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「忘れてください」
ユウカは諦めようとしない。
怒鳴られても怯むことなく、頭がおかしい俺に付き合っている。
こいつは俺以上にどうかしている。
「忘れられるわけがない! 愛華はいるんだ。俺の中にずっと」
そうだ。俺が忘れなければ愛華はずっと傍にいる。
夢の中で会えば触れることだって出来る。
どれだけ苦しくても、愛華のことなら俺は耐えられる。
「愛華さんは、そんなこと望んでません!」
一際大きな声が耳を打った。
どうしてお前が断言出来るんだよ、という文句が喉元まで出かかったまま、言葉にはならずに消えていった。
俺がどれだけ怒鳴っても臆さなかったユウカが泣いていた。
ただ感情が溢れていくみたいに涙が頬を伝っていく。
「いない人のことなんて忘れてください!」
必死に、何かを訴えていた。
「何も知らないお前が、俺たちのことに首を突っ込むな。関係ない奴が関わろうとするな」
どかっと、俺はベンチに座った。
考えるまでもない。
正論を言われても変わらない。
愛華を失えば俺には何も残らない。
ただ一つの支えなんだ。
「死んでしまった人を捜しても、何処にもいないんですよ?」
その言葉を聞いた瞬間、世界の音がふっと消えた。
誰かの声も、笑い声も、地面をこする靴の音も、何処かで流れている陽気な音楽も、自身の呼吸音でさえ聞こえなくなった。
建前上は問題ないと偽っていた。
もう俺は大丈夫だと周囲を偽って、自身さえも偽っていた。
クリスマスの前日になると俺は愛華を探しに街を彷徨っている。
もしかしたら愛華に会えるんじゃないかって、心の中で思っていて。
あの日に間に合わなかった時間を埋めようとして――。
何も知らなかった俺は、帰ってくるはずの愛華を家で待ち続けた。
もし、もう少し早く迎えに行っていたら。
強引に一緒に買いに行く約束をしていたら。
愛華は死なずにすんだのかもしれない。
だから、ずっと後悔しながら、居るはずもない人を捜していた。
「三年前の今日、会社が終わってすぐお店に向かいました。信号待ちをしている時でした」
突然、何ら脈絡もなくユウカが何かを話し始めた。
「トラックが迫ってきました。私たち向けて真っ直ぐに」
そう、ユウカは言った。
「速度は早くて、運転手も眠っていました。でも、私は早い段階で気づくことができました。逃げる時間は十分にあったんです」
でも、逃げられませんでした、とユウカは付け加えて。
「隣に女の子がいたんです。大きなリボンを付けた、小さい可愛い女の子」
「お前、何言ってんだよ」
ユウカの言葉からは関係者しか知らない、あの時の事故の状況が語られていた。
いや、それだけじゃない。
これは当事者じゃないと知らない話。
俺が知っているのは悲惨な事故現場の跡だけ。
歩道の血だまりと、箱から飛び出し潰れたロールケーキ。
愛華が女の子を助けたと後から聞かされただけで、その子がどんな子か俺は知らない。
「私はここにいます。もう、捜さなくてもいいんですよ?」
ユウカは涙に瞳を揺らしながら俺を見つめた。
信じられなかった。
その言葉も、俺に向ける潤んだ瞳も。
「幸せでした。貴人さんに愛されて、大好きな人と一緒にいられて」
間違いであって欲しかった。
勘違いであって欲しかった。
もし、期待して裏切られたら俺はもう二度と立ち上がれない。
なのに俺は期待している。
心の奥底でずっと望んでいた、もう手に入れられない人を渇望して一人で泣いていた。
「これは、なんの冗談だ? 俺はとうとうおかしくなったのか?」
声が震えていた。
思考がうまく働かない。
俺のよく知る瞳を向けられると、何を信じればいいのかわからなくなる。
「本当は教えるつもり、なかったんだよ?」
愛華はいたずらっぽく笑った。
その笑も、だんだん歪んで、への字口になって。
「死んでしまったけど、後悔はしていません」
それが精一杯の強がりだと、俺にはわかってしまう。
「ちょっと待てって」
記憶も、気持ちの整理もできない。
心がバラバラになりそうだった。
俺は本格的に壊れてしまったのかもしれない。
目の前の子供が、体格も容姿も全く違うはずの人が愛華に見えてしまう。
「だから、貴人さんが苦しんでいる今を喜んではいません」
それは愛華の言葉。
優しくて、俺を想う強い言葉。
「いいから、少しの間でいいから、黙っててくれよ」
当然、なんの前触れもなく現れて、三年もの間、俺を一人にして。
「勝手すぎる」
そう言うと愛華は、ごめんなさい、と言った。
文句は言い足りない。
俺を置き去りにしたこと。
勝手に俺の傍から居なくなったこと。
約束を破ったこと――。
けど、それ以上に伝えたい言葉がある。
なのに、積み重なった想いが複雑に絡み合って喉から先へ出て来ない。
「ごめんなさい。もう時間がないみたいです」
「時間って……あと、どのくらい残ってるんだよ?」
愛華が立ち上がった。
嫌な予感がした。
何処かに行ってしまうような気がして俺は手を伸ばした。
けれど、掴んだはずの腕はするりと通り抜けてしまった。
「お願いだ、待ってくれ。もう少しだけでいいから、俺の傍にいてくれ」
地面に膝をつき、縋り付くように愛華の傍に寄った。
「ごめんなさい。もう――」
愛華は視線を下げ、自身の身体を見つめた。
つま先が、消えていた。
「頼む。俺も連れて行ってくれ」
愛華と一緒にいられるならどこだっていい。
それが例え死後の世界でも、俺は躊躇うことなく追いかけられる。
愛華が傍にいてさえすれば怖くない。
この世に未練なんてない。
覚悟ならとっくの前に出来ている。
それなのに、愛華は首を振った。