002……災禍の足音
周囲から聴こえる、小波の様な小声。
それらは侮蔑であったり、忌諱であったり、悲嘆であったり。どれも耳敏いアカリには拾えてしまう。
村に入って、鍬を担ぎながら進む。畑はまだ先にある、長い道程には必ず障害が付き物。物であろうと、人であろうと。
また行く手で村の子供を率いる少年デルトが棍棒を持って待ち構えている。今まで軽く叩かれたことしか無かったが、踏み込んだ足音の具合から、力を込めて振るう積もりだと確信した。
アカリは足を止め、前進するのを躊躇った。地面を一度だけ擦った音からかなりの重量感が察せられる。一度でも打たれただけで、今日の仕事には大きな弊害となるだろう。
デルトは村の道具屋で働き、周辺の子供を統率する、所謂ガキ大将だった。
メルの隣の家、つまり彼女が嫁ぎたい家の跡取りであり、幼馴染である。昔からアカリに対する冷遇で、最も暴力沙汰に発展させるのはデルトだ。一番酷い怪我で負わされたのは骨折だった。
最近は外聞などもあって、デルトが大きな行動に出る事は無かったが、今日の彼は普段と比較しても異様。棍棒という凶器を持ち出してまで、アカリを害するなど尋常ではない。
アカリは周囲を音で感知するが、やはり前途は伏兵に包囲されている。どうあっても彼は逃す積もりが無い。
路傍で見守る声には、やはり傍観する姿勢の村人。味方も居ないとなれば、このまま来た道を折り返しても後ろから打たれるだけだろう。避ければ生意気と、更なる暴力を紡がせる。逆効果だ。
アージスに迷惑をかけたくない、その一心でいつも自ら抵抗する事さえしなかった。十五歳となっても、その日々に変化はない。
意を決したアカリが前進する。
さらに一歩踏み込んだデルトが、棍棒を力強く振り絞る。鈍い風切りの音で察知したアカリは、鍬で防御の姿勢に入った。避ける積もりは毛頭無い、せめて被害が最小限に留まれば良い。
デルトが身を捻り、遅れて棍棒が唸る。
アカリは身を固くして衝撃に耐える構えに入った。
――本当にそれで、良いの?
「えっ……?」
耳朶を打つ清澄な声音。
アカリの上体が勝手に後ろへ反った。棍棒が鼻先の空気を薙ぎ払って擦過する。空振りしたデルトは、そのまま棍棒に引っ張られて前のめりに倒れた。
困惑する一同、しかし一番戸惑っていたのはアカリだった。突然聞こえた声は、村人のものではない。直接頭に語りかけてくる奇妙な響き。
姿勢を正したアカリは、目許に痛みを覚える。目隠しの上から顔を押さえていると、デルトが襟首を摑み上げて来た。
「てめぇ、何で避けやがった?」
「ご、ごめん。判らないんだ」
当惑するアカリに、デルトが拳固を振り上げる。今度は頭頂に叩き付ける積もりなのだと、彼の関節から発せられるほんの小さな音すら聞き取って悟った。
今度は棍棒ではない。当たっても、先刻よりは安全である。この程度なら日常茶飯事だった。
安堵して歯を食い縛るアカリに、デルトは勢いよく拳を突き出した。
――一体どうして、優しい子なの。
「…………っ!」
またしても、アカリの体が意思とは無関係に動き出す。頭を横に煽りながら、平手を前に打ち出した。拳は耳を掠めて過ぎ、攻撃で前傾姿勢だったデルトの鼻っ面を掌底が命中する。
一瞬だけ周囲の騒めきが大きくなった。小波だったものは潮騒となり、デルトの逞しい体が鞴踏を踏んで後ろに尻餅を突く。
唖然とする皆に、アカリはこれ以上は居たたまれなくなって、小枝も忘れてデルトを飛び越えると、畑に向かって走り出した。
脳内に届く声は、誰だろう。自分の体を操るモノは、何なのだろう。
ただ漠然とした恐怖がアカリの胸を支配した。
畑に到着すれば、聞きなれた声が迎えた。
此方に駆け寄りながら、無邪気にアカリを呼ぶ。そちらに体を向けて一礼した。村の中でも唯一、気兼ね無く接するアージスは、こうして大きな声でもアカリに挨拶をする。
「遅かったなアカリ。またデルトの野郎か」
「い、いえ……」
動揺を悟られまいとするも、やはり付き合いの長いアージスには容易に読み取れてしまう。何よりも、今日の出来事は些か以上に大きな衝撃があって、アカリの口許は引き攣っていた。
畑で既に鍬を手にした者が働かずに雑談に興じる様に見えているアカリに非難の視線を送るが、次期村長のアージスと会話中とあっては横槍を入れる真似ができない。
そんな全員の屈託を尻目に、アージスは親しみを込めて彼の肩を叩くと、首に腕を回して引き寄せる。
「今日はやけにメルが機嫌良さげに帰って来たぞ。報告する声も弾んでたし、何かあったのか」
「え、メルですか?うーん……帰還の途上で良い物でも貰ったんだと思います」
「あー、違うのかよ」
落胆に俯く彼に、アカリは自分の失態と思って混乱する。メルの機嫌の良さについての心当たりは無い。一緒に誕生日の約束の品を見たくらいしか特別な出来事として思い付く程度である。
暇乞いを告げ、股引の裾を上げながら鍬を持って畑に降りると、またしても背後からアージスの誰何が響く。肩を回して準備運動をしながら振り返った。
「例の物については、メルから聞いた。箱を持って終わり次第来てくれ。準備しておく」
去って行くアージスの足音に一礼した後、鍬を地面に突き立てて目隠しを改めて固く縛る。畑の全員に遅刻を謝罪してから仕事に取り掛かった。沈黙の返答も気にせず、無心で大地に向き直る。
仕事中に誰かの悪戯を受けることはない。デルトも危害を加えて来る事もない、この時間が唯一の憩いだった。
明日からは声も知らぬ親が時を経て贈ってくれた義眼を付けて過ごす。きっと、明日からは違う何かが始まるのではないか、そんな予感がアカリの胸を踊らせる。
しかし、アカリは顔を顰めて空を仰いだ。
「枝、また都合しなくちゃ」
折角、身の丈にあった良い枝だったが、デルトの現場を離れる際に置き去りにしてしまった。路上とあって、きっと無事ではない。
義眼の件で浮いていた心が少し落ち着き、それからは静かに仕事に励んだ。
*****
アカリは仕事を終えた夕刻、一度帰宅をしてから直ぐに村長の屋敷に向かった。箱を懐中に忍ばせ、足音でデルト達の判別を行って警戒しつつ進む。その慎重さがまた村では目立つのだが、危惧していた者との遭遇が無かった事が幸い。
屋敷に到着すると、襟を正して戸を叩いた。
応答の無い数秒の後、扉の向こう側で忙しない足音がする。急接近するそれに、一歩だけ戸から退いて待った。
すると、扉が勢いよく開け放たれ、中から飛び出したものがアカリの胴を打つ。受け止めた彼は一瞬呼吸困難に襲われながらも表情に出さなかった。
彼の胸に拳を叩き込んだ張本人はメルだった。何やら嬉しそうに含み笑いを溢している。
「遅いよ、バカ」
「何でメルがここに?」
「折角だから、義眼を嵌めたアカリ兄さんを見てみたいじゃない」
アカリは箱を懐から出し、屋敷の中へと踏み入る。戸を閉じて、メルに案内されて医務室へ向かう。廊下の侍女が忌まわしげに彼を見詰めるが、本人は視線で感情を悟れないので依然微笑んでいる。
箱の中を触って確認し、これから自分の身の一部になるのだと思うと、彼はかつてない喜悦に胸裏が震えた。しぜんと笑みが口許に浮かぶ。
メルとしては、これほどに無邪気なアカリを見たことはなく、思わず見入ってしまった。彼女が喜んでいたのは、別に義眼を嵌めたアカリへの好奇心のみではない。
家に帰宅して聞いた話では、遂にアカリがデルトに反抗したのだという。それも、棍棒を片手にした彼を張り倒して去った。
いつもは軟弱だった彼の反抗せぬ姿に苛立っていたメルとしては、嬉しかったのだ。
医務室を開けると、既に屋敷の医師が待っていた。アカリを寝台に寝かせると、義眼の滅菌を始める。既に事を聞き及んでおり、言葉無く作業を進めた。
仰臥するアカリの隣では、その手首をメルが握る。義眼をするのに痛みが伴うか、事前の説明が無いとあって些か不安だが、メルの温かい体温がそれを和らげた。
「怖いなぁ」
「叫ばないでよ」
「えぇ……無理な相談だよ」
メルが黙った。
義眼の装着が始まるのだと察して、アカリも口を閉ざした。瞼を開けて、ゆっくりと体内に侵入してくる異物感。
不快な存在感を提示するそれも、暫くすると恰も生得の我が身の一部が如く、何ら問題無くに溶け込んだ。たった数分しか無い装着の所要時間、痛みもなく済んでアカリは安堵した。
アカリが感触を確かめるように、瞬きを繰り返す。義眼の上を滑る瞼の感覚も、違和感すら無い。
驚嘆しているアカリの脳裏に、またしても声が響いた。
――漸く一つになれた。
「……?何か、声が……」
その瞬間、激痛を覚えてアカリは気を失った。
**********
辺境の村の入り口に、雑踏が接近していた。
歩調の乱れは無く、重なる複数の足音はさながら行軍の地鳴り。しかし、音源の正体は外貌はそれと全く異なる種の者で構成された装束の集団。
裾が襤褸となった黒衣に錫杖を手にした者ばかり。天に向けて一歩を踏み進める毎に衝き上げ、僻地の湛えた寂寥の空気に遊環を響かせた。
奇異なる一団が行進する景色を遠目に見た物見櫓の見張りは、怪訝な視線でそれに目を凝らす。足音とは別に、何やら低く曇った声が聞こえる。
耳を澄ませば、それが更なる不気味な雰囲気を醸し出していた。
『傲然たる呪物に封印を、行使する咎人は断罪し、囁く聲で不浄を消したまえ』
物見櫓で見ていた者達は、眉を顰める。
こんな辺境の村に挙って集まる連中の目的なんて剣呑であるに違いない。加えて不気味な風体と振る舞いが警戒心を誘う。顔まで隠した黒衣が集って進めば、まるで亡霊の進軍だった。
ただでさえ、あのアカリだけで村は厄介を被っているというのに。あの子が呼び寄せたのか。
やや託ち顔で櫓を降りた見張りは、そのまま集団の先頭への駆け寄る。この集団で唯一、鼻頭から下のみの面貌と指先だけを晒した女性だった。透き通るように白い肌は、生気が感じられない。
「あの、この村に何の用で?」
「迷い子みつけて寝んねしな。辺り一帯その寝息、一つ二つと増えてゆき、夢に堕ちては帰らぬ人。夢を恐れて瞼は閉じなさい」
「……?」
先頭の女性に対し、接触した物見は彼女が物狂いした人物ではないかと疑い始めた。
まるで子守唄の様な抑揚で囁いて唄う。
「此所に在りしは眼の凶い、教えておくれよ村人や」
読んで頂き、誠に有り難うございます。
ヒロインはまだ先です。……あっ。