【受賞】貸出骨董店『つくも』─風鈴の鳴らす生きる音─
ちょっと登場人物の説明を補足。
店主…名前不詳。骨董店を営むモノ。
阿澄…不治の病を患っているが、病が安定してるときは外に出ているおてんば娘。信砂と幼馴染み。
信砂…鑑定士。付喪神の色を判別し、店へと引き取る、もしくは壊すことを仕事としている。たまに店主が客に渡した付喪神を連れ戻す。出自がちょいと悪い子のため、情緒面が真っ白。
白縹…白蛇。信砂の相棒。信砂が住んでいた蔵に棲みついていた家守り。普段は小さい蛇だが、龍の姿にもなる。蛇なのに龍な理由はまたそのうち。
ちりん、ちりりりん。
風に煽られた短冊が、舌を揺らして硝子に触れる。短く澄んだ音が鳴り響く。今年もまた、この季節がやって来た。
風に誘われて揺れる私、声をあげる私。私は一人じゃ響くことができないの。
揺れる短冊に願いを込めて吊るしてね。願いと共にその先に待ち受けている絶望を、私が食べてあげるから。
私の短冊は夢いっぱい。
私の舌は悲嘆の塊。
あなたは私のために。私はあなたのために。
声を響かせて、音を鳴らして。
───そうしていつか、砕け散る。
◇
ギラギラと真夏の太陽が肌を焼くのは毎年のことで、薄い布を日傘かわりに被っていても、強い日射しのせいで効果はなかった。明日には赤くなってひりひりなるだろう肌を忌々しく思いながら、彼女は日射しの下を歩く。
阿澄はうんざりしながら、熱気でぼやける視界の中を歩いていていた。普段は靴に覆われている足の甲が下駄のせいで太陽にさらされて、じりじりと熱い。靴を履いていれば履いているで、蒸されたように熱くなるのも問題だけれど。
色々と太陽に文句をいいながら、阿澄は浴衣の裾をさばいて、ひたすら歩く。久々にお父様から外出許可を頂いたのだから、どうしても行きたいところがあった。
商店街まで足早に進み、中程にある路地に入った。軒先を列ねる長屋に紛れて、こぢんまりとした二階建ての一軒家がそっと立っていた。表にある商店の数々と同じく、戸は開けたまま。のぼりがすぐ横に立てられていて「貸出骨董店つくも」と書かれている。
阿澄はその骨董店に入ると、早々に大きな声を張り上げて、目当ての人を呼ぶ。
「信砂、 遊びに来たわよー」
がらんとした店先に阿澄の声が響き渡る。店置くに吸い込まれた声に、誰かが気づいても良さそうだが、返事が帰ってこない。阿澄がため息をついて、店の物色を始めた。出掛けているのかもしれない。信砂はともかく店主すら姿を見せないのはどういう了見かとぶつぶつ文句を言う。店を開けるのならば、店を閉めてから行くべきだろう。
阿澄が店を物色していると相変わらず骨董というよりはガラクタにしか見えないものばかり置いてある。小さく歩を進めながら、隅々に入り込んだものまで一つ一つを見る。
(これは前来た時もあった、これは知らない、新しいものかしら、これは貸出から戻ってきたものね。)
熱心に見つめていると、窓から吊るされた風鈴を見つけた。
真白な短冊を揺らして、硝子は紅潮している。淡いその紅が優しくも寂しい。硝子はほんのり紅に染まってるだけで、その他の装飾は一切無かった。これほどまでにすっきりした柄の風鈴は始めて見る。
目が離せなくなって、吸い込まれそうになるくらいに風鈴を見つめた。
──………が……を……て…げる
「──え?」
阿澄は驚いて回りを見渡した。
今、声が聞こえたような。
キョロキョロと首を振っていると、店の奥にいつの間にか一人の男性が立っていた。ぼさぼさっとした短髪に紺の甚平を着ている。見覚えのある顔に、阿澄はぱちくりと眼を瞬かせた。
「なんだ、店主か」
「少し見ねぇ間にずいぶん生意気になったな、阿澄」
だってここには自分以外にいるのは店主だけなのだから、先程の声もきっと店主のものだったと阿澄は結論付けたのだ。文句を言われる筋合いはないので、黙殺する。阿澄はからんころんと下駄を鳴らして店主の方へと寄っていった。
「信砂は」
「挨拶もなしに聞くのはそれかよ」
「私は信砂に会いに来たのだから当たり前よ。どこ」
すげなく返してやれば、店主はガリガリと頭を掻いて、めんどくさそうに答える。
「あいつなら仕事だ、仕事」
「もう、間が悪い奴。せっかく私が来てあげたのに」
阿澄はぷくりと頬を膨らませた。その様子を見た店主が、ん? と首をかしげた。
「今日は洋服じゃねぇな」
阿澄はぴくりと肩を揺らした。待ってましたと言わんばかりに説明しようとしたけれど、一つ咳払いして何てことの無いように答えた。
「祭りがあるのよ。蛍祭り。信砂を誘ってあげようと思ったの。いないならやめるけれど。一人で行ったってつまらないだけだし」
「俺が行ってやろうか」
「おっさんと歩きたくはありませんー」
おっさんと呼ばれた店主はぴきりと青筋を額に立てた。おっさんと言われる見た目ではない、お兄さんだ、と抗議をしたが案の定黙殺されたのでこれ以上は何も言うまい。自分が傷つくだけだと、口を閉じた。
「はぁ……私、帰る。いつ帰ってくるか分からないのでしょう?」
「そうだな。今回はちと遠い場所まで行ってもらってる」
「そう……仕事なら仕方ないものね」
阿澄が大きくため息をついて店を出ていこうとした。信砂がいないのなら、もう帰るしかない。信砂と一緒であることを条件に外出許可をもらったのだから。
手ぶらで帰ろうとした阿澄に、店主は待ったをかけた。
「おい、これ持ってけ」
店主は先程まで阿澄が立っていた場所まで降りてくると、ひょいと吊るされた風鈴を外した。それから風鈴の細部を丁寧に見て、破損がないをことを確かめてから、布の敷き詰められた箱をどこからともなく取り出して、風鈴を寝かした。
入り口できょとんとしていた阿澄に、風呂敷に包んだその箱を手渡す。
「いいか、使い方は簡単だ。願い事を七夕やるみてぇに短冊に書けばいい。それを月の光が当たる窓んとこに吊るせ。頃合い見計らって信砂を行かせる」
「……私、客じゃないわよ」
「お代はいらねぇ。せっかくここまで足を運んだんだ、手ぶらで帰りたくねぇだろ」
箱を抱えて、阿澄は微妙な顔をした。信砂に会える口実を作ってくれたのはありがたいけれど、反応に困った。
この店は、骨董品の貸し出しをしてくれる店なのだが、どの品も曰く付きで有名なのだ。
だがら阿澄に渡されたこの風鈴にも何かしらの曰くとやらがある気がしてならないのだが……。
受け取りを躊躇った阿澄だが、きっと店主にも何か考えがあってのことだろうと思うことにした。
それに、店主の心遣いはありがたいのは本当のことだから素直に持って帰ることにする。
「期待しなくても、お願い事は叶いそうね」
「もっと他に願えばいいだろ」
「あんまり欲張りになってしまうと、未練になっちゃうでしょう」
からんころんと下駄を鳴らして、阿澄は店を出た。店主に見守られて背中は温かい。ギラギラしていた太陽も、ほんの少し落ち着いていたから帰り道は気が楽だった。荷物を抱えて帰路に立つ。
◇
翌日の夜。
ガラガラと店の閉店後、表の戸を開けて入ってくる影があった。
人の影が一つと、その首もとで長く細く蠢く影。
店主は早々に気づいて、店の電気を付けた。
白髪の青年が、首もとに青味を含んだ白い鱗を持つ蛇を襟巻きのように巻いて立っていた。布に巻かれた等身大の何かを抱えている。
「はぁ、雨が振る前に帰れて良かったー」
『帰ったぞ』
「おう、おかえり信砂と白縹」
よっこいしょ、と信砂は持っていたモノを明かりの下、適当なところに立て掛ける。白縹はしゅるしゅると首から離れて地に這った。
信砂はふう、と一息つくと店主に向き合った。
「まったく、なんでこの子を外に出すかなぁ。灰色なのは外に出すなとあれほど言っているのに」
「客がこれがいいと言ったらそれを出すのが俺の役目だ。灰色だろうが白だろうが、『使われたい』と思ってる奴なら外に出す。当たり前だろう」
信砂に睨み付けられたものの、店主はいつものごとく気にしない体でこれに返事をした。いつもと変わりのない返答に、信砂はしかめっ面だ。
「モノたちの事をもっとよく見てあげてよ。灰色の子が黒になってしまったら、もう僕らには壊すことしかできないんだから」
「お前はもっと人を見ろ。自分を大切にしてくれる者のためなら、モノも壊れるまで付き添うもんだ」
信砂と店主は「見鬼」という、いわゆる霊視ができる類い稀な人間だ。二人はその才能を使い、付喪神となった物の良し悪しを判定する仕事をしている。
だが、同じ店で働く信砂と店主は常に平行線を行く。
モノに寄り添いたい信砂と、人の助けとなりたい店主は常に均衡を保っているのだ。だからこそ、この酔狂な店が営まれることが可能なわけなのであるが。
今回のようなやり取りは一度や二度の話じゃない。信砂がいくら言い募っても、店主は平気で店のものは何でも商品にしてしまう。何でも……。
ふと、信砂は気づいた。自分の近くにある窓に吊るされていた風鈴がないことに。ちりんちりんと涼やかな音を鳴らしてくれる。あのガラス細工はいずこへ。
「……店主、風鈴は?」
店主は奥に戻ろうとして、あっと思い出したように言った。
「そういや昨日、阿澄が来た。信砂に会いたがってたが、お前は仕事でまだ帰ってきとらんと返した。手ぶらで返すのもかわいそうだったから、風鈴を渡してやったよ」
「なっ」
信砂は張り詰めた声を上げ、店主を振り向いた。店主は何てことの無いように言ってのけたが、信砂は事の重大さを重く受け止めていた。
「あの風鈴も灰色だって言ったじゃないか!」
「あれが人を選んだんだ」
「人を見ろって言いつつ、その人の安全の保証はしないのかっ」
『信砂、落ち着け』
「白縹」
地を這っていた白蛇が、沈黙するのをやめて店主の体へと張り付いた。足首から胴を伝って右腕へ。それから店主が手近な台の上に手を差しのべれば、白蛇は台の上へと移った。そこでようやく、信砂の視線の高さに入る。
『店主、阿澄は何を願った』
「あいつの抱えてるもんにしちゃ、ちっぽけなもんだよ。風鈴ももう力がないから、阿澄の願いが叶ったら割れるだろうよ」
『風鈴はなぜ阿澄を選んだ』
「あいつが叶えられる最後の願いに相応しいからだと」
『信砂、風鈴が望んでいるらしいぞ。そしてまた、阿澄も望んでいる。確かに風鈴はそれまでの持ち主たちの欲のせいで濁った気を放っていたが、寿命も近い。阿澄なら風鈴を醜悪なあやかしにするより前に、正しく使ってやれる。それを分かってるのは信砂だろう』
信砂はことの黙った。
白縹の言うことは正論だった。
信砂自身が、モノたちの事をよく知っている。そしてまた、店主もモノと、そして人の事をよく見ている。
信砂の仕事は鑑定士。あやかしに変じて意思と力を持ったモノを見定めるのが仕事であって、鑑定するモノをどうこうする権利は彼にはない。
鑑定されたモノを扱うのは店主の仕事なのだ。
「二日だ」
店主が肩を落とした信砂に声をかける。
「二日後、風鈴を引き取りに行け」
二日も経てば、これから振りだす雨もきっと止む。
モノを大事に扱うことは良いことだが、彼らは使われてこそ生き甲斐を得るモノだ。その区別がまだできない信砂には、今回のことはきっと良い経験になると店主は言う。
生き甲斐を得ると言うことは、モノにとっても、人にとっても、価値のあることだから。
◇
風鈴に願いを書いた阿澄は、自室の窓辺に風鈴を吊るした。華族である阿澄の家は、そこそこの豪邸で、率先して両親が外つ国の文明を取り入れていたから、洋風な阿澄の部屋に風鈴は少し不釣り合いに見えた。
夜、窓を開けていたらチリンチリンと風鈴が鳴いた。幽かに響く音が耳に心地よく、いつの間にか阿澄は寝入ってしまった。
夢か現か分からないまま、阿澄は女の子に会った。ふわふわと鳥の羽よりも軽く着物の袖をはためかせ、硝子のように透明な肌をもつ女の子。顔はないのに、少しだけ凹凸があって、だいたいの目と鼻、口の位置だけが分かる女の子だった。
触ったら、触れたところがラムネのようにしゅわしゅわしそうね、と阿澄はぼんやり考えた。
『おねがいを、きいてあげる』
口のない女の子は凛と響く声で、阿澄に話しかけてきた。
りぃんりぃんと足音を響かせて、女の子は阿澄の目の前まで来る。阿澄はそっと女の子に両腕を差しのべた。ぴくりと腕に反応した女の子は足を止めたから、阿澄自身が自分から近づく。
「私のお願いを、聞いてくれるの」
『……はい』
阿澄がぴとりと女の子の頬を手ではさんだ。ラムネみたいにしゅわしゅわしなかったけれど、手に吸い付くようなその艶と、夏の川の冷たさがとても心地よい。
返事をした女の子に、阿澄は目元を和ませた。
「……私、後何年生きられるか分からないの」
ちりりんと音が鳴る。女の子は阿澄を見上げた。
「贅沢なことは言わない。私のお願いはね───」
阿澄は夢の中で話をする。
顔の無い女の子に話をする。
自分の願いと、そこに隠れた哀しみを。
順を追って丁寧に、丁寧に。
自分が不治の病を患っていること。
体の調子が良いときにしか外に出られないこと。
延命の薬がとても苦いこと。
信砂もそれを知っていること。
信砂とは幼馴染みであること。
信砂に片想いしていること───
話疲れたら朝になっていて、起き出すと夢の中の事はぼんやりとしか思い出せない。翌日は朝から雨だったから、気分が冴えないせいもあったのだろう。
どんよりとした気分で一日を過ごし、夜になったら風鈴の音ともに眠りについてまた女の子と会った。
これを二夜繰り返し、三夜目にカシャンという音で目が覚めた。
なんの音かと眼を擦りながら寝台から降りて月明かりをたよりに目を凝らしてみると、風鈴が砕け散り、床へと硝子が散らばっていた。
ひらひらと願いを書いた短冊が空しく宙で揺れている。
阿澄は慌てて窓へ近寄った。
「ど、どうしよう、預かりものなのに……」
「大丈夫、この風鈴は寿命だったんだから仕方無いよ」
えっ、と阿澄は顔を上げた。風鈴の音がよく聞けるように窓を開けっぱなしにしていたからか、声がよく聞こえた。
風が吹いた。木葉が窓から入ってくる。その木葉の道筋を辿るように視線を向ければ、望んでいた者と視線が交わった。
窓の向こうには一番近い庭木に登ってこちらを見ている信砂がいた。
うそ、どうして、と口をパクパクさせていたら、信砂がちょっとそこを退いてと指示してきたので、大人しく阿澄は後ろへ下がる。
信砂は木から飛び移って窓枠に足をかけ、それから阿澄の部屋に入ってきた。ガラスを踏まないように窓からは少し距離を取ったところに着地した。
「夜中だから寝てるかと思った」
「ね、寝てたわよ! こんな時間にそんなところから入ってくるなんて常識外れにも程があるわよ!?」
「あはは、そう怒らないで」
月の光を背に浴びて、信砂の顔が少し陰った。
「店主に三日前から引き留められてたんだ。次々仕事が入って、今ようやく会いに来れた。日付が変わったから、三日経ってるて言えるし」
「……それでも常識はずれよ」
「寝てたら、また明日出直すつもりだった。だって君がいつ体調崩すか分からないんだから、会えるうちに会っておきたいよ」
「……もう」
明かりをつけていなくて良かった。たぶん今明かりをつけていたら、阿澄の顔は赤く染まっていたかもしれないから。
信砂はしゃがんで、足元に散っている風鈴の硝子を拾いながら、阿澄に問うた。
「風鈴に何をお願いしたの」
「ええと……」
阿澄の目が泳ぐ。信砂は前々から店主から何かを受けとるなと言っていた。どうしてかは教えてはくれなかったけれど、たぶんそれは信砂に考えがあっての事だったはず。それなのに自分は約束を破ったのだ。ばつが悪くなるのも当然。
「……とても、小さなお願いよ。病気を治してなんて、期待できないことは書いてない」
「だから何のお願いを……」
「信砂が会いに来てくれるとき、体調がよくありますように。それだけ」
とん、と阿澄は信砂の背中に抱きついた。腕を回して、体重を乗せる。信砂は背中に感じる温もりと、あまりにも軽いその体重に、一瞬破片を集める腕を止めた。
「今は、体調いいの?」
「そうじゃなかったら、ベッドの上で発作起こして寝込んでるわよ」
「阿澄」
信砂は破片を拾う手を完全に止めた。それから首元にまわされた腕に、そっと触れる。枝のように細くて、病的なまでに白い肌。薄い夜着ごしに伝わる熱。この人はまだ生きているんだと、信砂は実感する。
「阿澄は、僕に会いに来たって店主が言っていたけど、何か用事があったの?」
「ふふ、なんでもないのよ。ただ、会いに行っただけ」
「浴衣着て?」
「あら、そこまで聞いてたの」
普段から詰め襟シャツの上に袷を着て袴を履いている信砂と違って、阿澄は完全に洋装だった。丈を少し短くしたドレスのような格好。そんな彼女が珍しく和装だったのは普通じゃない。
知っているなら仕方ないわね、と阿澄は笑って白状した。
「蛍祭りに誘おうと思ったのよ。蛍が今、とても綺麗なんですって」
「そうだったんだ」
信砂はすくっと立ち上がった。
阿澄は体重をかけるのをやめて、自分の足で立つ。
信砂はくるりと阿澄の方を向いた。月光に陰るその姿はとても、りりしい。破片はまた、拾いに戻ってこればいい。
「行こう、阿澄。お祭りは終わってもまだ蛍はいるよ」
「今から?」
「朝までに帰ってこれば大丈夫」
行こう、と信砂が手を差しのべた。
でも、と阿澄は怖じ気づく。
信砂はそんな阿澄にとびきりの笑顔で笑いかけた。
「あーちゃん、蛍を見たいんでしょ」
……小さい頃の呼び方で言われて、思わず阿澄はその手を取った。信砂はぎゅっとその手を握り混むと、そのままふわりと掬うようにして阿澄の体を抱き上げた。阿澄は驚いて、それでも落ち着いて信砂の首に腕を回す。
「白縹、飛ぶよ!」
『分かってる』
信砂が窓辺に立つと、信砂がさっき窓を除いていた枝から白縹が飛び出す。
カッと目を瞑るほどに目映い閃光の後、そこには一匹の龍がとぐろを巻いていた。
その背に、阿澄を抱えたまま信砂は乗り込む。これでよし。
「白縹もいたのね」
「当たり前。僕らは常に一緒にいるんだから」
ぐんぐん空を上る白縹。目的地は蛍のいるところ。
三日前に叶わなかった阿澄の願いは、別の形となって叶った。
◇
天では星空が、地では蛍が瞬く。
信砂は蛍祭りの跡地にまで白縹に乗せて貰うと、地に降り立った。阿澄は履き物を忘れてしまったので、少し縮んだ白縹の背中に腰かけたままだ。普段は蛇として地を這う白縹だが、龍の姿の時はふよふよと浮いているので、阿澄の足も汚れない。
信砂は白縹の横を歩きながら、阿澄に問いかけた。
「ねぇ、阿澄には生き甲斐ってある?」
「何。藪から棒に」
阿澄がぱちくりと目を瞬くと、信砂は微妙な顔をした。
「店主からの宿題。モノを大切にするのはいいが、モノ自身も生き甲斐を持っていることを忘れるなと言われた」
「おかしなことをいうのね、信砂。私は、あなたたちの言う『モノ』じゃないわよ?」
「そうなんだけどさー。風鈴が。割れてでも君の願いを叶えてあげたいと思ったことが分からなくて。店主はそれを生き甲斐と言ったんだ」
むぅ、と困り顔になって唇を尖らせる信砂に、阿澄はふふと笑った。その様を可愛いと思ってしまったのはきっと、惚れた弱みと言う奴だ。
それから風鈴が、と言う言葉が引っ掛かって、阿澄は思案するように顔を俯かせた。風鈴。願いを叶える。もしかして。
「ぼんやりとしてるけれど、夢の中で風鈴の子に会った気がするわ。とても涼やかな女の子。願いを叶えてあげるって言われたから、その子にも短冊と同じお願いをしたのよ」
「……女の子、どんな感じだった?」
「分からない。顔はよく見えなかったから。でも、嫌がっては無かったと思う。あの子から話しかけてくれたから」
そう、風鈴から阿澄に話しかけた。その事実だけで信砂が本当に風鈴が願いを叶えたがっていたことが分かった。でも、それでも。
「壊れちゃうって分かっていたのに、どうして風鈴は阿澄のために力を使いたがったんだろう……」
信砂のぼやきに、阿澄は少し考えた。
阿澄は信砂や店主の言う『モノ』がなんなのかよく分からない。
だって、単純に見えないから。でも話に聞く彼らは、心をもって人のように振る舞う。答えはそう言うことじゃないのだろうか。
「信砂、私の生き甲斐はあなたに会うことよ。信砂と会えるのが、薬付けの私の日々の中で唯一の楽しみ。モノも、そうなんじゃないかな。自分では何もできないけれど、モノは人のためにあるのだから、人のために自分を使うことが喜びなのよ。それができなくなってしまったなら、生きる意味など無いんだもの」
「……そういうもの?」
「そーゆーものよ」
宙ぶらりんな足をパタパタさせて阿澄は言い切る。信砂はうーん、と腕を組んで唸った。
その間にも白縹は、数日前の蛍祭りの観光客で踏み固められた道をふよふよと泳ぐ。やがて、夜闇をものともしない白縹の目が、ぼんやりと光る点を一つ、また一つと見つけ始めた。
「逆にさ、信砂。あなたには無いの? 生き甲斐」
「僕?」
「そうよ。私だけ言って恥ずかしいじゃない」
ふいっと頬を膨らませて、阿澄がそっぽを向いてしまったからというわけではないけれど、信砂はますます困り顔になった。そう言われても。
「生き甲斐なんて……」
『つまらない人生だな』
「白縹に言われたくない」
白縹の言葉にズバッと言い返す。白縹だって、信砂と出会うまでは、ひっそりと家の蔵に住み着いてるだけのモノだったのだから。退屈で死にそうだと言って信砂の前に現れたときのこと、信砂は未だに鮮明に思い出せる。
真剣に考える信砂だが、生き甲斐なんてもの今まで考えたことが無かったからなかなか思い付かなかった。
そんな信砂を見て、阿澄は少し寂しそうに微笑んだ。
「……信砂はまだ、生き甲斐が分からなくても良いよ。長い人生で見つけられたら、教えてね」
信砂が一人言を耳聡くも聞き取った。阿澄のその言葉に何かを返さねば、と焦って口を開いた。
『着いたぞ』
言葉を思い付く前に、白縹が目的地についたことを告げた。信砂も阿澄も視線をあげた。
そこには深い闇。
せせらぐ川の、澄んだ音が耳を流れる。
風にそっと吹かれて傾ぐ川辺の草木。
そしてちかちかと綿毛のように僅かに飛び交う優しい灯火。
今日は月が照っているからか、蛍の明かりは僅かにしか見えない。それでも草木の影すら明るみに出すように蛍がちかちかと瞬いていた。
ちらりと信砂は阿澄の様子をうかがった。息を止めてその光景を眺める阿澄を見て、ほっとする。連れてきて良かった。
阿澄の命の灯火は、信砂よりも遥かに小さいものだ。病を患っているせいでなかなか外に出られないということは当然として知っている。その上で、外に出ることが日に日に難しくなっていくことも。
次、阿澄に会うのはいつか分からない。だからこそ、阿澄には信砂の時間を惜しみ無く譲ってあげたい。そんなことで阿澄が喜ぶなら、信砂も嬉しい。
「……あ」
『どうした』
信砂が短く洩らした吐息すら、白縹が拾ってしまうから、信砂は苦笑した。白縹って地獄耳だ。
「……風鈴の気持ちが少しわかった気がする」
人のためになることが自分の歓び。なるほど、なんとなくだけれど分かった気がした。
「あら。そうなの」
蛍に魅いっていた阿澄が信砂の言葉に返事をしたものだから、信砂は少しばつが悪くなった。だって、阿澄と同じようなことが自分の生き甲斐だったなんて、彼女には言いたくない。
今度は信砂がむぅ、と子供のようにそっぽを向いてしまった。阿澄はあららとすまし顔。
それでちらっと信砂が阿澄の様子をうかがったら、彼女と目が合ったものだから二人して肩を震わせて笑った。まるで子供みたいだと。
二人と一匹だけの蛍祭りは、蛍の明かりがお日様にかき消されるまで続いた。
◇
店主さん、店主さん。
私はとうとう割れてしまいました。
最後の女の子の願いを叶えてあげられたでしょうか。私自身が見届けることができなくて残念です。
死期が近いと言うのに、彼女の願いには絶望が含まれていませんでした。最後の最後で清らかなお願いを頼まれたのです。
彼女が何をお願いしたか気になりますか?
それは私と彼女の間で結ばれた契約なので言うことはできません。
でもきっと店主さんはあの子の願いを知っていたんですよね。
そうじゃなければ、もう願いを叶える力なんて塵ほどしかない私を彼女に渡すわけ無いですものね。まぁ私はその塵ほどしかない力を振り絞ったわけなんですけれど。
できれば、私にも結果を見せて欲しかったな───
商店街の裏路地の、少し古ぼけた一軒家。がらくただらけの店になっているその一階で、店主は割れた風鈴に残された、風鈴の最後の意識を汲み取った。欠片をつまんで窓から差し込む日光に翳すと、ちかちかと光って目映かった。
店主は風鈴の欠片を一個一個丁寧に組み合わせて、元の形に戻していく。硝子の付け方など分からないから、もろい立体物を組み立てるだけの繊細さを必要とした。
そうして元の形に戻した風鈴に、真新しい白の短冊を添えて、箱へとしまった。そしてその箱は、裏にある蔵へ。
またいつか、風鈴が誰かのための力をつけるその時まで、店主が大事にしまうのだ。風鈴だけではなく、壊れてしまった他のモノたちも。
───それが店主の生き甲斐。
ちっぽけな願いを持った者のために、モノのために、貸出骨董店を今日も営む。