星空スタージョン
1.星空スタージョン
急速に世界が移り変わっていく。
青空の下、陸地を走っていた線路が、だんだん海の水にひたされていく。
広がる海に、電柱が何本も何本も並んでいる横を、列車が走る。
ぼくはその列車の中にいる。
青空はすぐに赤く染まり、電柱は消え、海の上の空港から飛行機が飛び立つのが見える。
それも通り過ぎて、空が暗く輝き、満点の星空が見えるころには、外の景色は、花畑になっていた。
星の光に照らされて輝く花畑は美しい。
がたんごとん、と音がなる列車。
ふと、ぼく以外にも乗客がいることに気づく。
いつもなら、ぼくは、他人と一緒にいるなんてすごく不安で、怖い気持ちになるけれど、不思議とここではそういう気持ちにならなかった。
とても、落ち着いた気持ちだった。
こんな気持ち、どれくらいぶりだろう。
ふと、近くの人と目があった。
お互いに、にっこりとほほえみあい、頭を少しだけ下げる。
そのあとは、木の座席にゆっくりともたれかかる。
ここは、どこなんだろう。
たしか、ぼくは、死んだはずだったと思うのだけど。
なんだか、それは、遠い記憶のように思えた。
少なくとも、今、この世界とは、断絶している世界の話のように。
遠いどこかで、トンネルのようなところを抜けて、光に出会ったような気がする。
だれか、懐かしい人に会った気もするけれど、そんなに親しい人はいなかったから、あれは天使だったのかもしれない。
ふと、立ち上がって、この列車の中を歩いてみたい気がした。
立ち上がり、右と左と、どちらに行こうか、少し迷った。
左にした。
ぼくは、子供のころから、右と左では、左の方が好きだったから。
右は「みぎ」で偶数のシラブル。
左は「ひだり」で奇数のシラブル。
ぼくは、偶数と奇数だと、奇数の方が好きだ。
そういう理由もあるのかもしれない。
保育園のころには、もう右よりも左のほうが好きだったから、漢字は関係ないかもしれないが、右の「四角(□)」よりも、左の「エ」の方が好きな気がする。
線形が美しいと思う。
また、左は、なぜか右よりも特別な気がしていた。
そちら側に、何かある気がしていて。
そういうわけで、ぼくは、立ち上がり、通路に面すると、左の方向へと進んでいった。
進行方向を向いて、右側通路に座っていたので、ひとつ後ろの車両に行くことになる。
自動ではない、レトロな扉を開くと、そこは食堂車だった。
多くもなく、少なくもない人数の人が、何かを食べたり、食べ物を選んだりしている。
そこは、外国の喫茶店のような雰囲気で、「ご自由にどうぞ」と書いてある札の下には、お盆と取り皿、食器が置いてあった。
ぼくは、中くらいの皿と、カップをもって、ぐるりと食堂車を見て回った。
どうやら、ここには、肉料理や魚料理は置いていないらしい。
ここにあるのは、お菓子で、ぼくはブルーベリーケーキと、チーズケーキを取ることにした。
カウンターの適当な席に座って、フォークとカップを持ってきて、ケーキを食べる。
カップには、紅茶を入れた。
一人で、こういう、一定以上の人間がいるところにいるのは、それなりに落ち着く。
ひきこもりだったころは、下手に自分のことを知っている人たちがいるところにいるよりも、ある程度の人数に埋没できているような場所の方が、心地よかった。
だれもぼくを知らないし、だれもぼくに注意を払わない。
だれもぼくのプライベートなことを聞かないし、興味もない。
そもそも、ぼくのプライベートなことなんて、相手は一切知らない。
そういうのは、とても安らげる場所だった。
ぼくが、ぼく自身であれる感じがした。
ここも、どこかそういう感じがするが、それだけではない。
一種、自分自身に変化が起こっているような感じがする。
他人にどう思われたって別にかまわないさ、というような、気楽な心構え。
それが、自然と出来ている気がする。
こういうのは、本当に、ひさしぶりの感触だった。
ところで、ケーキを食べ終わって、お茶を楽しんでいたころ、ぼくの着ていた、カッターシャツにも似た服の胸ポケットに、チケットが入っているのに、今さら気がついた。
そこには、番号が書いてあった。
食堂車に貼ってあった、列車の地図を見ると、それは、自分のコンパートメントの番号のようだった。
ぼくは、昔、イギリスに行ったことがあったのだけれど、そのときに、コンパートメントに乗ったことを思い出した。
日本の列車では、ふつう、座席が並んでいるだけだ。
だけど、イギリスの列車には、たとえば六号車だかに、部屋がみっつくらいあって、ドアを開けてその部屋に入ると(この部屋をコンパートメントという)、両側の壁に、だいたい三人から四人くらい腰かけられる横長の椅子が置いてあった。
こういう西洋風の列車の構造になっているらしい、この列車は。
なんだか、妙に懐かしい感じを覚えた。
まるで外国に来たような、軽い興奮。
当時、外国で働いていた叔父さんのところに、ちょっと遊びに行ったのだけど、そのときの思い出に付随する、楽しい匂いを、ぼくは思いだした。
ゆっくりと、そのコンパートメントに行くと、先客がいた。
一人だけ。
女の子。
こういうとき、いつものぼくは、緊張していたものだったが、まるで夢の中にいるかのように、今のぼくは緊張なんて全然していなかった。
まるで夢の中にいるように自然にその部屋に入っていき、これが一種のゲーム、演劇であるかのように、気軽に声をかけた。
「こんにちは」
もしかしたら、こんばんは、と言う方が正しいのかもしれない。
窓の外に映る、星空を、目のはじっこにとらえながら、一瞬だけそう思った。
「こんにちは」
その女の子も、軽く頭をさげた。
何も結んでいない髪が、ばさりと落ちる。
染めていない黒い髪は、星の光を受けて、どこか緑色に光る。
本当に黒い髪は、光を反射して、緑色に光るのだと、前にどこかで読んだ。だから、「みどりの黒髪」という言い方があるのだと。
この由来が正しいのかどうか、ぼくは知らない。
でも、目の前の女の子の髪が、どこか緑色の光の反射を行っていることは、きちんと見て取れた。
顔を上げた女の子は、顔にかかった髪を無造作にかきあげて、顔をこちらに向けた。
髪をかきあげるときに、手首にまかれた、腕飾りが目に入った。
金属ではなくて、布で出来たそれは、なんかお洒落な印象をぼくに与える。
「立ち上がれなかったんです」
ふと、女の子が言った。
「立ち上がりたくても、立ち上がれなくて。そんなエネルギーもなくて。ずっと長い間、立てなかったままなんです、わたし。でも、立てないままに時間も過ぎて、なんどか立ち上がろうとして実際に立ったら、すぐに倒れちゃって。それで、あるとき、立ち上がったついでに、思わず遠いところまで来てしまったみたいで」
そう言って、少し笑った。
「はは、わけわかんないですよね。人生の話です」
「わかります。つまり、わかるような、気がします。人の気持ちを軽々しくわかるなんて言ったらだめですよね」
そのセリフに、ゆるゆると、女の子は首を振った。
「ぼくも、長い間、立ち上がることができなかったから。立てないままに、ここに来ちゃって」
「立てないときも、ありますよね」
「そうですね。でも、無駄な時間ではないんだと、ぼくは思います」
「でも、周りからは評価されなかったりして」
「悲しい話です」
「ずっと戦ってきたのにねえ」
「そうですよ、戦争でした。見えない戦争。理解されない戦争」
「じゃあ、わたしたちは戦死者ですか?」
「そういう見方も、できるかも」
「よく戦ってきましたね。真摯な戦いでしたか?」
「自分なりに精いっぱい。そちらは?」
「たぶん、わたしも」
そう言って、ぼくたちは握手を交わした。
激しい戦いが、すでに終わった予感があった。
「ずいぶんと真面目に長い間、人生と向き合ってきた気がしますよ。あの、敬語をやめてもいいですか?」
そう、ぼくが聞くと、
「もちろん。じゃあ、わたしも敬語は使わないね」
そう、言ってくれた。うれしいことだった。
敬語は、他人との距離を広げる気がして、あまり好きじゃないのだ。
だけど、ぼくから、そのことを聞いた人は、みんな意外そうな顔をした。
ぼくのイメージとは違うらしい。
ぼくは、ポップスよりもクラシックを好み、炭酸飲料よりも紅茶を好み、ゲームよりも読書を好み、漫画よりも絵画を好む人種に見られていたようだった。
少なくとも、自分では、他人が自分をそう見ていると思っていた。
だから、そういうイメージの人間が、敬語を拒否するとき、イメージの一部の崩壊を感じる人がいても不思議ではない。
しかしもちろん、他人が持つイメージは、ぼくの実態ではない。
それにしても、さっきからずいぶんと、なめらかに会話が進む。
あまり考えることもなく、おしゃべりをして、それでなんの問題も起きていない。
ぼくは、以前は、おしゃべりのとき、もっといろいろ考えていたし、他人からも、答えに困る質問をあびせかけられていた。
その場の流れで、言いたくもないことをつい言ってしまって、あとで後悔することも多かった。
あのとき、ああ言っておけばよかったのに、うまく言えずに、自分の気持ちが伝わらなかったこともある。
そもそも、自分の気持ちが、そのとき正確にわかっておらず、よく考えてみて、あとから、時には数年たってから、自分の気持ちを理解することもあった。
だから、ぼくはパターンを作っていた。
こういうときは、こう答える。
そういうパターンを。
ある種の台本を。
そうすることで、会話をなめらかにし、したくもない答えを返してしまい後悔することを防ぎ、言いたいことをきちんと言って、相手に自分の気持ちが伝わるように。
たとえば、「こういう嫌なことがあったんだよね」と言われたら、自分の意見を言う前に、「そんな嫌なことがあったんだね、どういう嫌なことがあったの?」と聞くとか。
基本的に、こちらに何かを聞く人は、そこまでたくさんのことを知りたいわけじゃないと思う。
実は、自分がおしゃべりしたいという場合も多いし、自分の意見を言いたい場合も多い。
だから、質問でも、会話を少しずらして、相手が何かを言える状態に持っていくことで、案外、会話はスムーズに進むんじゃないかと思う。
もちろん、それでは駄目なときもあって、そのときは、真正面から自分の気持ちを、なるべく誠実に、丁寧な言葉で伝えることが必要になるのだろうけれど。
「そういえば、わたし、詩とか短歌とか、作るの好きなんだ。読むのも好きだけど。なにか好きなものってある?」
「へえ、そうなんだ。ぼくは、あんまり作ったことないけど、詩や短歌は嫌いじゃない。夢と知りせば覚めざらましを、とか、好き」
「いいよね」
「いいよね」
夢と知りせば、とは、昔の短歌を指す。小野小町の作。
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを
(あなたのことを)想いながら寝たから、あなたが(夢に)見えたのかな、夢と知っていたら、目を覚まさなかったのに。
そういう意味の歌。
知っている人がいて、うれしい。
こういう話、あんまりしなかったから。
ぼくは、長いことひきこもっていたので、そもそも、そういう話をできる環境ではなかったけれど、自分でウェブサイトでも作って、そういう話をすれば、たとえネット上であっても、つながりができたかもしれない、と思う。
もちろん、そこまで短歌に詳しいわけじゃないし、そこまでのエネルギーも、実際にはなかなか、なかったのだけど。
それにしても、なぜかそんなに、後悔はわいてこなかった。
すべてが終わってしまったあとだからかもしれない。
死んだら後悔するような人生を送ってきたと思う。
実際、死ぬ前の自分だったら、ああいう人生に後悔していたはずだ。
とするならば、死んだあと、自分に何か変化が起こった、ということなのかも。
「星空の下で列車が夜を走るコンパートメントひとりではない」
ぼくは振り向いた。
「え?」
「歌。作ってみたの」
女の子は笑った。
現代風だ。
もう一度言ってもらう。
多少乱れているが、たしかに、5・7・5・7・7、のリズムを刻んでいる。
「確かに、コンパートメント、ひとりではない」
「うん」
「うん」
ぼくたちは、対角線上に座って、それから少し、おしゃべりをした。
それは、自分の好きなものとか、そういう話だった。
ぼくは、自分の好きなことを、あまり他人に言ったことが、今までなかった。
もうよく覚えていないけど、そういうことを言っても、あんまりうまくいかなかったことがあったからかもしれない。
あるいは、ちょっとした、引っ込み思案で、他人にそういうことをしゃべるのが、怖かったのかも。
そうでなければ、基本的に他人に不信感を抱いていて、自分の心をさらけ出すのが怖かった。
他人から 心守りに 口閉ざし 一人でもいい 傷つくよりは
ふ、と短歌が湧いてきた。
短歌、意外と悪くないな。
すう、とあたりが暗くなる。
トンネルに入ったのだ。
一瞬遅れて、オレンジ色のあたたかい光が、コンパートメントを照らした。
窓に映った、ぼくの姿は、若いころのもので。
でも、なんだか不思議と、違和感はなかった。
現実の、この時期のぼくは、こんなに健康そうではなかったろう。
だから、この世界で、あのころのぼくの、こういう姿を見れて、ぼくはうれしい。
すぐにトンネルは終わり、オレンジ色の光が消える。
外はあいかわらず星空で、光が消えた車内から、満点の星空がよく見えた。
空に、あんなに星があるなんて。
ぼくは、見たことがなかった。
美しい。
「星空の 宝石箱の おもちゃ箱 赤黄色青 ぶちまけてみる」
女の子が、歌を詠む声がした。
「いいね」
「ありがと」
ひときわ美しく輝く、緑色の星を見ながら、ぼくの言葉に、女の子は礼を言った。
すう、と列車がスピードを落とす感触がした。
暗い車内に、青い明かりが灯る。
ブルーライトみたいな。
音もなく、コンパートメントの扉が開いた。
一瞬、ぼくたちは、二人で目を合わせ、出口の方へと歩いていく。
列車のとびらも開いていて、そこから降りると、そこは列車の停留所だった。
上には、満点の星空で、世界を明るく照らしていた。
となりには、コンパートメントの女の子。
他にも、何人かの乗客が、ここで降りるようだった。
というか、たぶん、この列車に乗っていた全員なのだろう。
多いような少ないような、この人数をどう考えていいのか、ぼくにはいまいちよくわからない。
ふらふらと、マフラーをまいた少女が、髪の長い男と一緒に、停留所の奥へと入っていく。
それにつられて入っていく人もいれば、しばらくここに佇んでいる人もいた。
ぼくは、ぐるりとあたりを見回した。
線路。
来たほうにはトンネルがあって、行くほうには、何もなかった。
いきどまり。
つまり、終点。
ここが、終点。
なんだか、いろいろと楽になった気がした。
ぼくは、女の子と別れて、そこらへんをぶらぶらしてみることにした。
とはいえ、特に見るものがあるわけでもない。
唯一、待合室みたいなものが停留所にあるだけだ。
しかし、この待合室が、なんの目的で使われるのか、そもそも使われることがあるのか、ぼくは知らない。
その部屋には、いろいろな標語のようなものが貼ってあった。
アフォリズム、というべきかもしれない。
短い言葉で、小説の冒頭に掲げられたりしているようなもの。
この、ぺたぺたと、そういう短い言葉が貼り付けられた部屋を見て、ぼくは連想する。
ぼくは、サリンジャーの書いたフラニーとゾーイーというお話に出てきた、シーモアの部屋を思い出した。
そのお話では、グラース家という家族が出てくる。
その家族には、たくさんの兄妹がいる。
一番末っ子に、フラニーとゾーイーという二人の兄妹がいるのだが、その二人の話が、フラニーとゾーイーだ。その話の中で、一番上のシーモアお兄ちゃんの部屋に入るのだけど、いろいろな言葉が書きとめられて、貼り付けられていた、はずだ。
なんだかそれが印象的だったので、よく覚えている。
目についた標語を読む。
「精神障碍者にやさしく」。
なるほど。
その下には、以下のようなことが書かれてあった。
精神障碍者は、身体障碍者や知的障碍者よりも仕事にありつきにくい。
さらに、希死念慮もあり、死にやすい場合もある。
どんな仕事でも、毎日が死と隣合わせという仕事は、そんなに多くない。
しかし、うつ病の場合、それが「ありうる」。
人道的理由
人が死ぬのは悲しいから、助けたい。
経済的理由
(経済に役立たない人間は生きてはいけないというのは、人間を人を道具扱いしているようで好きにはなれない。人間を生かすために経済活動があるのであり、経済活動を最大化するために人間がいるわけではないはずだ)
本当に、メモという感じだ。
手のひらで持つのにちょうどいいサイズの紙に、そんなことが書かれてあったのだけど、他人に見せるための文章というよりは、自分だけがわかればいいというような、そんな感じを受ける文章だった。
太くて大きい文字で標語の書かれた、細長い紙の下に、小さくて細い字で、このメモが書いてあった。
たくさんべたべたと貼ってあるわけじゃない。
多すぎず、少なすぎず、貼ってある。
装飾過多でもなく、殺風景でもなく。
ちょうどいい具合に、貼られた紙きれたち。
ぼくは、たくさん物がある空間が嫌だったけれど、この部屋には、そういう不快感がない。
ここには、言葉があった。
ことわざや、引用ではないであろう言葉。
だれかが考えたのであろう、メモ書きのようなそれは、なぜかぼくを安心させた。
安心した心のまま、外に出ると、もはや、そこには、ぼく一人だけだった。
澄んだ空気。
星。
待合室の外には、広々とした世界。
ぼくは、線路に背を向けて、いまだそこに止まったままの列車に、最後に一瞥をくれると、そのままきびすを返して、改札をくぐった。