第一話 はじめての・ちゅう・きみと・ちゅう♪
「だって私、姫匙憐香と鹿倉水斗くんはお付き合いしてるもの」
昼休み。
ある噂が広まった教室で、一人の女子生徒が僕の腕をギュっと抱きしめて、立ち尽くすクラスメイトたちに僕と付き合っているという宣言をした。
僕は唖然。クラスメイトも唖然。
ただ一人、笑みを浮かべたのは小悪魔のような、僕の腕に腕を絡めた少女だった。
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僕のクラスにはビッチがいるらしい。
そんな噂を聞いた僕――鹿倉水斗は驚きを隠せずにいた。
ビッチがいたことに驚いたとか、そういうことじゃない。
その噂が流れている少女が、いつも僕の前の席に座っている人間だったことに驚きが隠せなかったのだ。
彼女の名前は、姫匙憐香。
容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。ハイスペックにも程がある。
夜空のようなどこか透き通った黒い髪と、切れ長で凛とした目つき。顔立ちはこれでもかと言わんばかりに整っていて、どこか気品が漂う仕草と大人っぽい雰囲気。
とてもじゃないけど近づきがたい。
それに、僕と彼女はほとんど話したことがない。義務的に話すことはあっても自発的にはないだろう。
だからこそ噂の事実を判断することができないわけで――。
判断したところで何が変わるということはないけれど、そんな噂を聞いてしまったら気になってしまっても仕方ない気もする。
放課後。
吹奏楽部が奏でる演奏と運動部の掛け声が校内に響いていた。
いつもの僕ならば、帰宅部の特権を使って家で寛いでいる時間帯だが、今日は例外だ。
スマホを自分の机の中に忘れてしまった。
現代社会において、ましてや高校生ともなればスマホなしで一夜を過ごすなんて拷問でしかない。
例え、僕に友達がいなくとも、連絡を取る相手がいなくとも、娯楽くらいあってもいいだろう。
毎日、日付が変わった瞬間にログインボーナスを受け取るくらいの少しの至福で良い。
それが僕のちょっとした生き甲斐になっていることは間違いじゃない。
スタミナの消費もしたいし、今日から始まるガチャを回そうと思っていたのだ。
だから僕は、家の前でスマホを忘れたことに気付き、急いで学校まで戻ってきた。
今日から始まるガシャは僕の推しキャラがメインになる。見逃すわけにはいかない。
早くスマホを回収して、今日の為に何か月も溜め続けた石で十連ガシャを引こう。
なんて、わくわくしながら、教室の扉を開けた。
扉を開けると、心地の良い風が吹いてきた。
教室の窓が開いていて、カーテンが揺れている。
そんな夕暮れの教室で一人の少女がぐっすりと気持ちよさそうに眠りに就いていた。
普段だったら絶対に声を掛けないだろう。
ましてや、こんな噂が流れているときに、その噂の張本人と話していたともなれば、僕にまで噂の火種が飛んでくるかもしれない。
けれど、今回ばかりはそういうわけにもいかなかった。
彼女――姫匙憐香が眠っている席が、彼女の席ではなく、一つ後ろ、つまり僕の席だったのだ。
ぐっすりと寝息を立てて眠っている。起こすのは可哀想だけど、仕方がない。
僕の幸せのため。推しキャラを迎えるため。僕は絶対に退くわけにはいかない。
「あのさ姫匙、そこ僕の席なんだけど……」
勇気を振り絞って声を掛けると、姫匙はむにゃむにゃと寝ぼけた様子で頭を反転させた。
……ていうか、よだれ零れてないか?
「姫匙、よだれ零れてるから! 早く起きてくれ! そこは僕の席だ!」
僕が強く体を揺すると、姫匙はハッとした表情で頭を上げる。
姫匙は目を擦って、僕を見てから、
「あなたには寝ているように見えたのね。実は私、寝てなかったの」
姫匙は欠伸混じりでそう言った。
欠伸をしながら言われても説得力がない。よだれ跡もしっかりと残っている。
しかし、今はそんなことどうでもいい。
「……姫匙、そこ退いてくれる?」
僕の目的は、姫匙が今座っている机の中にあるスマホだけだ。
「それは無理な相談ね」
「……そこは僕の席だ!」
「ふんっ! 知ってるわよ、そんなこと!!」
姫匙は席の周りを見渡してから、少し声を大きくして、怒ったように顔をそっぽに向けた。
きっと間違えてたことを誤魔化すために怒っているに違いない。
近づきがたいなんて思っていたけど、思っていたよりも話しやすい。
表情がコロコロ変わって子供みたいだ。
思わず笑みが零れた。
「な、何を笑っているのかしらっ! もう絶対に退いてあげないから」
顔を真っ赤に染めて、姫匙はギュッと机に抱き付いた。力尽くでやってみろ、ということだろう。
姫匙は嘲笑うようにニヤッと笑う。
それを見て、僕も覚悟を決めた。
「なら、遠慮なく力尽くで行かせてもらうよ」
「あら、あなたにレディの体を触れる勇気があるかしら」
姫匙は小悪魔っぽく「ふふっ」と笑った。
僕も映画で見たヤクザの偉い人みたいに悪そうな顔で笑ってみる。
「あなた……本気?」
さっきまで余裕そうに笑っていた姫匙にも、僕が本気だということが伝わったらしい。
「そりゃ、退いてくれないならね」
僕は姫匙のお腹に手を回した。姫匙は離されまいと必死に机に抱き付いている。
そこから、両者一本も譲らない熾烈な争いが始まった。
「レディの体に触れるなんて、ドーテーの癖に良い度胸してるじゃない」
「姫匙、実は結構太ってるんじゃないか? 重いしお腹周り肉付いてるぞ?」
勿論、そんなこと思っていない。ちょっとばかり「ドーテー」が僕の逆鱗に触れただけ。
「あなたが机の中に教科書を置いているからじゃないかしら!? お腹周りは……コロス」
力勝負なら男である僕が負けないと思っていたのだが、僕がひ弱なだけか、はたまた姫匙の力が強いのか。いい勝負になってしまっている。
だが、今日の僕は一味違う。今日追加予定の水着姿の推しを想えば力が沸いてくる。
「うおおおおお!!」
全ての力を姫匙を引っ張る力につぎ込んだ。
――ガシャン!
やらかした。完全にやらかした。
力を入れすぎた。姫匙が掴んでいた机ごとひっくり返った。
姫匙が怪我でもしたらどうしよう。
反動で倒れゆく姫匙を僕は受け止めようと抱きしめた。
「――ん?」
……………………あれ?
姫匙と目が合った。うん、確かに目が合った。
ほんの数センチ、ミリ単位の近くに姫匙の顔がある。唇には柔らかな感触がした。
「――へっ?」
顔を離して数秒沈黙。僕は全てを理解した。
唇に感じた柔らかな感触。僕の上には姫匙が乗っていて、顔が真っ赤になっている。
この状況で意識しないっていうのも無理な話で「姫匙って良い匂いするな」とか、「肌綺麗だな」とか、「夕陽に染まった頬が可愛いな」とか。そんな風に思ってしまっても僕は一切悪くない。
「あの、その……ええと」
姫匙の目が泳ぎ始めた。右へ左へ上から下へ。
そして数秒間だけ目が合って、姫匙が恥ずかしそうに目を逸らした。
「ご、ごめん!」
必死に弁明する。
一人でいることが多い僕はただでさえ肩身が狭いのに、教室で「アイツ姫匙に無理矢理キスしたらしいぜ」なんて噂を立てられたら僕は自らの手で死を選択するかもしれない。
「…………事故、よね」
「う、うん。いや、でも。……本当にごめん」
僕が必死に謝ると
姫匙は「……大丈夫よ」と言い残して教室を出て行ってしまった。
やらかした。今日はとことん運が悪い。スマホを忘れ、姫匙が僕の席に座ってて、迷惑もかけて。
僕は憂鬱になりながら家に帰った。
夜。
枕に突っ伏しながら、僕は姫匙のことを考えていた。
明日、もう一度謝ろう。
女の子にとってキスってのは大事なもの……アレ?
ここで一つ、僕に疑問が生まれた。
姫匙ってビッチって噂されてなかったっけ?
僕は思い返してみる。
そもそも、なんで姫匙は僕の机で寝てたんだ?
姫匙はキス……唇が触れたのに「大丈夫」と言った。
思えば姫匙は僕を「ドーテー」と罵っていた。
僕は一つの答えを導き出した。
その答えは、姫匙は正真正銘のビッチだということだった。
《次回・演技》
ある噂が流れた教室で彼女は宣言した――。