第三話 間接キッス
「私、謝らないから」
姫匙に腕を引っ張られたまま学校を飛び出して、近くの喫茶店の一番奥の席に座るや否や、姫匙はそんなことを口にした。
作戦は失敗した、ということだろう。
僕がアイスコーヒーを頼むと、姫匙も同じものを頼んだ。そして少しの沈黙。
姫匙は、ふんっ、と言わんばかりに外を眺め、口を尖らせていた。
「……むしろ感謝してほしいくらい」
姫匙が呟くように、言葉を零した。
どこに感謝すればいいのやら。
確かに付き合っているなら、そういう行為をしていても不思議じゃない。
教室で、ってのはおかしいけれど。
けれど、さっきの姫匙の演技で、僕が健気な姫匙を騙しているサイテーでクズなヤリチン陰キャだと思われているに違いない。……陰キャは事実だけど。
「……で、どういう作戦だったんだ?」
僕は溜息をつきながら訊いた。
姫匙もそれを話すつもりでここに入ったのだろう。
「最初はただ彼氏彼女のふりをしていれば、昨日の噂を正当化できると思ったの。でもね、気づいてしまったのよ――」
姫匙は真剣な表情で、僕を見つめた。
僕もその表情を見て、身構えてしまう。
「――昨日のことを最後まで見られていたとして、私があなたの上に乗ってからどれくらいであなたの上から退いたと思う? ……答えは二十秒。つまり――」
二十秒……?
少し考えると、僕の頭には漢字二文字の言葉が浮かんできた。
……そういうことかああああああああああああああ!!
「――だから『昨日のプレイじゃ満足できなかったよね』と言って、この人は早くないって遠回しに言ってあげたの。感謝してちょうだい!」
「ありがとうございますッ!!!!!!!」
僕は大きな声で心からの感謝を伝えた。
僕にだって男の意地がある。「クズ」だの「サイテー」だの「ヤリチン」だの「陰キャ」だの噂されるよりも「アイツ二十秒で終わるらしいぜ」の方がメンタルにくるだろう。
……陰キャは事実だけれど!!
「作戦は半分失敗で半分成功ってところかしらね。私の噂は晴れたみたいだし」
姫匙はアイスコーヒーに手を付けないまま、外を眺めていた。
噂の真偽はわからないけれど、一人でいることの多い僕にまで広がってくるような大きな噂が、たった数分の出来事であっさりと晴れたのだ。
きっと、僕が姫匙を騙しているサイテークズヤリチン陰キャだって噂も晴れるチャンスがある……はず!
「あるわけないでしょ……そう簡単に」
「なんで僕の考えてることが……ッ!?」
「単純なのよ、あなた」
溜息をつくように、頭を抱えた姫匙は一口だけアイスコーヒーを口にした。
「……今回の件だってあなたの犠牲の元で噂が晴れたようなものなのだから」
一瞬だけ暗い表情をした後、姫匙は気合を入れるように立ち上がった。
「契約をしましょう」
「……契約?」
「付き合っている、と宣言した以上、すぐに別れるわけにはいかないでしょう? それに、ミジンコくらいだけれど噂に巻き込んでしまって申し訳ないと思っているわ」
ぷいっ、と姫匙は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「……だから! あなたの噂が晴れるように協力してあげるって言ってるのよ! ……その代わり、あなたは私の恋人の演技を続けなさい!」
僕としても噂は晴らしたいし、恋人のふりをするだけで協力してくれる、というなら頼らざるを得ない。
「……わかった、協力お願い」
「……そう、よろしく」
僕も少し恥ずかしかったけれど、姫匙も心なしか顔が赤いような気もする。
沈黙。
少し気まずい雰囲気になり、黙りこくってしまった。
「も、もしかして姫匙ってブラック飲めなかったりする?」
雰囲気を変えるために、僕は話のネタを探して、全然減ってない姫匙のアイスコーヒーに目を付けた。
一口だけ飲んだのを見てから、全く減っていない。
「そ、そんなわけないじゃない! ……飲めるわよ」
後半に掛かるにつれて、声が小さくなってきた。
演技は凄いのに嘘は下手なんだな。……なんて、ちょっと微笑ましくなって笑っていると、姫匙の顔が真っ赤に染まった。
「私は大人だから。そう、ブラックコーヒーくらい、いくらでも飲めるわ……」
姫匙はラスボスに挑む勇者のような顔をして、ストローに口を付け、一口だけ飲んで、口を離す。
明らかに少なかった。
一口とすら言えないような少ない量。
飲んだふりをしているのではないか、と疑ってしまうくらい減っていなかった。
「ふんっ、余裕よ」
「あ、うん。余裕だったね」
なんとなく空気を読んでみる。
姫匙は何だか不満そうな表情を浮かべて、それから何かを思いついたような怪しげな笑みを浮かべた。
「……ねえ、あなた私の彼氏よね?」
「……まあ、一応。偽物だけど」
なんとなく恥ずかしくなってしまうのは、仕方のないことだと思う。
姫匙は自分のアイスコーヒーを僕に差し出した。
「ねえ、ダーリン? わたしぃ、ブラックコーヒー飲めなぁい」
わざとらしくぶりっ子をして、そんな風に言った。
翻訳させてもらうと「飲めないから飲めよ、彼氏だろ? おい」という感じだろう。
少なくとも嘲笑うように僕を見る目はそう語っている。
「……でも、僕もまだ自分のあるから」
「じゃあ、別れましょう。さっきの協力の話もなかったということで」
っく……仕方ないか。
「わかったよ……」
折れることにした。
協力者を失っては、噂を晴らすことは不可能だろう。
僕は自分のストローを姫匙のアイスコーヒーに突き刺した。
「…………間接キス……しよ?」
甘い声がして………………ぶほっ。
思わず息を吐くと、コップの中から音が鳴った。
姫匙の方を見やると、してやったり、と笑みを浮かべていた。
「できるわよね?」
トドメを刺すように、姫匙は微笑んだ。
「っ……ああ、もちろんさ…………マイハニー」
僕は姫匙を睨むようにそう言って、姫匙の使っていたストローに口を付け、飲み干す。
「よくできました! ダーリン♪」
姫匙は満足気に笑みを浮かべ、あからさまに機嫌が良くなった。
ビッチとかビッチじゃないとか、それ以前に性格が悪いぞこの女。
「それじゃ、次はキミの番だよ、ハニー」
僕は自分のアイスコーヒーを今度は姫匙に差し出す。
「……なんの冗談かしら?」
姫匙の顔はあからさまに引き攣っていて、笑いを堪えるので精一杯だ。
自分の考えた策に溺れるなんて、姫匙はいま、どういう気分なのだろう。考えただけで笑みが止まない。
性格が悪いのは僕も同じなようだった。
「……できるよね、ハニー」
僕は低めの声で脅すように声を出した。
「できるわけ………………っ……できるわよ」
僕たちには契約がある。お互いそれを無下にはできないのだ。
「……わかったわよ、飲むわよ…………ダーリン」
随分と、弱々しいダーリンだった。
「ちゃんと見てなさい」
そう言って、ゆっくりとストローに口を付けた。
自分でするも恥ずかしいけれど、される方も恥ずかしい。
「……ぺろ………ぺろぺろ…………ぺろぺろぺろ……だーりんの、おいひい」
姫匙は、ストローを舐め始めた。
上目遣いで、ぺろぺろ。コーヒーは一切減っていない。
「ちょ……姫匙!?」
〇
噂というのは、確証もなく広まっていく。
多くの噂が、妬みや嫉み、軽々しい発言から生まれていく。それに加え、噂を晴らす機会というものはそう簡単にやってこない。
だからこそ、僕は平穏に生きたいと思う。
空気だろうが陰キャだろうが、噂を立てられない程度の位置を保ちながら、青春がしたいと願う。
姫匙はモテるだろうし、綺麗だから、妬み嫉みの噂かもしれない。
けれど、僕はあえて言いたいと思う。
姫匙は――姫匙憐香は、正真正銘のビッチだと。男のストローをぺろぺろと舐める姿がいい証明だろう?
《次回・調教》
囚われの姫――。(?)