。まずいな、力押しで来られたらどうしようもないぞ。
「七篠さん、具体的な人数は分からないかしら?」
「……三、もしくは四ですね」
「ふうん。なら、なんとかなるわね」
「うおぉ、またかっけえなあアカシ!」
って、おいおい。相手はただの大人四人じゃないんだぞ。武装したテロリストなんだ。馬鹿な、なんとかなるだって?
明石さんに目を遣ると、彼女はこちらを向いて意味ありげに口角をつり上げた。……なるほど、なんとかなるのは僕の方か。
先に言っておくと、この場はもうどうにもならない。
籠城戦をしなきゃいけない状況に追い込まれた時点でチャレンジは失敗になる。今までを振り返るに、そう言っても過言ではない。
では、無為に殺され無意味に死ぬのか。答えはノーである。僕らには次がある。死を目前にしたとして、次に活かす何かを掴むまでは足掻く。徹底的に抵抗する。
だから、戸の前からベッドを退かした。こんなもの、端っから使えない。
「来たわよ」
保健室にやってきた足音を確認、僕たちは顔を見合わせる。やるぞ。やるしかない。
七篠は箒と一緒につっかえ棒の役目を。僕は戸に体を押し当て、物理的な衝撃を和らげる。こんなもの、男が四人掛かりなら数度の体当たりで壊されてしまう。だから、僕と七篠はあくまで時間稼ぎだ。
「私の合図で動く。良いわね?」
本命は明石さん。彼女の双肩に、この場は預けた。押し付けてやった。
「一度目、来るわ」
戸に付いた窓ガラスから、相手の動きを明石さんが確認する。
僕は出来る限り力を込めた。が、
「うわ……」
あっけなく吹っ飛ぶ。床に尻餅を付きながら、片膝を付いて戸に体をくっ付かせた。
「相手は三人。へえ、さっきよりも助走を付けて――」
来る。
「――二度目」
「……持ちませんね」
さっきよりも吹っ飛んだ僕を見て七篠が呟いた。確かに、まずい。三度目の正直だ。
「次で行くわ。あいつら、馬鹿みたいに下がったからね」
「助かるよ」
立ち上がり、窓を覗く。良し、ばっちりだ。
『うおおおおっ!』
野太い声の三重奏。足音はけたたましく、足取りは勇ましく。
「開けてっ!」
合図と同時、七篠がつっかえていた箒を外した。自由になった開閉空間。僕はタイミングなど計れずに、ただ単に、戸を開ける。
半分、だけ。
「閉めてっ!」
再度の合図で僕は戸を閉める。七篠は再び箒をセットし、つっかえ棒の役に戻った。
ちらっと向こうを覗いてみると、勢い余ったのか、頭と鼻を押さえた男が二人。
そう、二人しか向こうにはいない。
「……上手く行きましたね」
残りの一人は、
「さて、始めましょうか」
「なっ、てっ、てめえら!」
ようこそ、こちら側へ。
僕の狙いは、ここに来たら一つしかない。テロリストの正体を確かめる事だ。そこに明石さんも乗ってくれたのである。
考えたのは、テロリストのマスクを剥ぎ取る事。これが一番楽だからだ。しかし、相手が三人ともなるとややこしい。しかもこっちは半密室。打って出る場所もなければ、打って出たとして成す術なく殺されてしまう。どうすれば良い?
うん、相手を一人にしてしまえば、マスクを剥ぎ取るのは幾分か容易になる。
戸を開けるのに力押しで来られなかったらどうしようかと思っていたが(ガスでも入れられたら困っていたと思う)、やっぱり相手はずさんだった。
突進してくる三人の距離も空間も二度の仕掛けで掴めていたから、後は簡単。何せ相手から虫かごに突っ込んでくれるのだ。
しかし、まだ二人も向こうにいる。僕も七篠も戸を守らないとならない。必然、テロリストと明石さんの一対一になってしまう。
おまけにこっちも長くは持たない。だけど、やるしかない。やるしかないんだ、明石さんが。頑張れー。
戦いの口火を切ったのはテロリストだった。馬のマスクを被った彼は(その無能さに対して驚くべき事に)素手で明石さんに向かっていく。
狙うなら普通こっちじゃないのかとか、銃は持っていないのか、とか思ったけど、有利なのはこちらなのだから文句は言えない。
明石さんはテロリストが伸ばした腕を、体を沈ませて躱す。その体勢から手を床に付き、足を繰り出した。テロリストの足を払って転倒させようとしたのだろうが、しかし、重さが足りない。
「この……っ」
テロリストは攻撃をもらいながらも、明石さんに再び手を伸ばした。
だが、その手も届かない。彼女はテロリストの脛に爪先を置いたまま、そこを軸にして相手の股を抜けたのである。
「パロスペ――」
「おおおおおおっ!」
「――きゃあっ!」
いや、なんと言うか、凄いな明石さんは。僕の予想以上に動けているじゃないか。頭は良かった筈だけど、こんなに喧嘩も強かったのか。
ふと、思い当たる。そう言えば、死後の世界で死神さんと色々やっていたっけ。他ならぬ僕だって、彼女らに技と称したいじめを受けた事もあった。そうか、あれは無駄じゃなかった。僕の犠牲はここに、こうして生きている。くだらねえ。
丁々発止、テロリストと攻防を繰り広げる明石さんではあるのだが、どうにも決め手に欠けていた。
「……先輩、箒が」
七篠の不安げな声。ああ、向こうの勢いに押されて戸も、僕も限界ぎりぎりだ。つっかえ棒になっている箒は今までに見た事がないくらいにしなっている。まずい、まずいぞコレ。
「明石さん、急いで!」
「分かってるわよ!」
箒が折れれば戸は破られる。僕が折れても破られる。時間の問題だな。しかも、その時間も残りは少ないだろう。
そして、物事と言うものは往々にして悪い方へと転がるものだ。
元々、失敗して当然の策なのである。明石さんとテロリストの一対一に持ち込んだまでは良かったが、時間が掛かり過ぎた。彼女は死神さんに師事して、確かに、強くはなったと思う。でも、体力は変わっていないんだ。男と女。それも、高校生と大人だ、長引けば長引くほど、明石さんは不利になる。ああもう、マスクを剥ぐだけで一苦労だよ。
ってうわ。
あらら、明石さん、遂に倒されちゃった。テロリストに馬乗り(マスクが馬なだけに)されて、
「クソガキが……!」
ああ、ナイフが、煌く。
テロリストが持っているものは、細山君のよりも無骨で、人を殺す事に特化したような、本物の凶器だ。
「……先輩っ、本当に持ちません!」
戸は破られる寸前、明石さんは殺される寸前、チャレンジは失敗目前。
「ふ、ふふっ」
明石さんは笑う。死はもうそこにあると言うのに、自信満々に口角をつり上げる。
本当、嫌な笑顔だ。